表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/12

第9話 慟哭

 いつからだろう。朝日が昇るはずの時間に、空が深い漆黒のまま動かなくなったのは。あるいは、陽が沈むはずの夕刻に、反対に真昼のような眩しい光が町を照らし続けるようになったのは。人々は最初こそ騒ぎ立てたものの、やがてそんな異様な現象に慣れ始めた。時間の感覚など、もはや当てにならない。夜明けも黄昏も、風の流れも、以前の自然法則とは別の規則によって歪められているらしい。それが何の仕業かは誰にもわからない。けれど、この世界の骨組みが壊れはじめているという確信だけが、ひしひしと全員の胸を押し潰していた。


 かつては、日の光によって人々の生活が営まれていた。この国でも、朝になれば市場が開き、農地では作業が始まり、夜には明かりを灯してゆったりと休息をとる。それが当たり前だったのに、今では街のどこを見渡しても、光の加減と人の動きがまるで噛み合っていない。夜のように暗い空の下で露店が開かれ、明るい陽射しの中で人々が疲れ果てて眠りにつく。自分がいま一体どの時間帯にいるのか、誰も把握できなくなっている。


 私が崩れかけた石畳を歩いていると、ふと視界の隅で空が鮮やかな緑色に染まっていくのが見えた。まるで海中を覗き込んだような深い色味が、ゆっくりと夜空を侵食していく。そんな不自然な景色を見たところで、驚きも湧いてこない。先ほどまで陽光が地上を照らしていたのに、一瞬で夜になったかのような暗さになったかと思えば、今度は翡翠色の光が空一面に広がっている。自然法則の崩壊という言葉では片づけられないほど、世界全体が滅びの響きを伴って乱れ始めているのだろう。


 少し前なら、それでも人々は必死に対策を探したかもしれない。実際、王家や学者、貴族たちはあらゆる文献をひもとき、伝説や呪術の力まで引っ張り出して、何とか世界を修復しようと試みたらしい。だが、今となっては誰もが諦めかけている。町の至るところに地割れが走り、かつて緑豊かだった郊外の森も火災や荒れ地と化している。海辺の漁村からは突然津波が押し寄せたという報告もあり、もうどんな手段を講じても、元には戻らないのだと皆が悟っていた。


 ある日、私は屋敷の中で、何ともいえない奇妙な違和感を覚えていた。廊下を進むたびに、足元の感触がぐにゃりと歪み、時間が何度も巻き戻されているような感覚に陥るのだ。たとえば、先ほどまで窓の外は暗い色の空に覆われていたのに、数歩先の窓から差し込む光は眩しいほどの昼のもの。しかも、その明るさが一瞬かと思いきや、次の瞬間にはまた夜の静寂が戻ってくる。まるで、世界が複数の層に分割され、それぞれが乱雑に重なり合っているかのようだった。


 それでも私の胸の奥は、相変わらず冷たいままだ。どれほど世界が狂った様相を見せようと、心が震えることはない。驚きも恐怖も、まるで凍りついた湖底の石のように沈黙している。むしろ、こうして世界がはっきりと崩れ始めたことで、自分の内面との共鳴を強く感じるようになった。私自身も、もともと心に大きな穴があいた状態で生きてきた。その穴を埋めようとする意欲もなく、ただ空虚が広がるままに任せていた。それと同じように、世界そのものもいま空虚に向かって崩れているのだ――そう思うと、不思議な安堵さえ覚える。


 庭に出てみると、そこにはかつて鮮やかな色彩を放っていた花々が、色を失って灰色の影のように立ち尽くしていた。茎や葉も輪郭が曖昧で、触れれば崩れそうなほど儚い。触れずとも、風が吹いただけで消えてしまうかもしれない。実際、吹き抜けた風は妙に湿った冷たさを帯びており、空気全体が地響きのような振動を含んでいる気がした。何か大きな存在が、静かに息をひそめながら世界の底を揺らしているような感覚。どれだけ目を凝らしても、その正体を知ることはできないけれど、確かなことは「もう長くはもたない」という事実だ。


「この世界は、もうすぐ終わるのでしょうね」


 そう、誰に語りかけるでもなく呟いた。すると、庭の奥の柵が金属音を立ててかすかに震え、まるで同意でもするかのように一瞬輝いたように見える。私はあまりの奇妙さに足を止めるが、心の中に湧き起こるのは怖れでも警戒でもない。むしろ、やはりそうなのかと納得する気持ちがある。世界が音を立てて崩壊に向かうさまを、こうして身近に感じられるのなら、私はますます抵抗する気が失せていくだけだ。どうせ助からないなら、無理に逆らうよりも、この終末に身を委ねてしまいたい――そう考えると、なぜか心が楽になるのでさえあった。


 時折、屋敷に顔を出そうとする者がいて、私に救いを求めたり、あるいは罵倒の言葉を浴びせたりする。けれど、その声も風の音と同じくらい儚く聞こえる。誰もが混乱の中にありながら、何か確固たる答えを求めて彷徨っているのだろう。けれど私が見せられるのは、自分の空虚と、それに呼応して深まる世界の闇だけだ。もしかすると、私が積極的に動けば何か変わるのかもしれない――そんな可能性をどこかで考えたこともあった。だが、それはもうあまりに遠い夢のような話だ。


「誰かを救いたい」という気持ちに似たものを抱こうとしても、胸の奥は冷えきったままで動かない。むしろ、全ての苦しみが跡形もなく消えてしまうのなら、そのほうが楽だと思う。王子は最後まで何かを模索しているのだろうし、かつての友人たちは各々のやり方でこの崩壊を食い止めようとしているのかもしれない。けれど、たとえ彼らが奇跡を起こしたところで、私が取り戻すものなど何ひとつ見当たらないのだ。


 空を見上げると、緑色に染まっていたはずの雲が、いつの間にか淡い金色の輝きに変化していた。それはまるで夕焼けの一瞬を切り取ったような美しさを湛えているが、その下の大地は荒廃の限りを尽くしたまま。時が止まったような静寂の中で、遠くから建物が倒壊する振動だけが伝わってくる。ガラガラと石が砕ける音や、人々の絶望の叫びはもう日常の風景に溶け込み、背景と化している。その光景を眺めながら、私はまるで大きな舞台の上で独り佇む役者のような気分になった。脚本も演技指導もないまま、ただ幕が下りるのを待っているのだ。


 先ほど玄関先にいた執事が、私の姿を見つけて声をかけようとしたようだが、何も言わずに立ち止まった。彼もまた、この終わりをどう受け止めればいいのか戸惑っているのだろう。かろうじて職務を全うしようという意志は感じるものの、その瞳には絶望の影が揺れている。私が少し頭を下げると、執事は微かに息を詰まらせ、やがて踵を返して屋敷の奥へ消えていった。もはや、お互い言葉を交わす意味など残されていないのだ。


 それからしばらくして、また時空が歪むような感覚が襲ってきた。周囲がぐらりと揺れ、足元の芝生が波打つように軋む。まるで屋敷ごと海上に浮かんだような錯覚を覚えるが、次の瞬間には何事もなかったかのように落ち着く。この繰り返しだ。私には何もできない。できることといえば、立ち尽くして「もう長くない」と確かめることくらい。とっくに限界を超えている世界が、最後の呼吸を繰り返している。


「ああ、もうすぐ、すべてが終わるのだろうな」


 口にした言葉は、風にさらわれるように消えていった。あたりを包む空気は、先ほどまでの金色から灰色へと緩やかに変化している。太陽があるのか、月があるのか、もはや視認することすら叶わない。光と闇が混ざり合い、どこまでも不鮮明な世界。それでも私は、この終焉を静かに受け入れる心の準備ができている。恐ろしさよりも、安堵と諦めが上回っているのだ。


 遠くで再び大きな崩落の音が響いた。目を凝らせば、王都の町並みがゆっくりと姿を失っていくのがわかる。かつて華々しい舞踏会が開かれ、人々があふれかえっていた場所は、今や廃墟と化してどす黒い塵を巻き上げるばかり。思い返せば、あのにぎわいもすべて幻だったのかもしれない。私にとっては、最初から心に響くものなど何もなく、まるでうつろな舞台装置のようにしか感じられなかったのだから。


 私の心は、世界がどれほど崩壊しようと一向に動かない。それこそが、この世界の病巣の一端なのだろうか。考えても答えは出ず、出す必要も感じない。確かなのは、私もろとも世界は終わりへと一直線に向かっていること、そしてそれを止められる者はいないという事実だけだ。誰が叫んでも、叫びは届かない。誰が願っても、それは虚空に消える。もしかしたら、最初からこの結末は定まっていたのかもしれない――そう思うと、むしろ穏やかな気分にすらなるのだった。


 不思議なことに、これほどの破滅を目にしても、涙はまったく出ない。哀しみも痛みも感じられない。ただ、一瞬だけ胸の奥が締めつけられるような感覚があったが、それは浅い吐息とともにすぐ消えてしまった。代わりに広がるのは、静かな放棄の念。もう何もかも、このまま大いなる無に溶けてしまえばいいのだという、薄ら寒い安らぎに似た思い。私はそれを否定する気にもなれず、むしろ深く受け止めている。


 こうして、時間が歪み、空が異様な色をまとう中で、私はただ佇む。崩れゆく世界の景色をじっと見つめながら、心の空虚と終焉が深いところで一つになっていくのを感じている。もはや戻る場所はないし、足掻きようもない。この狂った世界にしがみつく理由は、どこにも見当たらない。だから、すべてが終わるなら、私はその終わりをただ見送るだけ。そう思うと、不思議なほど心が落ち着いてくるのだ。


 まるで最後の楽章を聴き終えるまで席を立たない観客のように、私はこの滅びの舞台を見届けようとしている。そして、いつか幕が下り、光も音もかき消され、世界が完全に消滅する瞬間が訪れたら――そのときこそ、きっと私の心も空虚という輪郭すら失い、深い闇と溶け合うのだろう。それを思えば、どこか懐かしいような胸の痛みすら、今は薄らいでいくばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ