三.野口綾子③
静江は律儀に知彰が殺害した遺族への送金を毎月、少額だが欠かさなかった。無論、それで遺族の気持ちが晴れる訳ではない。遺族から返事が来たことなど、一度もなかった。
毎月、遺族へ送金をしながら、恒子と綾子の面倒を見て、その上、更に大楽へ返す金を貯めていたと言うのだ。
「静江さんはね。知彰と、とっとと離婚して、良い人を見つけて、新しい人生をやり直すことだってできたのよ。でも、お母さんは女の幸せを捨てて、私と綾子ちゃんの面倒を見る人生を選んだの。見てごらんなさい、若い頃のお母さんは、こんなに美しかったのに・・・」
ついに恒子は言葉に詰まり、嗚咽を漏らし始めた。
確かに、今の静江は化粧っ気がなく、長年の苦労から骨と皮ばかりが目立つ幽鬼のような中年の女性になってしまった。
父親の隣で屈託のない笑顔を浮かべている、幸せそうな母親の顔を見ていると、綾子は急に申し訳ない気持ちで一杯になった。静江は恒子と綾子の為に、全てを投げうって生きてきたのだ。
綾子は目の前で泣き崩れる恒子の背中に抱き着くと、「お婆ちゃん。御免なさい」と大声で泣き出した。
綾子はまた一人になった。
いや、悪い仲間との付き合いを止めて、勉学に勤しむ生活に戻っただけだ。綾子はもう寂しいとは思わなかった。
――私には母とお婆ちゃんがいる。
綾子はもう迷わなかった。
高校をトップの成績で卒業すると、奨学金を受けて、都内の国立大学の文学部へと進学した。子供の頃、都内に住んでいたことがあったが、綾子は覚えていなかった。
大学に進学してから、早く自立したくて、在学中に小さな塾で国語の講師のアルバイトを始めた。すると、綾子の美貌と教え方のうまさから、瞬く間に人気講師となった。やがて大手の予備校から引き抜かれて講義を受け持つことになったが、そこでも直ぐに綾子は人気講師となった。
――何時か、お婆ちゃんとお母さんを東京に呼び寄せる!
その決意を胸に、大学の勉強も講師の仕事も寝る間を惜しんで精進した。
「美人講師がいる」と評判になり、大学を卒業する頃には、テレビ局からクイズ番組に招かれるようになった。
綾子は益々有名人となった。
恒子や静江は、地元の山口から、そんな綾子を眩しそうに見守ってくれていた。
大学卒業が決まり、大手予備校の人気講師となった綾子は、祖母と母を東京に呼び呼び寄せようとした。だが、この頃から、また祖母の恒子の体調が優れなくなった。寝込む日が多くなり、綾子が二人を都内に呼び寄せる機会をうかがっている内に、静江から、「お婆ちゃん、もうダメかもしれないから、都合がつけば、帰って来て顔を見せて上げて」と連絡を受けた。
綾子は取るものも取りあえず山口に飛んで帰った。
病床で恒子は、もう綾子のことが分からなくなっていた。
枕元に座ると、綾子のことを静江だと思ったようで、綾子の手を握りながら、「静江さん、ありがとう。本当にありがとう」と視力の衰えた目に一杯、涙を貯めて何度も何度も呟いた。
「お婆ちゃん、私よ。綾子よ。一緒に東京に行こう。そしてまた一緒に暮らしましょう」綾子が呼びかけると、恒子は綾子の言葉が分かったのか、にこりと微笑むと、また「ありがとう」と呟いてから旅立ってしまった。
恒子の死後、静江に「東京に来て、一緒に暮らそう」と誘ったが、「あなたはあなたの幸せを探しなさい。私はここでお婆ちゃんの傍にいるわ」と山口を離れなかった。
綾子が大楽塾へ移籍して山口に戻って来た時、流石に静江は驚いた。だが、「あなたが決めたことなら、何も言わない」と綾子の決断を尊重してくれた。
大楽塾への移籍を決めたのは、静江のもとに戻ること、そして昔、静江がお金を借りたという大楽への恩返しの意味があった。
静江と先代塾長の春毅は小学校からの同級生だと言う。それで、静江は春毅から金を借りたと言った。二人がどんな関係だったのか、綾子には分からない。だけど、春毅から誘いを受けた時、
――ああ、この人が、お母さんがお世話になった大楽さんなのだ。
と思った。そして、大楽塾への移籍を決めた。




