ひまわりとあさがお。上 // 2121年2月20日 PM12:30
ここは只見川沿い。
しかし、誰にでもその様に説明しても良いものかどうかは悩む。
それは、その様に伝えても「へ?」と、ほぼ100%の確率で返されてしまうからだ。
何故なら、只見川の水面はここから遙か下方。崖の下にある。
国道252号線に面する天叢雲会病院「ホスピス」が建つここと、件の只見川の間には、相当な標高差が存在している。
只見川は西に始まり、のたうち回りながら東へと下るV字状の峡谷の底面を流れている。二次元情報しか伝えられない単純な紙地図の上では、ここと只見川は互いに直近に接し合っている。しかし、登山用の地図に用いられる手法、例えば標高線などを用いて、三次元情報で地理情報を再構成すれば、只見川はここから遙か下方に流れていると言う事実を明確に示せる。
ーーーここから只見川は見えない。もちろん、只見川からここが見える筈もない。
崖上にある天叢雲会病院「ホスピス」が建てられたここ、天叢雲会病院「ホスピス」の病棟から只見川は見えない。眺めるためには、崖際まで足を運んで、垂直に限りなく近い鋭角度で、崖下をのぞき込む必要がある(ちょっと怖いので挑戦はお断りしたい)。
しかも、只見川とここの間には、広葉樹林が形成されている。だから、天叢雲会病院「ホスピス」の病棟のガラス窓の横に立っても、窓枠に手を掛けてどれだけ頑張って首を伸ばしても、広葉樹林の枝葉しか見えない。
ならば、只見川へ向けた展望を確保する為に、手前にある幹、枝、葉々などを全て買ってしまえば良いのではないか?
ーーーきっと、入院中の患者も見舞いに訪れる家族も喜ぶ。
それが出来れば苦労はない。実は、展望を塞いでいる広葉樹林こそが、この周辺の崖崩れや地滑りを強力に防いでいるのだ。植物類が地中へ広く深く張った根が、天叢雲会病院が且つ敷地の地盤を引き締めているのだ。もし、広葉樹林を取り除いてしまえば、近い将来に崖崩れが必ず発生する。2~3年も経てば、天叢雲会病院の施設の半分くらいは只見川の水面下へと移動してしまうだろう。
自然による無料の防災構造は、鉄骨、鉄筋、コンクリートで作ったとても高価な土砂崩れ防止壁よりに高効率な場合が多々ある。特に、只見川沿いの様な斜面が広く、傾斜角度がきつい場合は、費用対効果で人工物は絶対的に自然に適わない。
落ち着いている自然に、人間が余計な手を加えると、絶対に碌でもない結果しか招かない。
しかし、残念なことに、こんな事情のせいで、天叢雲会病院「ホスピス」の運営側の人間と入院患者や通院患者は、自分達の足下に只見川が流れていることを完全に失念している。
ーーー目に見えないものは、存在していないも同じ。
だが、森 向日葵は例外だった。朝間ナヲミと森 葉子の唯一の実子であり、朝間 朝顔が慕う姉であり、航空宇宙飛行士でさえある彼女は、ついさっきまで、東に向かって蛇行して進む只見川の上流部を眺めていたからだ。
つい、先ほど、ダムから下流へ向けてこの只見川に沿って上空を飛行していた。だから、只見川と天叢雲会病院「ホスピス」の地理的関係を強く意識出来ていた。
ーーー只見川に沿って、只見川の上空を飛行する航路で新潟県側上越(日本海側)から会津盆地までやって来た。
日本国・航空自衛軍は「T-8」と言う双発機を高等練習機(或いはアクロバット用機体)として運用している。一方、日本国・宇宙航空研究開発機構は、ほとんど同じ構造の機体をパイロット用連絡機の「U-8」そして採用している。
「T-8」と「U-8」は事実上は同じ形式の飛行機だ。部品の共用も出来る。だが、法律的にはまったくことなる機体として扱われていた。運用予算の調達の都合で、そうしておかないと財務省が、100円節約して1万0,000円損することが確実なずさんな理論で、調達方法に無茶な横槍を入れて来る。それを避けるための知恵の集大成として、二つの組織が偶然に酷似した機体を採用したと言うシチュエーションが出来上がっている。
ーーー22世紀になっても、財務省のマクナマラ的指導は引き継がれている。
そう。森 向日葵は、日本国・宇宙航空研究開発機構所属のパイロットである。彼女は、今朝に種子島を離陸して、中部の空港で給油を受けて、約1時間ほど前に会津国際空港へ着陸していた。その後は、予約しておいた空港タクシーに乗り換えて、最短所要時間で天叢雲会病院「ホスピス」までやって来たのだ。
天叢雲会病院「ホスピス」は、かつては、2030年代には「サイバネティクス研究病棟」が入っていた天叢雲会病院・別館エリアである。
天叢雲会病院「サイバネティクス研究病棟」は、人工物置換治療史や生物工学史において巨大な足跡を残した「宇留島博士」が最後まで"根城"としていた。その様な経緯は、はんば映像物語として、世界中で極地的に広く知られている。
また、今では世界中に広まっている日本式サイバネティクス関連技術の、事実上の、発祥地の一つでもある。
日本国・航空自衛軍の幹部候補生の全員が、任官までに何となく悟る事になる、日本国の航空英雄、朝間ナヲミ(航空三佐で退役)に対して、人工物置換治療が施したのも、ここである。
だが、2030年代には最新技術の塊であった研究施設も、2050年に老朽化と陳腐化の問題が顕著になっていた。それは、「宇留島博士」に代表される優秀な研究者たちの努力と、研究治療に貢献してくれた多数の患者たちの協力が産み落とした技術革新の加速が原因である。
ーーー例えば、朝間ナヲミが過去に試したボイスコイルモーター駆動の人口指関節は、今では極一般的なカスタマイズのメニューに上っている。
ボイスコイルモーター駆動の人口指関節は、精密作業に特に優位性を発揮する。今では、義指だけでなく、工業機械にも採用さる様になった。
「宇留島博士」が在籍していた頃から指摘されていたが、彼女はどう言う訳か、現・天叢雲会病院「ホスピス」の住所に自分の研究室を置くことにこだわっていた。
ーーーもしかしたら、あのオッサンが返って来るかも知れない。
とかことある度に呟いてだ。
あのオッサンが誰を指しているのかは、最後まで誰にも説明しなかった。そして、「宇留島博士」の引退の翌年、施設の近代化は行わず、研究要員と使用可能な施設のすべてを宮城県の松本医学大学病院へと移転するという決断が下された。
その後は、天叢雲会病院「サイバネティクス研究病棟」は、終末医療向けのホスピスである「天叢雲会病院「ホスピス」」として生まれ変わった。ここでは、特に、完全擬体保持者が必要とされる、やや特殊な処置に特化した医療サービスが提供されている。
完全な生身の人間と完全擬体保持者となった人間では、特に末期医療では、必要とされる技術が絶対的に異なる。この件は先見性のある者には当初より予期されていたが、完全擬体保持者が社会の極少数であった頃は無視されていた。まったく社会問題化していなかったのだ。
いや、問題は本当は誰も分かってはいたのだ。だが、社会(の財務担当者)は敢えて気付かないふりとしたり、解決の優先順位を低めに設定していた。無視しても政局に、些細どころか、何の影響も与えない程度の極少数の有権者しか、その問題に直面しないと見込まれていたからである。
だが、2080年代になると、もはや、完全擬体保持者でないにしても、部分的に人工腕や人工脚を生やす人数=有権者の数は社会が無視出来ない程に増加している。だから、日本国と政府と産業界も、この問題の解決に本腰を入れなければなくなったのだ。
「天叢雲会病院「ホスピス」」では、例えば、精神的な苦痛や不安、抑鬱、不眠などの症状、義肢の誤操作問題などを解決する為に不可欠な、薬物投与、ナノ・マシン投与、ソフトウェア・ブロック、仮想現実移住などをサポート可能な全ての基本インフラを擁している。
もちろん、望めば人工生存器や強制栄養注入器と仮想現実移住を併用して、一般人が想像するより長期間の延命処置(延命治療ではない)への対応も可能である。これらのチャレンジングな処置(治療とは見なされない)は、健康保険適応外となる。だが、道徳的に疑問が持たれている程に、"特区"指定されているここでは先鋭的な延命処置ですら選択も可能である。
だが、2080年代末には、既に、先進国の国民の多数は、常識的な延命治療の望みはしても、単純な延命処置に対してはネガティブな印象を共有していた。だから、特殊な事情を持つ患者と家族以外に、特に先鋭的な延命処置を選択したりはしなかった。
それは、2050年代になってからやっと発覚した、「大老ケース」があまりにもショッキングなニュースとして、世界中へ伝わったことに起因する共有意識だ。
人民共和国崩壊後に、人民国家と人民解放軍を共に従属されていた偉大なる党を、更に上から支配していた雲の上の存在こと「大老」なる一団の存在が確認された。
人民共和国も、他の世界中の共産党が支配する国家と同様に、元来は、日本国の誇るクオリティ・ペーパーによれば「子供ずきなおじさん」だったらしい事で有名なヨセフ・スターリン(※)が創造した、スターリン流独裁方式を採用していた。
だが、21世紀に入ってしばらくすると、人民共和国は自らの体制の修正を始める。それまで進めていた法整備の速度を緩め、止め、バックギアを入れさえした。法整備=自由であった事から、1980年代に潰された民主革命以後、よくやく拡大し始めていた精神的な流動性が、三峡ダムを越える巨大なダムによって堰き止められた。
2010年代初期になると最初は徐々に、2020年代後半に入ると加速度的に、"竹のカーテン"が再展開された。ただし、それは、国内と国外の間にだけでなく、真の支配者と奴隷(ローマ人の価値観による、自らの運命を決められない人々と言う意味で)の間にも展開された。
人民共和国は核心化した(革新化ではない)。天から大地に向かって、とてつもなく分厚い"竹のカーテン"を吊し始めたのだ。
全体主義の国は、何かを始める作業のペースがとても速い。あっと言う間に、"竹のカーテン"の効果は広域に、幾重にも展開され、その後長く運用され続けることなった。
"竹のカーテン"展開以後は、人民共和国はそれまでのスターリン流独裁方式国家とは異なる、全く新しい核心的(革新的ではない)な独裁方式を採用する国家へと成長した。最終的に、スターリンとは違って、真の支配者の存在を奴隷の側は、抽象的にしか認識出来なくなっていた。
真の支配者は、あまりに雲の上の存在であった為に、何時の頃からは、奴隷側の下々の者達の認知範囲から完全に逸脱していた。
偉大なる党と「大老」は、そうやって、スターリンの頸城を断ち切った。マルクス・スターリン主義を捨て終えて、自由になり、独自性をやっとのことで発揮し始めた。
一方、民主主義国家側は、人民共和国と偉大なる党が吊るした"竹のカーテン"と"金盾"を、非民主的で前時代的な支配システムであると見なしていた。残念なことに成長の大きさに気付けず、変容を過小評価し続けた。
何故か? それは民主主義国家側にとって、人民共和国の変化が遙かに想定を超えいたからだ。更に、民主主義国家側にとって、人民共和国の変化が核心化(革新化ではない)が「誰得?」であったからだ。
ーーーそんな不合理、理不尽、不寛容、不要な変化など起こるはずがない。だから、何かの間違いである筈だ。
観察相手の価値観が異なる場合、観察者による「そんな馬鹿な!!」は必然的に起こる。いや、過去にそれを未然に防げた験しなどない。
民主主義国家側の研究者や識者様は、人民共和国の「抽象」的な支配層=雲の上の存在こと「大老」のメンバーは、"中世"における封建国家の支配者的な特権をむさぼっていると推測するに止めた。
従来の体制の延長上に、現在の体制はあると見積もり続けていた。
だが、意外な事に、後の研究で長く信じられていた通説、建てられていた多数の仮説は根本から否定された。
間違いは正されたのだ。現実を認めて、それまで信仰していた希望的観測を放棄した。せざるを得なかった。
実は、大老」がむさぼっていたものは、"中世"の王国の支配者的な特権ではなく、"古代"の帝国の支配者的な特権だった。
特権の規模が、非独裁国家に育った人間の想定を遙かに超える程に巨大だったせいで見誤ってしまったのだ。研究者が揃って独裁国家ネイティブでなかったことの弊害だ。
ーーー西洋史において、"中世"と"古代"はコンスタンティヌス大帝の登場によって区切られるそうだ。"中世"はコンスタンティヌス大帝が、世界で唯一のローマ皇帝となった段階で始まった(ただし、ディオクレティアヌス帝の引退によって"古代"が終わった訳では断じてない。価値ある"古代はもっと以前に絶えていた)。ーーー
つまり、民主主義国家で育った者であれば、仮に上位1%の超々上澄み、超富裕層の子弟であっても共感出来ないほどの、「大老」に限れば文字通り「次元の異なる特権」を無限にむさぼっていたのだ。
民主主義国家の外交担当者達(有識者含む)は合点に至った。
ーーー対話に気が遠くなる程の期間を費やし、無限と思われる程に回数を重ねても、人民共和国をまったく理解出来なかったのも已む無し。
対話する者同士の常識があまりにもかけ離れていたのだ。そして、双方がそれに気付いていなかった。双方が自らを常識人であると信じ、対話のテーブルに着いた相手を非常識人であると見なしていたのだ。
啓蒙主義時代を通過した"現代"と、古代奴隷制社会を最善とする"古代"が、創造的な交流など果たせる筈もない。最初から無理だったのだ。民主主義国家の有識者達は、自分達の愚かさを知り、より謙虚になるべきだと思い知らされた。
民主主義国家の常識に照らし合わせると、人民共和国が「大老」に対して無軌道・無制限に施していた「究極の延命治療」も酷く常識外れであった。生命への冒涜であり、目を反らしたくなるほどに醜悪だった。一神教の独特な社会の構成員達とっては神へ唾する行為でさえあった。
人民共和国が行っていたのは、究極の延命治療ではなく、究極の延命処置に過ぎなかった。「大老」は望んで処理を受けていたが、処置の果てにあったのは限界を超えて消滅だった。悲しいことに、生命活動を終えた「大老」の顛末は、民主主義国家の常識に照らし合わせれば「死亡」ですらなかった。
後の検証に依れば、どこかのタイミング以後の「大老」の一団は、本当に「生きていた」のかどうかを疑いたくなるような、非人道で非道得な消滅を迎えたと、有識者達は結論付けた。
有識者たちはそれらの詳細な記録に触れた事に後悔した。また、一部の有識者たちは、その後長くPTSDを煩う事にもなった。
だから、あくまでも抽象的な情報しか公表されなかった「歪な代替治療の闇」は、同時に公表された人権を完全に無視して行われた人体実験記録の数々が完全に無視される程に、永遠の命を夢見る人類に冷や水を浴びせかけた。
絶対に死なせない為に、幾重にも重ねられた人工物代替治療の結果、「大老」の一団の死後には「死体」或いは「遺体」に相当する生体部位がほとんど残されていなかった。
脳組織など完全な自己増殖するペーストとなり果てていた。消滅が認定された後になっても、まだ生きていたナノ・マシンの自律可動によって、無理矢理に細胞分裂が維持されていた。そして、分裂を繰り返している細胞は、人類のモノとはとても言えないような代物に成り果てていた。
人民共和国の医療技術は、治療対象の寿命を何十年も延ばした。だが、それは死んでいないと言うだけの効果しかもたらさなかった。それは、人生の質(クオリティー・オブ・ライフ=QOL)と言う概念から著しく逸脱した、極めて奇っ怪な何かを生み出してしまっていた。
それは、永遠の命や永遠の若さなどと言う、人類の永遠の夢に対する信仰を完全に破壊するには十分過ぎるインパクトを人類の社会へ与えた。
誰もが願った。
ーーーあんな最後だけは嫌だ。
人工物置換治療には、寿命延長に関してならば相当に高い期待が持てた。当初は、感染症などの問題で、多様な事情で完全擬体保持者は短命だった。しかし、生体脳などの人間として最低限必要な生体部位の保持に関する技術が徐々に蓄積されて、2040年代後半には少なくとも短命と言う印象の排除には成功した。
やがて、治療不可能な生体部位、重要臓器も含む、の置換だけでなく、根本的な除去=首から下の肉体を完全に人工物へ置換可能となると、完全擬体保持者は完全生身の人間よりも平均寿命が長くなり始めた。
そうなると、寝た切りでも意識ははっきりしている老人が完全擬体保持者となると言う選択が誕生する。自らを生体脳ユニット化することで全身の置換治療を受けて、完全に社会復帰すると言う「If」も本人の意思次第と言う新しい時代が到来した。
また、重要臓器の疾患、例えば腎臓機能の不全による人工透析が不要とする荒療治も可能となる。実際、相当な割合の生体部位を人工物へと置換する決断さえ下せれば、人工透析開始後に患者たちが悩む「残りの寿命が10年」と言う墓場までのカウントダウン=特級の呪いからも解放される。
しかし、新しい時代=問題の解決=新常識で動く社会は、すぐに新たな問題=過去の社会にはあり得なかった苦悩を発生させる。
実際、それまでに存在していなかった状況は、それまでに存在していなかった問題が発生した。
それは、生体脳ユニット化した人間の「核」の劣化。老化と言う衰えがもたらしたのは認知症に起因する問題だ。認知力に問題がある状況で、一般的な成人男性と同じ活動力が保証されている置換ボディが与えられると、それは社会に大きな負担を掛けることになる。心と体の統合失調が生じる。具体的には、人工物へ置換された身体や四肢が暴れ出したりするのだ。
取り押さえるのも一苦労だ。困ったことに生身でないので、暴れている方は疲れないと来ている。生身の介護士だけではとても手に負えない。
その新しい問題を解決するために、認知能力を補助するハードとソフトを実装する完全擬体が開発される。
劣化した大脳皮質やら、小脳やら、各パーツの機能を代替する人工部位を移植したり、無線・有線で接続して機能を外部機器へ委託させたりする。そうすると、委託後は即座に人間としての尊厳を完全に取り戻すことも出来る。
表向きは、それで問題は完全に解決された様に見える。
しかし、大きな疑問に誰もが気付いてしまう。
生まれ持った生体脳ではなく、置換している人工物が発生させる「意思」は、果たして個人の「意思」であるのかと言う哲学的な疑問が発生した。
ーーー果たして、個人意思は、機械の置換度、どの段階まで持続可能なのか?
この種の哲学的なコンフリクトが起こっても、何らかの手段で問題の解決は成らないこともない。しかし、問題と言うものは一つ解決すると、また次の問題を呼び込む。その次もある。次の次もだ。その連鎖反応は永遠に終わらないのだ。
先進国社会が、立ち止まることも出来ずに頭を抱えているそんな時期に、件の「大老ケース」の詳細が公開された。
元・彼等(彼女に相当する人物の痕跡は確認できなかった)は、まさに古代の貴族であった。それ故に、非支配者である人民と違ってルールを無視出来る力を持っていた。
ーーールールを無視出来る力。
その特権の味を知っている者は絶対に手放したくないし、手に入れたくてたまらない。しかし、ルールを無視出来る力とは、社会の理をねじ曲げるだけでは終わらない。その力を手に入れた者の人生までをもねじ曲げてしまう。
「大老ケース」は、まさにそれだった。延命したいと言う欲が、ルールを無視出来る力によって社会的に暴走してしまったのだ。何が致命的だったのかと言えば、欲の暴走を本人ですら制止出来なくなってしまったことだ。
そして、「大老」の無謬性と言う常識が非支配者の認識の間で支配的になった。
「大老」は人間社会において、局地的にだが、まごうなき「神」となった。そうなると、使途や信徒には神が見えないのと同じ理屈で、「大老」は人民の認識の外側へと移動した。民主主義社会の常識では、それは「追い出された」と言うことになるが、異なるイデオロギーが支配的な社会の常識では、「解脱」と見なされた。
ーーー目に見えないものは、存在していないも同じ。
ここにいる人間にとっての只見川と、人民共和国の人民にとっての「大老」は、共に存在してないも同じ概念的な存在として分類されてしまった。
誰にも「大老」は見えない。だから、誰も「大老」に対して意見を具申しなくなった。それが無軌道な延命処置によって、一般人にとっては永遠と思えるくらい、つまり一般人であれば二世代を積むほどの期間が経過した。それは「始まり」を体験した人材は全員が鬼籍入りしてしまったと言うことになる。
結果、「大老」は欲が命ずるままに生き、誰にも諫められなかったが為に、延命処置をむやみに繰り返しせざる得なかった。
一般人と言う下々、マジョリティーに属していれば。誰かが必ず「無軌道な延命処置の積み重ねはヤバくありませんか?」と言ってくれる。もしかしたら、それは揶揄目的かも知れない。しかし、それでも、もしかしたら、「大老」は正気に戻れて後悔したかも知れない。
しかし、あまりに長く、同じ価値観の人々、「無軌道な延命処置の積み重ねている者たち」と言う狭いコミュニティーに籠もり過ぎた。山間の集落が希に通過する旅人に頼んで新しい血を取り込む努力を重ねた様に、「大老」も新しい価値観を絶えず取り込んでいれば、穏やかに狂わずにいられたかも知れない。
「大老」の失敗の根本は、ヘンテコなフィルターバブルに長く止まり過ぎ、社会的な生物としての常識を喪失し、最後は生物学的に「人非人」へ堕ちた。
エコー・チェンバーではなく、フィルターバブルにであるのは、「大老」は非能動的に閉鎖的な情報空間に止まり続けたからである。エコー・チェンバーを作りほどに能動的であれば、同じ価値観の持ち主を新たに探し始め、その段階で新しい価値観に触れる機会に恵まれたかも知れないからだ(もちろん、確率は低い。しかし、ゼロではない)。
望んで「人非人」と成った結果、世界の半分を支配していた(らしい。自己申告に依れば)偉大なる党の「大老」は、人間として死ねなかった。人間ではないものへ堕ちた末に消滅するしかなかったのだ。
ーーー何事にも限界はあると知るのは常識。知らないのは非常識。
長い間分厚いベールに覆われていた「大老ケース」に関する情報は、断片的ではあったが、一応はウソではない解説と情報が先進国界隈では広く知られ、惨状の程度が共有され、推測に基づく分析が終わった。
結果は、大多数の人々は眉間に皺を寄せて「度を超えた延命処置は行うべきではない」と言う、極めてまっとうな最終的な結論を苦しげに吐き出す事に成功した。
ーーー人間には死ぬべき時と言うものがある。
もしも、「死に時」を逃してしまうと、
もしも、もしも、「死に時」から逃げてしまうと、
その先には何もない。無間地獄へ堕ちてしまい、苦しみは未来永劫。エンドレスに続く。
それまでの人類は、長く生きたいと願っていた。しかし、長く生きて何をするのか。どうやって延長した人生を有意義なものにするのか。そこまで深く考えたことはなかった。だから、いざ、それが実現してしまうと、「思ってたのと違う」と言う真理を知り、戸惑い、現実的な視点に立って深く考え始めた。
2080年代末には、「度を超えた延命処置は行うべきではない」との結論が出た。「度を超えた延命処置は行うべきではない」だけでなく、延命処置そのものに、ネガティブな印象=常識的な価値観=コンセンサスが、国境、宗教、政治的信条、文化、年齢、貧富を問わず幅広く共有される様になった(もちろん、新しい常識的な価値観の共有を拒否する人々もいる。例えそれが"天の邪鬼"の仕草であったとしても過度な干渉はしない。それこそが本物の多用性である。そして、究極の自己責任論である)。
特に、究極の人工物置換治療である完全擬体保持者たちは恐れた。気を緩めると簡単に、偉大なる党の「大老」と同じ生き地獄へと堕ちてしまうのではないかと恐れた。
だから、その種の恐れを緩和し、制御すること「を主目的に、サイバー専用の「ホスピス」が必要とされた。
天叢雲会病院は、そんな時代の新しい需要に応える形で、22世紀一歩手前のサイバー用終末医療業界でも存在感を示していた。
サイバー用終末医療業界に必要とされるのは、擬体対応医師、擬体対応看護師、擬体エンジニア、薬剤師、栄養士、ソーシャルワーカー、介護人、言語療法士、精神療法士、理学療法士、作業療法士、ソフトウエア療法士、といった多種多様な専門家たちである。
かつて、天叢雲会病院からは、先駆者に師事することでサイバー化技術を学んで一人前となった擬体対応医師や擬体エンジニアが、世界中の求められる「市場」へと散らばって行った。今では、サイバー用の終末治療スペシャリスト達が、同じルートで求められる「市場」へと大拡散中である。
ーーー人材のサプライ・チェーンの構築。
こうなると、仮に日本国が世界から消滅したとしても、この新しい社会的な需要と供給の連鎖は途切れない。日本国から散らばった彼等、彼女等は勝手に拡張・拡大させてくれる。日本国の医学博士達や生物工学スペシャリストやサイバー対応看護師などへ師事した学生たちや生徒たちが、それぞれの国家組織や民族社会へ帰った後で、学んだ技術を勝手に再拡散させる。
また、それが次の世代を育成するだけでなく、現地の社会・文化的要求に沿ったローカライズが施されて行くのだろう。その末は、天叢雲会病院発祥の知恵や文化が、人類にとって普遍的な営みの一端として収まる将来の到来である。
森 向日葵は、ある種の聖地的施設の中へ、身分証明などの提示もなしで、勝手を知った態度で入っていった。
「ーーー森 教授、お疲れ様です」
「ーーー森 教授、今日は早いですね」
「ーーー森 教授、オフィスの方に企画書を届けておきました」
ホスピス病棟の屋内の廊下ですれ違う全ての医療関係者達が、森 向日葵へとても自然に声を掛けて来る。
しかし、彼等の全てが誤認している。彼等は森 向日葵のことを、実母である森 葉子と見間違えているのだ。
森 向日葵はそれを承知している。だからボロを出さない様に最低限の受け答えてすれ違い。去って行く。声を掛けられる度に笑顔を見せたり、挨拶として片手を持ち上げたり、振ったりなどの反応を返して、すべてをやり過ごした。
一通りの挨拶が終わって、森 向日葵はため息を付く。
ーーーこれで良いのか悪いのか。
と悩む。森 向日葵の、どちらかと言えば金髪に見えないこともない亜麻色の髪。彼女の外観は、日本人離れどころか、完全に北欧系の顔付きと白い肌なので、日本国内ではどこへ行っても人目を惹き付けずには済まない。
更に目立つ要素である約身長170cmの、日本国ではそれなりの長身とされる身体。これでは他人から注目されるなと言う方が無理である。
これらの外見的特徴を構成する要素は、すべてが、母親である森 葉子と瓜二つ。
そして、母親の話に依れば、この目立つ容姿は、由来はもう一人の母親である朝間ナヲミが両親から受け継いだものであるのだそうだ。
ーーー二人の母親は互いの容姿を交換し合って、既に半世紀以上を共に生き合っている。
森 向日葵は、これも「究極の愛」の形の一つであると説明された。また、「究極の愛」の形は一通りではなく、愛の数だけ多数の形があるはずで、名が人生で「自分なりの究極の愛の形を見つけられたら良いね」とも聞かされた。
ーーー互いが互いの中に在る。病める時も健やかなる時も分割される心配がないと言う保証。
森 向日葵が、両親からその事実を知らされたのは中学生の頃だった。ちょっと驚いた。むしろ、中二病的な興奮を感じて、「よくわかんない」けど「すげーカッコイイ」ととてもポジティブに受け取った。少なくとも、特にネガティブな印象は受けなかった。
ーーーその時は。
だが、第二次性徴期が終わった頃、そのあたりの「異常性」を強く認識する様になり、やがては哲学的な疑問に捕らわれた。後は、考え過ぎてしまって、法定速度の約3倍の速度で、「現実」と言う固い壁に正面衝突して精神的に重傷を負ってしまった。
そして、最終的に、自分の容姿もどころか持ち合わせる遺伝子についての詳細な秘密を理解した末に襲われた恐慌は、「自身は母親である「朝間ナヲミ」のコピー品、或いは完全品ではないのか?」と言う疑問である。
実際、森 向日葵の能力、性向、嗜好は、母親である「朝間ナヲミ」の上位互換と言われても不思議はなかった。違いと言えばたった一つだけ。同性愛傾向を持ち合わせていないことくらいだった。ただし、かなり強烈なシスター・コンプレックスは持ち合わせていた。
ーーー私の方も普通の人間として生まれれば良かったのに!!
森 向日葵は、何時の頃からか、妹に対して、過度な愛着、重い執着、酷い独占欲、強い嫉妬心を抱いてしまった。
世界でたった一人しか持ち合わせない、極めて特別な運命を定められていると知って、精神的に屈折してしまったのだから仕方がない。並みの精神も持ち主であれば、そうそうに潰れてしまっていただろう。
もしかしたら、シスター・コンプレックスも、そのあたりの人格発育上の歪みが生み出したストレスが、出所を求めて精神を貫いて漏れ出したものなのかも知れない。
ともかく、高レベルの分析力と判断力を兼ね備えていた森 向日葵は、どうしようないシスター・コンプレックスで妹を押し潰してしまわない様に、その邪念を封印するために、第二次性徴期が始まる頃から、妹に対してそれまでの熱を伴った優しい振る舞いからは信じられない程に、とてもとても冷淡な態度を取り始めた。そうしなければ、妹が真面に成長する機械を埋まってしまうと自覚していたが故だ。
ーーー賢い人間の辛いところだ。愚かであれば、これほど屈折するまで追い込まれなかっただろう。
可哀想なのは妹の方だ。その後も妹は姉を以前と変わらず慕っていた。しかし、同時に、姉が自分に対して興味を失ってしまったと誤解してしまった。
「自分なんか」と辛い想いに至ってしまったのだ、姉は、それが原因で妹の自己評価がすこぶる低くなってしまったことに心を痛めていた。これでも最善の選択である筈なのだ。しかし、結局、今日まで何の手も打てずにいる。
そのせいで、妹の姉に対する誤解は何十年の時を超えて、現在まで解消されずにいる。
森 向日葵は、今だけは、「朝間ナヲミ」の完全品であっても、森 葉子のコピー品であっても、それはそれで良かったと感じた。
今だけは、自分達家族を取り巻く歪さや異常さがあるからこそ、このホスピスの顔役に収まっている母親の振りを演じることで、何の手続きも根回しもせずに、また二人の母親にこれから何かを行うと言うことを事前に察知されることなく、確実に目的を達成できるのだから。
ーーー自分が「この容姿を与えられて良かった」と感じていた。
自分たち家族を取り巻く歪さや異常さに対して、こんなに全肯定する評価は、第二次性徴期が終わって以降初めての体験となった。
森 向日葵は、ホスピス病棟の最上階、三階の三号室の前へとたどり着いた。目立たないが、それなりに高級な個室病棟だ。扉の名札には朝間 朝顔と表示されている。彼女は、そこで一瞬戸惑う。迷う。深呼吸する。目を閉じる。もう一度深呼吸する。
意を決した。掌をセキュリティー・センサーへ重ねる。生体データが直ちに読み取られる。
セキュリティー用の人工知能は、森 向日葵の生体データと、院内に多数設置されている動画カメラから取得した森 向日葵の歩行運動情報を照合して、森 向日葵を森 葉子であると誤認識した。
森 葉子は、このホスピス内では最高権限をもっている極少数の幹部職員だ。彼女のパスを使えば、ここでは開かない扉は存在しない。
森 向日葵と森 葉子の肉体(生体脳だけは別)は、まったく同一の遺伝子情報を持っていた。生物学的には、双子以上に近い生き物だ。だから、セキュリティー用の人工知能が誤認識(誤動作)するのは仕方がないのだ。
病室内には、会津市市議会議員「朝間 朝顔」の秘書がパイプ椅子に座って真横に控えていた(議会に出られなくなった後も、選挙を通じて議席が確保されていた)。生命保険会社が好んで使う「万が一の事態」へ対処するためにだ。
彼は森 向日葵が病室に現れたのを見て、森 葉子が来室したのだと誤解した。森 葉子は、家族であるだけでなく、このホスピスの職員でもあると承知しているので、何の予告もなく現れても不思議にも思わなかった。
「すまない。娘と二人切りにしてもらいないだろうか?」
森 向日葵は、母親の振りをして秘書を室外へと追い出した。
「すまんね。退室する時に声をかけるから喫茶室で休憩してもしていてくれ」
この口調が少しばかり森 葉子らしくなく、自分らし過ぎたかと反省した。
その時の森 向日葵の口調は、実は、朝間ナヲミのそれとそっくりだった。
もちろん、本人は気付いてはいなかったのだが。
(※) なんでも、貧しさの中に育ったので、早くから、貧乏な人たちに対する、暖かい同情があったそうですよ。20世紀の独裁者達は、ほとんどがスターリンの手法をコピーして、自らの国家と民族支配に用いた。なお、スターリンの手法をコピーした独裁者の中で、老衰で死ねた者は極少数。創造者であるスターリンだけは逃げ切って老衰で死にましたけどね(あくまで公式見解によれば。ちょっと怪しいんじゃないかな)。




