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第3話 彷徨

 宮殿へ続く大理石の階段を上ると、まるで別世界に迷い込んだかのようなきらびやかな光景が広がっていた。高い天井から吊るされた豪奢なシャンデリアは淡い金色の光を放ち、広間には鮮やかな衣装に身を包んだ人々が集まっている。優雅な音楽が遠くから聞こえてくるなか、私は母とともにその人混みへ足を進めた。周囲からは華やかな笑い声と挨拶が交錯し、香水の匂いが微かに混じり合って鼻腔をくすぐる。けれど、その賑わいは私を少しも浮き立たせることなく、むしろ一層の空虚を思い知らせるだけだった。


 母はそっと私の肘に触れ、まるで導くように人々の間を縫って歩いていく。彼女なりに私を心配してくれているのだろうと分かるが、それでも私の心はどこか遠くにある。ほんの少し前までは、こうした社交の場に出るたび、仮面をつけるように笑みを作り、“それなり”の会話をこなしてきた。しかし、今夜に限ってはいつもより一段と息苦しさが増している気がしてならない。会場全体に漂うきらびやかさが、私の中にある暗い影を一層際立たせるようにも思えるのだ。


「リリー、あなたはあちらへ行っていなさいな。私は少しご挨拶をしてきますから」


 母が微笑んでそう言うと、私の背を軽く押し、それから別の貴婦人がいる方へと向かっていった。私もそれをきっかけに、一人で会場の隅に足を運ぶ。そこには飲み物や軽食が並べられたテーブルがあり、使用人たちが給仕に忙しく動き回っている。グラスに注がれた薄い葡萄酒のような飲み物を一口飲んでみたが、やはり味がわからない。喉を通りすぎる液体の感触があるだけで、私の中には何の感慨も生まれない。


「いらしていたのですね」


 後ろから声をかけてきたのは、かつて何度か顔を合わせたことのある若い公爵家の男性だった。会釈しながら近寄ってきた彼は、私の顔を興味深げに見つめている。以前も何度か社交の場で言葉を交わしたが、特に親しいというわけではない。私は慌てて小さな微笑を浮かべ、「こんばんは」とだけ返事をした。


「ああ、王家の方々も今夜は大勢いらっしゃるようで、にぎやかですね。あなたも、殿下とはもうお話になりましたか?」


 彼の言葉に、私はほんの一瞬だけ心の端がざわつく。殿下――私の婚約者である王子のことである。名目上、私は王家の血筋を引くその人と将来を約束されていることになっている。だが、その関係が私の心を満たしてくれたことは一度もない。むしろ、遠い存在にしか思えず、取りつく島のない感覚さえある。公爵家の彼がどんな心境でその問いを投げかけてきたのかは分からないが、私は当たり障りのない答えを口にする。


「まだです。少し後にご挨拶できればと思っています」


 すると、彼は「それはそれは」と言いながら、愛想の良い微笑みを浮かべて人混みへと戻っていった。彼の足音が遠ざかると同時に、私の心もまた重たくなっていく。婚約者と堂々と呼ばれているのに、私はその彼と深い言葉を交わした覚えがない。それでも、私は社交界の慣習として、ごく当たり前にそれを受け入れてきた。自分の人生にまったく実感を持てないまま、どうにか“表面上の正しさ”だけは保っている。そんな自分が、むしろ滑稽で仕方ない。


 音楽が一段と盛り上がり、ダンスの輪が広がっていく。カップルたちが楽しげに踊る姿が、きらびやかな照明の下で流麗な影を作り出していた。ドレスの裾が舞い、紳士が淑女の腰を支えながらステップを踏む。けれど、私にはその光景がただの儀式のようにしか見えなかった。誰もが決まりきった動きを繰り返し、互いの表情には微笑が貼り付いている。それが本心から出た喜びなのか、それとも社交としての演技なのか、見分ける気力もない。


「ああ、そこにいたのですね」


 ふと、どこか上品ながら冷たい響きを持つ声が聞こえた。振り返ると、夜会服をまとった若い男性が佇んでいる。青みがかった金の髪を持ち、整った顔立ちをしているその人が、私の婚約者である王子――アラン王子だ。私の目をまっすぐに見つめているが、その眼差しにはどこか計算されたような距離感が感じられる。私は息を整え、形だけの礼をとる。


「殿下、こんばんは。お招きいただきありがとうございます」


 自分でもぞっとするほど、感情のこもっていない声が出る。アラン殿下は微かに口元を歪め、「こちらこそ、今夜は盛況ですね」と答えた。周囲には取り巻きと思しき貴族たちが何人か並んでいるが、彼らはあえて会話に加わろうとせず、一歩下がった位置で静観している。気まずさのようなものが空気に漂っているのを感じ、私の胸はさらに重くなっていく。


 アラン殿下との婚約は、それこそ周囲が決めたことであって、私の意思によるものではない。最初に話を聞かされたとき、私はほとんど何も感じなかった。ただ、“そういうものなのだろう”と受け入れ、両親も王家も喜ぶならば反対する理由もないと考えたからだ。もちろん、婚約を解消したいとか逃げたいというほどの強い感情も湧かなかった。ただ、形ばかりの役割を与えられ、淡々と日々を過ごす日常が続いていただけ。それは殿下にとっても同じだったのかもしれない。


「少し、場所を変えましょうか」


 アラン殿下はそう言うと、私の腕を取ることもなく、まるで主従関係のように先へ進んだ。私は黙ってそれについていくしかない。広間の片隅にある小さな扉を開け、少人数で会話するためのサロンへ入る。そこは外の喧騒から少し離れた空間で、天井に施された淡いランプの光が優しく壁を照らしている。ソファの上には誰もおらず、花瓶に挿された白い花が静かに香っていた。


 扉が閉められると、周囲の取り巻きたちは引き下がっていった。サロンの中には私と殿下だけが残される。殿下は振り返ることなく、窓辺へと歩み寄る。重そうなカーテンを少し引き、夜の庭園に目を向けた。


「……実は、今日は話しておきたいことがあって呼びました」


 殿下の背中は張りつめたように硬直していて、その声音からは強い意志とも不安ともつかない揺らぎが感じられた。私は薄々予感していた。こうやって二人きりの場を設けられる時点で、ただの世間話ではないだろうと。胸の奥が微かにざわめくが、それは恐怖や怒りではなく、むしろ安堵に近い感覚だった。


 アラン殿下は振り向き、真剣なまなざしで私を見る。そして、はっきりした口調で言葉を紡いだ。


「……すまないが、我々の婚約の話は、今日ここで終わりにしたい」


 その言葉がサロンの空気に溶けると、私はまるで水底に沈んだような静寂を感じた。殿下の表情を観察すると、その奥には確かな葛藤が見える。王子としての責務や周囲の期待、それらから逃れようとする決断が、今この場で形になったのだろう。私は一瞬言葉を失ったが、不思議なほど取り乱しもしなかった。ただ、内側で「やはり」と呟く自分がいた。


「……そう、なのですね」


 まるで他人事のように口を開く。殿下はさらに続ける。


「お互い、望んでいたわけではないことは分かっていた。私にも責任がある。だが、このまま偽りの関係を続けても、お互い何も得られないだろう」


 その言葉は耳を通り抜けては消える。殿下が真剣に語っているのは理解できるし、今の行為がどれだけ大きな波紋を呼ぶかも頭ではわかっている。けれど、私はそれ以上何の感情も浮かべられない。驚きはおろか悲しみも怒りも、まるで湧いてこないのだ。まったくの“無”だった。


「……本当に、よろしいのですね?」


 決まり文句のように口をついて出た質問に、殿下は深く頷いた。その瞳にはどこか決意が見えるが、同時に不安や後悔の色も含まれているように思えた。けれど私は、それすらも遠い出来事として受け取っていた。


「構いません。もともと、私たちには何もなかったのでしょうから」


 私がそう答えると、殿下はほっとしたような、しかし困惑したような面持ちで小さく息を吐いた。おそらく、もっと抵抗されるなり取り乱されるなりすると思っていたのかもしれない。けれど私は、まったく抵抗する気にはなれなかった。むしろ、これでやっと自分の立場を整理できるかもしれない――そんな空虚な期待さえある。


 サロンの中には、短い沈黙が降りた。遠くからはパーティの音楽や人々の笑い声が微かに届いてくる。その喧噪が、まるで別世界の出来事のように思える。殿下は言葉を探すように視線を泳がせていたが、やがて何かを振り切るように首を振り、私に向けて丁寧な礼をする。


「勝手なことをして、申し訳ない。君のご両親にも後日正式に謝罪するつもりだ。……ただ、私も自分の道を探したかった。君には、どうか自由になってほしい」


 それを聞いたとき、胸の奥がかすかに締めつけられるような痛みを感じた。自由。そんな言葉が、私の人生の中にどこか繋がりをもって存在しただろうか。思えば、私はずっと何かしらの決まりに縛られたまま日々を送ってきた。家柄、社交界、婚約……それらを否定することさえ躊躇していたのは、今さらながら自分が空虚を恐れていたからかもしれない。けれど、その空虚は一向に埋まる気配もなく、日増しに広がる一方だった。殿下が私を解放するというのなら、私はどこへ向かえばいいのだろう――そんな疑問だけが頭を巡る。


「わかりました。殿下の決断に、私は従います」


 そう口にした瞬間、どこか遠くで微かなざわめきが起きたように感じた。自分の中で最も大切だと思っていた“何か”が終わりを迎えたはずなのに、案外あっさりと受け入れられてしまう。自分でもその冷ややかさが恐ろしいが、これが私にとって“当然”なのだ。何かを壊されたわけでもなく、私が失うものなど最初から存在しなかったのだと思えて仕方がない。


「ありがとう」


 殿下はそれだけ言うと、再び小さく礼をしてからサロンを後にする。あとに残された私は、壁際のソファにそっと腰を下ろした。白い花が活けられた花瓶からは、ごく控えめな香りが漂ってくる。けれど、その香りすら私の心には染み込んでこなかった。


 “婚約破棄”――言葉の上では重大な出来事だが、私の胸は驚くほど穏やかだった。かすかな動揺はあったものの、それは海面のさざ波のように消えてしまい、結局のところ心の深い部分には何も響かない。これで私が自由を手にするのだとしても、私の空虚感が消えるわけではない。むしろ、「やはりこうなるのか」という諦観すらある。


 少しして扉が開き、母が様子を窺うように姿を見せた。その表情は強張っていて、すでに何が起こったのかを感じ取っているのかもしれない。だが、私を詰問することはなく、ただ「大丈夫?」という言葉をかけてくる。私は答えに詰まりながら、小さく頷くだけだった。母はそれ以上は何も言わず、私の隣に座って手を握りしめる。振動すら感じないその手のぬくもりが、かえって私には遠いもののように思えた。


 遠くでダンスの曲が変わり、広間の方ではまだ明るい声が飛び交っているのだろう。これが王宮での催しの実態――表面的には華麗だが、その裏では利害関係や思惑が交差し、誰もが自分の立場を守るのに必死になっている。そんな場所に、私がこれから先も顔を出し続ける必要などあるのだろうか。けれど、答えなどすぐには見つからない。父や母がどう反応するか、社交界の人々がどう受け止めるか……考え出すと頭が痛くなる。


「帰りましょうか」


 母がそう提案し、私は曖昧にうなずく。会場ではまだ夜会が続いているが、もはや私がここに留まる理由はないだろう。母も私の変化に気づきながら、今は深く追及しないという判断をしてくれたのだと思う。けれど、きっと後になれば両親や周囲は大騒ぎするに違いない。私が受けるであろう視線や噂話を思うと、息苦しさで胸がいっぱいになる。だが、不思議と悲壮感や危機感は湧いてこない。まるで、通過儀礼のように淡々と受け止めるしかないのだと、自分の中で結論づけているようだった。


 母とともにサロンを出ると、広間の明るい光や音楽が再び耳に飛び込んできた。しかし、それらはやはり私にはただの“雑音”のようにしか響かない。廊下に出ると、使用人が待ち構えていて、出口へ案内しようと近寄ってきた。母は小声で礼を述べ、そのまま私の手をそっと引く。彼女の手は微かに震えているように感じたが、私自身はどうしてもそれを温かく握り返すことができなかった。


 大理石の階段を下りるとき、ふと振り返って広間の方へ視線をやる。ドレスやタキシードに彩られた人影が行き交い、シャンデリアの光が床や壁に跳ね返って輝いていた。美しい世界……そのはずなのに、まるで私を歓迎していないように思えてならない。いや、もしかすると、私の心が初めからここに居場所を見つけていなかっただけなのかもしれない。


 そうして、母と並んで王宮の外へ出る。夜空を見上げると、星の光がどこかぼんやりと霞んでいた。先ほどまで降りそうで降らなかった雨が、今になってわずかに落ちてきたのかもしれない。やがて迎えの馬車が到着し、扉が開かれる。母が心配そうに促してくれたが、私は一瞬、踏み出す足を止めた。


「これで、本当によかったのだろうか」


 心の中でそう問いかけても、答えは返ってこない。結局、自分で選んだわけでもない婚約が、自分で拒否するまでもなく終わりを告げただけだ。自分が何かを失った気もしないし、かといって解放感があるわけでもない。どちらにしても、私はずっと空っぽのままだ。この大きな出来事さえ、心の隙間を埋めることはないのだと痛感してしまう。嘆きたいのか、喜びたいのか、自分ですらわからない。ただひたすら、胸の奥が冷たく澄んだ湖のように静かで、その表面には波紋ひとつ広がらない。


 母がもう一度呼びかけたので、私は何も言わずに馬車へ乗り込んだ。扉が閉まり、外の煌びやかな光が遮られる。車窓から見えるのは、夜の宮殿の一部だけ。すでに踊りの音楽は遠くに薄れてしまい、その代わりに自分自身の呼吸音がやけに大きく響く。窓ガラスにぼんやりと映った自分の顔を見つめると、そこには感情が抜け落ちた仮面だけが浮かんでいた。


 馬車がゆっくりと動き出す。王宮の門をくぐれば、あのきらびやかな宴がどれだけ遠くにあるものかを痛感するだろう。私は馬車の中で、母にどう言い訳をしようか考える気力も起きず、ただ黙り込んだままだった。母も何かを問いたそうに見えるが、言葉にならないようで、結局は静かな溜め息をつくだけ。宮殿の光から遠ざかるにつれ、私たちを包む空気はどんどん重たくなっていくように感じられた。


「心は、結局、何も変わらない」


 そんな考えが頭を巡る。婚約が破棄されるという衝撃的な出来事にもかかわらず、私の胸には依然として虚無が広がっている。驚きも悲しみも薄れてしまった世界の中、私はこれから何を見つけていけばいいのだろう。まるで永遠の闇に漂う船のように、自分がどこへ向かうべきかもわからない。


 夜の街へ繰り出す馬車の振動が、少しずつ体を揺らす。疲れや気まずさ、そして言いようのない喪失感――それらが混ざり合って、やがて私の意識はぼんやりと霞んでいく。瞼を閉じれば、先ほどの華やかな光景が脳裏に浮かぶが、まるで遠い国の話のようだ。そこにかつて“自分”がいたのだと信じられないほどに、心は冷え切っている。


 母の小さな囁きが聞こえたが、私はその意味を捉えきれないまま、ただ微弱に息を吐く。その一瞬の空気の震えが、静寂の中に消えていくのを感じた。まるで、夜の闇に溶け込むように。こうして大きな決断が下されたというのに、私の人生は何ら鮮やかさを得ることもなく、次の朝を迎えるのだろう。どれほど派手な出来事が起きても、私の心が満たされることはきっとない。そんな確信めいた想いを抱きながら、私は黙って目を伏せる。馬車が辿る道の行き先など、どうでもいいとさえ思えるほどに、すべてが虚ろなのだ。

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