表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/12

第1話 序曲

 ひとすじの光が、まだ湿った空気をかすかに照らしていた。夜明け前に降り注いだ雨の名残が、庭の草葉や石畳に小さな水滴をまとわせている。朝の冷たさが残るこの空気の中、私はゆっくりと足を進めた。いつもならば憂いを感じさせないはずの王宮の庭は、どこか遠い世界のように見える。視界の端には薄く白い霞がかかっていて、庭の奥へ続く細い小径を半ば隠している。そんな幻想的な光景さえ、私にはただ形を持つだけの景色としてしか映らなかった。心の奥底では、ずっと前から“何もかもが空虚”だと知っていたから。


 この庭は私の生まれ育った場所ではない。けれど、王都の中心にある宮殿に隣接するこの区画は、幼いころからたびたび訪れる機会があったため、私にとってはほぼ第二の故郷のようでもあった。高い塀に囲まれた外側には広い城下町が広がり、多くの人々の暮らしが交錯している。けれども、私にはそのにぎわいがとても遠い。まるで薄いガラスの壁越しに眺めているような感覚で、賑わいすらも実態を伴わない幻のように思えるのだ。幼いころから、私はずっとそうやって世界とのあいだに透明な隔たりを感じてきた。


「どうして私は、こんなにも満たされないのだろう」


 ふと頭をよぎるこの疑問は、今となっては問いではなく、ただの独白に近い。答えが見つからないと悟ったというより、答えそのものが最初から存在しないように思う。庭を歩く私の足音は、しとどに濡れた地面を踏みしめてかすかな音を立てる。雨上がりのしっとりとした空気は、心を落ち着かせるはずなのに、私の胸には安堵という感情さえ生まれない。


 ゆっくりとした歩みを止めて、振り返る。私の背後には石造りの大きな噴水があり、雨水が混ざっているのか、いつもよりは少し水位が高いようだ。かつて幼い私がここを訪れたときは、その噴水の周りを夢中になって走り回ったものだ。あのころの私は、少なくとも笑うという表情を知っていた。走り回って疲れたら、父や母が優しく声をかけてくれた記憶もある。けれど、その光景を思い返すたびに、胸の奥が暗い影に飲まれるような痛みを覚えるようになった。それはいつからだったのか、もう思い出せない。


 両親からは十分すぎるほどの愛情を与えられたと、人は言うかもしれない。衣食住にも困らず、名門の家に生まれ、それなりに大きな権威ももたらされてきた。周囲の人々も私を敬い、表面的には不自由のない日々。けれど、私の中にはいつの頃からか、小さな穴がぽっかりと空いていた。どんな華やかなお茶会に参加しても、どんなに美しい宝石を身につけても、その穴は少しも埋まらない。むしろ、きらびやかな場所へ行けば行くほど、自分が“何も持っていない”という事実を思い知らされるような気がしてくる。


 幼いころ、ある雨の日のことをふと思い出す。まだ言葉もうまく操れなかった私は、屋敷の窓から庭を眺めていた。雨に濡れる緑や花たちは、あまりにも静かで、まるで私だけがそこに置き去りにされているような感覚に陥った。外には確かに雨音が響いているのに、その音が消えていくほどの空虚さが胸を満たしたのを覚えている。あのとき感じた不思議な寂しさが、まるで私の人生に刻まれた最初の記憶だったようにも思える。


「そんなこと、誰に言っても理解されないわよ」


 かつての私は心の内側でそう呟きながら、大人たちの前ではおとなしく微笑んでみせていた。だからこそ周囲は私の抱えているものに気づけなかったのだろう。むしろ、私自身が大人びた態度でいることが自然で、外側からは“理想の娘”と見られていた節もある。しかし、どれだけ“良い子”で振る舞っても、この空虚感は消えやしない。幼少期から現在に至るまで、私はずっとこの感覚を抱えたままだ。


 ふと上空を見上げると、雲間から日差しが少しずつ漏れ始めている。雨上がり特有の淡い光が、濡れた庭を優しく照らしていた。前よりは明るくなったはずなのに、私の胸の中は相変わらず灰色に沈んでいる。まるで光が当たっても温まることのない石のように、何も感じない。こんなにも美しく儚い景色を前にして、どうして私はまるで彫像のように無感動でいられるのか。自分で自分を問いただしても、はっきりした答えは返ってこない。


 幼少期の頃から、私の周りには穏やかな空気があった。両親を含め、周囲の人々はしっかりと私の世話をしてくれたし、礼儀作法や言葉遣い、舞踏会のステップさえ手取り足取り教えてくれた。私自身が何かを拒否することもなく、それらを自然と身につけていった。そして、気づけば大人たちが誇らしげに笑う“良家の令嬢”となっていたのだ。誰もが口をそろえて言う。「なんとよくできた娘なのでしょう」と。でも、私にとってはまるで景色の一部のようで、そこに感情の波は生まれなかった。


 その“波”のなさが、自分を守るための鎧だったのかもしれない。幼いころから深く考えすぎる性質だったのか、世界のきらめきを純粋に享受するより先に、私はその奥に潜む虚しさを感じ取ってしまったのだと思う。パーティで人々が笑い合うたび、そこには形だけの社交辞令が渦巻いているのではないかと邪推する。愛を語り合う恋人たちを見ても、いつか訪れる別れや欺瞞を思ってしまう。そうやって疑ってしまう自分を、私はどこかで嫌悪しながらも、どうしようもなかった。


「もしかすると、私がこの世界を嫌っているのかもしれない」


 そんな考えが頭をもたげることがある。実際には、嫌いとか好いとかいう以前に、私の中には「何もない」と表現する方が近いような気がする。無という言葉が正しいのか、あるいは空虚という単語が適切なのか、すらもわからない。私はただ、生きることに意味を見出せないまま、与えられた立場と役割をこなしているにすぎなかった。


 王宮の庭を進んだ先には、大きなアーチ型の門がある。そこを抜ければ、さらに広い中庭へ出られるのだけれど、今日はなぜだか行く気になれなかった。頭上で揺れる木々の枝先から、水滴がぽとり、ぽとりと落ちてくる。その音だけが耳に響く。さっきからほとんど人の気配を感じないのは、私が早朝のうちにここへ来てしまったからだろう。もっとも、それが一番落ち着くのかもしれない。人波をかき分け、笑顔や言葉を交わすことに何の喜びも感じられない私は、こうして一人でいるときにこそ、ほんのわずかだが自分の“存在”を確かめられる気がする。


 思えば、この王国そのものが、どこか“淡い幻”のように思える時がある。しっかりとした城壁や兵士、歴史ある建造物が確かに存在しているはずなのに、それらはまるで遠い蜃気楼のようだ。私の視点から見れば、人々の営みも、豪奢なドレスを身にまとって華やかな言葉を交わす貴族たちも、いずれはすべて消えてしまう儚い現実にすぎない。生きていれば誰もが死に、城や建物もいつかは崩れ、伝統や文化も形を変えていく。私はそうした“終わり”のイメージを、昔からずっと意識してしまう。だからこそ、かりそめの美しさを見ても心が揺さぶられることがなく、ひとり静かにこの世界の終焉さえ想像してしまうのだ。


 そんなふうに考えていると、空の雲がさっきよりも薄れてきた。まぶたを閉じて深呼吸をしてみる。湿った空気が肺の奥に入り込み、一瞬だけ冷たい刺激を与える。もし、これが最後の呼吸だったとしても、私は驚かないかもしれない。そんな思考が頭をよぎるのは、不吉だろうか。それとも、ただの現実逃避なのだろうか。どちらにせよ、私は変わらない。何度呼吸を繰り返しても、心の奥の空虚は揺るぎないまま、そこにいつづける。


「――世界は、どうしてこんなにも遠いのかしら」


 思わずこぼれた声は、私自身に向けた問いであり、同時に決して答えられることのない問いでもある。静寂の庭には、その言葉があっさりと吸い込まれ、瞬く間に消えていった。もし誰かがこの声を聞いても、本心から理解してはくれないだろう。だが、それでも私は今、確かに問いかけたのだ。世界と私の距離を。この距離を埋める手段はあるのかと。


 雨上がりの光はやがて少しずつ強さを増し、庭全体の輪郭をはっきりと浮かび上がらせていく。木々の葉が鮮やかな緑に染まり、花弁に宿った雫が小さくきらめくのが見えた。いわゆる“美しさ”をまとった情景なのに、私の心はどこか冷え切っている。まるで自分だけが時間の外へ押し出され、そこから世界を眺めているような感覚を覚えるのは、一体いつからだったのか。


 しばらくして、数人の庭師が奥の方へと歩いていくのが視界に入る。彼らはおそらく落ちた枝や枯れ葉を掃除し、花壇を整えるつもりだろう。声をかけるべきか迷ったが、やめておいた。今の私には、誰かと言葉を交わす気力すらない。そっと背を向けて、私は自分の部屋へ戻るために来た道を引き返し始める。屋敷へ向かう廊下を渡ると、これから慌ただしい一日が始まるのだろう。挨拶や形式的なやり取りが繰り返される朝のルーティンをこなし、その先に何があるのか――答えなど見つける気にもなれない。


 だが、なぜか胸の奥に、ほんのかすかな不安が宿っているのを感じた。いつもと変わらないはずの日常、そのはずなのに、まるで歯車がほんの少しだけ噛み合わなくなっているような……そんな予感がする。あるいは、この空虚感を抱える私自身の存在が、何かを狂わせているのかもしれない。根拠のない想像だとしても、なぜだかその想像を打ち消す気にはなれなかった。


 雨上がりに広がる光は美しい。でも、その美しさの先には何があるのだろう。もし全てが壊れてしまうなら、私はそれをただ静かに眺め続けるのだろうか。それとも、そんなことが起きないまま、私はこの空虚を抱え続けながら生きていくのだろうか。答えはどこにも見当たらない。私は黙って足を進める。どこか遠くから微かな鳥のさえずりが聞こえたけれど、その響きはやはり私の心には届かないまま、朝の光の中に消えていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ