三.野口綾子①
綾子の両親は山口県の出身だ。
父の野口知彰は九州の私大を卒業後、Uターン就職して地元のセメント会社に就職した。働き始めて三年目に高校時代から付き合いのあった静江と結婚した。そして翌年には長女の綾子が生まれている。
セメント会社は東京にも本社を置いており、やがて一家は知彰の本社転勤に伴い東京へ引っ越した。
綾子が小学校に上がるまで、野口家は慎ましやかではあるが、平穏で愛情に溢れた、どこにでもある普通の家庭だった。
綾子が小学校に上がった年に事件が起こる。
日頃、温厚な知彰だったが、酒を飲むと性格が変わった。凶暴になることがあり、平素より周囲から過度の飲酒を慎むように言われていた。ある日、仕事帰りに職場の同僚と飲みに行った。最初は、軽く嗜む程度のつもりだったが、酒好きの知彰は同僚と別れた後も一人ではしご酒をして深酒してしまった。
帰りの地下鉄駅のホームで、同じように酔っぱらった中年のサラリーマンと体が触れたことより口論となった。かっとした知彰は相手をホームから突き飛ばしてしまった。
突き飛ばされたサラリーマンは線路上に転落。運悪くホームに滑り込んできた列車に撥ねられてしまった。即死だった。
知彰はその場で駅員に身柄を拘束された。
酔って気が大きくなり、かっとして犯行に及んだ知彰だったが、警察官が駆け付けてくる頃には酔いはすっかり醒めていた。自ら犯した罪の重さに、顔面が蒼白になっていた。
相手を殺害する意図があったかどうかが、殺人罪か障害致死罪かの別れ目となった。凶器を使わずに素手で暴行に及んでいる点から、殺人罪での適用は見送られたが、目撃者の証言から、突き飛ばしたサラリーマンがホームに倒れた後、それをホームから蹴り落としている点が悪質であると判断された。
知彰に下された量刑は懲役十五年という重たいものだった。
知彰の逮捕により野口家は崩壊した。
当然のように勤めていた会社を懲戒解雇となった。収入の道を絶たれてしまった。その上に、被害者遺族と鉄道会社から巨額の賠償金の請求を受けることになった。当然、静江にそんな巨額の補償金など払える訳はない。自己破産をして社会的信用を失ってしまってしまった。
山口に戻ろうと思ったが、静江の実家は農家で、既に弟夫婦が実家を継いでいた。静江親子に居場所は無かった。
静江は住んでいた借家を追い出され、幼い娘、綾子を抱えて途方に暮れた。
そこに、山口で年金生活を送っていた知彰の母、恒子が「一緒に暮らしましょう」と手を差し伸べてくれた。他に頼るべき人はいない。静江は綾子を連れて、恒子の家に転がり込んだ。
恒子は夫に先立たれ、山口で一人暮らしをしていた。
持家で、家を追い出される心配はなかったが、三人が生活するには恒子の年金だけでは到底、足りなかった。静江は懸命に働いた。
いっそ水商売に身をやつしてしまおうかと静江は何度も思ったと言う。
だが、その都度、「綾子には陽のあたる場所を歩いてもらいたい。父親のせいで、綾子の将来は黒く塗りつぶされてしまった。この上、母親が水商売に手を染めてしまうと、あの子は一生、日陰者として生きて行くことになるかもしれない」と思い直し、静江は決して水商売に手を出さなかった。
そんな静江の願いも空しく、綾子は小学校で「人殺しの子供」として虐めを受けることになる。虐めている方も虐められている方も、言葉の意味を十分に理解できていた訳ではないだろう。だが、綾子は「人殺しの子供」という言葉が持つまがまがしさを感じることができる年になっていた。
綾子は学校で常に一人だった。
負けず嫌いだった綾子は人一倍、勉強した。
勉強では誰にも負けたくなかった。綾子を除け者にする同級生たちを成績で見返すことで、綾子は一人ぼっちの寂しさを紛らわしていた。
高校に上がる頃になると周囲の視線が変わってきた。
綾子は人目を惹く美しさを漂わせ始めていた。男たちの視線が熱を帯びて来るのを、綾子は肌で感じるようになった。
「お母さん、私、高校には行かずに働く」
静江を楽にする為に、綾子は高校に行かずに働こうとした。だが、静江は、まなじりを決して、「貴方には無限の可能性と明るい未来がある。一時の気の迷いで、それを棒に振ってはダメ。私は大丈夫、まだ働ける。楽をさせてもらうのは当分、先で良いわ」と言った。
成績優秀だった綾子は、地元の公立高校に進学した。
高校に入ると綾子の周りの世界は一変した。
相変わらず「人殺しの子供」という陰口は消えなかったが、綾子の美貌に引き寄せられた男たちが、灯火に引き寄せられる蛾のように群がって来た。子供の頃に綾子が欲しがった友人という取り巻きが、周囲に溢れかえった。
綾子が高校に進学した年に、知彰は獄中で死去した。
病死だった。逮捕されてから直ぐに山口に引っ越して来た為、綾子は立川拘置所に拘束された知彰と会ったことが無かった。幼い頃に見た父親の面影が、微かに頭の片隅に残っていただけだ。




