表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/12

第11話 終幕

 大地が悲鳴を上げるように軋みはじめたのは、空の色がゆるやかに薄闇へと溶け込んだ頃だった。かつては季節の移ろいを告げていた風も、今ではただ耳をつんざくようなうめき声を運んでくるだけ。地面を走る亀裂はやがて互いに絡み合い、巨大な裂け目となって足元を蝕んでいく。この世界に残された時間が、いよいよ限りなく少なくなっているのだと肌で感じた。空にはもはや太陽も月も存在せず、陰鬱な灰色だけがのしかかっている。それでも、私はあまりにも静かな心を抱えたまま、その終わりを見届けようとしていた。


 歩くたび、足元の石畳が崩れ落ちそうなほど脆くなっているのがわかる。すでに町という町は廃墟と化し、煉瓦造りの建物も壮麗な塔も、影を残すだけの残骸に変わってしまった。そこへ吹き付ける風は、まるで世界の最期を告げるためだけに存在するかのように冷たく荒々しい。先ほどまで耳に届いていたはずの人間の声は、もうどこにも感じられない。激しい混乱の叫びすら、この段階に至ってはかき消されてしまったのだろう。


 とはいえ、私の胸はひどく穏やかだった。もとより、世界が壊れてゆくさまをここまで目の当たりにしてきて、今さら動揺する気力など残ってはいない。むしろ、これだけ徹底的に崩れ去るなら、かえってすべてが清々しく消え失せることに安らぎを感じる。むろん、それが私にとって解放かどうかはわからない。ただ、悲嘆も苦痛も覚えないまま、この終わりの光景を受け入れている自分がいる。それが私に許された唯一の役割なのかもしれない、とさえ思う。


 私が最期に向かったのは、かつて心のどこかで安らぎを感じていた小さな礼拝堂だった。幼い頃、そこへ足を運ぶと不思議と胸の奥が落ち着いた記憶がある。特別に信仰心があったわけではないが、光の射す窓辺と静かな調べがどこか懐かしかったのだ。もちろん、今ではその礼拝堂も壁の半分は崩れてしまっている。破れ落ちたステンドグラスの欠片は足元に散乱し、荘厳であったはずの祭壇も折れた柱の下敷きとなっていた。だが、不思議とこの場所にはまだ“何か”が残っている気がしてならない。それを確かめるために、私は瓦礫を踏み越えながら礼拝堂の中央を目指した。


 天井の一部は完全に抜け落ちて、冷たい風と鈍色の空が露わになっていた。礼拝堂の中央までたどり着くと、かすかに朽ちかけたベンチが目に入る。そこへ腰を下ろそうとしたとき、石床が揺れるように波を打ち、神秘的ともいえる低い轟音が耳を打った。地殻が砕かれるような振動が、礼拝堂全体を揺らしている。私はバランスを崩しかけたが、すぐに気を取り直して片手をつきながら体勢を整えた。ささやかな一挙動にも、もはや焦りは感じない。世界が最期の瞬間へと向かう足音が、こんなにもはっきりと伝わってくるのだから。


 ひとまず崩れたベンチの端に腰を降ろすと、胸の奥がじんわりと温まる感覚があった。静かな安らぎ――それは、幼いころに感じていたものと似ている気がする。思い返せば、あの頃はまだ日々に疑問を抱くほどの意識もなく、周囲の大人たちの思惑に合わせて行動していた。それでも、礼拝堂に足を踏み入れると、不思議とまぶたを閉じたくなるような安堵が生まれた。それはもしかすると、“絶対的な静寂”の存在に自分を委ねる心地よさだったのかもしれない。今の私が感じているものも、それに近い。瓦礫に囲まれ、崩れゆく天井の下で、世界の終末を迎える静寂のうちに身を置いている。その状態が、何よりもしっくりと馴染んで感じられるのだ。


 あちこちで亀裂が広がり、床が裂け始める。隆起した石材がうねりのように盛り上がり、壊れたステンドグラスの破片がかすかな輝きを放ちながらカランカランと転がる。天井から崩れ落ちてきた梁が礼拝堂の奥へ斜めに突き立っているが、奇妙なことに私の周囲だけは不気味なくらいに障害物がない。そのせいで、まるで特別に設えられた舞台の真ん中にでも腰かけているかのような錯覚に陥る。しかし、私はそれを違和感とは思わない。ただ静かに観客のいない劇を見守る当事者であり、傍観者でもあるのだ。


 空がさらに深く暗転すると同時に、轟音がよりいっそう激しさを増した。地面の奥底で大きなものが砕け散るような感触が伝わってくる。まるで大地自体が悲鳴を上げ、最後の息を吐き出しているかのようだ。かつては朝の光に照らされ、多くの人が集い、祈りや歌が響き渡ったこの礼拝堂も、いまや崩壊という運命から逃れられない。その瞬間が間近に迫っているのを、肌で感じとる。


「そう、もうすぐ終わるんだわ」


 思わず口に出した独りごとにも、やはり何の感情も籠もってはいない。すべてが自然の流れの一部であるかのようにさえ感じる。世界は生まれて、やがて終わりを迎える。私がそこに介在しようがしまいが、定められた終焉は変わらない。むしろ、こんなに長く続いていたのが不思議なくらい、と思えるほどの確信がある。だからこそ、私は抗うことも嘆くこともなく、この光景を見つめるだけでいいのだ。


 さらに大きな衝撃音が響き、床に走った亀裂が私の足元まで到達した。大地は複数の塊に分断され、ゆっくりと沈み始めている。空は、一部がひび割れた硝子のようになっていて、そこから闇とも光ともつかない色が流れ出している。まるで天蓋が液状化し、世界の境界を溶かしはじめているかのようだ。視界がにじむように揺らめき、音さえ不規則に遠くなったり近くなったりを繰り返す。何もかもが曖昧に崩壊する一歩手前――私はその中心に腰を下ろしたまま、ただ優しい眠気のような感覚を覚えていた。


「……もう、何も残らなくていい」


 そっと言葉を落とすと、礼拝堂の床が裂け、足を置いていた石材がぐらりと沈んだ。私は身を起こして立ち上がるでもなく、ただその揺れに身を預ける。支えを失った柱が倒れ込んでくるかと思えば、なぜか私を避けるように横へずれ、煙のようにすり抜けていった。光の層がじわじわと侵食して、目の前にあった瓦礫を溶かすように消し去る。礼拝堂の構造自体が溶解し、空や大地との境目がわからなくなっていく。あたりには色と音の混沌が広がり、まるで夢の果てを覗き見るような幻想が繰り広げられていた。


 もう、この世界のどこにも平穏は残っていないだろう。街も、森も、海も、すべてが同じように壊れ、消え、無へと帰しているはずだ。私はふと、かつての知り合いの顔を思い浮かべるが、その映像は一瞬でぼやけて消えていく。恨みも後悔も、もはや抱く暇はない。ただ、崩壊のなかで誰もが自分の最後の瞬間を迎えているのだろうと思う。私も、いずれそうなる。もう間もなく。その事実だけを心の底で確信しながら、ぎりぎりの場所で呼吸をする。


 やがて、全身が浮き上がるような不思議な浮遊感が生まれた。足元の床がゆるやかに崩れ落ち、私を支えるものがなくなる。けれど、恐怖はない。むしろ目を閉じたいような安堵がそこにある。感覚のすべてが遠のき、耳鳴りだけがかすかに脳裏を支配する。それは、恐らく世界の亡骸が最後の響きを鳴らしているのだろう。私は目を伏せ、意識を手放していく。何もかもが消えていくことを、まるで眠りにつくときのように受け入れているのだ。


 最後に、一筋の光がまぶたの裏を掠めた。幼いころの光景か、それともまったくの幻か、判別もつかないほど一瞬の輝き。そこには笑い声のようなものが混じっていた気がするが、もう耳はとらえきれない。まぶたをゆっくりと開けば、そこには何の色も、形もない。すべてが闇とも光とも呼べない、無の深みへと沈んでいた。私はその中心に吸い込まれるように溶けていき、最後の呼吸すら忘れてしまう。


 大地の砕けた残響が遠のき、空の消失を告げる声すらも聞こえなくなる。私の体の輪郭も、心の輪郭も、すべてがほどけていく。ここにはもう何も存在しない。世界が終わり、私もまた終わる。その事実だけが、最後の最後まで胸を安らかにしてくれる。長い旅だったようにも思えるし、ほんの一瞬の出来事だったようにも感じる。どちらにせよ、終焉とはこういうものなのだろうと納得しながら、私は無へと帰していくのだ。


 崩壊の光と闇が混じり合った先には、何もない。ただ静寂があり、私という存在すらもそこで薄れる。世界という形が溶かされ、全てが均一の静寂に還る。瞬きをすることもなく、呼吸をすることもなく、ひたすら薄明と闇の境界が消えていく中で、私はその終わりを受け止めた。もはや境界のない次元に溶けこんでいく感覚――その静かさこそが、私の心にとっては最大の安らぎであり、救いだった。


 こうして世界は、私を巻き込みながら無へと帰していく。見渡す限り何もない。音もなく、色もなく、ただ真っ白に近い無が広がっているようでもあり、深い闇が包み込んでいるようでもあった。すべては矛盾の彼方へ消え去り、私の意識もまたその片隅へと静かに沈んでいく。思考というものが存在しなくなったころ、最後に残るのは、虚ろでいて限りなく穏やかな感触だけだ。それが何なのかを言葉にする余地はなく、私はそれを心地よく受け止めながら、世界の終焉に溶け込んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ