第4話 疼痛
月明かりも届かない夜の道を、馬車はゆっくりと進んでいった。王宮の華やかな明かりから遠ざかるほどに、周囲は静寂に包まれていく。婚約破棄という出来事からさほど時間が経っていないにもかかわらず、私の胸には驚くほど何も残っていなかった。先ほどまでの一部始終が夢だったかのように思えるほど、頭の中は空白のままだ。母も口を開かず、重たい空気だけが馬車の中を支配している。
屋敷へ戻ると、寝室へ直行した私を、いつになく夜更けまで眠れない苦しさが襲った。だが、それは一般的な不眠とは少し異なる気配だった。心がざわついて寝付けないわけでも、感情が激しく波打って安らげないわけでもない。ただ、どこまでも冷たい静寂が私の体と心を包み込み、薄暗い部屋の天井を見上げるだけの時間が過ぎていく。やがてうとうとし始めたころには、すでに夜明けの気配が迫っていた。
翌朝、私が身支度を終えて食堂へ向かうと、父と母はすでに席についていた。どちらも疲れた表情を隠せず、食卓の空気は重苦しい。父が新聞を畳む音が、いつもより神経質な調子に聞こえる。母は私の顔を見るなり、ぎこちなく微笑んだ。
「大丈夫……?」
それが昨夜以来の初めての言葉だった。私は曖昧にうなずき、小声で「はい」とだけ答える。すると母はほっとしたようにため息をつくが、そうするうちに何かを言いかけては口をつぐむ。その動作から、彼女の中に渦巻く感情を感じ取れなくもない。娘を心配する気持ち、そして婚約破棄という重大事がどう王宮や貴族社会に波及するかという懸念。いろいろな思いがあるのだろう。それでも私の中には、そこに寄り添いたいという気持ちがほとんど湧いてこない。
朝食を取る気力が出ず、パンにかじりつくふりをしてほとんど残してしまった。父は私の態度に目を細めながらも、何も言わない。ただ、そのまなざしの奥には静かな怒りとも焦燥とも言えぬ色が見え隠れしていた。婚約破棄はあまりに重大すぎる問題だ。私の家柄にとっても、王家にとっても、避けては通れない騒動となる。けれど、私はそれをどう受け止めればいいのかわからないまま、食卓を後にした。
屋敷を出て庭に出ると、あたりはまだ朝の冷え込みが残っていた。庭の花々は、まるでいつも通りに開いている。そこには何の変化も、悲壮感もない。世界はいつもと同じように回っているはずなのに、私だけが浮き上がってしまったような疎外感を覚える。結局、私は何も変われなかったし、何も失った実感もなかった。ただ、胸の奥の空虚が、さらに深く沈んでいくのを感じる。それがまるで、私を引きずり込もうとする暗い海の底のように思えるのだ。
ほどなくして、使用人がやってきて、両親が呼んでいると告げた。心当たりはある。きっと、これからどう動くべきか、あるいはどのような対策を取るかという話をするのだろう。私は憂鬱な気分を抱えながらも、屋敷の書斎へ向かった。そこには父と母だけでなく、数名の親族や家の顧問役のような者たちが集まっていた。皆が口々に「こんな大事は前代未聞」「早めに手を打たねば」と大騒ぎしている。いざ私がドアを開けると、一瞬でその声が収まり、全員の視線がこちらに集まった。
「……お入りなさい」
父が低い声で言い、私は部屋の奥へ進む。彼らの表情には同情なのか、不信感なのか、あるいは単なる好奇心なのか、さまざまなものが入り混じっているように見えた。書斎の重々しい空気を感じ取るうちに、自然と息苦しさが募ってくる。しかし、私の内側は相変わらず凪いだままだ。
「リリー、昨夜のことを詳しく説明してくれないか」
父が淡々とした口調で尋ねる。私は状況をそのまま答えるしかない。王子から“もう婚約はなかったことにしたい”と告げられ、自分もそれに異論はなかった。だが、詳しい理由までは知らないと。表面的にはそれだけだ。実際、それ以上の何もなかったのだから仕方がない。父は私の言葉に口を引き結び、母は顔を曇らせながら手元の書類を握りしめている。
「まさか、王子が一方的にそんなことを言い出すなんて……いや、最初から彼にその気がなかったのか」
誰かがそんな言葉を洩らした。私に対する非難の声も少しはあるだろうかと身構えたが、どうやら皆が王子側の非を強く感じているらしい。彼らにとっては、自分たちの家と王家の結びつきが破棄されたという事実が問題なのだ。私が傷ついているかどうかに関心があるというよりは、家の立場がどうなるかを懸念しているのだろう。それをわかっていても、私は自分から反論する気にはならなかった。
「もし真実ならば、王子にそれ相応の責任を取らせるべきではないか」
「いや、だが我々は王家を敵に回すつもりか?」
「それにしても、彼女は何と言われたのか。もう少し詳しく聞かなければ……」
乱雑に交わされる言葉をぼんやりと聞きながら、私は部屋の隅に追いやられた家具のように立ち尽くす。人々が激しく言い争うたびに、私の空虚はさらに深まり、まるで身体の底から風が吹き抜けていくような感覚を覚える。耳には数多くの言葉が届いているはずなのに、そのすべてが遠くぼやけて感じられるのだ。
結局、父は「まずは落ち着いて動向を見極めよう」という結論を口にし、それぞれの顔を見渡して議論を収めた。私への直接的な叱責や罵倒はなかったが、期待を裏切られた痛みや苛立ちが空気に漂っている。書斎から出て行く親族たちは、私とすれ違う際にちらりと視線を送るが、皆が微妙な表情を浮かべるだけだった。彼らはおそらく、私を哀れみ、同時に冷ややかな興味を抱いているのだろう。そう気づいても、何ら心は動かない。まるで私が人形であるかのように、ただその視線を受け流すだけだ。
廊下に出ると、使用人が私を心配そうに見つめていた。けれど、私はその視線から逃げるように、早足で自室へ向かう。部屋に入り扉を閉めた瞬間、疲れきった体をベッドに投げ出した。ふわりと舞い上がる香りに、微かな懐かしさを感じる。そういえば昔は、このベッドの中で母の読み聞かせを聞きながら安堵の眠りに落ちたものだ。当時の自分には、まだ温かい夢があったのかもしれない。思い返してももう遠い記憶だ。
「どうして、こんなにも何も感じられないんだろう」
自嘲気味に呟きながら目を閉じる。婚約が破棄され、それが知れ渡り、周囲の人々がざわついている。普通ならば大きな不安や悲しみに襲われるはずなのに、私の中は静寂に満ちている。いや、それ以上に、どこか歪んだ充足感すらあるかもしれない。まるで、人生の脚本が破り捨てられたことで、今さら何をしても構わないと思えるような、“投げやり”に近い感覚。けれど、それもまた淡く、はかない思いにすぎない。
翌日から、私の元にはいくつかの手紙が届き始めた。なかには友人を名乗る者からの「事情を教えてほしい」という内容もあれば、嫌みを込めた書き出しのものもある。貴族の女性たちの噂の種になるだろうということはわかっていたし、今さら動揺もしない。私はそれらを丁寧に目を通すこともせず、使用人に預けるだけにしていた。少しだけ好奇心が湧かないわけではないが、それを読んだからといって何かが変わるとは思えなかった。
そうして数日が過ぎると、今度は屋敷に妙な客がやってきた。私に直接会いに来たという若い貴族の令息で、顔を合わせるのは初めてだったと思う。聞けば、婚約が破棄されたと知って「お見舞い」と称して訪ねてきたらしい。母や執事が対応に困っているというので、やむなく応接室へ足を運ぶ。そこには色鮮やかな花束を抱えた青年が座っていて、やや興奮気味に私を出迎えた。
「お顔を見て安心しました。突然で驚かれたでしょうが、お気を落とされているのではないかと心配で……」
その声には、確かに優しさが含まれていた。けれど、その裏には別の意図も感じる。もしかすると、私が王子との縁が消えた今、チャンスがあると考えているのかもしれない。私がその気配に気づくや否や、青年は何やら気まずそうにしながらも矢継ぎ早に話を進めようとした。
「もしよろしければ、少しでも気晴らしになればと思い、近々開かれる舞踏会にご招待したいのです。あなたが了承してくれたら、きっと皆も喜ぶはずで……」
私は曖昧な笑みを浮かべながら、「ご厚意はありがたいです」とだけ答える。おそらく、これ以上は踏み込ませないという意図を察したのだろうか。彼は少し落ち着かない面持ちになり、それでも何とか礼儀を守りつつ花束を差し出してきた。応接室を出るとき、彼の背中はわずかにうなだれていたようにも見える。私はその光景を、どこかガラス越しの風景のように眺めるだけだった。人々が私に向けるいろいろな感情――同情、興味、あるいは下心――それらが一切、私の心を動かさない。むしろ、その無感動こそが異常なのだとわかっていながら、どうしようもない。
そうした奇妙な日常を送っていると、ふとした瞬間に“世界”の亀裂を感じることがある。例えば、薄暮の空を見上げたとき、雲がほんの少し不自然にねじれているように見えたり、風の吹き方が妙に逆巻いているような錯覚に陥ったりする。あるいは、庭の花が一晩で枯れていたのに、翌朝になると何事もなかったかのように咲き誇っているような不条理。実際に見間違いなのか、私の心が見せる幻なのか、どちらともつかない小さなほころびが、目の端にちらつくのだ。
「このままでは、何かがおかしくなるかもしれない」
そんな予感が、私の胸をかすかに締めつける。ただでさえ虚ろな心が、さらに深い底へと落ちていくような感覚を覚える。時折、周囲の景色全体が淡く揺らいでいるように思えることがあるのは、気のせいだろうか。人の姿も、建物も、どこか輪郭がぼやけているような錯覚に囚われる瞬間がある。そのたびに目をこすったり頭を振ったりしてみるが、どうにも改善しない。まるで、私が抱える空虚が世界全体に伝染しているようにも思えてくる。
もちろん、それを誰かに打ち明けることなど考えもしない。婚約破棄の件だけでも家中が大騒ぎなのに、私が「世界が少しずつ壊れている気がする」などと口にしたら、まともに相手にされるはずがない。それに、そもそも私自身、確信を持ってそう思っているわけではない。何かが壊れ始めている気はするが、それが現実なのか、自分の精神の不調なのかすら定かではないのだ。どちらにしても、私のこの虚ろな感覚を埋める手立ては見当たらない。
日々をそうやって過ごすうち、周囲の人々は次第に私への接し方を変え始めた。あからさまに哀れむ者もいれば、噂話を楽しむように冷ややかな態度を取る者もいる。表面的には励ます言葉をかけながらも、どこか嘲笑を含んだ瞳で見る人も少なくない。婚約破棄の知らせは、常に人々の興味をかき立てる材料だ。しかも、相手は王家の人間。火種としてはこれ以上ないほど強力なのだろう。そんな雑多な感情にさらされても、私の心はひどく静かだ。人々の憶測や醜聞にまみれた視線を浴びるたび、かえって私の中の空虚が色濃くなっていくように感じる。
朝日に照らされた庭の花々は、今日も変わりなく咲き誇っている。けれど、それがいつまで続くのか、私はふと不安になる。一見、何も変わらない平穏な景色であっても、その奥底では何かが軋み、やがて崩れていくような気がするのだ。その感覚は確信でもなく、しかし拭いきれない恐れのようでもある。世界そのものが、私の心のようにひび割れを広げているのかもしれない。そう思うとき、足元が揺らぐような奇妙な眩暈に襲われるのだ。
「私は、いったいどこへ向かっているのだろう」
夜の王宮での出来事以来、頭の中にはその問いがこびりついて離れない。周囲の目を気にしながら仮面をつけて生きるか、それとも新たな道を探すか。いや、そもそも道などないのかもしれない。私が持っているものは、ただこの空虚だけ。世界に亀裂が走り始めたとしても、私にはそれを止める手立てがあるとは思えない。ましてや、その原因が自分にあるのだとしたら……そんな考えが脳裏をかすめるたび、呼吸がうまくできなくなる。
けれど、今の私には、ただこの日常を淡々とやり過ごすしか術がない。噂話や好奇の視線を受け流し、毎日のように届けられる手紙を開く気にもなれず、家の者が強く口を挟まないのを幸いとする。しかし、その“やり過ごす”という行為こそが、私をいっそう孤立させているのだとも思う。私の心は、常にどこか冷ややかで、世界との接点を深めようとする意欲がわいてこないのだから。
だからこそ、時折感じる違和感――風向きや光の反射がおかしく見える瞬間などが、私に警告のように囁いているように思える。「気づけないふりをしないで」と。もっとも、私が何をすればいいのかはまったくわからないし、そこに手を差し伸べる人も見当たらない。すべては霧の中にある。私はただ、心の中に生まれた亀裂を抱えたまま、崩れるかもしれない地面の上を歩き続けるしかないのだ。
婚約破棄という衝撃的な事実は、周囲の人々に騒ぎと好奇心をもたらした。しかし、私自身の世界は、それ以上に深刻な歪みを帯び始めている。それは誰の目にも見えないくらい微細な亀裂かもしれない。それでも、私にははっきりとわかる。自分の空虚が、まるで波紋のように広がって、この世界のどこかを脆くしているのではないか――そう考えざるを得ないほどに、日常の輪郭が震えている気がするのだ。だが、私はまだ、その揺らぎの先にある結末を直視する勇気を持ち合わせてはいなかった。