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血塗られた大楽刀自  作者: 西季幽司
第二章「名家と名探偵」
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大楽香美・その三

 土曜日が来た。香美が大楽家を追い出される日がついにやって来たのだ。

 優しい父親であったはずの孝毅は、大楽家にいたいという香美の願いを聞き届けてはくれなかった。村田家で養われることが決まってから、一度も顔を見せていない。大楽家を立ち去る今日になっても、姿を現さなかった。

 祖母の麻里子も見送りに出て来なかった。代わりに家政婦の長沼がやって来て、細々(こまごま)と香美の世話を焼いてくれた。

「お祖母様は香美お嬢さんとお別れになるのが辛くて、見送りに来ることができないんですよ」と長沼が言うが、祖母の心が既に別の心配で満たされていることを香美は知っていた。

 最後の晩餐となった昨夕の食卓で、麻里子が散々、毒づいていた。「孝敏は良いのよ。孝毅の血を引いているのだから、大楽家に迎えても問題ないのよ。それも一時の話だから。孝毅がちゃんとしたお嫁さんをもらって、子供が出来たら、男の子でも生まれたら、孝敏は必要なくなるから。でも、あの女はダメよ。うちには入れたくない。どこの馬の骨だか分からないような、女でしょう。あんな女と一緒に暮らすなんて、絶対に嫌よ。うちには入れない!」

 孝敏を迎え入れることに同意を示した麻里子だったが、藤田真衣を大楽家に迎えることに抵抗をしていた。孝敏の年齢を考えると、母親が必要なことは明らかだった。麻里子に幼子の面倒など見ることができるはずがない。それでも、真衣を家に入れることに反対していた。

 母親の抵抗を受けると、孝毅はあっさりと真衣親子を大楽家に迎えることを諦めた。もともと、乗り気ではなかった話だ。玲がいなくなったので、「これで、香美の面倒を見る必要はなくなった。村田家に送り返しなさい」と麻里子が言い出し、代わりに孝敏を家に入れてはどうかというので、真衣に話をしただけだ。

 真衣は当然のように、この話に乗り気になった。だが、麻里子は孝毅が孝敏を連れて、二人で家に戻って来ると思っていたのであって、真衣を家に入れるつもりなど毛頭無かったようだ。

 孝毅は孝毅で今更、真衣と暮らすつもりなど無かった。幼子の面倒など、見ることができないし、見たくもなかった。マンションでの一人暮らしを満喫していたかった。

「冗談じゃありません。あの女が子供を連れて、うちに来るだなんて、私は認めませんよ!」と麻里子に怒鳴られてしまうと、孝毅はあっさり白旗を上げた。

 孝敏が大楽家に来る話は宙に浮いた状態になった。

 それでも、香美は大楽家を出て行かなければならない。

 長沼は香美を気遣って、見送りに出てこない麻里子のことを弁護したが、「いいの」と香美は投げやりに答えた。やはり寂しさは隠せなかった。香美の声は涙声になっていた。

「御免、御免。香美ちゃん。遅れちゃって――」

 インターホンから聞きなれた声が流れてきた。叔父の和正が迎えにやって来たのだ。遅刻を詫びたが、約束の時間通りだった。

 香美はこの若い叔父が大好きだった。明るくてハンサムで、何時も香美に優しかった。村田家で暮らすとなると、この若い叔父と一緒に生活することになる。香美はときめきを感じると同時に、これから素の自分を叔父に晒すことになる恥ずかしさを感じる年頃になっていた。

 玄関前に車を止めて、チャイムを鳴らして和正が現れた。見送りが長沼一人だと思っていなかったようで、「義兄さんは上ですか? 挨拶をしたいのですが――」と長沼に尋ねた。

「いえ、坊ちゃんは、今日はお仕事のようで、こちらにはお見えになっていません」

 ばつが悪そうに長沼が答える。

 週末、塾は講習で忙しい。和正だって、それくらいのことは分かっている。だが、医者の卵である和正も負けず劣らず忙しい。多忙な和正は母親に頼まれて、夜勤明けだったが、香美を迎えに大楽家にやって来た。香美を村田家に送り届けてから一眠りするつもりだった。正和でさえそうだ。まさか実の父親が、香美の見送りに来ていないとは思ってもいなかった。

「そうですか・・・他に、挨拶をしておいた方が良い人は・・・いないようですね」

 和正は香美に向かって、にっこりとほほ笑むと、「香美ちゃん、準備はできたかい?」と尋ねた。薄情な大楽家の人間に対する憤りより、香美への同情の方が強かったようだ。かわいそうに、血のつながらない長沼が一人、見送りに出て来ているだけだ。

「うん」と香美が子供っぽく頷く。

「そうか、じゃあ出発しようか? お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、香美ちゃんが来るのを、今か今かと待ち構えているよ」

 嘘だ。憲和も時恵も、香美が家にやって来ることを歓迎などしてはいなかった。「今更、この年で、子育てなど出来るか!」と口に出して言っていた。そして、若い家政婦を雇い入れていた。香美の面倒は全てその家政婦が見ることになっていた。

 香美は和正について家を出た。

 門前には和正の乗って来た黒塗りのハイブリット車が停まっていた。

「香美お嬢様――」長沼が目にいっぱい涙を溜めて、香美を見送った。

 玲は母親らしいところのなかった女性だった。大楽家で母親代わりに香美の面倒を見てくれたのは、長沼だった。長沼は香美との別れに、心が張り裂けそうな様子だった。だが、香美は振り返らなかった。ぐっと涙を堪えた。

 父親も祖母も、見送りに来なかった。赤の他人の長沼だけが、香美との別れを惜しんでくれている。勝気な香美は長沼に涙を見せると、冷たい父や祖母に負けたような気がした。

 香美は和正の車の助手席に滑り込むと、俯いた。

 和正は香美のあっさりとした様子に驚いたようだが、「では、長沼さん。失礼します」と丁寧に挨拶をすると車に乗り込んでエンジンをかけた。

 車が滑るように大楽家の門を潜って行く。大楽家の門は大楽塾の敷地へ続いている。香美は助手席に沈み込むようにして座っていた。

 車が大楽家の門を出たところで、木陰から人影が飛び出して来た。そして、車について走り始めた。

「うん?」直ぐに和正が車を追いかけてくる人影に気が付いた。まだ子供だ。

「停めないで――!」

 ブレーキを踏もうとした和正に気が付いて、香美が助手席から声を上げた。

「いいのかい? お友達じゃないの?」

「いいの。友達なんかじゃないから――」

 河村真一だった。真一が香美の乗る車の後を、無言で追いかけて来ていた。香美は一度だけ振り向いた。真一と目が合った。その目は涙で濡れていた。

 和正は何も言わずに、少しだけスピードを落とした。

「馬鹿ね。学校で会えるのに・・・」そう呟いた時、堰が切れたように、香美の両目から涙が溢れだした。「泣くまい」と決めていたのに、香美の意志に関係なく、涙が溢れて来て、止まらなかった。

 香美は泣いているのを和正に見られたくなくて、顔を背けた。窓から外の景色を伺った。見慣れた大楽塾が涙で霞んで見えなかった。

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