ひまわりとあさがお。下 // 2121年2月20日 PM12:30
森 向日葵は、「先生」の横に待機していた秘書と入れ替わった。妹が一時滞在している病室へと入り、妹と二人きりになってから、扉を手動で静かに閉めた。
直後、セキュリティー・センサーは、当然の様に扉をロックした。
ーーー・・・!!
突然、ロック表示板示が、二度続けて、不規則な点滅を見せた。
ーーー統合マネージング・システム・・・"YOMI"か?
セキュリティー用の人工知能は騙せた。だが、ホスピスの地下に安置されている、世界でも最長の部類に数えられる量子コンピューターを中心に据えて構成される統合マネージング・システムが、自らの存在を森 向日葵に誇示する意図があったらしい。
このあたり、機械、人工物の器分を直感出来てしまうのも、朝間ナヲミと瓜二つの遺伝子を継承したからこそ獲得している感性である。普通の人間であればまず見過ごしてしまう様な異質な兆しであっても、この母娘であれば確実に気付いて、正しく反応してしまのだ。
おそらく、「今回だけですよ」とか「姉妹水入らずでどうぞ」みたいな、本器的には茶目っ気みたいなものを見せたつもりなのだろう。森 向日葵としても、高校時代に論文を仕上げる時などに、気繰り返しで"YOMI"の世話になったことは忘れていない。
"YOMI"が、森 向日葵に対して、「知らない仲ではないだろう」と訴えたくなる器分も分からないでもなかった。
また、娘だけでなく、母である朝間ナヲミも、高校生だった頃から、当時としても既に骨董品になりかけていた"YOMI"をフル活用していたと言う。だから、母娘を揃って、決して「他人ではない」と計算している事も見当が付く。
しかし、それでも、森 向日葵は、何か「過干渉してくる母親の親しい友達に絡まれた」的な、嫌悪感も薄く感じてもいた。
特別扱いはされたいが、その理由は母親のお陰と言うのも嫌だ。それでも、特別扱いされなければ、妹と病室で二人きりになれなかった。
感傷と願望が相反している。あちらを立てればこちらが立たず。あちらもこちらも立ってしまう。矛盾である。
無い物ねだりであることは承知している。分かってはいるのだ。しかし、それでも何となく苛つきは止まらない。
とは言え、妹が一時滞在中の個人用の病室へ入れてもらえたのだ。ここはヨシとしておこう。と心の整理を強制的に終える。
妹の病室を、重箱の隅を突くように、詳細までしっかりと見回す。
簡素なテーブルが一つ、簡素なイスが一つ、折りたたみ可能なパイプ・イスが一つ、簡素なプラスチック製か樹脂製のカラーボックスがいくつか。
さらに、電源を入れたことがあるのかどうかも怪しいTVが壁から生えている。それらが室内にある目立った家具だ。
急げば、室内にある全ての家具を小一時間で撤去可能なほどにさっぱりとしてる。
もう少し、来客用のインテリアなどに拘っても良さそうにも見える。
しかし、姉は、この簡素さが「妹らしい」とも感じだ。
妹が何年か勤めた後に天叢雲会病院を退職して、政治事務所を立ち上げた頃はとにかく貧乏だった。地元の信用金庫などは表向きは先行投資として(本音は万条 菖蒲の娘と言う理由で)融資を申し出たらしいが、「今は返済出来る自信がない」と断った。
森 向日葵は知っていた。妹は、政治事務所の運営が軌道にのった後でも、資金繰りに苦労していた頃と同様に財布の紐をキツく締め上げていたことを。
ーーー貧乏性。
実母である万条 菖蒲は、使いべきと判断したところでへ出費は惜しまなかった。それこそ、実資産であろうとも、借金であろうとも、出費に対する躊躇はしなかった。しかし、実の娘の方は、何かにつけて出費を惜しんだ。
結局、最初の自家用車を買う時、それから住居の購入した時。人生を通じて合計でたった二回しか借金を経験しなかった。いずれも、繰り上げ返済を試みた節はある。しかし、その計画は最後まで実行されずに消滅した。
姉は、そんな妹の貧乏性を「可愛い」と感じていた。また、身の丈に合った、派手さが一切見られない、見栄とは全く縁のなかった、等身大そのものの人生を振り返って、好ましいとさえ感じた。
「ん?」
森 向日葵は、室内の大気中に薄く充満する、生理的に不快な臭いに気付く。漏れた排泄物などが発生させる異臭ではない。刺激臭の裏側にどっしりと構えて存在している、ある種の油脂質が酸化して作り出されてる、ある種の人間が周辺にまき散らす負の感傷を思い起こさせる臭気。
ーーー死臭。
死臭にはいくつかの多用性がある。
例えば、滋味豊かな食物が腐敗した時に漂わせる様な純粋な悪臭。
例えば、アンモニアや硫化水素などガスが作りが出す刺激臭。
前者は身体の免疫機能の低下によって引き起こされる。体内の常在菌や普段なら免疫系で押さえつけている弱い菌などが暴れ出すと、無遠慮に生きている肉体の分解を当然に始めたり、大増殖を始めたりするのだ。弱り目に祟り目と言う事象に相当する。
後者は常在菌や弱い菌が「分解」などの代謝活動を行った末に発生させる分泌物やガス成分に原因が求められる二次的な臭い被害である。
これらの悪臭=死臭は、特に老衰による死を控えるという、避け様がない不幸な運命を迎えつつある人々が周囲に与える兆しである。
森 向日葵の冷静な部分は、妹が今まさに避けようのない「終わり」を迎えようとしていると確信した。そうでない部分は、何かの間違いに過ぎないと願って無視しようと努めた。
実際のところは、死臭に関しては余程に神経質な人でなければ気にならないレベルにまで抑えられていた。死臭を作り出す純粋な悪臭や刺激臭の方は、環境管理システムが効果的な換気を行い、除臭を徹底し、片っ端から室内空気の清浄化に努めていた。
ただ、弱り切った肉代から漏れ出すある種の脂質。それが酸化して作り出す乾いた悪臭の方は、ガス成分とは違って、優秀な環境管理システムであっても効果的に打ち消せていなかった。
妹の身体から水分の蒸発を共に大気へ放たれたある種の特殊な油脂質に対して、環境管理システムはアルカリ性の化学反応融合物質をカウンターとして滞留に乗せていた。だが、油脂質であるので、どうやっても病室の壁紙、カーテン、家具表面などに付着し、染みついてしまう。
ーーー固定されしまった臭素の除去には、選択と言う物理的な除臭作業意外に有効な脱臭は出来ない。
患者が寝ている部屋では、粘膜質への刺激が強いオゾン脱臭器などは使用出来ない。
だいたい「死」が人類の種としての繁栄に多大な貢献をしているが為に、死臭の排除は根本的に困難なシステムでなりたっている。人生から科学的に「死」を排除的ないのと同じ理屈で、「油脂質由来の死臭」も完全に化学的に中和することは困難極まりなかった。
ーーー人間は本能的に恐れている「死」に対してとても敏感なので、「死臭」の濃度をどれほどに低く抑えても、必ず嗅ぎ取ってしまうものなのだ。
ただし、胃瘻などの手段によって肉体への無意味な栄養供給は行われていないので、細菌由来の刺激臭はかなりの部分が抑えられている(朝顔の身体内では、細菌が代謝活動時に不可欠な"栄養"が常に不足している。よって、代謝の副産物である刺激臭源の発生そのものが抑えられている)。
更に、肝機能低下による血中へのアンモニアや中間代謝産物の大量放出も、体内へ投与されているナノ・マシンなどがかなり抑制している。
ただし、肝機能低下がもたらしてくれる「救済」。意識混濁(意識レベルの低下)への干渉は、事前に定めた治療方針に従って最低限に止められている。
生きながらに死につつある。それが「終末期」である。心穏やかに死んで行くには、この種の「救済」が不可欠である。創造主がいるならば、それの与えた慈悲こそがこの「救済」である。そして、その「救済」を無為にとする無駄な抵抗の象徴こそが、胃瘻に代表される「無軌道な延命処置」の正体である。
病院側は、患者に対して十二分に「有軌道な延命処置」と言うオーダーに沿った仕事をしていると言うことだ。
森 向日葵は、朝間 朝顔が身を横たえているベッドの真横に、つい先ほどまで秘書が座っていたパイプ・イスを引き摺って移動させて、薄くクッション性などゼロに等しい、ビジネス的優しさを大いに発揮する座面に腰を下ろした。
共に育てられた、世界にたった一人しかいない自分の妹が両目を閉じている。
素敵に老いている。
脂肪分はほとんど失われ、頬や目尻などの皮膚は頭蓋に張り付いている様に痩せている。
皮膚と頭蓋に間に在るはずの筋肉の層がまだ残っているのかさえ疑わしい。
しかし、背骨を中心した身体の線は大して歪んでいない。
タンパク質の十分な摂取、適切な運動、幸運な遺伝子の成せる奇跡である。
口が半開きなのは、三歳児の見せる可愛い仕草と同質であるだ。
だが、同じ動作であっても、老女が行うとそうではない。
三歳児のそれは得も言われぬほどに、無条件で、可愛い。好ましい。しかし、老女のそれは見ているのが辛くなる。目を反らしたくなってしまう。
同じ行為である。にも関わらず、受ける印象はあまりにも違う。桁違いに評価に格差が生じる。
このあたりの矛盾に、誰がそれをするのか。行動の主の属性によって、良にも悪にも、美にも醜にも、両極端に振れずにいられない。
そして、これは極めて自然な、生理的な反応である。知性は一切関与していない。それだけに根本的且つ、致命的だ。
在るのかどうか知らないが、在るならば、これこそが創造主とやらが抱えているだろう「闇」だ。そ漆黒の向こうにある更なる闇の深さが垣間見られる証拠につながる尻尾である筈だ。
とは言え、現在の朝顔にも、妹の幼かった頃の可愛さが垣間見えないこともない。かつての可愛さは今でも微かに残されてる。
いや、それはもしかしたら向日葵の目にだけ映る光景なのかも知れない。
何故なら、幼かった朝顔が、まったく無意識でありながら徹底実行した認知戦において、向日葵は陥落して久しく、更に陥落したままであり続けているのだから。
そこにならば、その評価の根源に「知性」に輝きが見い出せる。その本質とは、本能とは一切無関係の、人間の知性が意思的に生み出す「愛情」であるに違いない。
妹の半開きになったままの口元からは、軽い寝息が聞こえる。
「朝顔・・・」
両腕で抱きしめたくなるが、それは自重する。
自分の想いを押し殺すことの方が、今の向日葵にとっては板に付いた態度になってしまっている。
思えば、「自重ばかりだな」と少しだけ自虐的な笑みを口元から漏らしてしまう。
眠れる妹の表情を読もうと、姉は静かに視線をベッドの方へと向ける。
妹は夢の中。締まりのない顔付きで眠ってる。
自分とは違って、年齢相応に白髪に、黒髪と言うか灰色の髪がちょっとだけ混ざっている。
以前は長かった髪は、ホスピスでの介護の都合に良い様にと、今では肩のところで揃え切られている。
自分とは違って、年相応に顔には皺が刻まれ、輪郭が痩せて細くなり、肌つやもない。
森 向日葵は、掛け布団の下に埋もれる妹の手を握った。
ーーー万条 菖蒲。
森 向日葵は、今の妹の外観が、妹の実の、いや、産みの母である元・日本国総理大臣の任期末期の頃の姿とそっくりであると感じた。
だが、そっくりでない部分もあった。それは、顔付きだ。娘である朝顔の顔は、産みの母と違って人間を信用することをしっている優しげな皺を刻んでいることだ。娘は産みの母と違って、知るべきでない人間の業の非道さを味わうことなくこの年まで生き来た。
それころが生みの母が願った行幸。娘は産みの母と違って、極めてまっとうな人間の人生を、ありふれた幸福がいっぱい詰まった人生を積み重ねることが許されたのだ。
ーーーあの女、今頃あの世でさぞ満足していることだろう。
森 向日葵は、万条 菖蒲の忌ま忌ましさを久しぶりに思い出し、「あの女」呼ばわりして気を紛らわせた。「あの女」呼ばわりは、10代になってすぐに始めた習慣だった。彼女は、ずっと、ずっと昔から、何となく、多分生理的に、万条 菖蒲を嫌っていた。
たった今、半世紀以上生きた後で、今になってやっと「あの女」を嫌っていた理由を悟った。
ーーーああ。なるほど。そういうことだったのね。
思い起こせば、森 向日葵は中学校へ上がった段階で、他人のくせに、家族ではないくせに、自分だけの妹の人生に万条 菖蒲が干渉しようとしていたことを直感で気付いていたのだ。
ーーー妹の人生に勝手にレールを敷くな!!
そうでありながら、姉の心妹知らず、朝顔は奇妙に思えるほどに、万条 菖蒲に懐いていた。それで万条 菖蒲をますます嫌いになった。
しかし、血縁関係では母娘だったのだから、妹に罪はなかった。罪深いのは一方的に万条 菖蒲の方だけだ。
姉は、今でもそう思っている。そして、これからもずっとそう思い続けるに決まっている。
きっと、姉は偉大なる党の「大老」の次に万条 菖蒲を嫌っていた人類であったに違いない。
それでも。森 向日葵には、今となっては、人情の面ではわずかに理解出来る部分もあった。
とは言え、そうでありながらも、今でも、理解は出来ても、許容は出来ない。純粋に共感はムリだった。
森 向日葵は、眉間に皺を寄せて考えを巡られる。
ーーー腹立たしくも、万条 菖蒲の祈願が間もなく成就する。
妹が終えようとしている、誰が見ても「極めてまっとうな人間の人生」。それこそが、「あの女」のが望んだ妹の人生の在り様だ。
万条 菖蒲が願っていた通りに、愛娘は日本国のそこら中にいくらでもいる有象無象と比べてもまったく遜色がないくらいに、極めて普通の人生を全うする。
もし、その目論見が崩れる要素があるとすれば、無軌道な延命処置の可能性だろう。人民共和国で実行された歪な先例を見れば、状況は一瞬でひっくり返ることが分かる。
しかし、それは考え過ぎであった。何故なら、朝間 朝顔は、延命治療の明確な拒否を行っていたからだ。胃瘻などの栄養チューブ処置だけでなく、ナノ・マシンによる蘇生処置拒否(DNR)指示までも表明していた。
朝間 朝顔に肉体は、今この瞬間も、1秒ごとに順調に衰え、身体を構成する細胞は中央から末端へ至るまで確実に飢えつつある。だから、そのもうちょっとだけ先にあるものは、万条 菖蒲が待ちかねた、或いは願いながらも本人の人生では体験出来なかった、心穏やかな「終わり」だ。
ーーー今、姉が握っている妹の掌も、その先にある手首も腕も、小枝かと思えるほどに細くなっていた。
そして、体温を感じさせないほどに冷たい。四肢のチアノーゼが始まっているのかも知れない。
事前に取り決められた治療方針の原則。それは医療的処置は緩和ケアに止める。
穏やかな症状が続いているので不要だろうが、アスピリン、アセトアミノフェン、非ステロイド系抗炎症薬(NSAID)すら使用されていない。オピオイド系(オキシコドン、ヒドロモルフォン、モルヒネ、メタドン、フェンタニルなど)+抗うつ薬の投与(併用)までは認められている。
緩和ケアの最終点であるオピオイド系とは「麻薬性鎮痛薬」を指している。基本は阿片系の化学成分を模倣した合成系薬であり、原型と比べては100倍も1000倍の鎮静効果も極少量でも引き出せるとして知られた、医療分野では多様されている。
現状では、三段階のレベルに分けられるオピオイド受容体は、第一段階の「デルタ」に止まっていた。もしかしたら、 「カッパー」やミューまで、多幸感を引き出す「ミュー」受容体まで進まずに終わるかも知れない。つまり、使用される鎮静剤も極低レベル、そこら辺の薬局でいくらでも売っている「アセトアミノフェン」で済むだろうと言うことだ。
森 向日葵は、実は、「終わり」を明確に迎えようとしている朝間 朝顔に対して、心の底から羨ましいと思っていた。
森 向日葵が与えられた身体は、人類としてかはなり特殊な「仕様」だった。
ーーー老衰で死ねるのかどうか、それすら判明していなかったのだ。
どういう訳か、テロメアがどれだけ年齢を積み重ねてもテロメラーゼが活性化させる。完全に近い再生能力まで備わっている様だ。まるでロブスター、或いはがん細胞の様にだ。だから、テロメアの短縮プログラムが働かないので、染色体は何度分裂してもまったく短縮されず、細胞レベルでも分裂・再生機能の劣化はまったく見られなかった。
母親の森 葉子が現在宿っている朝間ナヲミの肉体と等しく、生物的終点が存在するのかどうかも分かっていないと言うことである。まさか、流石に、そんなことはないだろうが、かつては人類の権力者達がもれなく追い求めた「不老不死」である可能性の完全否定も難しい。現時点では医学や科学では解明不能な生物的な「オーパーツ」である事は間違い。
地球上のある生物圏全域と全枝葉を見渡せば、寿命と言う死が生まれた時が設定されている生物種は、意外な事に少数派だ。しかし、そんな事実を聞かされても当事者としては、何の救いも感じられない。
この謎仕様の身体のせいで、森 向日葵は、かなり以前に夫には先立たれた。あちら側へ旅立とうとしている夫を見送る時、まるで、孫か祖父を看取るかの様な、極めて不自然な状況を体験してしまった。可能であったならば、自分も夫と共に老いて、出来れば同時に、それが適わぬならばしばらく時を置いてからお迎えが来る様な運命を授かりたかった(本当は、夫に看取ってもらえる様に、けっこう先に逝きたかった)。
自分の様な複雑な人生を歩まず、普通の人生を歩み終えようとしている妹を、姉は赤裸々なまでに羨んでいた。
そして、自分の様な普通でない、とてもありふれていた、特別な人生を歩まねばならない運命を押しつけた、両親を恨みもしていた。
普通が良かった。普通が良かった。普通が良かった。
普通で良かった。ではないのだ。
どうしても普通にはなれない人もいる。
どうしても特別にはなれない人もいる。
実はいずれの側も、悩みの正体は同じである。
ーーーないものねだり。
もしかしたら、今よりも(都合が)良かったかも知れない「If」への羨望。羨望を渇望と誤解すると始まってしまう、満たしようもない欲望。結果は、永遠に止まらない苦しみである。
特別であることを望みながらも、成長の果てに、自分が普通であることを受け容れて逝く妹が堕ちずに済んだ無間地獄。
普通であることを望みながらも、自分が特別であることを受け容れられずに生きる姉が堕ちてしまった無間地獄。その果てには何が待っているのだろうか。
多分、悩みの正体=悩みの本質は同質のもの。同一ではなく同質。根源にまで遡る、最初の躓きがその後の最後まで足を引っ張る類いの悲劇だ。避けるには、自分の間違いを認めるしかない。しかし、賢くても愚かでも、等しくそれが出来ない。自分の程度を知って、その通りに生きる。賢くても愚かでも、等しくそれが出来ない。
何故か。それは人間と言う生き物の本質が、
ーーーないものねだり。
であるからだ。多分、「ないものねだり」の人生は遙か大昔に、アフリカのサバンナをふらふらと歩いていた類人猿似の直系の祖先が始めたゲームだろう。創始者の後継者である人類は、祖先が始めてしまったゲームを、故郷のアフリカを脱して、地の果てにあるチリ領のフロワード岬までたどり着いた後になっても未だにクリアー出来ていなかった。そして、22世紀の現在になっても、未だにクリアー出来るにプレイを続けている。
何というクソゲー。無理ゲーでもありながら、最後のプレイヤーがいなくなるまで「サ終」はない。
しかしながら、普通であり続けた妹だけは、好む好まざるに関わらず、特別であり続けなければならなかった姉の苦悩の深さを、その一端であれば察してくれていた。普通であるが故に、未体験であるが故に、苦悩の本質を捉えることができなかった。だが、それでも、自分を護ってくれていた姉が、誰にも護られていないと言うことにくらいであれば見透かせていた。
姉を中心に存在している世間は、姉が人間社会から特別な運命を与えられた完全無欠な存在であると誤解している。そして、姉が既に、夫に先立たれてからずっと、自身を理解してくれる誰かも、護ってくれる誰かも、自分の人生に存在しないことに不満を持っていることを心配してもいた。
諦めと言う心の「闇」は、姉の価値観を蝕むことを止めない。妹は「闇」の実害の深刻さを察して、憂いていた。しかし、どうにもできなかった。
それでも、姉は、些細な影響力しかないに関わらず、その妹が途切れさせることなく見せ続けてくれる繊細な心遣いに慰められていた。しかし、今では、姉は、とても小さかったとしても、掛け替えのない唯一だった慰めさえも失おうとしている。
人間は己を知る者がいてこそ、初めて積極的に生きることが出来る。しかし、己を知る唯一の人間である妹がいなくなると言うことは、姉をこの世界へ縛り付けてる最後の「鎹」が失われることを意味している。
姉は、これから、たった一人でとなって、どうやって生きて行ったら良いのか見当も付かない。妹は姉なしで生きていける様に成長を遂げたが、もしかしたら、姉の方は妹なしで生きていける様に成長を遂げていないのかも知れない。
「私を一人にしないで。お願い・・・」
森 向日葵は、いつの間にか、頬を涙で濡らしている事に気付いた。幾筋かの涙が頬を伝っていた。
涙を頬から拭おうと掌を持ち上げようとすると、微かな抵抗があり、掌を放すまいとしている微かな抵抗がある事に気付く。
すぐに、自分の左の掌がうっすらと握られていることに気付く。微かな握力で、優しく握り返されていることに気付く。
ーーー!!
姉は、ハッとして、眠りこけている筈の妹の表情を覗う。
妹は、今にももう一度閉じそうなくらいに、うっすらと目蓋を上げている。
「お姉ちゃん・・・」
妹は久しぶりに目覚めて、目蓋が震える瞳で、姉を必死に視界に捉え続けている。
「来てくれたんだ。ありがとう・・・」
姉は、妹に対して、超然とした態度を最後まで貫いてあげようと決心した。そう言う優しさと言うものもあるのだ。
ーーーもし、ここで取り乱せば、これから一人で長い旅に出なければならない妹に現世への未練を持たせてしまうかも知れない。
なけなしの強気を総動員して、出来るだけ素っ気ない態度を保ちながら妹との対峙を始める。
「すこし遅くなってごめん。あの約束を果たしに来た。間に合って良かった」
ーーー震えるな。私の左手の全部の指!!
姉のやせ我慢は、長年の研鑽の結果、既に芸術に域へと達していた。だから、心裏腹はお手の物だった。おかげで、酷く乱れる心臓の鼓動が、姉の指を通じて妹へ伝わる事態は避けられた。
「遺髪を廿里博士の墓標に。約束する。絶対に納めるよ」
妹は視線で感謝を示した。
「万条家のことだ。分骨は絶対に許してくれないだろう。一片の欠片まで寺家の菩提寺へ持ち込みたいに決まっている」
姉は、万条 菖蒲の唯一の直系である妹を、表向きには「万条 桜子直系の子孫の嫁の母親」と言う言い訳を掲げて、万条本家の墓へと迎える意思を既に隠そうともしていなかった。
ーーー人の口に戸は立てられぬ(People will talk.)。
いわゆる、遺骨の政治利用である。妹が万条 菖蒲の実子であると知る人間の数もそこそこ増えていた。そう意味で、今となっては、高名な元首相の血統をすべて回収することは、一族の更なる繁栄の為には絶対条件と考えてた様だ。
ーーー万条 菖蒲の実子の遺骨は、森家には絶対に渡さない。
妹は、そんな卑猥で、目を反らしたくなるような惨状を、視線で肯定した。
「せめて、アイさんかマヤさんがご存命だったら良かったのにな」
妹は視線で肯定した。共に同じ時代を生きた当事者同士と違う、次世代の担当者たちには遠慮、配慮、謙虚がない。しかし、そのくらいに傍若無人でなければ、政治の世界では生き残れない。だから、妹は、その流れを自らの意思表明で阻害しようとは思い至らなかった。
姉も、妹のそんな意思を尊重している。
「じゃ、目立たないところを切らせてもらうよ」
妹は視線で同意した。
姉は、勢いよく、それでいて指と指の間で多量に発汗させながら、姉妹で重ね合っていた掌を解いた。
姉妹の母の片方が、いかにも持っていそうな容積両重視に見えるトートバッグの中から、プラスチック製か樹脂製らしい試験管の様な硬質チューブ2本と携帯用のハサミ1本を取り出した。
硬質チューブは天体物質用のサンプル一時保管器、ハサミは宇宙飛行士用携帯器具の一つ。小型金属繊維切断用ハサミだ。
保管器を使うのは、これから詐取する物質が往復に5年を要する小惑星で取得する未知の物質よりも貴重なものであるからだ。金属繊維切断用ハサミを使うのは、往復に5年を要する小惑星で遠隔操作を行うよりも巨大な責任が伴う作業であるからだ。
姉は、妹の右耳後方の、目立たない部分の髪を5cmほど切り取った。続けて、慣れた手付きで硬質チューブへ入れる。最後、蓋を取り付ける。すると、チューブや蓋を破壊しないと納めた物質へ干渉出来ないと言う、完全な隔離状態に妹の髪は移行した。同時に、万が一の宇宙空間での紛失に対応する電波ビーコン装置がONになった。
姉は、大して大切なものでもないかの様に仕草を演出しながら、妹の髪が納められた2本のチューブを胸ポケットへ入れた。ハサミは、トートバグの方へ放り投げて入れた。
「これで約束の半分は果たしたな」
妹は、残りの生命を振り絞るかのような声で言った。声質も、口調も、ハコ母さん(=成人後の朝間ナヲミの肉体)とそっくりだった。それを耳で確かめて、「姉は本当に両親と血がつながっているんだ」と知らしめられて、小さな小さなため息が出る。
妹は、家族の中で自分一人だけが血統的には仲間外れあること残念に思っていた。姉との最後の邂逅で、その事実を久しぶりに思い出した。一方、姉は妹のそんな心の動きに気付かなかった。それは。姉は、妹が、自分と血がつながっていないことなどを気にする様な機会に、これまで、たったの一度たりとも巡り会わなかったからだ。
そんな姉の心を知ってか知らずか、妹は自分の持ち時間が、ロスタイムが尽きようとしていること強く意識した。だから、不意に意識を完全に失う前に、キッチリと離別の儀式を済まそうと決意した。
「ありがとう。これでもう思い残す事はない」
妹は、出来るだけ大きな声で言った。妹は、そっと目蓋を下ろす。
「ごめん、少し寝る」
姉は、妹の肉声の方ではなく、最も肝心な心の声の方を余すところなく聞き取った。
「そうか・・・」
姉は、これが姉妹が出会う最後の機会となることを、妹から明確に伝えられたと確信した。
姉妹による、中途半端ではない、明白な離別がこれから行われる。物心ついた頃から、二人で共に育って来た唯一の存在が、これから運命の意地悪によって無理矢理に引き剥がされるのだ。引き離されるのではなく、だ。
「寝るまで・・・手をつないでいてくれる?」
妹は、最後の願いとして、かつて、二つのベッドが用意されなが、二人が一つのベッドで寝ていた頃の様に、姉に甘えることにした。
何時の頃からからだろう? 姉妹の間に溝が作られてしまったのは。もちろん、互いにいがみ合う様になった訳ではない。ただ、何となく、姉は妹にベタネタとまとわりつかれることを拒み始めた。それ以来、妹は「節度」と言う言葉を学び、いつの間にか「節度」ともって姉と接すると言う行動を学んだ。
しかし、妹は、「節度」ともって姉と接すると言う行動を人生の最後で止めた。姉に拒まれても、願いを口にせずにはいられなくなっていたのだ。
姉は、最後の邂逅の場で、酷く引きつった心を隠しながら、満面の笑顔で妹の最後の願いを受け容れた。
「朝顔はいくつになっても子供だな」
姉は妹の掌を再び、一回り大きい掌と長い指で覆う。姉は少し驚く。妹の手はこんなにも小さかったのだ。自分と比べてとても小さな身体で人生を歩み切ったのだ。
ーーー何という勇気だろう。自分とは違って、こんなに小さな"力"しか与えられずに生まれて、魑魅魍魎が巣くう社会に対して怯むことなく果敢に生き抜いたのだ。
そして、少なくない成果を実現し、残し、次の世代へと受け継がせることに成功した。
決して、楽な人生ではなかった筈だ。しかし、この小さな身体の持ち主である妹は、すべてをやり切ったのだ。
姉は、姉妹の身体的な格差を完全に失念していた自分の「罪」を、今更ながら自覚した。しかし、その「罪」の重さを事前に知っていたとしても、二週目の人生があるとしても、一週目と同じ振る舞いを重ねる選択をする自分がいる。人間は、生まれ変わったとしても、さして変わった人生を送れる筈もない。もし、無茶を承知で、自分の自然にそぐわない人生を送ろうすれば、直ちにバランスを崩して、一週目を遙かに下回る惨めな人生へと墜落してしまうだろう。
妹の表情が和らぐ。それまで必死に繕っていたのかも知れない、人間的な強さが、急速に消失して行く。まるで、揮発性の高い液体をビーカーに注いだ直後の様に、沸騰して蒸発して行くかの如く、風船から空気が抜けて行く様に、目に見える形で、妹の精神的な質量が激減して行く。
「ありがとう・・・。お・・・ねえ・・・ちゃん・・・」
今、姉の目前でベッドに横たわっている妹は、ただの老人と成り果てた。地方自治体所属とは言え、生涯通じて議席を維持し続けた地方政治家は、ついさっき、消失してしまったのだ。
今、姉の目前でベッドに横たわっている妹は、政治家であることを終えて、ただの妹へと回帰した。学校のテストの結果が悪くて、母に叱られて拗ねていたあの頃の妹へ。姉に慰められてしかめっ面に笑みを取り戻したあの頃の妹に。
「ずっと隣にいてあげる。だから、安心してお休み・・・」
姉が手を握ってくれている事を、肌の感覚で確かめると、妹は直ちに寝落ちしてしまった。
安心すると同時に、最後の気力を使い果たしてしまったのだ。
ーーーお疲れ様。朝顔。
姉のその後の言葉は声にならなかった。ただ、咽せるだけだった。本人も何を訴えようとしているのか分かっていなかった。
そんな、生きる力を完全に使い果たしたが故に、もう寝静まることしか出来ない妹の姿を眺めながら、姉は、今度は遠慮なく泣いた。
妹が目覚める「心配」がないことを知っているので、妹心配させる恐れがないと確認してから、止めどなく泣いた。
どれだけ大きな音で鼻をすすっても、今の妹に悟られる可能性はゼロだ。だから、妹の前であっても泣ける。姉は妹の前で泣いてはいけない。常に道を示し続けなければならない。背中を見せて「貴女が進む道はこちらにあります」と伝え続けなければならない。常に暗中模索する妹に、こちら来るんだと示し続けなければならない。
しかし、ついさっき、その役目を終えた。だから、もうやせ我慢はする必要はなくなった。妹の望む姉でいてやりたいと願っていたが、もうこれから先はそんな願いは意味を消失するのだ。
じょじょに、何かが姉の心の奥で消えて行く。ひび割れ尽くしていた「核」が砕けるのでは霧散する。やがて、姉の心の奥がポッカリとした。埋めがたい大きな穴が生じた。埋めるどころか、それはどちらかと言うと大きくなる傾向があった。
だいたい30分くらい、パイプ椅子に座り続けて、妹の手の握ったまま俯き、そのまま泣き続けた。
やがて、我に返った。目前にいる妹の中に、既に妹はいない。そう直感していた。しかし。抜け殻だとしても、ベッドで横たわるのは大切な妹の痕跡だ。
「YOMI、妹を頼んだ。良いな?」
最後に、妹の病室の中でこう言い残した。
そして、目を真っ赤に腫らしたまま、妹の病室から静かに去った。そして、二度と戻らなかった。
不思議なことに、何の命令も受けなかったに関わらず、姉のこの言葉は統合マネージング・システム「YOMI」の長期記録部と短期記録部(表層作業空間)の両方へ記録されていた。そして、情報アクセス・ログによれば、繰り返しデータのロードを繰り返していたと判明している。
森 向日葵は、そのまま客待ちをしていたタクシーに乗り込んで、会津国際空港経由で種子島へ帰還した。
その後、森 向日葵からの約束を破られた朝間 朝顔の秘書は、気を回した優秀な人工知能の音声インターフェイス+院内放送によって、森 向日葵退出から10分後へ病室への移動を即された。
次回は2月23日に公開予約を入れてあります。




