悲しい過去①
「チョウさん!大変です。奥さん、あっ、元奥さんか。どっちでも良いや。元奥さんが病院にいるそうです。直ぐに行ってあげて下さい!」
生長が茶を片手に、椅子に腰をかけたところに、浅井が飛んで来て怒鳴るように言った。
「何⁉ 瞳が病院に! 何があったんだ?」
「分かりません。直ぐに病院に行ってあげて下さい」
「そうか・・・報告書は任せたぞ」
「今日はもう何もありませんよ。チョウさん、早く、早く!」
浅井は生長を急き立てた。そして、瞳がいるという病院の名前を教えた。
「課長に一言、言っておいてくれ」
生長はばたばたと県警を飛び出して行った。
その後ろ姿を見送ってから、浅井は、しめしめと悪い笑顔を浮かべると、報告書に取り掛かった。報告書を仕上げると、携帯電話を取り出して、電話をかけた。
直ぐに「どうだった?」と応答があった。
「生長さん、泡食って署から飛び出して行ったよ」
浅井が楽しそうに答える。
「そう!」と、電話口の向こうで、嬉しそうな声がした。
電話の相手は西岡直美だった。
どうやら二人、示し合わせて生長を病院に向かわせたようだ。浅井は直美から瞳が知人の見舞いのために病院に行ったという情報をもらった。
「叔父さん。叔母さんが病院にいると知ったら、きっと驚くでしょうね。何があったんだって――」と言った直美の言葉が引き金となった。
「それ、面白そう」と浅井が悪乗りした。
直美と相談の上、わざと瞳が病院に運び込まれたような言い方で生長に伝えてみた。生長の反応を伺ってみたが、予想以上の慌て振りだった。
「今頃、きっと騙されたと分かって腹を立てている頃だと思うよ」
「そんなことない。喜んでいるよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「ちゃんと会えたかな?」
「大丈夫。叔母さんと出会えるまで、探し続けるはずだから。ねえ、もっと詳しく聞かせて――」
「いいよ」と浅井は答えた後、「あの・・・」と言って口ごもった。
浅井の心臓が早鐘のように鳴った。
「も、もし、もしよかったら、今から食事なんてダメかな? 生長さんの様子、詳しく聞きたいなら、電話より、直接、会って話した方が良いかなあ~なんて、思ったりして・・・生長さんも食事を済ませて帰って来るだろうし・・・」
直美は魅力的な女性だ。電話で話をしている内に、無性に会いたくなった。
「あらっ!」と直美は意外そうな声を上げた。
浅井が慌てて、「いや、あの、忙しいのなら、別に電話でも構わないんだけどね」と言い訳すると、直美は「そうねえ・・・」とちょっと考えてから、「じゃあ、仕事をさっさと片付けなきゃあね。後、十五分くらいしたら、お店を出ることができるかな」と答えた。
直美が働いている花屋は県警の直ぐ傍だ。
「本当! じゃあ、今から車で迎えに行くよ」
必要以上に大声になってしまった。
「うん。待っている。夕食、どこがいいかなあ・・・そうだ!近くにイタメシの美味しいレストランがあるので、そこにしよう。ダメ?」
「イタメシね。OKよ」
心なしか受話器から聞こえる直美の声が弾んでいるようだ。浅井は「じゃあ、また」と電話を切ると、県警を飛び出した。
女性を食事に誘ったのは、何時以来だろう。前回、二人きりでデートをしたのが何時だったのか思い出せないほどだ。
浅井には悲しい過去があった。
かつて浅井には京都の大学に通っていた時に知り合った恋人がいた。大学のサークルの二つ下の後輩で、彼女の方が浅井に一目ぼれして、猛烈なアタックをかけてきて付き合い始めた。学生時代に二人で過ごした時間は、それこそ蜜のような時間だった。
浅井は大学を卒業し、就職して何年かしたら、彼女と結婚するのだと決めていた。
大学を卒業して浅井は地元に戻り、山口県警の警察官となった。そして二人は遠距離恋愛となった。やがて、二人の関係がぎくしゃくし始める。
警察学校を卒業する頃には、電話をしても彼女は何時も留守電で応答がなくなった。メッセージを送っても返事が返ってこなくなってしまった。やがて大学時代の同級生や後輩から、彼女に関するよくない噂を、次々と聞かされるようになった。
「浮気をしている」という話を聞かされる度に、相手の男が違っており、それほど親しくなかった後輩から「先輩、彼女とは別れた方が良いですよ」と忠告される始末だった。
だが、浅井は学生時代の一途だった彼女のことしか知らない。どうしても噂を信じることができなかった。
そんな時に事件は起きた。
夏休みで彼女が島根県の実家に帰省していたある日、大型台風が直撃した。実家の裏山が雪崩を打って崩壊し、彼女の実家を飲み込んでしまった。未明のことで、一家三人共、熟睡していたらしく全滅だった。
浅井をずっと苦しめているのは、その知らせを聞いた時の自分自身の反応だった。
彼女を失った悲しさと同じくらい、浅井を苦しめてきた厄介事から逃れることができた解放感を感じてしまったのだ。いや、むしろ、これでやっと彼女と別れることができたという安堵感だったかもしれない。
浅井は、猛烈な自己嫌悪に陥った。
まさか自分が、人の死を喜ぶような人間であったとは思いもしなかった。それも好きだった彼女の死を――。
彼女の死を、心から嘆き悲しむのがまともな人間だと、浅井は自分のことを責めに責めた。苦悩する浅井を見て、周囲の人は皆、慰めてくれた。だが、その慰めに更に傷ついた。
――俺は、彼女を失って悲しんでいるんじゃない!彼女を失って、ほっとしている自分が許せないだけなんだ。慰めなんてよしてくれ! 俺は彼女の死を知って、喜んでいる最低な人間なのだ!
周りの人たちに、そう言って回りたかった。
以来、浅井は女性に対してすっかり臆病になってしまった。自分は人を愛する資格がない人間だと思い込んでいた。そんな浅井を見て、周囲はまた、彼女の死を今でも引きずっているという風に解釈する。
それもまた浅井には苦痛だった。
そして月日だけが流れて行った。
浅井は今、忘れかけていた胸の痛みを感じていた。そして、直美に会えるという浮ついた心と同じくらいの恐怖を感じていた。




