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第8話 崩壊

 街に一歩足を踏み入れた瞬間、押し寄せてきたのは耳をつんざくような悲鳴と混乱の叫び声だった。まるで大地の底が口を開き、そこから絶望という黒い煙が噴き出しているかのようだ。人々が右往左往し、支え合うどころか押し合いへし合いになっている姿が遠目にもわかる。建物の壁には亀裂が走り、瓦礫の破片が時折崩れ落ちてくる。しばらく前までは“少しずつ”という印象だった世界の歪みが、ここへきて一気に加速したように見えた。


 空は薄い藍色で、時間帯がわからなくなるほど光が曇っている。けれど日中なのか夜なのかを区別する意味すら、もはや誰も気にしていないらしい。市場へ続く大通りは、陥没や噴き出した泥で足の踏み場もままならない。商店の看板や露店の屋根が傾き、ところどころで小規模の火災が起きているようだったが、水源が涸れかけているとの噂もあり、消火が遅れがちだという。これ以上の被害をどうやって防げばいいのか――誰もがわからず、ただ怯え、怒り、涙を流している。


 それでも私の足取りは重くはない。というより、地面がひび割れるたびにわずかにバランスを崩しても、心は微動だにしない。まるで自分の周囲に半透明の壁でもあり、外界の悲鳴がぼんやりとしか届かないようにも感じられる。かつての私ならば、これほどの惨状を前に怯えや悲しみを抱いたかもしれないが、今やその余地は残されていなかった。胸の奥は相変わらず薄い灰色の空虚で満ちていて、何を見ても何を聞いても“ああ、そうなのだ”としか思えないのだ。


 通りの脇で、うずくまって泣き崩れる女性に声をかける者はいなかった。私の姿に気づいた彼女が顔を上げ、何かを言いたげに口を開きかけるが、私はそれを避けるように目をそらす。彼女を助ける言葉も行動も、今の私には持ち合わせていない。むしろ、このまま通り過ぎれば何も関わらずに済む。どれほど悲痛な叫びを耳にしても、私の中には同情も罪悪感もわかない。胸が痛まないどころか、「もう何も残らなくていい」とさえ思ってしまう。そう感じる自分を卑下する気力すら、とうになくしていた。


「リリー! 待って、お願い!」


 そんな声が背後から飛んできたとき、私は足を止めようかどうか迷った。振り向けば、見覚えのある青年が泥だらけになってこちらへ駆け寄ってくる。その姿を見て、私の記憶がわずかに呼び覚まされた。かつて社交界の席で言葉を交わした貴族の一人だ。まだ私が“完璧な娘”として周囲に評価されていたころ、彼とはいくつかの舞踏会でも顔を合わせたはずだ。小さな微笑を交わす程度で深い仲ではなかったが、そのころの私は少なくとも、今よりは社交的な態度をとれたのかもしれない。


 青年はぜいぜいと息を切らしながら、こちらに手を伸ばすように近寄る。空気全体が濁っているせいか、彼の声もかすれて聞こえる。


「助けてくれ……! 皆が、皆がもうどうしていいか……殿下も、何の策も見つからないままだし……誰も世界を救えない。お前なら何か、わかるんじゃないか?」


 私の目をまっすぐに見つめて訴える彼は、震える手で私の袖を掴もうとしてきた。だけど私は自然に体を引き、彼の手が触れるのを避ける。彼の表情には失望とも絶望ともつかない色が混ざっていて、もしかすると私を恨みたいのかもしれない。それでも必死にすがろうとしているのだろう。かつて、私が王子の婚約者であったという肩書をまだ気にしているのか。それとも、噂で広がっている“私がすべての元凶”という話を逆手にとり、“だからこそ解決策を知っているのでは”という期待に縋っているのか。


 どちらにせよ、私には応えるだけの言葉がない。


「……ごめんなさい。私には、何もないの」


 そう告げた瞬間、青年はまるでこの世界の終わりを目の当たりにしたかのような表情を浮かべた。彼の唇が震え、言葉にならない呻き声だけが漏れた。それでも私は構わずに背を向ける。彼は私の腕を強く掴もうとしたが、結局その手は届かず、ただむなしく宙を切った。振り返ると、彼は絶望の底に落ち込んだような顔で、瓦礫の山へと足を滑らせた。私の胸が微かに軋むような感覚を覚えたけれど、すぐにそれはかき消えてしまう。痛みではなく、ただの鈍い振動だ。


 通りの先では、遠くの建物が傾き始めていた。石組みの壁が崩れ、粉塵が立ち上る。悲鳴と怒声が重なり合い、何かが砕けるような音が響いてくる。にもかかわらず、私は歩みを止めない。建物の隙間から噴き上がる火の手さえ、赤黒い煙のようにしか見えない。どれほどの人がこの混乱で傷つき、命を落としているのだろう。そんなことを考えようとしても、心の奥底は冷たく静かで、あまりにも遠い出来事のように感じるのだ。


「リリー! お前のせいだ……!」


 また別の声が飛んできて、今度は鋭い視線が背中に突き刺さる。見れば、これも以前に社交界で顔を合わせた知人の一人で、怯えと怒りの混ざった目をこちらに向けている。彼は血の気が多い性格だったはずで、今もなお激しい動揺を表に出していた。


「お前が世界を壊しているって皆が言っている……だから、なんとかしろ! どうにかしろよ!」


 そうまくし立てられても、私は首を振るしかない。わずかに唇を動かし、「何もできない」と答えようとしたが、その声はかき消されて聞こえなかった。彼は歯噛みし、地面に拳を叩きつけるようにしている。私を呪うような視線を向けてきても、心の奥で「仕方ない」という言葉が浮かぶだけ。私を責めるのも勝手、すがるのも勝手。どちらにせよ、私の中に彼らを気遣う余地はない。


 そうやって、かつて名前を知っていた人々からの恨みや懇願を一身に浴びながら、私はまるで透き通った亡霊のように通りを行く。どれほど世界が壊れゆく風景を見せても、私に驚きも恐怖も生まれない。むしろ「ああ、こうしてすべてが滅びていくのだろうな」という淡白な納得感があるだけだ。かつてあれほど崇められ、華やかに彩られた国や町が、今は乱雑に崩れ落ちている。この激動の最中であっても、私には何一つ響かない。むしろ、ここまで徹底的に壊れてしまえば、かえって楽になれるのではないかという邪な期待さえ胸に芽生える。


「もう、何も残らなくていい。」


 頭の中でつぶやくと、心が少しだけ軽くなる気がした。以前の私であれば、こんな想いを抱く自分に戸惑い、罪悪感に苛まれたかもしれない。けれど今は、世界に対して申し訳なく思うどころか、その虚空がいつかすべてを飲み込み、苦しみを終わらせてくれるのなら、それでいいとさえ感じる。燃え上がる炎や血塗れの路地を横切りながら、私は淡々と歩を進める。行き先さえ決めていない。ただ、何となく足を動かしているだけだ。


 ふと、視界の端に大きな影が揺らめく。崩れかけた建物の二階が完全に瓦礫となり、下の通りを塞ぐ形で道をふさいでいた。人々がその向こう側で慌てふためいているが、私には回り道を探す気力もない。瓦礫を踏み越えようと足をかけると、石塊がぐらつき、細かな破片が落ちていく。やがてその向こうには、何もない空間が口を開けているのが見えた。まるで深い穴に通じるような暗がりだ。それを見たとき、ほんの一瞬だけ、ぞっとするような感覚が脳裏をかすめる。もしここで足を踏み外せば、私は混沌とした闇の中に飲み込まれるのではないか――しかし、その恐怖さえすぐに薄れていく。


「それでも、かまわない」


 自然にそう思えてしまうのだから、私という存在はどれほど壊れてしまったのだろう。これほどまでに地獄絵図が広がっているというのに、私の心は冷えきった湖のように静かだ。泣き叫ぶ人々の声が背景音のように遠く、小石が地面を転がるかすかな音ばかりが耳に残る。あれほど光に満ちていたはずの世界が、今や赤黒い煙に覆われて崩れていく。この破滅を止める方法はもう何もないのかもしれないし、そもそも最初から存在しなかったのかもしれない。


 私は瓦礫の上にしばらく腰を下ろし、混乱に走り回る人々をぼんやりと眺めた。男も女も、老人も子どもも、等しく混乱の渦に巻き込まれている。この地がどれほど崇高な歴史を持ち、どれほど美しい文化を育んだとしても、崩れるときはあっけなく崩れてしまう。それを目の当たりにして、胸の奥に湧くのはあまりにも虚ろな開放感。「どうせなら、徹底的に壊れてしまえばいい」とさえ思う。そんな邪念しか浮かばない自分を、もう責める気力すらない。


 あの王子は今、どこで何をしているのだろう。かつての友人たちは、どのように絶望し、どのようにこの世界を捨てるのだろう。誰に対しても、さほど興味を抱けない。恨みや憎しみはない代わりに、慈しみや未練もない。私の存在はただ“空虚”そのものとなって、この壊れゆく光景を受け止める器になっただけのように思える。もしここで誰かが私に刃を向けてきても、私はそれをただ受け入れるのかもしれない。あるいは逃げることさえしないだろう。理由など何もない。ただ、早くすべてが終わってしまえばいいという思いが、私の行動を支配しているから。


「……ここまで壊れてしまったら、もう戻れない」


 呟いた声は、誰の耳にも届かない。空を見上げれば、以前は太陽の光が差していたはずの空が、今ではまるで夜明け前のように薄暗い。あちこちで煙がくすぶり、炎の紅い色が闇と溶け合っている。どこからともなく、地下水が噴き出すような音が聞こえたが、すぐに泥水と混じり合って流れ去っていった。黒い川と化した路地には、もはや人の往来すら見当たらない。


 つい先日まで、私はこんな崩壊を心のどこかで想像すらしていなかった。変化の兆しはあったにしても、ここまで激しいものだとは考えていなかったのだろう。だが、今となってはどれだけ後悔しても遅い。人々は皆、以前の平穏を忘れられずに縋りついているが、そんなものが二度と手に入らないことは、今の惨状を見れば一目瞭然だ。だからこそ、「もう何も残らなくていい」。私はそう強く思わずにはいられない。美しかったものも、醜かったものも、すべてが同じように朽ちていくのなら――私は、その終焉をただ見届ければいいだけなのだから。


 瓦礫から立ち上がると、足元の小石が転がっていく音が微かに耳に残る。そこから先の道は崩落していて、進むのか引き返すのかさえ定まらない。しかし、どちらを選んだところで意味は変わらないだろう。世界が壊れる以上、私もそこに浸りきって消えていくしかない。そう考えると、これほどまでに心が安定している自分を、ある意味では哀れに思う。だが、それもまた一瞬のことだ。哀れという感情すら、すぐに消えてゆく。


「……そうね。もう少し、歩こうか。」


 誰に向けるでもなく呟いて、私は崩れかけた塀を回り込み、別の通りへと足を進める。そこでも同じような混沌と惨劇が繰り返されているのだろう。残されているのは、荒れ果てた町と壊れゆく人々。そして、それを見ても何も感じられない自分。それ以上でも以下でもない現実が、私の周りに広がっている。それで構わない。世界が終わるなら、その波にただ身を任せてしまえばいい。何かを取り戻すよりも、何もかも失ってしまうほうが、私にははるかに安らかに思えるから。

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