六.大楽怜②
そんな中、また新たに事件が起きた。
怜が実家に戻っていた時のことだ。実家のリビングのテレビ前のソファーから動かない玲に向かって、「何だ、姉ちゃん、また帰ってきたのか?」と弟の和正が嫌味を言った。テレビはつけっぱなしだが、見ている訳ではない。玲は携帯電話をいじっていた。
和正は東京の医大を卒業した後、村田病院に戻り、院長補佐として病院を継ぐための帝王学を父親から学んでいた。甘えん坊で自己中心的な姉と同じ遺伝子を持つとは思えないほど、真っ直ぐで努力家だ。
「うるさいわね! あんたこそ、こんな時間に家に居ていいの?」
玲は携帯電話から顔を上げずに、蠅でも追い払うかのようにひらひらと手を振った。
和正はコーヒーメーカーでコーヒー淹れながら言った。「昨日は夜勤だったんだ。ひと眠りして、今日は午後から出勤なんだよ」
玲と違って真面目な和正が、仕事をさぼる訳がない。
「あらそう、ご苦労様ね」
「そう言えば姉ちゃん、大楽裕ってやつ、知っているよね?」
「ええ、孝毅さんの従弟でしょう。それがどうかしたの?」
大楽裕は玲の夫、孝毅の従弟に当たる。叔父の直毅には二人の子供がおり、長男を直方、次男を裕と言った。和正と裕は同い年で、高校の同級生だった。とは言え親しい仲ではなかったようだ。和正は東京の医大に進学したため、地元の大学に進学した裕とは接点も多くはなかった。だが、共通の友人がいた。
「姉ちゃん、裕のやつ、クビにしろだとか、随分、ひどいことを言っているらしいじゃないか?」
「ひどいこと――!」
玲は携帯電話から顔を上げると、眉を吊り上げた。
一か月前のことだ。
実家に入り浸っている玲だが、その日、たまたま大楽家に戻った。村田家に福岡にいる親戚が遊びに来ると言うので、面倒だ――と逃げ帰ったのだ。
大楽家には、ほったらかしの香美がいる。どうせ、麻里子に取り入って、うまくやっているに違いない。心配はいらないが、たまには様子を見ておきたかった。
玲が大楽家に戻った時、香美は学校に行って不在だった。だが、寝室に人の気配があった。玲はてっきり孝毅が留守を狙って、大楽家に戻って来たのだと思った。
「何をこそこそと――!」と寝室のドアを勢い良く開けると、信じられない光景が目に飛び込んできた。寝室のベッドの上で、全裸の男女が睦あっていたのだ。
「きゃあ――!」悲鳴を上げたのは、男女の密会現場を盗み見た玲の方だった。
寝室の入口で悲鳴を上げる玲を、男が振り返った。男は孝毅ではなかった。玲はその顔に見覚えがあった。
大楽裕だった。
裕は孝毅の従弟で、大楽塾に勤務している。何度か顔を合わせたことがあった。裕の兄、直方はファミリービジネスといえる塾の仕事に、まるで興味を示さず、大学を卒業後、地元で半導体チップの設計会社を立ち上げた。今では、新進気鋭のベンチャー企業の社長として活躍している。
裕は直方のような独立心を持ち合わせておらず、大学を卒業すると、父親を頼って大楽塾で働き始めた。孝毅とは気が合うようで、運営部で孝毅の秘書のような仕事をしている。
玲が実家の村田家に戻っていることを孝毅から聞いていたのだろう。昨晩、クラブでナンパした女性をラブホテル代わりに大楽家の別館に連れ込んだのだ。
独立する気概のない裕は、いまだに実家で暮らしている。女性をナンパして実家に連れ込む訳には行かない。金遣いが荒く、いまだに親の脛を齧り続けている裕には、ホテル代を支払う甲斐性がなかったようだ。
以前、裕は孝毅に頼まれて、玲のいない間に別館に孝毅の私物を取りに来たことが何度かあった。別館の状況は分かっていた。これは使えるとその時思ったのだ。悪知恵は回った。
ナンパした女性には「ここが俺の家だ!」と見栄を張った。
既に昼前だった。裕は仕事を無断欠勤していた。
「つい魔がさして・・・勝手に寝室を使ったのは、初めてだったんだ。御免なさい」と言い訳をしたが、玲の留守中に寝室を使用したのは、これが初めてではなかったかもしれない。もともと掃除の行き届いていない別館だ。玲には分からなかっただろう。
「もう二度としません。どうか、内緒にして下さい」と懇願する裕を尻目に、孝毅に不法侵入を訴えた。
「小学生の子供が居るのに、女性を連れ込んで、ラブホテル代わりに使うなんて――」
香美の面倒などろくに見ないくせに、裕が女性を寝室に連れ込んだことを批難し続けた。玲の怒りは収まらず、孝毅が訴えを無視すると、警察に通報してしまった。これには孝毅も「大楽塾の恥になる」と慌てた。玲をなだめると同時に、警察には「親戚が留守中に家に入っただけだ」と玲の訴えを無理矢理、取り下げた。
何とか穏便にことを収めたかったが、玲の怒りは収まらなかった。孝毅は裕に対する処分をどうするか決めなければならなくなった。
「家にいない、あの女が悪いのよ」と麻里子などは露骨に甥っ子をかばった。そして裕の父、直毅からも「孝毅君。身内のことだ。何卒、穏便に片づけてくれ」と懇願されていた。
一人、玲だけが「塾をクビにして、二度とうちに近寄ることができないようにして――!」と言い張っていた。
優柔不断な孝毅は裕の処分をずるずると引き伸ばしにしていた。
「友達から聞いた話だけど、裕のやつ、姉ちゃんのこと許さないって言っているそうだよ」
「許せないって、何よ。悪いのは向こうの方だわ!」
確かに、玲のやり方には問題はあるが、逆恨みと言っていい。
「それはそうかもしれないけど、あいつ、大人しそうに見えて、執念深くて、異常なやつだ」
和正はそう言って、裕が小学生の頃の話をした。
近所の野良猫を捕まえ来て、両手で両足をもってぶら下げ、引き裂いたというのだ。
「嫌だ。気持ち悪い・・・」
「逆恨みかもしれないけど、あまりあいつを刺激しない方がいいんじゃないの?」和正は玲のことを心配していた。
「そんな人が近くに居るなんて、それこそ耐えられないわ。あの人に言って絶対に塾をクビにしてもらわなくちゃあ」和正の忠告は、逆効果だったようだ。
玲が殺害される三日前の出来事だった。




