第6話 軋音
ここのところ、王都には落ち着かない噂がますます増えていた。天候不順や地盤の異変はむろんのこと、街道で突然発生する亀裂や、不意に姿を消す泉の水など、にわかには信じがたい話が人づてに広まっている。一方で、それまで穏やかだったはずの農村地帯からは異常な干ばつや作物の不作が報告されはじめ、商人たちは次の取引をどうするか頭を抱えているという。どこを見渡しても、これまでの常識が通用しない出来事ばかりだ。そうした混乱の気配は、否が応でも貴族や王家の耳に届き、やがては宮廷内にも深い動揺をもたらしていた。
先日、父と母が呼ばれた王家の会合では、重大な政務の合間を縫って“この異常事態にどう対処するか”が話し合われたらしい。詳しい内容は教えてもらえなかったが、母が屋敷へ戻ってきたとき、その表情がどこか焦りを帯びていたのを見逃すことはできなかった。かといって、私から何か問いかけることもできないまま、部屋へと駆け込む母の背中をただ見送るしかない。誰もが不安を抱えながらも、具体的な行動に踏み出す余裕がない。それは王家も貴族社会も同じで、皆がそれぞれの立場を守るのに精一杯なのだろう。
ただ、不思議なことに、私の周囲だけは妙に静まり返っているように思える。たとえば、屋敷の中では使用人があからさまな動揺を見せず、いつも通り淡々と仕事をこなしている。父や母も顔つきこそ険しくなっているものの、なぜか私と一緒にいるときはどこか遠慮がちだ。まるで、私の存在が激しい風の吹き荒れる外界と隔離されているかのように思えてならない。それが私には、かえって異様な空気に感じられていた。
外の世界では激しい嵐のような騒ぎが起きているのに、自分の足元だけは何事もなく穏やか――そんな感覚は一見好ましいようでいて、実際には恐ろしさを伴う。まるで私だけが現実から切り離され、“凪”の中に孤立しているようだ。窓の外の雲が渦を巻き、街の人々が戦々恐々としながら日々を送っているというのに、私の部屋はいつも通り薄い陽光に照らされている。ベッドの上に投げ出した書物も、そのまま散らかった形で平穏を保ち、風ひとつ吹かない。外から帰宅した使用人たちが慌ただしく口にする“町の混乱”の話題さえ、私の耳を素通りしてしまうかのようだ。
「このまま、本当に何事もなく過ぎ去るのだろうか」
そんな疑問が頭をかすめるたび、胸の奥がひどく冷たくなる。それと同時に、どこか罪悪感にも似た感情が湧き上がってくるのを抑えられない。世界が音を立てて軋んでいる。その予兆は間違いなく至るところに現れているのに、私だけはまるで傍観者のように沈黙している。何をするわけでもなく、ただ空虚を抱えたまま静かに呼吸を続けている。もしかすると私自身が“嵐の目”になっていて、この静寂の中心で世界をじわじわと壊しているのではないか――そんな誇大妄想めいた考えが離れないのだ。
この屋敷を出て、久しぶりに街へ出たときも、その違和感はさらに強まった。表通りに一歩踏み出した瞬間、王都を覆う空気が以前とまるで違うのを肌で感じる。人々の顔には怯えの色が浮かび、彼らの発する声には焦りと苛立ちが入り混じっている。あちこちで小さな衝突が起き、些細な物音にも大げさに反応する姿が散見される。以前であればただの痴話げんかで済まされていたような口論でさえ、今は人心の不安を増幅させる火種のように扱われていた。
けれど、そんな渦中にあっても、私の周囲だけはひっそりと空気が凪いでいるように思える。人々が肩をぶつけ合い、言い争いをしている路地を歩いても、なぜか私と目が合う人はほとんどいない。まるで私を避けるように、皆が目を逸らし、さっと距離を取る。そして、何も見なかったかのように自分たちの議論に戻っていく。もともと婚約破棄の噂を経て、私への視線が好意的でなくなったのは確かだが、それでもこうまで徹底して避けられると、薄ら寒い気持ちが否応なく湧いてくる。
人々が私を腫れ物扱いする理由は、単に婚約破棄の影響だけではないのかもしれない。この世界が狂い始めた原因は、ひょっとすると私にあるのではないか――そんな噂が、どこかで囁かれているのかもしれない。実際、私が自分の胸に手を当ててみても、そこには満たされない空虚だけが広がっている。しかも、その空虚が日増しに重く、深くなっていることを感じる。その深淵を覗き込むたびに、世界が揺れるように錯覚してしまうのだ。無論、因果関係など証明しようもないが、そう思わずにはいられないほど、私の内側と外側が奇妙にシンクロしている。
「私が、この世界を壊しているのかもしれない」
その疑念が、日に日に現実味を帯びて迫ってくる。例えば、遠くで激しい雷鳴が轟き、まるで地響きのように建物の窓を震わせたとしても、私の足元だけはしんと静まり返ったままだ。道端に転がった石ころが勝手に砕けて散ったと人々が騒いでいても、私がそこへ近づくと、なぜかその欠片は音も立てずに姿を消してしまう。まるで何もなかったかのように、空間が均されるような感覚を覚える瞬間がある。
だが、誰かに相談したくても、私の近くにはほとんど人がいない。使用人たちも、普段通りの仕事にかまけて私の様子を探ろうとはしない。父や母に打ち明ける勇気もわかない。もしこんな話をしたら、ただの思い込みか気のせいだと言われるか、あるいはこの混乱の最中に余計な負担をかけるなと咎められるだけだろう。私自身も、一体どうしてほしいのか自分でわかっていない。目を閉じれば、深い闇の底で何かが蠢くような気配を感じるが、それが何なのか確かめるすべもないのだ。
そんな思いを抱えながら屋敷に戻ってみると、母が廊下の真ん中で何枚もの文書を手に唸っているところに遭遇した。文書の封には王家の紋章らしき印が複数刻まれており、どうやら王家からの指示や連絡事項らしい。母は私に気づくと一瞬だけ視線を合わせたが、あまり口を開こうとはしなかった。しかし、ささくれ立った声でつぶやいた言葉は印象に残る。
「このままでは、国そのものが危ういかもしれない……」
私は母に何も返せず、そのまま通り過ぎて自室へ向かった。母が嘆くのも無理はない。貴族社会も王家の体制も、今やぐらぐらと揺らいでいる。もし“世界”そのものが変容していくなら、国家の仕組みや秩序などいとも簡単に崩れてしまうだろう。私にできることは何もない。むしろ、私こそが世界の終焉を引き寄せているとしたら――そんなことを考えると、ため息すら出ない。ただ深い暗闇を見つめているだけで、胸の中で薄ら寒い風が吹き荒れる。
自室の窓を開けて外を見下ろすと、曇天の下で庭の花がなぜか濃い影を落としていた。いつもは清々しい色合いを見せるはずの花弁も、今日に限っては枯れそうなほど萎れている。ところが、数時間後に見ると、嘘のように生き生きとした姿を取り戻している。こうした不可解な変化を目にするたび、私は気づかないふりをし続けるしかないのだが、それがまるで自分に突きつけられた罪の証拠のように思えてくる。私の心に大きな穴が開いているからこそ、世界がさまざまな形で悲鳴を上げているのではないか、と。
それでも私は、何かをしなければならないという強い意志は持てないでいる。毎日のように不穏な情報が耳に飛び込んできても、結局は自室に閉じこもるだけ。あるいは、ちょっと街に出て異様な空気を肌で感じ取り、また屋敷へ帰る。それを繰り返す日々だ。周囲の人々が抱く恐れや焦りに、私だけが取り残されているかのように静かで、むしろそれが恐ろしくさえある。まるで私が置かれた場所だけが密閉された空間で、外界との間に分厚い隔たりがあるようなのだ。
「私がいなければ、世界はもう少し穏やかに戻るのかもしれない」
そんな極端な発想に囚われることもある。しかし、その思考を最後まで巡らせる前に、なぜか自分の心が強い拒絶を示す。私が世界を壊しているのなら、どこかへ消えてしまえばいいのだろうか。けれど、そう考えると同時に、私の奥底でざわざわと不安が波立つ。あたかも私の存在を否定することが、この世界をさらに大きく歪めてしまうような危惧を覚えるのだ。行き場のない罪悪感と、もはや諦観に近い諦め――二つの感情が綱引きのように心を痛めつける。
この静寂と混沌の狭間で、世界はどんどん軋みを増しているように思える。屋敷の壁が微かにきしむ音が聞こえるのは、私の錯覚ではないのかもしれない。外で上がる悲鳴や怒号も、いつしか断続的に繰り返されるようになっている。夜中に目覚めたとき、遠くからかすかな咆哮が届いた気がした。獣の声なのか、人間の叫びなのかすらわからないが、少なくとも正常ではない。この国に広がる不安定な空気が、次第にさらなる混乱を呼び寄せているのだろう。
けれど、私の周囲はどこまでも静かだ。ひとたび外出をすれば混乱を目にするにもかかわらず、自分の足元に戻ってくるとそのすべてが遠ざかっていくように感じられる。私はその静けさに救われているのか、それとも追い詰められているのか、もはや判断できない。ただ、心を満たすはずの感情は何も育たず、むしろ冷えきった闇だけが増幅し続ける。その闇が、世界を飲み込んでいるかもしれない――そう想像するたび、背筋が凍えるような恐怖に襲われるが、同時にどこかで“仕方ない”と受け入れようとしている自分もいる。
「このまま、すべてが終わってしまえばいい」
そんな声が胸の奥で呟くとき、私はどれほど怖くても逃げ出せない。外の世界の歪みからは逃げることはできても、自分自身の空虚からは逃れられないのだから。外は混沌。内は静寂。どちらに行っても心は休まらない。まるで世界の軋む音が、私の心と共鳴しているかのように、夜ごと耳を離れない。私は深い眠りに落ちることもできず、ただ朝を待つしかない日々に陥っていた。
そうして、再び夜明けが訪れようとしている。薄青い光が天幕を染め、遠くでかすかな鳥の声が聞こえる。世界は確かに生きているはずなのに、その命の息吹すらも歪んで聞こえるようになってしまった。私はただ一人、部屋の窓辺に座り込み、自分がこの世界に何をしているのかすらわからぬまま、胸の奥に広がる闇を抱え続けている。気がつけば、鳥の声すらもいつの間にか静まり返り、また不気味な静寂が私を包み込むのだった。