第7話 奔流
数日ぶりに青空が広がったかと思えば、翌日には突然、灰色の雲が低く垂れこめて豪雨が降り注ぐ。そんな極端な天候の変化が繰り返され、王都はますます落ち着かない空気に包まれていた。天候だけではない。街のあちこちで、地面に走る亀裂が見つかったり、一部の建物の基礎が歪んでいるという噂が立ったりと、もはや人々の不安は限界に近い。災害と呼べるほどの大きな被害はまだ報告されていないものの、今後いつ何が起きてもおかしくない――そんな恐怖が王都全体を覆いつくしているようだった。
当然ながら、王家や貴族たちもこの異常事態を放置するわけにはいかない。噂によれば、宮廷では連日のように緊急の会議や対策が練られ、各方面への指示書が飛び交っているという。使者が大陸各地へ派遣され、同様の現象が起きていないか調査しようとしているらしいが、具体的な成果が上がったという話はまだ聞こえてこない。むしろ行く先々で似たような小規模の異変が報告され、問題が拡大している気配があるばかりだ。
そんな状況の中、前に婚約を解消した王子――アラン王子の名を、久しぶりに耳にする機会があった。どうやら彼も必死に動いているらしい。王家の一員として、もちろん何もしないわけにはいかないのだろう。世界が崩れ始めたかのようなこの事態をどうにか打開するべく、賢者や魔術師と呼ばれる者たちを招集し、研究機関や図書館で過去の記録を洗い出しているという。だが、そうした努力の甲斐もなく、いまだ有効な手立ては見つからないというのが現実らしい。人々は「王子様が何とかしてくれる」と期待する一方で、何も変わらない日々に苛立ちを募らせているようだった。
ある午後、私が屋敷で本を眺めていると、使用人が慌てた面持ちで駆け寄ってきた。何事かと思えば、アラン王子の使者を名乗る人物が表門に来ているという。私は面倒な予感を覚えたものの、とりあえず応接室へ向かった。案内されたのは、いかにも堅苦しい姿勢の若い兵士のような男性だった。王子の近衛に属する者だろうか。彼は居並ぶ使用人たちの前で姿勢を正し、恐る恐る私の顔を見つめる。
「お久しぶりです。実は、殿下があなたとお話をしたいとおっしゃっておりまして……」
言いにくそうに切り出された言葉に、私は苦々しい思いを抱く。今さら何の話をする気なのか。彼も手紙を持参していたわけでもなく、伝え聞いた言葉をそのまま伝える役目のようだった。兵士の口振りから察するに、王子自身が切羽詰まっているらしい。おそらく、私を巻き込む形で何か試したいのだろうか。もしかしたら、私にしかわからないことがあるのではないか――そう踏んでいるのかもしれない。
兵士の必死な面持ちを見ても、私は不思議と何の感情も湧かなかった。ただ、そのまま静かに首を横に振る。
「……お会いするつもりはありません」
兵士が面食らったように目を見開くのを感じながら、その場で断りの言葉を告げる。周囲に控えていた使用人たちがざわつきかけたが、私はそれを制するでもなく、ただ小さく溜め息をついた。以前であれば、王子からの呼びかけに応じないなんて、あまりにも不敬だと糾弾されたかもしれない。けれど、いまや私にはそんな概念すらどうでもいい。あの時、彼は私の手を離した。それでも私を頼ろうとするというなら、それはあまりに無責任ではないだろうか――そんな薄い苛立ちだけが胸をかすめる。
兵士は困り果てた様子だったが、私の態度が変わらないと悟ると、重々しく礼をとって退出していった。扉が閉まり、応接室の空気が静まり返る。使用人の一人が慌てて口を開こうとしたが、私はそれを制し、無言のまま部屋を出る。自分でも不思議なくらい、心の底が冷えきっているのを感じた。王子がどう動こうと、それによって世界が救われる保証はないし、私が協力したところで何が変わるとも思えない。その無力感と無関心が、ますます私の胸に根を下ろしていく。
だが、その数日後、今度は貴族の若者が私を訪ねてきた。かつて同じ社交界で顔を合わせたことがあり、多少なりとも言葉を交わした知り合いだが、親しい間柄というわけではない。どうやら王子の説得に失敗した兵士が、私に近い人物へ協力を仰いだらしい。若者は「このままでは国が危ないのだ。どうか、話だけでも聞いてほしい」と必死だったが、その姿がむしろ痛々しかった。
「あなたの力が必要なのです。殿下はそうおっしゃっている。だから、一度でも会って話を……」
彼は必死に言葉を探していたが、私がじっと黙っているうちに、やがて口をつぐんでしまう。私の目には、彼の熱意がむしろ空回りしているように映った。情熱的な言葉をかけても、私はそれをどう受け止めればいいのかわからない。婚約という形で繋がっていたはずの王子とは、すでに絆など残っていない。そもそも、婚約があったころでさえ、心が通い合う瞬間などなかったのだ。
結局、その若者も落胆した面持ちで帰っていった。屋敷の門が閉まり、その足音が遠ざかるのを聞きながら、私はただ天井を仰ぐ。自分がどれほど酷い人間に見えても構わない。今の私には、誰かを思いやる余裕など残っていないのだ。世界が崩れようと、人々がどれほど苦しもうと、それは私の外側で起きていることにしか感じられない。むしろ、その冷酷さこそが、私が生まれ持った空虚をさらに証明しているようで、うすら寒い安心感すら覚えるほどだった。
その夜、私は外の異常気象を確かめるようにして、敷地内の庭へ出てみた。何日か前まで白い花を咲かせていた木は、嵐にさらされたのか枝が折れて無残な姿を晒している。地面を照らす月明かりも、薄い雲を通すせいでどこか不気味な光を放ち、庭全体を青白く浮かび上がらせている。遠くからは時折、奇妙な音が聞こえてきた。風の唸りなのか、それとも遠雷なのか判別できない。私は木の下に立ち、静かにその夜の気配を感じ取ろうと目を閉じた。
すると、突如として地面が微かに揺れるのを感じた。まるで小さな震動が足元から伝わってくる。屋敷の壁がきしむような微かな音がし、遠方で悲鳴めいた声があがるのが聞こえる。ほんの短い揺れだったが、確かな異変の兆しだ。再び目を開くと、庭の暗がりの中にひび割れのような筋が走っているのに気づく。先ほどまでは確かになかったはずの亀裂が、見る間に少しずつ広がっているようにも見えた。
「……もう、遠くの話ではないのかもしれない」
気づけばそんな思いが頭に浮かんでいた。これまでは、王都の外れで起きた地割れだの、どこかの地方で突然発生した土壌の崩落だのと、どこか他人事のように聞いていたけれど、いよいよこの屋敷周辺にも影響が及び始めているらしい。けれど、私は恐怖で声を上げることもなく、むしろ「やはり」と納得する気持ちの方が強かった。世界が崩れ始めている。その事実が、もう隠しようもなく私の周りに侵入しているのだ。
翌日、街へ行くと、これまで以上に混乱がひどい様子がありありと見て取れた。昼前にもかかわらず、空が急に暗転し、まるで日蝕のように光が薄れたかと思うと、激しい風が吹き荒れて商店のテントや看板を吹き飛ばしている。地面には無数の亀裂が走り、一部の道は通行を規制されていた。人々が挙句に駆け回り、絶望の声や怒りの罵声が入り混じる。子どもが泣き、誰かが必死にその子を抱きかかえる姿を見ても、私の心は何一つ動くことができない。ただ、景色の混沌を俯瞰するだけだった。
少し先の路地では、貴族らしき衣服を纏った人々が集まって何かを話し合っていた。私が目を向けると、彼らもこちらに気づいて一瞬息を呑んだような顔をする。だが、すぐにそそくさと歩み去ってしまう。その姿からは、私に対する強い不信感や警戒心が滲み出ているようにも思えた。噂なのか直感なのか、皆が私を“この混乱の原因”と結びつけているのではないだろうか。あるいは、王子や誰かがそう考えているのかもしれないが、誰も確信がないからこそ、ただ遠巻きに私を疎むだけなのだろう。
凄まじい風が一瞬止み、空気が張り詰めたように静まり返る。はっとして空を見上げると、雲の切れ間から覗く太陽が異様に赤く染まっていた。夕焼けでもないのに、昼間なのに、どうしてこんな色になるのか――考えようとしても答えは浮かばない。街のあちこちから恐怖の声が上がり、中には神殿に走って祈りを捧げる者もいる。世界が限界まで追い詰められている。そんな感覚が、肌を刺すように突き刺さってきた。
それでも、私は何もできない。あるいは、何もしようとしない。王子やかつての知人たちが必死に動いているのだとしても、私には関係のないことだ。私の心はあまりに遠く、冷えきっていて、今さらそこに温度を呼び覚ますことなど不可能に思える。人々が苦しみに叫ぶ声を聞いても、それが自分の胸に突き刺さることはない。ただ、世界が私の中の空虚をなぞるように壊れていくのを、他人のように見つめるだけだ。私がどんな顔をしているのかさえ、もう想像する気力もない。
ふと視線を下ろすと、足元の石畳に細い亀裂が走っているのが見えた。どこかから伸びてきたその亀裂は、これから先どこまで広がっていくのだろうか。まるで、私の心に空いた隙間を辿るかのように、じわじわと街全体を侵食していくのかもしれない。そう考えると、不可思議な安堵と罪悪感が同時に襲ってきた。私は何も感じられない。ただ、その亀裂が深まり、やがて世界が完全に崩壊する瞬間が来るのだろうという確信だけが、胸の奥で鈍く光を放っている。
「――どれだけ足掻いても、もう止められないのかもしれない」
誰に向けるでもなくつぶやくと、風がそれをさらっていく。貴族社会や王家の奔走も、友人たちの声も、私の心には響かない。崩れていく世界の中で、私はただの“空虚”として存在し続ける。もはや喜びも恐怖もない場所で、徐々に終末へと歩み寄る世界を眺めながら、今はまだ立ち尽くすことしかできないのだ。