七.准教授・兼重千尋①
「畑に行ってくる」と言い残して家を出た。
農歴の旧正月を過ぎると、春は駆け足でやって来る。種蒔き、堆肥撒き、土作りと一年で最も畑仕事が忙しい時期だ。終日、トマト畑での畑仕事に精を出していた。
日差しは日に日に強さを増している。麦わら帽子を被って家を出た。
トマト畑は農家の耕地が寄せ集まった、なだらかな平地の山際の端にある。家から細い農道を、とぼとぼと歩いて行くと、トマト畑に到着する。
畑に着くとハウスの中の野菜苗を見て回ってから、畑に際限なく生えてくる雑草をむしり始めた。畑に顔を出した時には、ぽつぽつと畑仕事に勤しむ隣人の姿が見えていたのだが、午前中から働きづくめだった隣人たちは、遅い昼食と休憩を取るために三々五々、家に戻って行った。
午後二時を回った頃には、誰も辺りにいなくなった。
それでも一人で畑の雑草をむしり続けていた。
背を丸めて作業を続けていた。疲れを感じて立ち上がると、背筋を伸ばし、大きく背伸びをした。
「うぐぐぐぐ――っ!」
背伸びをした途端、背中を強く押されたような気がした。背中に焼けつくような痛みを感じた。二、三歩前につんのめった。やがて、体を貫く激痛が襲ってきた。
がくりと膝を折ると、畑に片膝をついた。
「誰か・・・」
助けを呼ぼうとしたが、声が出なかった。両手を地面に突くと、四つん這いになった。背中が痛くて立てない。歩けない。這って進もうとした。
焼けるように背中が痛い。
一体、何が起こったのか確かめようと手を伸ばしたが、手が届かなかった。四つん這いのまま背中に手を回そうとして、体勢を崩して、どうとトマト畑に崩れ落ちた。
まるで体から力が流れ出して行くようだった。
呼吸に合わせて、顔の前の地面で土煙が上がる。昼間だと言うのに周囲はどんどん薄暗くなって行った。
「大丈夫ですか?」
突然、頭の上から声が落ちて来た。耳鳴りが酷い。声が割れて、はっきりと聞こえなかった。顔を上げて、声の主を確かめようとしたのだが、首を持ち上げる力が湧いてこなかった。
「あ・・・う・・・」声にならない声を上げた。
背中が焼けるように痛むことを、伝えようとしたが、ダメだった。
視界に白い運動靴が飛び込んできた。目の前の白い運動靴に懸命に手を伸ばした。
「うわっ!」
西脇は飛び起きた。
仮眠室のベッドの上に起き直ると、西脇はガシガシと頭を掻いた。まただ。夢を見た。
西脇守はキー局のひとつ、サクラ・テレビが土曜日の午前中に放送しているサタデー・ホットラインというニュース番組のプロデューサーだ。
何時もにこにこと笑顔を絶やさないが、温和な表情の裏では常に他人を出し抜く術を考えているようなタイプの男だ。生き馬の目を抜くテレビ業界で頭角を現すには得体の知れない怖さのようなものが必要なのだろう。
何時、家に帰っているのか分からないワークホリックで、テレビ局の仮眠室が別宅のようになっている。無精髭と寝癖がトレードマークだ。長い手足に精悍な顔立ち、部下からは遅れてきたトレンディ俳優とからかわれ、職場の女性スタッフからは、きちんと手入れをすれば、なかなかのイケメンなのにもったいないと言われている。
ついてない男とも言えた。
能力のわりに出世が遅いのだ。前任の報道局長とそりが合わずに出世競争で同期に置いて行かれてしまった。前任の報道局長に自分の立場を脅かす危険人物だと思われたことが原因だ。男の嫉妬は恐ろしい。先日、報道局長が交代し、頭上を覆っていた暑い雲がやっと晴れたばかりが、年齢的にこれから出遅れた出世競争を挽回するのは厳しいだろう。
西脇自身は東京生まれだが、祖母は青森県の出身で、祖母の祖母がイタコだったという話を母親から聞いたことがあった。イタコの血のなせる業なのか、西脇は時折、説明のつかない奇妙な夢を見ることがあった。
サタデー・ホットラインでコメンテーターを勤める鬼牟田圭亮は「西脇さんが見る夢は死者からのメッセージですから」と言う。
――ああ。今日は招知大学に兼重准教授を訪ねることになっていたな。だから、こんな夢を見たんだ。
西脇が呟く。




