三.野口綾子②
父親が死んだと聞かされても、何の感慨も湧かなかった。
悲しみよりも、身の回りにまとわりついていた暗い影から解放されたような、晴れ晴れとした気分を感じただけだった。父親の死により過去の呪縛から解放されたのだ。
折角、進学した高校だったが、綾子は友人を騙る者たちと遊んで回ることに夢中になった。綾子の生活は乱れ始めた。夜遊びに出かけるようになり、遊ぶ金欲しさから、母親の財布の金をくすねることを覚えた。
静江はそのことに気が付いていたようだ。だが、何も言わなかった。
孤独から解放された綾子は、環境の変化に舞い上がっていた。そんなある日、下校途中に、綾子は見知らぬ若い男の子から呼び止められた。
「野口先輩」背後から声をかけられ振り向くと、一人の男の子が立っていた。中学生のようだった。綾子が卒業した中学校の制服を着ていた。
「野口先輩は僕の憧れでした。先輩には、何時までも、先輩らしく居てもらいたいと思っています」
スポーツでもしているのだろう。丸刈りの中学生は顔を赤らめながら一気にそう喋ると、綾子の前から逃げて行った。
綾子は呆然と彼の背中を見送った。
優等生だった綾子の生活態度が乱れていることが、噂になって母校の中学校にまで広がっていたようだ。恐らく後輩の中学生は、今の綾子を見ていられなくて、悩んだ末に、意を決して忠告をしてくれたに違いなかった。だが当時の綾子は、変な子。余計なお世話と反発を感じただけだった。
そんな中、ある事件が起こる。
学校をさぼって家に戻って来た綾子は、居間で金目のものを探していた。母の静江は、働きに出ていていない。母親の使っている鏡台や箪笥の引き出し漁った後、仏壇の引き出しから現金の入った封筒を発見した。それも大金だ。一万円札が二十枚以上、封筒に入っていた。
何故、こんな大金がとは思わなかった。ただラッキーと思っただけだった。
綾子が一万円札を一枚、抜き取って封筒を仏壇の引き出しに戻しかけた時、「綾子!」と背後から怒鳴られた。
振り向くと祖母の恒子が怖い顔をして立っていた。
まずいところを見つかったと思ったが、綾子には甘い祖母だ。見逃してくれると思った。ところが、恒子は意外に強い力で綾子の腕を捉まえると、「そのお金はあなたのお父さんが亡くなった時に、お母さんが東京までお父さんを迎えに行くお金が無くて、大楽さんから借りたものなの。大楽さんにお返しする為に、お母さんが一生懸命、貯めたお金なの。お願いだから元に戻して頂戴」と綾子に懇願した。
大楽の名前を家族から聞いたのはその時が初めてだった。大楽が誰なのか? 母と大楽がどんな関係にあるのか? 知らなかったし、興味もなかった。
綾子はうるさいなと恒子の腕を振り払おうとした。
「ダメよ。綾子ちゃん、そのお金だけはダメ――!」
恒子が綾子の腕に縋り付いた。
恒子は年だ。怪我でもさせると一大事だ。綾子は年老いた恒子を突き飛ばすことができずに、「分かったわよ」と力なく答えた。そしてポケットにねじ込んだ一万円札を恒子に差し出した。
恒子は綾子から一万円札を受け取ると、丁寧に伸ばしてから、仏壇の封筒に仕舞った。
そして、気まずくなって居間から立ち去ろうとした綾子を恒子が呼び止めた。「綾子ちゃん。これを見てちょうだい」
恒子は仏壇の引き出しの底から、一枚の写真を取り出した。
随分と古い写真のようだ。若い頃の母、静江と父、知彰の二人が満面の笑顔を浮かべて写真に納まっていた。
幼い頃、綾子は父親が犯した罪をよく理解できていなかった。「お父さんってどんな人?」と尋ねては、静江を困らせた。
「優しい人だったのよ」
静江は何時もそれだけしか言わなかった。
知彰の写真は静江に気を使った恒子が、整理してしまったので、実家にほとんど残っていなかった。綾子は父親の顔をろくに見たことがなかった。
「お父さんとお母さんが新婚旅行で熱海に行った時の写真よ」
綾子は初めて見る父親の若い頃の顔に見入った。弾けるような笑顔が優しそうだった。だが、恒子が見せたかったのは父親の顔などではなかった。
「見てごらん、お母さんを。あなたのお母さん、若い頃は、それはもう飛び切りの美人だったんだから。綾子ちゃんはお母さんに似ているから、きっと凄い美人になるわよ」
恒子の言葉に、綾子は写真の中の母親の顔を見つめた。若い頃の静江は、今よりも随分とふっくらとしており、輝くように美しかった。
「お母さんはね。私や綾子ちゃんの為に自分の人生を捨てたのよ。知彰があんな馬鹿なことをしでかして、行き場の無くなった私が、お母さんと綾子ちゃんと引き取ったように言う人がいるけど、そんなことはない。当時、私は体の調子が悪くてね。一人じゃ、とても生きて行けなかったの。そんな私を心配して、お母さんが私のもとに来てくれたのよ。知彰が起こした事件の被害者の方に、少しでもお詫びをしたいと、お母さんが毎月、お金を送っているのをあなたも知っているでしょう?」
綾子を見つめる恒子の目が潤んでいた。




