表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/12

最終話 虚無

 すべてが消え失せた後に残ったのは、限りなく静かな「無」だった。もう風の気配も、音の響きも感じられない。ただ、色彩さえも奪われた白とも黒ともつかない空間が、永遠に続いているかのように広がっている。ここには高さや深さといった概念すら存在しない。かつては世界と呼ばれ、大地があり、空があり、人々が息づいていたという痕跡は、もうどこにも見当たらないのだ。


 もとより、崩壊の最期の瞬間はあまりにも儚く、すべてを容赦なくさらい去ってしまった。土地や建物のみならず、そこに刻まれていた記憶や思い出までも、一瞬にして形を失った。燃え盛る炎も、砕けた大地の叫びも、もう残響ひとつ響かない。時という概念すら、すでにこの場所には存在していないのかもしれない。静寂だけが、あたかも茫漠たる海のように辺りを満たしている。


 そう、すべては消えた。かつて人々が行き交い、争い、愛し合い、そして日々を営んでいたあらゆる事象が、いまや完璧な闇と光の中に溶け込んでしまったのだ。嘆きや悲しみどころか、喜びや安息すら、この「無」の中には痕跡を残してはいない。大地を割った亀裂も、空を歪ませた嵐も、世界の終焉を告げた轟音さえも、まるで初めからなかったもののように、痕跡なく消え失せている。


 けれど、不思議なことに、これほど徹底した無音と無色の只中にありながら、どこかでかすかな「残響」を感じさせる瞬間がある。耳をすませても音は聞こえず、目を凝らしても何も映らないのに、あたかも記憶の片隅がかすかに揺れるような、微かな感触が胸をかすめるのだ。それは風のように定まらず、光のように形がなく、説明すらできないほどの小さな揺らぎである。まるで、かつてこの無の中に世界が存在していたことを、声にならない囁きで伝えているかのようにも思える。


 世界とともに消えたはずの姿は、もうどこにも見当たらない。人も、建物も、木々も、すべては崩壊とともに塵芥のように散り、今は完全に「無」の静寂が支配している。そこに悲壮感はない。むしろ、全てが均され、穏やかに眠っているかのような深い眠りの景色とも呼ぶべき状態だ。もしこの場所に意識を持った者が立ち入ったとしても、その存在もまた瞬時に溶け込んでしまうだろう。ここはそれほどまでに大きな「空白」であり、永遠を思わせる深淵なのだから。


 あの子も、もういない。かつて淡く儚い空虚を抱えながら、崩れゆく世界を静かに見届けた存在すら、今は完全にこの「無」に溶けてしまっている。悲しみや悔恨、あるいは安堵という感情までもが、もはや行き場を失って押し黙っている。きっと最後の瞬間、彼女は自分が何かを手に入れることも、何かを捨てることもなく、そのまま閉じかけた瞼を通して消失の光景を見届けたはずだ。そして、それはそれで、ひどく穏やかだったのだろう。なぜなら、すべてを捨て去った後には苦しみさえも残らない。それを証明するかのように、この無の空間には、一片の軋みも悲嘆の欠片も存在しない。


 それでもなお、この広大な虚空には、ほのかな“終焉の美しさ”が漂っているように見える。色彩の概念が通用しないはずなのに、それでもどこか淡い光を宿している気がするのだ。かといって、それが虹のような華やかさを伴うわけではない。むしろ、白とも黒ともつかない混沌の中に、無数の過去が封じ込められたまま結晶化しているような、不思議な透明感があるだけだ。誰の目にも触れられない、誰の耳にも届かない静寂の奥底に、その結晶は散りばめられている。そして、それらがわずかに反射する光こそが、この「無」の中に残された終焉の証なのかもしれない。


 どれほどの時が経ったのか、あるいは時という観念すらここには存在しないのか──いまや知るすべはない。ただ言えることは、すべてが安らかに眠りにつき、完全な沈黙に融解しているということだけだ。かつては人々が喧騒を交わし合い、愛と憎しみの狭間で葛藤し、それなりに輝いていた世界。しかし、その存在証明をする声はもうない。町の痕跡も、思い出の散り際も、すべては大いなる「無」の中に抱かれている。


 それはけっして空虚なだけの終焉ではないと、ふと感じることがある。完全なる沈黙の中に浸っていると、胸の奥で静かに呼吸しているものがあるように思えてくるからだ。言葉でも感情でも形容できないその感覚は、あらゆるものを超越した安らぎの源のようにも思える。そして、それはあの少女──この世界が終わるのを最後まで見届けたあの子の記憶が、どこかで微かに鼓動しているのかもしれない。もしそれが事実であっても、もう誰にも確かめようがないのだが。


 この無限の「無」の中では、始まりも終わりも等しく包みこまれている。やがて新たな世界が生まれるかもしれないし、永遠に何も芽生えないかもしれない。だが、そもそもそんな分岐が存在すること自体、いまの「無」には意味をなさないのだろう。すべての争いも喜びも、すべての記憶も血潮も、とうに「無」と同化してしまったのだから。何かが起こるとすれば、それはまた別の次元における出来事であり、この安らかで静かな空間はそれを阻むことも受け入れることもなく、ただ黙している。


 そう、世界は確かに終わった。そして、すべてが消え去った後に広がるのは、圧倒的な静寂と透明感のある空虚。しかし、その空虚には、なぜだか美しさと呼べる余韻が漂っている。悲しみでも希望でもなく、ただ「終わり」を肯定するための薄明かりのようなもの。もはや形容できる言葉すらないそれは、最後に残った微かな輝きと言ってもいい。世界を見届けたあの子が、自らを失いながら残した呼吸の痕跡が、ここにほんの一瞬だけ宿っているかのようだ。


 この静寂を破るものは何もない。優しい眠りのように、おだやかで、それでいて重苦しさも感じない。よく見れば、この無の奥底に、わずかな光の粒子が漂っているように思える。指先で触れようとしても何も掴めはしないし、確かに目に映るわけでもない。それでも、透明なうつろの風が、どこかへ導くようにゆるやかに流れている。時空が意味を失ってなお、消滅し尽くしたはずの世界が残した小さな“残響”が、ここに滲んでいるのだろうか。


 それはまるで、終焉を描く絵画の最後の一筆のようだった。すべてが揃ったキャンバスに、締めくくりの筆がさっと走る。そして、その筆跡は絵そのものを塗り替えることもなく、ただ美しい曲線を描いて闇と光へと消えていく。そうした一連の作業が終わったあとには、何も残らない。キャンバスが視界から取り除かれ、世界自体が無へ溶けていく。一縷の寂しさや懐かしさまでもが、その美しい軌跡とともに静かに途絶えていく。


 こうして、すべては終わった。美しかったものも、醜かったものも、鮮烈だった出来事も、淡い夢も、痛みも喜びも、完全に無へと還った。嘆く者はもういない。生きる者もいない。何かを願う者もいなければ、祈る声すら届きはしない。ただ、最後の名残として、見えない風がかすかに吹き渡る。もしもそれに耳を傾けられる意識があるなら、「ここに確かに世界は存在していた」という囁きを感じ取るかもしれない。だが、それも一瞬の幻想に過ぎず、またすぐに「無」そのものへと戻っていくのだ。


 完全なる虚空。どこまでも続く静寂。だが、そこには確かに一縷の“美”が宿っていた。何もないからこそ、かつてのすべてが正しく終わったのだと証明するかのように。その証は、一瞬の残光のように世界を撫で、今や跡形もない空間を優しく包み込む。そして、やがてそれさえも溶けていく。こうして、すべてが何もない無へと帰した瞬間こそが、最も儚く、それでいて美しかったのかもしれない。


 誰も見ていない。誰も聞いていない。何も残らない。しかし、この無の静寂は、あらゆるものを受け入れると同時に、あらゆるものを溶解し、深く穏やかに眠りについている。そこには疑念も苦痛も、愛憎すらも影を落とさない。最後の瞬間を迎えた世界は、そしてそこに生きていたすべての存在は、安らかな消失を通じて永遠の静寂へと吸い込まれていった。


 もう、何も語る必要はない。物語はここで終わり、すべての声は沈黙し、終焉の美しさだけが淡く残っては揺らめいている。――これは、すべてが消え去ったあとの、何もない世界の風景。音もなく、色もなく、ただ無色の光だけが微かな残響を響かせては、やがて訪れる深い闇の波間に沈んでいく。すべては永遠の眠りについたのだ。目覚めは存在しない。そうして、この物語は完全に静まり返り、ひとつの終わりへと収束する。ここには、美しい終焉の記憶だけが、かすかに息づきながら溶けているのだから。


(完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ