表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/19

げかいのけんそう。 -02- // 2126年10月17日 PM14:50

 (もり) 葉子(はこ)が、スーパーマーケットではなく個人商店の軒先で大胆にうんこ座り(アジアン・スクワット)をしてる。


 欧州人や合衆国人にはなかなか辛い姿勢であるらしい。


 朝間ナヲミの生身に宿っている(もり) 葉子(はこ)にとっても、骨格の構造的にそれはかなりキツい姿勢で筈である。


 しかし、中身、生体脳がアジア製なので、その辺の苦手意識が薄いので、何となく出来てしまうのだろう。


 で、(もり) 葉子(はこ)が何をしているのかと言うと・・・。


 店先に並べられあ木箱の、その上にかご単位で選り分けられているジャガイモの小山を睨んでいる。


 時々いくつかのジャガイモを選んで、手に取って、重さや肌触りを確認している。


 (もり) 葉子(はこ)は気にも止めないが、良く見れば、木箱の側面には干からびた椰子の実の様だが何を描こうとしたのか分からない奇妙なイラストと、デバナガリ(天城梵字)で「信頼のクムジュン産」と言う内容の文字が描かれている。


 店の主人は、口を出すことなく(もり) 葉子(はこ)のやるがママを許している。


 朝間ナヲミは、背後から(もり) 葉子(はこ)の様子を立ったままで見守っている。


 ーーー一応だが、警戒意識は完全に解かないことにしているのだ。


 日本海や玄界灘や東シナ海の向こう側の乱立気味な組織群から送られた工作員達、或いはローンウルフ的なテロリスト達が二人を襲う心配が完全になくなった訳ではないのだ。


 もう、しばらく起こっていない。だから、朝間ナヲミは既に身に染み付いてしまった行動として、極々自然n周囲の警戒を続けているのだ。


 本来、狙われるのは朝間ナヲミ自身であるべきなのだが、何時の頃からか(もり) 葉子(はこ)の方へ目標を切り替えたとしか思えない奇妙な攻撃が続いた。朝間ナヲミとしては、機械へ置換された身体であるから、身体のどこの部位を折られても、切られても、撃たれても、何度でも無限に交換が効く自身よりも、生身であり、軍関係の訓練を受けた経験を持たない(もり) 葉子(はこ)を傷付ける方が容易であると、工作員やテロリストを指揮する「担当者」が思い付いてしまったに違いなとと推測していた。


 しかし、だ。ここ(・・)は普通の土地柄ではない、のだ。


 ここ(・・)、このドゥクパ王国、チベット自治法国、ネパール共和国、タイ王国など広域を()()るめた仏教的なコミュニティの中では、そう言った心配は実際のところ杞憂だった。


 朝間ナヲミと(もり) 葉子(はこ)を狙うクソ共は、科学的共産主義の信望者である(筈)なので、仏教的なコミュニティの構成員達とは極めて相性が悪い。


 もし、そんな不作法者がここ(・・)へ紛れ込んだならば、最初に一歩を踏み入れた瞬間から警戒・監視対象となる事は間違いない。怪しい動きをすれば直ちに、穏やかな手法で、完璧に排除されてしまうだろう。


 ーーー実際、この時代では、自称「科学的共産主義の信望者」達の組織に自身が追われたり、家族が撃たれたと言う経験を持つ者達もまだ生き残っていた。


 人民共和国支配地域内だけでなく、国境を越えたネパール側やインド側でもなお、無断越境した偉大なる党の凶暴な忠犬の一匹であった国境警備隊の意地悪の結果として(ほとばし)らされたチベット系の人々の大量の赤い血、そしてそれらで繰り返し赤く染められた雪原での無念は伊達ではないのだ(※1)。


 まあ、チベットからの脱出組にしてみれば、仮に銃撃など受けなくとも、国境警備隊の活動が難しくなる厳冬期を狙った(国境)越えで凍傷を負い、足の指の2〜3本を失うことも珍しくなかった。


 だから、ここ(・・)に居る人々は、そんな人々(・・・・・)に対してとても鋭く鼻が効いた。そんなクズが紛れ込めば、すぐに見つけ出して、直ちに通報したり、密かに後を付けたりして、何だかんだでその日のうちに公安警察やそれ以外の何らかの組織が動く手筈になっていた。


 だいたいからして、ここ(・・)は。


 ここ(・・)にいる人々は、『(もり) 葉子(はこ)と朝間ナヲミ』を見守るために日本国へ住み着いた人々である。多くの日本国政府・複数国の空軍、元人民解放軍、元偉大なる党の関係者達にとっては激しく意外にも、『朝間ナヲミと(もり) 葉子(はこ)』ではなく。


それには深い事情がある。


 かつて、インド東北部のダージリンのチベット密教団からはアーシュミラが、タイ王国のテーラワーダ(Theravāda)からはジェーン(ボンゴット)が日本国へ密かに工作員として送られた事情はそこにこそある。


 ある日、彼等、チベット仏教教団として知られるニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派に限らず、もっと多くの「組織」が『もっとも新しい解脱者が地上に現れる』と言う預言を獲得した。


 その内容には多少のばらつきがあった。ある一派は、目覚めた人の成立だと言った。多派は菩薩(観音菩薩)、如来(釈迦如来)、明王(愛染明王)だと言った。だが、主旨に違いはない。全派の全員が降臨を歓迎する意を示し、互いに邪魔をし合うことなく、預言が実現する瞬間まで見守ろうと言う、協調路線を暗黙のままで採ることとした。


 彼等の価値観や行動原理はキリスト教教徒達のそれらとはあからさまに違っていた。神、まだはそれに準ずる者は絶対の絶対であり、人間の意図によって干渉する余地のない=人間の意志や行為が及ばない『自然現象』或いは『自然定理(自然法則)』そのものとして捉えていた。哲学的言葉遊びで時々同情する概念、自然演繹の出力結果ではないのだ。


 そして、その『未来の解脱者(目覚めた人)』が、日本国で生を受けた(もり) 葉子(はこ)であると確信した。


 それ以来、彼等が派遣した工作員であるアーシュミラとジェーンは、(もり) 葉子(はこ)の魂の近くで、付かず離れずと言うスタンスで居着いていた。


 そして、彼等の共通見解は『もっとも新しい解脱者』は『涅槃』の瞬間に成立すると見込んでた。


 更に、涅槃の地がここ(・・)であるとたくさんの預言の分析を通じて、予測し、期待し、二人が現れる以前からこの地へ赴き、涅槃の瞬間に備えていた。


 ここ(・・)は第二の「クシナーラー」とするべく開発が行われた。


 解脱者とは、西欧的な価値観に照らし合わせば、いや、無理矢理に英語に翻訳すれば『神』に相当する固有名詞である。


 ただし、キリスト教などの強烈な一神教の神とそれ以外の神は、決して同質の存在ではありえない(たった一つの神しか認めず、それ以外に神らしいものは全て悪魔であると言う超単純な解釈が許されるのは、キリスト教とそれに近い宗教だけが共有する特徴である)。


 東ローマ帝国滅亡後の地中海周辺の世界で芽生えた共通の価値観では、神は唯一しか存在しない。古代ローマ人や古代ギリシア人を主体する価値観=多神教的な考え方へと当てはめれば、それなりの教養を持つ開明的な西欧人であれば、理解出来なくもない筈だ(本質は、自分達と違う価値観を許容したいかどうか? と言う選択の話となるである)。


 それはつまるところ。


 ここ(・・)へ来て、居着いた彼等は、『もっとも新しい神』が、地上での生物的な生涯を終える瞬間に誕生するとの信仰(確信)を持っていたのだ。


 仏教的には、『神』と人間の境は絶対的に越えられないものでなく、『神』と西欧の人間が考えるほどに傍若無人ではなく、むしろ父性だけでなく母性までをも発揮してくれる何か(Something)である。


 場合によっては、人間と神の間を行き交ったり、他の人間の為に敢えて人間として人間界に留まったり。


 この辺りの曖昧さが仏教の奥義である(一神教教徒が野蛮(・・)()教に対して最も許しがたいのが、この辺りの緩さである)。


 これが本当に真実であるかどうか。それはまったく問題ではない。


 自分でそう信仰(確信)出来れば良いのだ。別に、異なる考えの人間にまで信仰(確信)させる必要など一切ない。


 The Truth Is Out There.(éí 'aaníígÓÓ 'áhoot'é)と言う話ではない。


 それを問うのはナンセンスである(モルダー、アナタ疲れてるのよ)。


 心持ちの問題。信仰の自由。価値観の相違は、決して問題にはならない。ただし、相違を突き詰めて、壁を破砕して無理矢理に合致させようとしない限りは。


 だいたい、ドラキュラや魔女を退治する仏教僧の最強キャラ属性など・・・20世紀末のタイ王国のドラマの中か、スティーブン・セガール(※2)のB級映画くらいにしか登場しない(あのシリーズの映画は万人向けじゃないけれど、個人的には大好き)。世界へ積極的に干渉したりせず、もっと、精神の深層へアクセスすることを重要視しているのが普通である(タイにはアイドル的(推し活対象)な仏教僧もたくさんいるみたいけど)。


 まあ、なんだ。社会的価値観の全般は、もっとふわっとしたもので良い。アジアでは共産主義者の支配地域以外では、ずっと昔からそうだったし、今もそうだし、これから未来もそうであり続けるだろう。


 日本人も日本社会も日本政府も、ここ(・・)そう言うものであり、扱いはそんな風であるとしてふわっとさせておけは良いと判断していた


 だから、『ここ(・・)』では、全ての住人の心の有り様まで共通である必要はない。求められるのは社会への参加と社会責任の全うである。


『もっとも新しい解脱者』は居ても良いし居なくても良い。居ると信じても良いし信じなくても良い。


 ただ、そんな風に考える人と考えない人の間に、余計な溝を敢えて掘らないと言う配慮さえあれば、ここ(・・)の存在は受け容れられる。


 ーーーそれはそれ。あれはあれ。


 郷に入っては郷に従え。その場合は複数の『郷』があるならば、それらを両立させて、モザイクの一マス一マスをオセロ・ゲームの様に白黒を取り合わなくても良いのだ。


 ーーー信じるか信じないかはあなた次第なのだから。


 たくさんの当然(前提)が自然に並立していたのだ。


 ただ、(もり) 葉子(はこ)と朝間ナヲミの二人は、いずれの『郷』であってもそれなりに影響力を発揮せずには居られない人間だった。


 政治(軍事含む)の世界では、朝間ナヲミはずっとずっと重要人物であり続けいた(今では完全に非主流者へと追いやられてしまってるが)。しかし、宗教界(精神世界)では、(もり) 葉子(はこ)こそが最重要人物であり続けている。


 実際、宗教界(精神世界)からの観測結果では、朝間ナヲミは『もっとも新しい解脱者』となるべき者のオマケに過ぎなかった。これまで、今も、これからも、ずっとずっと。


 (もり) 葉子(はこ)はスカートの裾の形状を時々直しながら、店の主人に自身の目を通じて選び抜いた野菜を説明している。店の主人は微妙に緊張しながら、口上を隅から隅まで書き取らず、何時ものようにさらりと暗記する。


「じゃ、いつもの駐車場の自動車の横にまとめて置いておいてください」


「わかりました。バウジュー(भाउजु)


 (もり) 葉子(はこ)は振り返り、次の目的地へ向けて歩き出す。朝間ナヲミは、シワリク丘陵の辺りから出てきたんじゃないかと言う風貌のオッサン(店の主人)へ目線で「よろしく」と送る。しかし、直ぐに気付く。店の主人は自分ではなく、既に背を見せて他の方向へ歩き始めた(もり) 葉子(はこ)の方しか見ていない、と。


 (もり) 葉子(はこ)としては、以前は、ここ(・・)の住民達からバウジュー(भाउजु)と呼ばれて、「アナタの家族(パリワール)になった覚えはありません」くらいの違和感があった。しかし、この不思議な呼び名に、今では慣れてしまって、渾名(あだな)なんだろうくらいにしか思っていない。しかし、そう呼びかける人々としては、本音では「マハラニ(महारानी)」と読んで、心から讃えたい心持ちであったのだ。


 ーーー犬であったならば、万人が見ている前で、柔らかい腹を見せて、帰依の直接承認を求めたかった。


 朝間ナヲミは、ここ(・・)にいる人達の心持ちの詳細は、正確に理解していなかった。だが、そんな人々との不可解なやりとりの連続を、決して不愉快とは感じなかった。それはここ(・・)にいる人達、その一人である店の主人の視線に込められていた想いが、何かしらの神聖な者を崇めている、みたいな動機にあると確実に読み取れたからだ。


 ーーー敵意さえなければ全ては些事。


 朝間ナヲミの人間である。自分の(Tsu-ma)が受ける賞賛は自分のことの様に嬉しい。だから、むしろ、そう言った光景を見せつけられるのは気分がとても良かった。


 ーーー(もり) 葉子(はこ)は良い()でしょう。


 朝間ナヲミは、自分のパートナーの素晴らしさを、誰に対してでも、分け隔てなく、気兼ねなく、平等に、それでいて最大限に誇りたかった。


 既に一世紀の大台へ手が届きそうなほどに長く生きている人物を、『()』と認識するのはいかがなものか。そう言う意見はあるかも知れない。


 しかし、逆説的には、これだけ長く人生に()した相手であっても、(ないがし)ろに出来る様に半端なパートナーではなかった。それは、朝間ナヲミにとっての『(もり) 葉子(はこ)』と言う存在は、全身を失って擬体へ宿ってなお自らが人間であると確信させてくれる唯一の根拠で、あったし、あるし、あり続けるだろうからに違いない。


 (もり) 葉子(はこ)が「貴女は人形(機械)ではない。間違いなく人間だ」と言ってくれさえすれば、それだけを根拠に作り物の身体に宿っていても「私は人間である」と断言出来る。だから、朝間ナヲミは、(もり) 葉子(はこ)へ帰依した。いや、彼女からの愛の申し出に全身(全擬体)全霊で応えた。今も答え続けている。


 ーーー二児を育て上げてなお、関係性が初々しいままの二人。


 朝間ナヲミにとっての二人の関係が、出会った時から、紆余曲折という通過儀礼と言う試練へ曝されながらも、未だに目立った変化がないと言うこと。どれだけ揺れても、揺らされても、その都度に強大な復元力を示し続けたと言うこと。


 おそらく、朝間ナヲミの心情の奥へなら変化は及んでる。しかし、心情の表面は、結論として、結果として、誤差の範囲の変化しか起こっていないと言うことだ。


 平たく言えば、いろんな事はあった。しかし、それでも朝間ナヲミにとっての最高のパートナーは、(もり) 葉子(はこ)以外には居なかった、と言う『転げ落ちた先』的な必然性や正当性があったと言うことだ。


 そして、それほどに強い『執着』の対象とされた方、つまり(もり) 葉子(はこ)の反応は簡潔な一言で表された。


 ーーーそれは『運命』って話じゃん。


 考えてみれば、その回答こそ、出会った頃は、全身に負った大怪我が原因で、救命目的で本人の同意なしで全身を機械へと置換させる擬体化治療を受けたことに激しく戸惑い、それが原因で母国である合衆国の国籍を剥奪され、難民として日本国へ転がり込んだが故に、心情的にハリネズミ化していた朝間ナヲミを、完全に口説き落として見せた当人である(もり) 葉子(はこ)本人の強い自負の表れだったのだろう。


 出会って三週間程度のカップルの話であれば、その様な大仰な回答であっても、判定者としても敢えて野暮な反応は見せずに、「ふ〜ん」とニヤニヤしながら生暖かく見守るに留めるだろう。しかし、互いが人生の黄昏を迎える時期になってなお、その回答を本気で繰り返し続けるのならば、極めて真っ当な哲学的な正解として受け容れることも(やぶさ)かではないだろう。


 既に、二人ではなく、二人で一人と言う、共にて当然と言う雌々へと上り詰めた婦々。誰もがこうありたいと願いながら、多くが長い坂道の途中で登坂を諦めてしまうと言う事実がある。そんな逆境を乗り越えた者達には、『七十而従心所欲不踰矩』の境地へ辿り着いたに違いない。


 孔子(こうし)の『論語』。


 ーーー七十にして心の欲する所に従えども、(のり)()えず。


 二人は人生の重荷を肩から下ろし、気ままな自然体で生き、それでなお世界との調和が取れるようになった。


 これは、自分達を取り囲む社会との接点を出来るだけ小さく収めることで、全ての摩擦を最低限に収めることで成り立つ。しかし、それは我慢の結果でなく、そうでありたいと心から願った結果である。


 老子(ろうし)なら、無為自然(むいしぜん)と言うかも知れない。


 孔子(こうし)老子(ろうし)、共に、サラリーマン営業として顧客間を駆けずり回ったり、飲食店などのサービス業に従事者の様にカスハラに襲われる心配のない、極めて安心安全な私生活を手に入れたからこそ到達出来た境地である。少なくとも、貯蓄ゼロどころか、学生や残クレ高級車の請求に苛まれるとかが原因で、死ぬまでは無限に続くと思われる日々を日銭を稼ぐ事で消費することだけがディステニーと言う理不尽な生活に追われていえは絶対に到達不能な境地でもある。


 何故なら、まだまだ『不惑』と言うには、二人はとても届かない人間らしい心境に、未だにあったからである。


 人は死ぬまで、精神が死ぬその日まで逡巡であるし、惑溺から脱するべきではない。而立(じりつ)? 知命(ちめい)? そんなことは知った事ではない。学問は何時始めても良いし、何時終えても良い。天命なんて気の迷いなのだから、その日の気分で内容を上書きしても良い。


 二人はこうも感じ方を共有し合って(・・・)いる。


 朝霧和紗(・・・・)は、世界で始めて擬体に宿った人間だ。今では、()朝霧和紗()と言う歴史的なアイコンとして、つまり時代を切り開いた『偉人』の一人として数えられている。


朝霧和紗(アイコンの方)』ではなく、朝霧和紗(本人の実像の方)が没した年齢を遙かに超える域へ到達してなお、彼女がたった一人で抱いていた苦悩の全貌(遣る瀬なさや何やら)を察することは出来ないとも、共感合って(・・・)いる。



 ただし、それを自らのユニット(二人で一人)が無能だと恥じている訳ではない。


 ただ、


 ーーーそうなのだろう。


 自分達とは、人間の質と量が異なるのだと言う事実を現実として素直に受け容れるだけである。


 これは、2060年代前期には完全に普及期を越えた『矯正思考力』、


 〜メガネ(眼鏡)で引き上げられた視力=矯正視力に対し、人工知能やデータベースをによって思考力を矯正、或いは強制的に引き上げた思考力を示す〜


 つまり、自動化(・・・)された思考作業を通じて、二人で一人であると言う状態が正常であるのか。或いは、推奨すべき状態であるのか。その結論までは導き出せない。


 最終的に出て来る答え合わせの結果は、深いため息と・・・。


 「ーーーそれはそれでありなのだろう」


 と諦めの言葉だけである。


 不効率であったとしても、最初から最後まで自力で考えるのであれば、何らかの希有な答えが瓢箪から駒的に出力出来るかも知れない。しかし、お決まりのスクリプト作業に過ぎない思考の自動化では、誰が行ってもだいたい似通った答えしか出力されない。そして、それらの答えを使った判断の内容も、在り来たりなものにしかな()ない。


 考える力。それが外部委託化=自動化されつつある現在ではは、考えさせる力=効率的に考えを自動化する為の技術=スクリプトや詮索ワードの多少であると、現在社会では認知されている。


 最大の皮肉は、人間が自力で考えるよりも、考えを外部委託してしまった方が、楽で、確実で、実入りの大きな成果が得られる程に、人工知能やデータベースを使った出力結果(相談の助言)が思考を矯正・誘導する手段が「鮮麗(スマート化)」されてしまったことだ。


 誰だって通勤時に、駅まで5kmの道のりを30分以上掛けて自分の足で歩いたり走るよりも、バスや自転車で5〜10分で済む高速移動する=半自動化・自動化された移動手段の方を好む。


 これは、思考作業の大幅な外部委託とは、慣れた人には、既にバスや自転車に乗る程度に違和感や嫌悪感を伴わない日常の一部へとなり終わってる事の証明だ。そして、日本国では、慣れた人の数をマジョリティー化の達成行程を完了つつあるのだ。


 面倒な作業を避けたいと感じるのは人間の(さが)だ。自分の足で歩くよりもバスや自転車を利用する方が楽である様に、自分で考えることを煩わしいと感じている人達が多いのは当然である。


 そして、それは生まれ付き考える力が強い人とそうでない人であっても本質的に変わらない。希に、変人と言う極少数の人が考えるという面倒な作業を楽しむ。しかし、そんな人理比の数値では希有な個性の例を標準=常識とする事を「世間」は許さない。


 思考を外部委託化=自動化する事に慣れていない世代にとって、それは自ら考える事を放棄する=自ら好んで奴隷となる事に等しい。しかし、それでも、生まれ付き考える力が強くない人にとっては、それが分かっていながら、思考を外部委託化=自動化してしまう事に誘惑される(あsでょk・・・ココで止めておこう)。


 思考を外部委託化=自動化する事に慣れた世代にとって、人工知能やデータベースによって消毒済みの、自分達よりも賢い知性の選択に盲目的に従うことに嫌悪感はない。それは彼等の立場に立ってみれば当然だ。経験則で、その方が満足度が高い将来へ達する最短ルートであると学んでいるからだ。


 やがて訪れる未来でなく、現在を生きる筆者にとって、それは知識や知恵が一部階級(極少数の人々)に独占されていた、暗黒と呼ばれた中世社会へと回帰している様に見える。


 この流れは行き着く先は、古い価値観に縛られている者達には「よろしくない」将来であった。だが、古い価値観に縛られている者達は、大抵は高齢者〜後期高齢者であった。だから、「よろしくない」将来を直接的に体験する可能性は低かった。


 だから、将来のことはそれを担う若い人達に任せるしかないと言う、諦めが一部の老人ホームやホスピスの住人達の間では共有されていた。


 ただし、22世紀を迎えたこの時代では、シリアスな判断業に不可欠な知識や知恵が、一部階級が極少数の人ではなく、極少数の人が作り上げた自動機械へと置き換わっていた。


 そして、この流れは行き着く先の更に向こう側にある社会は、本能的に、合理的な説明が出来ないと言う意味で、中世社会以上にヤバイ何か(Something)へと辿り着くのではないかと心配である。


 また、新しい、将来の社会で相当数の年月が経過した後で、一部の好事家が二度目のルネッサンス運動を起こそうにも、すべての過去の知恵や知識がデジタル化されている為、石碑や絵画や石像や羊皮紙や紙などのアナログ媒体と違って、未来の賢人達が掘り起こそうにも掘り起こせないのではないか・・・と老婆心切である。


 ーーー昔は良かった。テベレ川の底を漁れば、ローマ時代の傑作がいくらでも入手出来た。


 二人は、その新しくも懐かしい(・・・・)価値観が広く普及しつつある現状を快く思っては居ない。二人と同世代の人間達であっても、あらたか同じ価値観を共有していた。それは、二人と同世代の人間達がマメだったとか、エラかったからではない。単に、2030年代に育った世代が己の価値観を作り・練り上げる時期には、『矯正思考力』を支えるインフラの出来が今ひとつで、自分自身で苦心して考える方が効率的であったからに過ぎない。


 ーーー自分で考える方が効率的だった(幾分マシだった)。また、社会もそれを常識としていた。


 一方、時が経ち、2060年代前期には、自分で考えるよりも、考えるという作業そのものは公共インフラへと外部委託してしまって、正しく考えてもらった思考結果に従って行動(をそのまま実行)する方が、社会的に効率が良いと認識される様になってしまった。


 公共インフラへと外部委託して獲得した思考結果は、自分で考えるよりも明らかに効率が良かった。より、短時間で正確な「回答」を並べて行動/反応を選択出来る。


 もはや、入手可能ば「答え」の質に委託者の知性レベルは影響しなくなった。賢者も愚者も最終的な思考結果は常に近値となる。知能指数や認知能力の個人的な差は、委託先の思考代行サービスが完全に埋めてくれる(思考力の低い者の場合は思考代行サービスが底上げしてくれる)。


 誰に対しても、分け隔てなく、思考を代行してくれる公共インフラが、最も短時間で正確な「回答」を並べて提示してくれる。誰であっても最高レベルの賢人の判断を模倣出来る。まさに平等の極()


 その頃から、世界では、自分で考える事を無駄であるとして、敢えて自分で考えずに、考えると言う人間らしい(伝統的な)作業を公共インフラへと積極的に(・・・・)外部委託する人々の数が急激に増加し始めた。もちろん、日本国だけでなく、一定水準の経済発展を遂げた国家ではどこであっても一様に(・・・)同様であった。


 判断支援システムとして、公共インフラが高度なサービスを提供し始めることによって、社会はゆっくりと変わっていった。何故なら、自分で考えて社会と戦う人が、人工知能やデータベースを駆使したインフラに考える作業を外部依託して戦う人に対して、絶対的に勝てなくなったからである。


 自分で考えたい人であっても、成果第一主義の社会が、誰に対しても自分で考えないことを強く要求するので仕方がない。諦めるしかない。同調圧力も日々強くなる。これでは、徐々に徐々に、自分で考える人が減って行かざる得ない習慣の浸透は止まらなくなっても仕方がない。

 

 そうなると。


 自分で考えて社会と戦う人を多く抱える国家は、人工知能やデータベースを駆使したインフラへ考えをる作業を外部依託して戦う人を多く抱える国家に対して、絶対的に勝てなくなり始める。


 そう言う社会では、知的障害や発達障害を抱える人々も社会で生き残る上で不利を(こうむ)らなくなる。少なくとも彼等を標的とする詐欺行為の難易度が極めて高くなる。


 もちろん、この素晴らしい公共サービスであっても、100%の弱者を救済することは出来ない。ここまで社会インフラが充実しても、規制・抑制フィルターをくぐり抜ける有能な詐欺組織は誕生する。しかし、それでも、詐欺の被害者となる弱者の絶対数を減少させることならば出来る。不幸な人の数ならば明らかに減るのだ。


 ーーー以前よりも少しだけマシな世界。


 己の幸福も不幸も、因果がすべて自己責任と言う理屈がまかり通る世界の完成。


 不自由を不自由と認知しないが故に、いや。不自由とは一体何であると言うのかと言う哲学的な定義の標準化を争っているが故に、朝間ナヲミと(もり) 葉子(はこ)の二人が、新しい世代の親族、孫達やその周辺の人々と決定的に解り合えない構図が完成し、盤石化して久しい。


 それが、社会が22世紀を迎えた人間社会の実態である。


 事情は、この辺りにこそあるのだ。もちろん、旧世代と新世代のどちらが正しいと言う話でもない。二人は過去の社会での戦いに最適化された価値観を獲得した。一方で、新しい世代の親族は現在の社会での戦いに最適化された価値観を獲得した。


 自由競争の前提条件がまるっきり違う群れ同士であれば、何かと対立は避けられない。しかも、二人は圧倒的な年長者であるので、目上であるとの自覚がある。一方で、二人の自覚を新しい世代の親族には受け容れがたいと言う世代間の『摩擦(苛つき)』、『格差(相違)』、『白け(興ざめ)』が共有されている。そうなると、数の原理=多数決で強弱(勝敗ではない)が決まる。


 その結果、二人は現在は故郷を信じていた会津地方にはいない。高山植物と同じで、平地にある花畑から追われ、過酷な環境の山岳地帯でかろうじて生息しているみたいな感じで、ここ(・・)へ追われて生息せざる得なかったのだ。


 そんな二人は、追われたわけではないが、古墳、遺跡が据えられた小山の裾に開かれた広場へと辿り着いた。買い物が終わったので、注文した品々が駐車場に置きっぱなしの軽自動車の脇へ配達されるまでの時間を潰すことにした。まあ、これもいつものルーティンであるのだが。


 その、何故か「チョーラスタ」と呼ばれる楕円系の広場に沿って建てられた中小店舗の一つ、グレナリーズと言うカフェの、広場に面した屋外にあるテーブルへ向かう。朝間ナヲミが溶接で作られた鉄製の椅子を引くと、(もり) 葉子(はこ)は当然という感じで座面、薄い座布団の上に腰を下ろす。その後に、朝間ナヲミは自分で椅子を引いて座る。


「ラートチア、エークポッド。ドゥイタティー・カップ。アザコビスクート、エークプレート、ディヌス」


 (もり) 葉子(はこ)が、朝間ナヲミが座っている間に注文を済ませる。ネパール語である。日本語で注文しても通じるのだろうが、そう遠くない未来に再会出来るだろう親友、アーシュミラを懐かしんで、彼女が若い頃、出会った頃に使っていた言語で注文するのを二人は好んだ。


 ーーーもう、そうする事でしか自分達を取り囲んでいたかつてに幸せを確認する手段がないからだ。


 高校生時代の同級生達は、もう誰一人としてこの世界に残っては居ないからだ。クラス会(事実上の学年会)をやっても、ここにいる二人以外が現れることは絶対にないからだ。


 敢えて口にはしない。しかし、二人とも「長く生き過ぎた」と言う忸怩(じくじ)たる思いを持ってた。英雄は最盛期、あるいはその直後に死ぬのが王道である。それは、その後は下り坂を転がり落ちる様な、転落人生が待ち構えているからだ。英雄でなくとも、幸せな間に老衰などで死んでしまうのが、自分や先天的遺族共々、結果オーライである。


 ーーー二人は死に時を間違えた(逃した)とさえ感じていた。


 何故なら、老衰で死んで行く次女を見守り、見送る貧乏くじを引いてしまったからだ。


 ーーー本来、次女が自分達を見送ってくれる筈だった。


 と言う『あるべき』論を噛み締めるしかない。


 この手の答え合わせは、現在では主流となりつつある「考える作業の外部委託」を活用しても満足のいく演算結果を得られたためしがない。もしかしたら、新しい世代であれば出された答えに共感出来るのかも知れない。しかし、旧世代、二人だけでなく、二人と同じ時代を生きた人々にとっては共感など出来る筈もない。


 22世紀の社会で、二人は異国としか思えない価値観に囲まれて生きていたい。しかし、ここ(・・)だけはその圧力を強く感じずに済んだ。ここ(・・)は、一般的な社会から切り離された前時代的な価値観が、まだ辛うじて流通(・・)している世界だった。


 注文した紅茶が真鍮製のポットで運ばれて来る。給仕役も分かっているので、ミルク(ドゥード)砂糖(チニ)を詰めた小瓶は、配膳用のお盆の上には乗せられていない。


 (もり) 葉子(はこ)がポットに被せてある補温用のキャップ、ネパール人が好む帽子(トピ)の様にも見えるそれを外す。朝間ナヲミが二つのティー・カップに紅茶を注ぐ。立ち上がって、紅茶が空中を移動する距離を稼いだり、空気をたくさん取り込んで香りを高めようなんで言うギミック(・・・・)は使わない。ただ、穏やかに注ぐだけ。


 (もり) 葉子(はこ)が紅茶を口に含む。茶葉はまだファースト・フラッシュであるらしい。セカンド・フラッシュは今頃は海の上を海上コンテナで移動中なのかも知れない。或いは、発酵止めをミスしたとか、天候不順とか言う別の事情があるのかも知れない。


 ただし、茶葉がツアイナ種とアッサム種のクローナルであることは確実なので、ダージリンとその周辺の茶園から日本まで遙々やって来たことだけは間違いなさそうだ。


 二人が無言で紅茶を楽しんでいると、チョーラスタの反対側からこちらへ向けて歩いてくる人影に気付く(ここは車両進入禁止エリアだ)。


 その人影は店外と店内を区切る鎖の柵の外側に留まり、グレナリーズの中からでなく、チョーラスタに立ったまま朝間ナヲミへ敬礼を送った。


「お久しぶりです、少佐。トゥイ・アリンタラートであります。本日、茨城国際空港から入国しました」


 初老へ達した、とても健康そうな東南アジア系の容貌を持つ女性が、直立不動で完璧な敬礼を披露する。


 トゥイ・アリンタラート。かつて、人民共和国の解放軍による侵略に曝されたラオス人民共和国の辺境の入り口で生まれた女性だ。


 最後に会った時は、大佐、つまり室長または部長クラスの民間軍事会社の幹部職へ収まっていた筈だ。


 だが。


 たった今、彼女は茨城国際空港からではなく、百里基地から入国したと言った。


 朝間ナヲミは、その一言を聞き逃さなかった。


 よく見れば、トゥイ・アリンタラートは、いかにも北欧国家の軍が前線兵士へ支給していそうな、天然モノの毛で編まれたらしい、厚くその上で丈がすこぶる長いコートで肩から足下まで覆っている。きっと、12月でもバナナが収穫可能と言う熱帯気候の国から、名ばかりの亜熱帯気候の日本の冬期へと出向いて来たせいで、ここ(・・)の気温が寒くて仕方がないのだろう。


 つまり、


 ーーーそのコードの下で身に纏ってるのは民間軍事会社の制服ではない。


 そこまで当たりを付けてから、朝間ナヲミは顔を動かさずに横目を送ってから、目を細めて、微笑した。


「アリンタラート大佐。私はとうの昔に退役した身です。最終階級も少佐(三佐)で終わりでした。下位の者に対してその様に模範的な敬礼を見せるのは秩序的によろしくないかと」


 (もり) 葉子(はこ)は、成り行きを黙って見守りつつ、一人で紅茶をすすり続ける。


 何となく、自分の伴侶が状況を楽しんでいることくらいは察しが付いていたからだ。


 こんなに楽しそうに他人(・・)と、身内(自分一人切りと言う意味)以外と会話をする姿を見せるのがとても珍しく新鮮な体験と思えたからだ。


 (もり) 葉子(はこ)は、伴侶と他人(・・)の話の間に水を差さない様に気をつけた。やりたいようにやらせてる事にした。良い妻と言う生物種は、発生中のイベントに対して今ではなく、後から改めて文句を付ける習性を身に着けているものである(異論は認める)。


「とは言え・・・海と山を越えてはるばる日本まで来たんだ。大佐さえ良ければ、私たちと一緒にお茶でもどうかな?」


 朝間ナヲミ離れた所から様子をも護っていた給仕役に、ハンドサインで「ティー・カップを追加でもう一つ」送った。


「ありがとうございます。いただきます」


 アリンタラート大佐が店の入り口を回ってから二人のテーブルに辿り着いた頃には、ティー・カップだけでなく追加の椅子までが到着していた。


"二世(息子さん)"は元気かい?」


「はい。先月に機種転換転換訓練を終えました。今月から初旬からF-4(実機)を使った高高度飛行訓練の最終過程へ入ってます」


 朝間ナヲミは、川崎 F-4を、おそらくは輸出仕様の簡易版だろうが、それでも関係が良好とは言え他国の民間軍事会社へ、有償貸出(事実上の売却)し始めていると知って驚いた。それはつまり、三菱がF-5を完成させただけでなく、2〜3飛行隊での戦力化が実現済みと言うことなのだろう、と判断した。


 朝間ナヲミは、少なくとも正規軍対、正確には日本国航空宇宙軍との交流は一切持っていなかった。こちら側も興味がなかったし、あちら側も同様であった。だから、航空機材の普及具合などは新聞の記事を通じて知っている程度だった。


「ティティワット大尉の跡を継げそうかい?」


「はい。実に父親似でやんちゃなオッサンへと成長しました」


 朝間ナヲミは、まだ現役であった、今から見れば十分に若かった頃の記憶を思い出す。外部記憶からダウンロードするのではなく、自らの生態脳に記録された生の体験を引っ張り出したのだ。


 今野の前にいるトゥイ・アリンタラートを、砂利ガキとしか表現し様のない子供の頃から、彼女は良く知っていた。


 繰り返すが、かつて、人民共和国の解放軍による侵略に曝されたラオス人民共和国に生まれた女性だ。


 戦時下で、タイ王国の民間軍事会社「アリンタラート(อรินทราช)」最後の戦術飛行隊の隊長のティティワット大尉に保護された。


 戦後はタイ王国へ移住し、紆余曲折あって、ティティワット大尉が立ち上げ(させられ)た新生「アリンタラート(อรินทราช)」の事務方をたった一人で支える大物へと大成長して見せた。


 その甲斐あって、民間軍事会社「アリンタラート(อรินทราช)」は、今ではタイ王国と"ラオス共和国"の空を護る第二の航空宇宙軍として知られる組織へと成り上がっていた。


 朝間ナヲミとは、トゥイ・アリンタラートがラオスからタイへ脱出する途中、ティティワット大尉の保護中に出会った。その際、重傷を負っていたトゥイ・アリンタラートの症状に配慮して、朝間ナヲミは自らに向けられるべき救助隊を譲った。


 その意味で、トゥイ・アリンタラートにとって、朝間ナヲミはティティワット大尉と同様に命を救ってくれた恩人だった。


 朝間ナヲミとしては、ただの気まぐれで差し伸べた腕に過ぎなかったのだが。


 それでも、トゥイ・アリンタラートの方はその後もずっと感謝を忘れなかった。なお、彼女はティティワット大尉の養女を成ることを頑なに拒み、長い時間を費やして妻の座を射止めた。そして、一児を授かり、ティティワット大尉引退後は、新生「アリンタラート(อรินทราช)」を裏から支えた。


「少佐。個人的な事で報告することがあります」


「何だろう?」


「一昨日付けで、アリンタラート(อรินทราช)」を退官しました。ですから、ついに少佐と同じように私も(・・)退()者となりました」


 擬体なので細かい風味までは分からないが、朝間ナヲミは妙に高級そうに見えるティー・カップで紅茶を啜ってから応答した。


「おめでとう。キチンとした人生を完璧に成し遂げたな。ティティワット大尉もあの世で拍手喝采しているに違いない」


 トゥイ・アリンタラートは、朝間ナヲミから目を反らさずに、まるで「その言葉が聞きたかった」と言わんばかりにとても重いが、それでいて肩食わない笑顔で返した。


「やっと、重荷を肩から下ろせます」


「そうだな。そろそろ自由に生きても良いんじゃないか?」


 朝間ナヲミは、トゥイ・アリンタラートと言う女性が、伴侶であったティティワット大尉の為だけに生きて来たことを知っていた。それこそ、事故や病気は完全に無関係な、とても穏やかな老衰による死が二人を分かった後後になってもそれは変わらなかった。誰もが認める献身ぶりだった。


 朝間ナヲミは、トゥイ・アリンタラートに、これからは今まで後回しにしてた自分の望みを叶えるべきだと促したのだ。


「はい。何十年ぶりかに・・・故郷へ帰ってみようと思うます」


 トゥイ・アリンタラートも、確実にそのメッセージを読み取った。


「そこで落ち着くのかい?」


 朝間ナヲミは、「それでも良いんじゃないか?」と応えたつもりだった。会社のことは、後は息子に押しつけて、自らが寿命を迎える前に今まで出来なかった事をやり遂げておくべきだと伝えたかったのだ。


 だが、トゥイ・アリンタラートは顎を動かすことなく、ただただ視線だけを下げて、朝間ナヲミから差し出されたティー・カップの緊迫で縁取られたらしい細い線を眺めたつつ、今ひとつ歯切れの良くない言葉で応えた。


「いえ・・・。その後は"二世"の家へ入って、孫達の成長を見守ると言う長期作戦のへの従事が内定しています」


 朝間ナヲミは少し驚いた。そして、ほんの微かだが、そんなかつての砂利ガキの選択した"将来"を羨ましいと感じてしまった。


「それは生還の見込めないクリティカルな作戦だ。貴官は本当に命知らずだな」


 朝間ナヲミは、トゥイ・アリンタラートが選んだ第二、いや第三の人生の門出をそう言う言葉で祝った。


「いえ。"大尉"ほどに向こう見ずじゃあないですから」


 トゥイ・アリンタラートは、自らの命を救ってくれた、そして自らの伴侶になってくれた男のことを、出会った時から変わらずに「大尉」と呼び続けていた。きっと、自分が迎える死の淵で、枕元にティティワット大尉が立ってくれた時も、「大尉」と呼ぶに違いなかった。


「違いない。あの男は本物の命知らずだった。ラオスの山奥で再開した時、本当に生きていたとは・・・」


 トゥイ・アリンタラートは、30分ほど喋ってから、百里基地へと訓練目的で移動していた、一昨日退社したばかりの古巣(飛行隊)へと呼び戻されてしまった。


 うん十年働き詰めて、次期社長候補として息子を育て上げたと言うのに、社会はまだ完全に手放してはくれないのだ。


 トゥイ・アリンタラートの去り際に見せた、朝間ナヲミの微かな寂しさを(もり) 葉子(はこ)は気付いてしまった。


 だが、(もり) 葉子(はこ)は敢えてそれを見過ごして、そろそろ帰宅の時間であると煽った。間違いなく、少しだけだが、元気のない伴侶の背中を精神的に押しながら、帰宅したら何時もよりも優しく接してあげようと、密かに決意した。


 その晩、朝間ナヲミは高熱を発症した。擬体化後始めて、病気らしい病状を発したのだ。


 なお、生身のほぼ全てを喪失済みの彼女にとって、発熱する様な生体部位は、既に「意識を司る臓器(生体脳)」しか残されていない。



※1= 例えば、ナンパラ銃撃事件。偶然に、山の上から見下ろしていたヒマラヤ登山隊がその惨劇を撮影した(8,000m級峰「チョ・オユー」のベースキャンプからも見えたらしい)。無視出来なかった極一部のクライマー達は下山後に動画を証拠としてネットへアップロードして、世界へ向けて目にした不正義を訴えた。結果はほぼて無反応。それは西側世界の大手ジャーナリズムは揃って「報道しない自由」を行使したからだ。また、弱者の味方であった筈の、国際連合人権高等弁務官事務所は資本力の奴隷へと変身済みであると世界へ知らしめた。自らを極めて善良的で先進的であり誰よりも正しい振る舞いを出来ていると断言する人々は、弱者からもたらされたこの件に関する質問を、「そうでしたっけ。うふふ」の太田さんよりも華麗にスルーして見せた。まさに、"人定兮勝天"の事例である。天へ向かって吐いた唾が、(最低でも)第一宇宙速度を獲得して、しばらく地表へ落ちてこないと言う最終奥義のすごさを見せつけてくれたのだ。この事件からから得られた教訓の一つは、マルクスレーニン主義と某主席の著作から学ぶことが、この世界にはまだまだ沢山残されているという暗い事実である。



※2= あの人はバンコクのサミティベート病院で何回か見かけた。山がちな某王国の国王とか王族の見舞いが目的なんだとか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ