第2話 静寂
朝の空気がまだ冷たさを帯びるうちから、屋敷の廊下には規則正しい足音が響いていた。床に敷き詰められた磨き込まれたタイルが、まるで鏡面のように控えめに光を反射している。いつもならば食堂へ続くこの通路は、出勤前の使用人たちが忙しなく行き交う場所だ。けれど、その日の朝は不思議なほど静かで、私が一歩ごとに踏みしめる音だけがはっきりと耳に届く。まるで、時刻すらも停滞しているかのような感覚に陥る。
「おはようございます、リリーお嬢様」
後ろから声をかけてきたのは、長くこの家に仕える老いた執事だった。少ししゃがれたその声は慣れ親しんだもので、たしかに私を呼んでいる。それでも私は、どこか遠くで鳴っている鐘の音を聞くような心持ちになっていた。一拍遅れて振り向き、うっすらと笑みを作る。
「おはようございます」
自分でも驚くほど、音にならないような囁きしか出てこなかった。執事はほんのわずかに首を傾げたが、気にする風でもなく、伝えるべきことを淡々と口にする。今日の朝食はどの部屋で行われるか、午後からの予定は何が入っているか。そんな日常的な報告が、私の中でただ文字列のように流れ去っていく。理解しようとすればできるはずなのに、頭の片隅では「それがどうした」という冷えた声が響いている。
私は幼い頃からこの屋敷で暮らしてきた。生まれ落ちた家は王国の中でも歴史ある貴族の家柄で、社交界においてもそれなりの地位を持っている。大きな門を抜ければ、手入れの行き届いた広大な庭園が広がり、そこを抜けてようやく正面玄関へたどり着く。玄関ホールにはシャンデリアが掲げられ、絨毯を踏むと足音が吸い込まれるように消えてしまうほど、重厚感が漂っている。見る人が見れば、誰もが感嘆の声を上げるような屋敷だろう。だが、ここは私にとって“当たり前”の場所であり、心が震えるような特別感を覚えたことはほとんどなかった。
子どもの頃は、もう少しだけ違っていた気もする。廊下を走り回れば母に叱られ、庭園の花壇の花をむやみに摘めば父にたしなめられた。そんな些細な出来事に対しても、本来ならば笑ったり泣いたり、素直な感情が溢れていたはずだ。しかし、成長とともに私は“感情”というものの輪郭を曖昧に感じるようになってしまった。喜び、悲しみ、驚き、そして愛情ですら、どこか遠い世界の出来事のように思える。あたかも自分が仮面をつけたまま生活しているような感覚だ。
屋敷の中央階段を下りて、南側の廊下を進むと、朝食用の小広間へ通じる。そこにはすでに母と父が席についていた。母はきりりとした目元をしていて、若い頃はさぞ美しかったろうと想像できる。今もその面影を保ち、強い意志を感じさせる佇まいがある。父は口数こそ少ないが、厳格な態度で家族を見守ってきた。私が視界に入るなり、母が「おはよう」という言葉とともに、微笑みともとれるぎこちない表情を向けてくる。
「おはようございます」
私はテーブルに着きながら返事をする。父は新聞を広げたまま、一瞬だけ視線を上げてすぐに紙面へと戻る。母は小さく息をついて、食事を取るよう促した。給仕がサラダやパンを盆に乗せて運んできて、テーブルの上に並べていく。食卓では当たり前の光景なのに、そこに流れる空気は少し重たい。あるいは、私の心がそう感じているだけかもしれない。
母は私の顔をちらりと見て、「今日はあまり体調が良くなさそうね。大丈夫かしら」と心配する声をかけてくる。そうしてこられると余計に“何も感じられない”という事実を痛感してしまう。私は慌てて「大丈夫」と返事をし、微笑もうと努める。こういうとき、どういう表情が適切なのかすら、最近はよく分からなくなってきた。
「食欲は……あるの?」
母の言葉に軽くうなずき、何とかパンを口に運ぶ。味がしない。ただ、わずかにバターの油っぽさを舌が感じ取るだけだった。最近、どんな料理を食べても同じような感想しか浮かばない。つくづく自分が壊れているのではないかと疑いたくなる。でもこの家に生まれ、周囲の誰もが私を“しっかりした娘”と見做してきた以上、そんな曖昧な不安を口にするわけにもいかない。私がどこかで歯車を狂わせてしまったとしても、誰にも話せないのだ。
朝食を終えると、しばらくして執事が今日の予定を手短に伝えてくる。午後には私が出席を予定しているお茶会があるらしい。王都の中心部にある貴族の邸宅で、若い方々が集まる催しだという。母もその一部に顔を出す予定とのことで、早めに支度をするように言われた。こうした行事は正直なところ退屈でしかないが、行かなければならない。それは社交界に生きる者としての義務のようなものであり、私自身の意志や感情は二の次とされる。
食卓を離れ、二階にある自室へ戻る。廊下には古い肖像画が並べられ、先祖代々の面立ちが私を見下ろしている。彼らはこの家の繁栄を支え、誇りを守ってきたのだと聞かされている。だが、私には彼らの眼差しに温かさを感じることができない。ただ無言の責任だけが圧し掛かってくるように思えてくる。
部屋に入ると、メイドが待機していて、着替えの手伝いをしてくれる。私の持つドレスの中でも特に人気のあるデザインを薦められたが、どれも同じに見えると感じた。しかし、そう言っては彼女たちの真面目な仕事ぶりに水を差してしまうだろう。だから私は黙って笑みを浮かべ、差し出された服に身を通す。次々に巻き上げられる髪や飾りの位置をチェックしながら、メイドが「よくお似合いですわ」と言っては微笑む。自分ではない誰かが作り上げる“装い”に身を包まれるたび、私はひとつの人形になっていくような気分になる。
「リリーお嬢様、先に屋敷の門の前まで馬車をまわしておきます」
メイドがそう告げて部屋を出ていく。ドアが閉じられて一人になると、私はふう、と息をつく。ため息というよりは、空気の抜けるような音に近い。なぜこんなにも苦しいのか、自分でもよくわからない。ただ、目に見えるものすべてが、自分とは無関係の舞台装置のように思えるのだ。着飾ったドレスも、いずれ行くお茶会も、私の存在さえも、すべてが空虚なまま動いているように感じる。
窓辺に立ち、外を見下ろすと、広大な中庭が広がっている。朝早くから庭師たちが花壇の整備を行ったのだろうか。整然と並んだ花々の色彩は鮮やかで、見る者の心を和ませる美しさがあるはずだ。しかし、私の胸は微動だにしない。感嘆も喜びも浮かばない。ただ、遠い存在として花の色を識別しているだけ。こんなにも鮮やかな世界が広がっているのに、どうして私はこんなにも無関心でいられるのだろう。心のどこかで「おかしい」と思いつつ、もうそれに慣れきってしまった自分がいる。
やがて、階下から母の呼ぶ声がした。用意ができたら馬車のところへ来るように、とのことだ。私は再度鏡に向かう。そこには、流行りの髪形に整えられ、淑やかなドレスをまとう“高貴な娘”の姿があった。けれども、その瞳はどこか曇って見える。表情を作ることには慣れているはずなのに、どうしても明るい笑みが浮かばない。鏡の中の自分が、まるで私ではない誰かのように思えてならない。自分の輪郭が世界から浮き上がっていくような、そんな奇妙な感覚が、また心を締め付けてくる。
父と母は、私の“社交界での振る舞い”を非常に重んじてきた。広大な財産や名声をこれからも守り、より高い立場を目指すには、私の行動や評判が重要だからだろう。もちろん、表面上は私の幸せを願っていると口にするが、その言葉がどこまで本音なのか、時々わからなくなる。そんな気持ちが募るたび、私はますます自分の心に鍵をかけてしまう。気づけば、“本当のこと”を自分ですら把握しきれなくなっていた。
階段を下りると、執事が整った姿勢で待っていた。彼は丁寧に頭を下げ、「準備ができ次第、門へご案内します」と告げる。父と母はすでに先に馬車へと向かったらしい。私は「お願いします」と短く返事をするだけで、さらに言葉を継ぐ気になれなかった。この屋敷では、言葉数が少ない方が楽なことが多い。少なくとも、誰にも余計な心配をかけずに済むから。
扉を開けると、外の光が思った以上にまばゆく感じられた。屋敷の外観は白を基調とした格式高い造りで、周囲の緑とも調和がとれている。それを見つめながら、なぜかふと胸がざわついた。綺麗な景色を見て美しいと思う感性は残っている。しかし、そこに深い感情が伴わない。まるで絵画を眺めているかのような距離感があるのだ。それが私の中で“異常”なのかどうかさえも、もうわからなくなっていた。
執事に続いて玄関の階段を下りると、馬車が門の近くで待機しているのが見える。ラベンダー色の外装で、高価な内装が施された馬車だ。これに乗って向かう先で、私はどんな表情を浮かべ続けなければならないのだろう。微笑みの仮面が、今日もまた一層重たく感じられる。母が先に乗り込んでいて、私を手招きするように顔をのぞかせた。その仕草を見ていると、一瞬だけ私もほっとしたような気になる。母の存在そのものには、まだ救いがあるのかもしれない。もっとも、それが私に寄り添ってくれる優しさなのか、それとも家門を守るための行動なのかはわからないけれど。
社交界における私の立ち位置は、周囲が思うほど単純ではない。確かに名のある家の娘として、多くの視線を集める存在ではある。けれど私は、そこに感じるべき優越感や充実感を味わったことはなかった。周囲が気を遣ってくるのを見ていると、むしろ息苦しさが増していくばかり。心の奥にはいつも冷たい塊があって、それがどんどん大きくなるばかりだ。誰かが声をかけてくれば、笑顔を見せなければならない。それが表面的なやり取りで終わることも分かっている。そうして、私は今日も仮面をつけたまま、無意味な言葉を重ねるのだろう。
「――行きましょう、リリー」
母が馬車の中から促す。その声は優しく聞こえたけれど、どこか焦燥感を含んでいるようにも思えた。私がこれから出席するお茶会で、何か大切な話があるのだろうか。もしくは、既に決まっている婚約の話題が再燃するのかもしれない。あるいは別の事情かもしれない。けれど、私自身の心はどこまでも冷えたまま。ここで馬車に乗り込まずに遠くへ逃げ出すような勇気は、残念ながら持ち合わせていない。だから私は、静かにドレスの裾を押さえながら馬車に乗り込み、母の隣に腰を下ろした。
走り始めた馬車の車輪が、石畳を揺らすリズムを刻む。その音はまるで夢の中の足音のように、私には現実感を伴わない。時折、車窓から覗く町並みが見える。商人が声を張り上げている屋台や行き交う人々の楽しげなざわめきが届いてくるが、それらは分厚いガラスの向こうで起きている出来事に思える。こんなにも活気がある町なのに、私の視界には遠くに霞んだ絵巻のようにしか映らないのだ。
「リリー、あまり疲れないようにね。お茶会の場でも、無理をする必要はないのだから」
母が私の顔色をうかがいながらそう言う。私は「はい」と返事をするが、彼女の言葉がどこまで本心なのか測りかねていた。周囲への印象を損なわないための言葉かもしれないし、本気で私を気遣ってくれているのかもしれない。いや、どちらであっても、今の私は喜びも悲しみも感じられない。だから、ただ肯定の一言を返すしかないのだ。
屋敷の敷地を出て、石造りの門をくぐれば、すぐに王都の主要な街道へ入る。街道には開門したばかりの店が並び、人々が慌ただしく行き交う。明るい陽射しの下、城壁に守られた町は平和そのものに見える。そのうち、徐々に馬車は中心街へと近づいていくだろう。お茶会の会場に着けば、洗練された衣装に身を包んだ若者たちが待っているはずだ。私も似たような服をまとっているのだから、きっと場には溶け込めるに違いない。けれど、“私”という存在が、その空間に本当になじむことができるのだろうか。
音を立てて揺れる車内で、私は小さく目を閉じる。馬車に揺られる感覚は眠気を誘うときもあるが、今はただ頭の奥で鈍い痛みが広がり始めていた。前の晩に雨が降ったせいか、空気は少し湿り気を帯びている。そんなわずかな体感さえ、私をむしろ現実へ繋ぎとめる唯一の糸のようにも思えた。もし自分がここで何も考えず、ただまどろみに落ちてしまったら――そのまま目覚めないで済むのかもしれない。そんな極端な思考がふと浮かんで、自分でも嫌になる。
「大丈夫?」
母が心配そうに声をかけてくる。私は目を開けてうっすらと微笑み、「ちょっと考えごとをしていただけ」と言い繕う。考えごと。そう言われれば、私の思考は常に“空虚”という底なしの井戸を覗き込んでいるようなものだ。時折、その井戸の底で何かが蠢いているのを感じるのに、覗き込んだところで得られる答えなど何もない。けれど、考えることを止めれば、私という存在がますます空虚と同化してしまう気がして――だからこそ、こうして不安定なままバランスを取るしかないのだ。
馬車の車輪はなおも進み続ける。屋敷から離れるほどに、人の流れは増えていくようだ。通りの両脇に並んだ建物の窓ガラスが朝の日差しを反射し、ちかちかと光っていた。その奥には様々な人々の生活が詰まっているのだろう。友人同士で集まって笑い合う人たち、家族で団欒のひとときを過ごす人たち、あるいは密やかに涙を流している人もいるかもしれない。そんな多様な人生がこの世界には溢れているはずなのに、私にはその織りなす豊かさを掴みとれない。全てが膜の向こう側にあるように思えてならないのだ。
遠くから鐘の音が聞こえてきた。王都の中心にある時計塔が時刻を告げているのだろう。それは人々の暮らしを支える大切な合図であり、私も昔から幾度となく耳にしてきたはずだった。だが、このときは不思議と胸の奥にざわつきを呼び起こす。それが何の合図かは分からない。ただ、深い井戸の底が揺れ動いたような――そんな微かな気配だけが残る。
「何かがおかしい」
口に出すことはなかったが、その言葉が脳裏をかすめる。いつものようにお茶会へ向かうだけなのに、まるで別の場所へ連れて行かれるような不安感がある。あるいは、私自身が変わってしまったのかもしれない。意識しないうちに、何かを壊し始めているのかもしれない。そんな漠然とした恐れが、胸の奥で小さく疼き続けていた。だが、その正体を知る術は見当たらない。――まだ私は、それがこれから訪れる大きな波紋の予兆であることに気づいてはいなかった。