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第5話 兆候

 灰色の雲が低く垂れこめる空を見上げながら、私は王都の大通りをそぞろ歩いていた。まだ朝のはずなのに、まるで薄暮のような薄暗さが辺りを包んでいる。人々は落ち着かない様子で行き交い、行商人たちの声もどこか怯えた調子だ。数日前から、天候が不自然に変化しているという噂を耳にしてはいたが、こうして実際に肌で感じると胸の奥に奇妙な重さが広がってくる。


「聞いたか? 昨夜はまた郊外で小さな地割れがあったらしいぞ」


 横を通り過ぎる男性が、友人らしき人物にそう語っているのが聞こえた。地割れという言葉は珍しくないものの、このところ立て続けに似たような話を耳にする。しかも、どれも規模こそ小さいが、場所はそれぞれ離れているらしい。まるで世界のあちこちに爪痕のようなものが散らばり始めているかのようだ。私はその声を聞きながら、足を止めることもなく通り過ぎた。やはりどこか他人事のように感じてしまう自分がいる。


 もっとも、婚約破棄の噂が広まって以降、私に寄せられる視線も少しずつ変わってきた。道行く人の中には私の姿を認めてそっとひそめき合う者もいるし、あからさまに同情の眼差しを向けてくる者もいる。かと思えば、その背後では、異常気象や突発的な事故に対する不安が渦巻いているのだ。二つの噂話――私の境遇と世界の異常――それらが混ざり合い、王都全体に不気味なさざ波が広がっているように感じられる。


「先日は突然、夕方にもかかわらず空が真っ暗になったとか。まるで嵐の前兆みたいだったのに、結局何も降らなかったって……」


 そんな会話が聞こえてくる。私は苛立ちよりも、どこか空虚な気持ちを抱えたまま、その言葉の響きを受け流していた。この不吉な噂に煽られているのは決して町の人々だけではないらしく、貴族や商人の間でも落ち着かない空気が漂っているという。昨日、母の知人が屋敷を訪れた際に「いくら財を積んでも、このままでは何も守れなくなるのではないか」と嘆いていたのが印象的だった。もっとも、私はそれを自分のことのように受け止めることができなかった。ただ、遠巻きに見ているだけだ。


 とはいえ、最近は私自身も不可解な現象に、うっすらと目を留めるようになっていた。たとえば屋敷の庭に咲いていた花が、なぜか一夜にして焦げたような跡を残していたのに、翌日には元どおり鮮やかな色合いを取り戻していたり。あるいは、空を飛ぶ小鳥たちが突然羽を傷めて墜落してきたかと思えば、その場で何事もなかったかのように飛び立っていくといった光景を目にしたこともある。どれも一瞬の出来事であり、私が見間違えたのかもしれないと思えるほど儚いが、記憶の中にははっきりと焼き付いている。


「世界がおかしくなっているのかも」


 そんな考えが浮かぶたび、私は人けの少ない場所を選んで歩くようになった。周囲のざわめきや不安が私の耳に届くたび、自分の中に広がる空虚がそれらを吸い込んでいくような、奇妙な感覚を覚える。まるで私の存在が負の渦のように、周りの世界の乱れを取り込んでしまっているのではないか――そんな疑念が頭から離れないのだ。もちろん、現実的な根拠があるわけではない。けれど、このところ感じる世界のほころびは、私の心の虚ろさと重なる気がしてならない。


 今朝、屋敷を出る前に父と顔を合わせたとき、彼は深い溜め息をついたまま私に声を掛けようとはしなかった。母もまた、目を伏せがちに使用人たちへ指示を出しており、私が何を考えているのか探ろうとする素振りは見せなかった。婚約破棄の一件に加え、近頃の天候不順や災害まがいの出来事が続くせいで、両親は気が休まる暇もないのだろう。そんな家の気配を嫌うわけではないが、なんとなく息苦しく感じてしまい、私は早めに外へ出てきたのだ。


 薄曇りの空を見上げると、いつ雨が降ってきてもおかしくなさそうなのに、なぜか乾いた風が吹き抜けていく。どこへ向かうとも決めず、足は自然と王都の中心部へ進んでいた。石畳の広い広場には露店が並び、普段であれば客を呼び込む声が溢れているはずだが、今日は妙に活気がない。顔見知りの行商の女性が荷物を抱えながら、暗い顔でこちらをちらりと見た。何か声を掛けられるかと思ったが、そのまま視線をそらして通り過ぎていく。以前なら挨拶のひとつもあっただろうに。これが私が置かれている立場なのか、それとも世界の雰囲気のせいなのか、判別がつかない。


 広場の片隅には、一群の人々が集まっているのが目に留まった。どうやら町外れで起きた小さな地震の影響について議論しているらしい。震源はごく浅い場所で、被害はほとんどなかったそうだが、それでも人々は不安そうに言葉を交わし合っている。王宮が何らかの対策を講じているらしいが、具体的な指示はまだ下っていないようだ。その輪の一番外側で、一人の少女が怯えた面持ちで立ち尽くしているのに気づく。おそらく親を探しているのだろう。彼女の震える瞳が私と一瞬かすめ合ったが、そのまますぐに逸らされてしまった。私の存在は、彼女にとっては何の力にもならないどころか、むしろ近寄りがたいものに見えているのかもしれない。


「誰も、私なんかを頼ろうとは思わないのだろう」


 そっと漏らした独り言は、虚空へ消えていく。思い返せば、私はこれまで周囲からの期待に応える形だけで生きてきた。けれど、その期待が崩れた今、私を必要とする人がいるとは思えない。私自身も、誰かのために何かをしたいとは感じられない。むしろ、自分の心がこの世界に悪影響を及ぼしているのではないか――そんな妄想めいた不安がかえって強くなってきているのだ。


 風が強まったせいか、空がざわめいているように感じる。広場の人々が頭上を見上げ、「嵐かもしれない」と口々に言い出した。雲が渦を巻いているかのようにも見える。けれど、雷鳴も聞こえないし、雨の気配もない。ただ不気味な暗い色だけが空全体を覆っていた。まるで天が苛立ちに身を震わせながら、人々を静かに見下ろしているようだ。


 それをじっと見つめるうち、私の中の空虚がまたひとつ深い穴を作っていくような感覚がした。世界が壊れかけている――そう思わずにいられない光景だ。だが、その原因が自分にあるという考えが頭をもたげるたび、私は思考を止めてしまう。そんなこと、あるはずがない。それこそ被害妄想かもしれない。けれど、もし仮にそうだとしたら、私は一体どうすればいいのだろう。世界が傾きかけているのを止めたいとも思わず、ただ静かに見守ることしかできない自分がいる。


 嫌な汗が額に滲んだので、少し歩みを早め、広場を抜けて細い路地へ向かう。建物の影に入ると、さっきまでの人声が一気に遠のいた。石造りの壁には古びた貼り紙が幾重にも重なって剥がれかけており、そこに書かれた文字は風雨で消えかけている。少し進むと、青い扉を備えた小さな雑貨店があった。興味があったわけでもないが、なぜか足が向いて、その扉をそっと押し開けた。


 店内は薄暗く、カウンターの奥に主人らしき女性がぼんやりと腰掛けている。薬草や香料、それに石鹸などが棚に並べられているが、全体的に整理されていない印象を受ける。私が入ってきたことに気づいても、彼女は「いらっしゃい」と呟いただけで、それ以上は何の反応も示さない。殺風景というか、どこか疲れ切ったような雰囲気が漂っている。


「すみません、少し見ていってもいいですか」


 そう声を掛けると、女性は小さく頷くだけだった。店内を一瞥すると、通路の隅には埃をかぶった小さな宝石箱のようなものが置かれている。なぜか目を引かれて近寄ってみると、それは装飾が剥がれ落ちかけた木箱で、表面には古い文字が掘られているようにも見える。しかし、私には意味がわからない符号のようだった。手に取ってみようかと思ったが、なんとなく躊躇われてそのまま見送る。代わりに、棚の一角に並んでいたハーブの包みをひとつ手にしてみる。ラベンダーに似た香りが微かに漂ってきた。


「あまり売れなくて、困っていますの」


 カウンター越しに、その女性がぼそりと漏らした。客が少ないということだろうか。私は小さく微笑をつくりながら、包みを数点選び、これをいただきますと言って差し出した。彼女は「助かります」とそっけなく答えて、重い足取りで会計をする。まるで、この店全体が活気を失ってしまったような印象を受ける。私が代金を払っても、ほとんど嬉しそうな素振りを見せない。


「王都の人々は、いろいろ不安なんでしょうね。最近はいろんな噂が飛び交っていますし……」


 そう言いかけると、女性は口をへの字に曲げ、視線をそらした。その態度から推測するに、どうやら彼女も何かしらの不安を抱えているのだろう。あるいは、私の素性に気づいているのかもしれない。“あの娘”と陰で言われることに慣れていない住民はいないだろうし、私の存在が悪い方へ影響していると思っている人もいるのかもしれない。嫌ならば店を出ればいいのだけれど、なぜか私はしばらくその沈んだ空気の中に佇んでいたくなった。もしかすると、同じように世界のほころびを感じているのではないか――そんな連帯感を勝手に抱いたのかもしれない。


 結局、会話はそれきり途絶え、私は包みを受け取って店を出た。外の路地では、先ほどとは違う風が吹いていて、温度が少し上がったようにも感じられる。この不安定な気候は一体なんなのだろう。以前はもっと、四季折々に移り変わる穏やかな天気だったはずなのに、今は一日のうちに乾いた風と湿った風が交互にやってくる。あまりに不自然な変化に、頭の中が混乱しそうだ。


「もし、これが私のせいだとしたら……」


 思わずそう呟いたとき、胸が締めつけられるような息苦しさを覚えた。実際、私は何もしていないはずだ。ただ存在しているだけ。だというのに、私の心の中の虚無が世界にまで広がり、あちこちで小さな歪みを生み出しているのではないかという疑念が、徐々に大きくなっていく。それが馬鹿げた思い込みだとしても、一度抱いてしまうと拭えない。なぜなら、私の“何も感じられない”という感覚が、確かに周囲を引き離しているように思えてならないからだ。


 空を仰ぐと、すっかり雲が途切れて、あらわな太陽の光が地上を照らし始めていた。つい先ほどまでの暗い空が嘘のように、まばゆいほどの光が路地に差し込んでいる。それでいて、まだ風は肌寒さを残していた。周囲を見回すと、人々が戸惑いながら歩を進めており、店先のテントを張ったり畳んだりする業者の姿が目に入る。誰もが落ち着かない様子だ。まるで季節や時間の秩序が壊れかけているかのように、天候は刻一刻と表情を変えている。そんな世界の移ろいを、私はただ茫然と眺めていた。


 胸の奥から湧き上がる疑念が、私の思考を濁らせる。まさかとは思うが、私がいる限り、世界はこれからも不穏を増していくのではないか。そんな極端な発想が頭をもたげるたび、自分の存在が嫌になってくる。けれど、同時に私は、その異常な変化をどこか受け入れている自分を感じていた。世界がどうなろうと、私にはもう関係ない――そう口にしてしまいそうな、無力感と諦めに近い感情が渦巻いているのだ。


「私が何も感じないから、世界にも感情が消え失せているのだろうか」


 思考がそこまで流れ着いたとき、ふと足元が揺れたような気がした。実際には地面が動いたわけではないのかもしれない。それでも、一瞬めまいにも似た感覚が私を襲ったのだ。まるで私と世界の境界が揺らいで、どちらが内側でどちらが外側なのか曖昧になっていく。前を歩く人々は気づく様子もなく、普通に歩いている。私はなんとか深呼吸をし、胸の奥に突き刺さる不安をやり過ごすしかなかった。


 結局、そのまま自分でも理由がわからないまま路地を抜け、屋敷へ帰る道を探すことになった。人の流れに逆らうように歩いていると、すれ違う人々の表情には暗い影が落ちていた。町の中に広がる小さな噂と不安が、蝕むように広がっているのかもしれない。自分がその一端を担っているという思いは否定できないが、かといって何をどうすればいいのかは全くわからない。ただ、心の空虚と世界の歪みが重なっていくのを感じるのみだ。


 屋敷の門をくぐったとき、疲労感に足が震えそうになるのをこらえた。建物の前まで行くと、玄関先に母が立っていて、私を見るなり気まずそうに目を逸らした。彼女もまた、さまざまな不安と葛藤を抱えているのだろう。私にかける言葉は用意していないようで、そのまま後ずさるように屋敷の奥へ引っ込んでしまう。もはや家の中も外の世界も、同じくらい落ち着かない空気に満ちている気がする。私は一言も発さずに自室へ引きこもると、雑貨店で買ったハーブの包みを机の上に置いた。その香りをかいでも、心は少しも落ち着きを取り戻さなかった。


 窓辺に腰を下ろし、外を眺める。さきほどまで陰鬱な雲が広がっていた空は、今はまぶしいほどの陽射しに染まっている。こうして見ると、世界は何事もないかのように美しく見えた。けれど、私の胸には相変わらず水底にへばりつくような虚無が居座り、何も感じられない。これほど頻繁に気候が変わり、人々が不安に怯えているのに、それすらもどこか遠い出来事に思えてしまう。


 そして、そんな自分の感覚こそが、世界の異常を引き起こしているのではないか――そんな妄想じみた思いが消えない。何度否定しようとしても、心の闇に絡みつく不安が私を離さないのだ。もし仮に私の存在が世界を脆くしているのだとしたら……。でも、だからといって私に何ができるのだろう。何も思いつかない。助けを求める気力もわかない。誰にも言えないまま、ただ一人で沈黙を貫くしかないのだ。


 穏やかだった日常を揺るがす奇妙な噂と、気まぐれに翻る天候。そして私が心の奥に抱えた虚無は、まるで呼応するように深みを増している。これから何が起きるのか、予想もつかない。その不安に駆られる反面、私はどこかで期待しているのかもしれない。いつかこの空虚がすべてを塗りつぶし、私が感じる息苦しさを永遠に終わらせてくれることを――そんな考えはあまりにも危うく、けれど私には何よりも正直な思いだった。世界と私の心が、一緒に壊れていく未来が訪れるのならば、もしかしたらそこにこそ安らぎがあるのではないか、と。

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