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第10話 残影

 足元の石畳はひび割れ、雑草が無秩序に生え乱れている。かつてはきらびやかな建造物が立ち並んでいた王都の中心部も、今では廃墟そのものの姿に変わり果てていた。遠くで崩れかけた建物がゆっくりと傾き、瓦礫が鈍い音を立てて崩れ落ちるのが見える。荒廃と静寂が、まるで舞台装置のように広がっているのだが、耳に届くのはただ風が吹き抜ける音だけ。人の気配はほとんどない。時折、影のような姿が通りを横切ることはあるが、その足音さえすぐに闇に紛れてしまう。


 私はそんな荒れ果てた道を一人、淡々と歩いている。空はどこまでも白く濁っていて、昼なのか夜なのかすら判別しづらい。先日のような不思議な光の変化も、ここ数日はさらに乱れてしまったようで、気づけば辺りが暗くなり、また一瞬で明るくなる。その繰り返しに慣れたのか、私の中では時間という概念が薄れてしまっていた。生活のリズムも、朝と夜の区別も、もうとっくになくしている。それを不便と感じる余力さえ失っているのだ。


 道端には、かつて王都のにぎやかな商店街を彩っていた看板の残骸が転がっていた。名前のはがれかけた木片を目にしても、胸の奥は何も動かない。震えもしないし、悲しみも湧いてこない。ただ、こうして廃墟と化した町を歩くことが自然になってしまった自分を、どこか遠くから眺めているような感覚がある。まるで夢の中をさまよっているかのようだが、これが現実なのだと思い知らされるたび、逆にほっとする瞬間がある。そのほっとした心の動きさえ、私を少しだけ戸惑わせる。


「世界は、ここまで壊れてしまったのね」


 呟いても、空気がわずかに揺れるだけで、返事はない。もっとも、こうしてただ一人で歩くことを選んでいるのは自分自身なのだから、誰かからの返事など求めてはいないのだろう。この町の大半はすでに廃墟同然となり、残る人々はわずかだ。それぞれがどこかで、最後の望みを探したり、あるいは自分だけの小さな隠れ家に閉じこもってしまったりしているのかもしれない。けれど、私にはいずれの気力もない。ただ歩く。それだけで十分だった。


 不意に、壊れかけた建物の隙間から、懐かしい小径が見えたように思えた。記憶を探れば、幼いころに両親と散策をしたことのある道かもしれない。隣にあった教会の鐘楼はすでに半壊していて、鐘を支えていたはずの骨組みも折れているようだ。その光景をじっと見つめていると、なぜか幼少期の自分の姿が脳裏に浮かんだ。まだ何も知らずに、ただ両親の手をとって足並みをそろえていた日々――そこに喜びがあったかどうかは覚えていない。それでも、今よりは少なくとも目に映る景色に色があったような気がする。


 私は瓦礫を踏みしめながら、その細い道へと足を向けた。周囲には崩れかけた石壁や、ひしゃげた鉄柵が散在しているが、かろうじて人が通れる程度のスペースは残っている。建物の壁にはかすれた文字が書かれており、かつては町の人々に役立つ何らかの案内だったのだろう。今ではまったく機能を失っていて、その文字も崩れた絵の一部のように見える。ここを通り過ぎた先にあるのは、昔、私が父とともに立ち寄った小さな噴水広場だったと思い出す。ささやかな憩いの場で、子どもが水遊びをしていた光景が微かに甦る。


 歩を進めるたび、心の奥底にある空虚が揺れるような気がした。かつての自分が存在していた場所を目の当たりにすると、ほんの少しだけ暖かい何かを感じるのだ。それははかなく、すぐに消えてしまうものだが、それでも今の私には異質に思えるほどの「懐かしさ」だった。ずっと空虚を抱えてきた私でも、たしかに幼いころは誰かの温もりを感じた瞬間があったのかもしれない。それを忘れるように、生きてきただけで。そう考えると、自分でも説明のつかないチクチクとした痛みが胸を刺す。


 やがて、がれきの山を縫うように通り抜け、小さな広場の跡地にたどり着いた。中央にあるはずの噴水はほとんど崩れてしまっており、水を湛えていた部分は泥と砂利が混じり合って溝のようになっている。周囲には木のベンチがあったはずだが、その残骸すら見当たらない。あのころの面影など何ひとつ残っていないのに、なぜこんな場所へ足を運んでしまったのだろう――自分でも不思議な思いが湧く。


「ここで、私、少しだけ走り回った気がする」


 頭の中の記憶はぼんやりとしていて断片的だ。父と母の声が聞こえていたような気がするが、内容までは思い出せない。ただ、一瞬だけ私が声を上げて笑った光景が浮かんだような気がして、思わず足を止める。笑うという行為が、今の私にはほとんど想像できない。そのころの私は、まだ世界に対して無関心ではなかったのだろうか。どうしてそんな感覚を忘れてしまったのか、もう思い出す術もない。


 周囲はいつの間にか静まり返っている。風さえも止んだようで、廃墟の壁がひび割れている音だけがかすかに耳を打つ。まるで、この場所だけが時間から切り離されてしまったようにも感じる。私はしばらくそこで立ち尽くし、血の通わない指先で崩れかけた噴水の縁に触れた。さらりとした砂が手の平に落ち、指先からこぼれ落ちる。命をもって咲き誇るものは、もう何もない。ここに広がるのは、泥まみれの廃墟と、名残のない思い出の残響だけだ。


「世界は、どこまで行っても空虚……」


 その言葉が胸に染み渡るように広がる。実際、今こうして旅のように歩き回ってみても、目に映るのは崩壊と荒涼だけ。もう誰もいない町。無数の亀裂と廃墟。たとえ何かが残っていたとしても、それは私にとって価値のない景色の断片だ。けれど、こうやって記憶に引かれるまま歩いてみると、ほんのかすかな懐かしさが心をかすめる瞬間がある。心底から空虚でありながらも、かつてこの場所に私が生きていた証があるのかもしれないと、ほんのわずかに思える。


 私がそこにいる理由は、きっとこの世界にわずかに残った“記憶の名残”を感じとるためなのだろうか。特に何かを成し遂げたいわけでも、誰かを助けたいわけでもない。ただ、この場所が崩れゆくのを見届けるために、私はまだ歩いている。そんな矛盾が、今の私を動かしている原動力なのかもしれない。世界がどれほど無意味に感じられようと、自分自身を完全に消し去る意志は湧かなかった。それは弱さなのか、それとも最後の名残なのか、判断できないまま歩を進めるしかない。


 ふと、空が明るんできた。濁った灰色の雲が裂けて、昼のような光が一瞬だけ降り注ぐ。足元に影が落ちて、崩れかけた噴水の縁がくっきりと浮かび上がった。そういえば、幼いころもこうして噴水を眺めたとき、光が反射してきらめいていたっけ――そんな些細なイメージが胸に蘇る。水面がきらめき、私の髪を照らし、笑顔を浮かべた母の姿もあったかもしれない。ほんの短い一瞬だが、そんな幻が瞼の裏に広がってくる。


 胸が痛む。空虚のまま干からびたはずの心に、小さな波紋が生じるのを感じた。それは悲しみなのか、郷愁なのか、あるいは消えかけの希望と呼べるものなのか。自分でも区別がつかないほど繊細で、すぐに掬い取れそうにない。けれど、その波紋がまたすぐに静かに消えていくのがわかる。世界の崩壊に呼応するかのように、私の記憶もまた自ら灰色の深みに沈んでいく。最後に残るのは、やはり「空虚」でしかないのだと思い知らされる。


「……それでも、私はまだ歩いている」


 低い声でそう独りごちてみる。そろそろここを去ろう。廃墟となった町はあらかた見て回ったし、先に進んでも状況が変わるとは思えない。けれど、このまま噴水広場に佇み続けるだけの意味も見いだせない。何をしても同じなのだとわかっていながら、私はこの場所を離れ、再び瓦礫と廃墟の街路へと足を向ける。もしかすると、この先にも昔を思い出すような景色があるのかもしれないし、あるいはもう何も残っていないのかもしれない。そのどちらでも構わない。私はただ、終わりへの道を歩み続けるだけだ。


 静寂はさらに深まっている。人の姿を見かけることはますます稀になり、廃墟の隙間を吹き抜ける風だけが通りの埃を巻き上げている。視界に入るのは崩れ落ちた建物ばかりで、いくつかの家には穴が空き、内側はすっかり荒らされているようだった。畑や庭園の跡地に生い茂る雑草さえも色を失っており、まるで灰の塊が点々と連なっているかのように見える。こうして眺めているうちに、私ははっきりと感じる。この世界の大半はすでに「死んでいる」のだと。


「世界はどこまで行っても空虚」という結論に行きつくのは当然の流れだった。しかし、その中でも、この町を歩くあいだに感じた一瞬の懐かしさは嘘ではないはずだ。たとえそれが死にかけの炎のように儚く消えたとしても、間違いなく私の心に微かな波紋を作った。もしかすると、それこそが私を生かしている理由の一つなのかもしれない。どうしようもなく荒廃し、無意味に思える世界でも、かつての思い出がわずかに残っている――そんな事実が、私に最後の歩みを与えているのだろうか。


 歩き続けるうち、私は何度も同じような風景を通り過ぎる。廃墟の町並みは変化に乏しく、ただ無作為に壊れた建物が連なっているだけだ。空の色は頻繁に変化するが、光が当たっても暖かさを感じることはない。遠くでは今も、崩れ落ちる大地の呻きが聞こえる。そうしたすべてが、私にはまるで小さな背景音のようになっていて、恐怖も痛みも生まれてこない。ただ足を前へ出し続ける以外に、選択肢を思いつかないのだ。


「この世界には、まだどこかに人がいるのかな」


 そう思うことがあるのは、完全な無に包まれることを、ほんの少しだけ恐れているのかもしれない。私の心は空虚だが、それでも完全な闇に沈む瞬間をどこかで拒んでいる。そうやって矛盾を抱えたまま歩き続ける自分を、時折、不思議に思うことがある。すべてを捨て去りたいと願いながら、そう簡単には終われない。だから、私は廃墟をさまよう旅人のように、一歩ずつ崩れゆく世界を見届けているのだろう。


 そう考え始めると、また胸がかすかに疼いた。かつて誰かに向けて笑ったこと、優しい言葉をかけてもらったこと、それらが頭の隅でかすかに光を放っている。でも、それにしがみつくほどの意欲はない。そっと思い出しては見送るだけ。やがて、それらの記憶も世界とともに崩れ、風化し、最後には完全な暗闇へ溶けていくのだろう。私はそれを恐れるでもなく、歓迎するでもなく、ただ受け止めるしかなかった。


 視界の先に、見覚えのある広場の残骸が見えてきた。そこにはかつて大きな噴水があったという。だが、行ってみれば先ほどの小さな広場と似たように、すでに痕跡程度しか残っていないのだろう。この町で同じような廃墟をいくつ通り過ぎたか、数える気にもならない。繰り返し訪れる相似形の絶望。それこそが、今の世界の姿なのだと思えば、わずかな抵抗心すら薄れていく。私が見るべきものは、どこに行っても大差ない廃墟。残っているのは、かつての人々の笑い声の残響が、薄ら寒い風とともに空中を漂っているだけ。それだけなのだ。


 けれど、そんな繰り返しの道を歩きながらも、私は少しずつ確信している。世界が完全に終わりを迎えるまで、私はこの「空虚」という名の旅路を続けていくのだろう、と。そして、最終的には、私の内側に残っている最後の火花のような懐かしさも、やがて灰と化して消え去るのだと思う。そんな運命から逃れる意志も、抗う力も、今の私にはない。だからこそ、歩みを止める理由も見つからないまま、ただ廃墟の続く道を行くしかない。それが私にとっての「終わりへの旅路」なのだ。

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