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07.Clean my house 下


「明日香、そっちに雑巾あるかー?」


「うん、今持っていく!」


 一階の廊下を掃除していた明日香は、上階から響く声に作業の手を止めた。

 上谷家の大掃除が開始されてから、既に一時間以上の時間が経過している。宗太から借りたティーシャツは、既に汗と埃で汚れ始めていた。

 傍らにある掃除機を掴むと、明日香は階段を駆け上がり、二階の廊下の突き当たりにある宗太の父の書斎へ向かった。

 扉を開け放ち、真っ先に目に入ったのは、床に高く積まれた書籍の数々だった。宗太は、その中心で空っぽの本棚を前に顔を顰めている。


「宗太、これ」


「お、サンキュ」


 本を避け、傍まで歩み寄って雑巾を手渡すと、宗太は顰め面を引っ込めて礼を述べる。

 何だか、新居に越してきた若夫婦みたい。不意にそんな考えが浮かんできて、少しだけ気恥ずかしくなる。それを小さな微笑で誤魔化すと、明日香は空の本棚に目を向けた。


「うわ、ひどいね、これ」


「まぁ、二年も放りっぱなしだったからなぁ」


 本棚の書籍が置かれるスペースは積もり積もった埃のせいで、本来のシックなブラウンから薄汚い灰色へとその色を変えていた。

 それはこの部屋、ひいてはこの家がどれほど汚れているのかを分かり易く示した指標のようで、やる気や覇気をごっそり持っていかれてしまう。

 つい数秒前の宗太と同じように顔を顰めていると、隣で彼が小さく嘆息した。そして、明日香の手渡した雑巾片手に鬱陶しい埃達と果敢に戦い始める。

 すぐに自分も廊下の掃除に戻ろうかと思った明日香だが、振り向いた拍子に床に積んであった本の山の一つを、膝で崩してしまった。

 ドサドサと、山崩れの派手な音。慌ててその場を飛び退くが時既に遅く、床は本が散らばる大惨事となっていた。


「おい、大丈夫か?」


 音に反応した宗太が驚いた様子で振り向き、尋ねてくる。


「あ、ゴメンッ。すぐ片付けるから」


 宗太が傍にいるからだろうか、ちょっとしたミスがひどく気恥ずかしい。慌ててしゃがんだ明日香は、散らばった本の数々を片付け始める。

 この部屋の主たる宗太の父が商社の重役だった関係か、書籍の殆どは明日香には意味も分からない難しい題名が記されていた。

 読書自体は嫌いではないが、明日香が読むのは恋愛小説が主だ。内容は良く言えば王道、悪く言えばありきたりな、あまり難しくないもの。だから、こんな本に囲まれた部屋で生活していたら、発狂してしまうのではないかとすら思う。

 眉間にシワを寄せながら、機械的に本の山を築いていく。そして、十数冊の本の粗方を片付け終えた時、明日香は他の書籍とは様子の違う本を一冊見つけた。

 大きさは他の本に比べて一回りほど大きい。だが、厚さはハードカバーの絵本程度しかない。拾い上げて表紙を見てみると、そこには『宗太・三~六歳』と手書きで記されていた。


「これ……」


 アルバムだと気付くのに、そう時間はかからなかった。そして、宗太の父は写真が趣味だったことを思い出す。上谷家と宮代家で海水浴やキャンプに行った時などは、結構本格的なカメラで写真撮影をしていた覚えがある。

 懐かしさと、タイトルに心惹かれたこともあって、明日香は何気なくアルバムの一ページ目を開いてみる。

 そして次の瞬間、


「何これすごい可愛いっ!」


 口が、否魂が勝手に興奮気味の叫びをあげていた。


「のわっ、な、何だよ急に?」


 先ほどの十倍は驚いたような表情で、宗太が視線を向けてくる。怪訝そうなその顔に、明日香はアルバムをグイッっと突き出した。


「ほら見て、これ!」


 目を白黒させて戸惑っていた宗太だが、明日香が押し付けるそれを見た途端、露骨に表情を歪ませた。


「おま、これ……」


 四角く切り取られた景色。その中にいるのは、カメラに向かって円らな瞳を向け、紅葉のような小さな掌を振りながら笑う、愛らしい三歳の宗太だった。

 どこからどう見ても可愛らしい女の子にしか見えない。愛嬌と可憐さが見事な比率で同居した幼い顔立ちは、女性なら皆が持っている母性本能をあまりに的確にくすぐる。

 多分、この子を連れて街中を歩いたら、スカウトの嵐で一歩も前に進めない。幼馴染としての贔屓目はあるにしろ、幼き日の宗太は明日香にそんな確信を抱かせるほど愛らしかった。


「すっっっっっごい可愛くない、この宗太? あーもう、何でこんな成長しちゃうかなぁ」


「いや、そりゃ成長するだろ。っつーか、こんな、はないだろ、失礼な」


 明日香のテンションの高さとは対照的に、宗太は眉間にシワを寄せて、難しい顔をしていた。可愛い、可愛いと連呼されることが気に入らないのか、それとも、小さな頃の写真を見られるのが嫌なのか。

 まぁ、確かに、明日香も立場が逆だったら、あまりいい気はしなかったかもしれない。幼い自分を見られるのはそれだけで気恥ずかしいというのも理解できる。

 もっとも、可愛いと言われたなら普通に嬉しいだけだと思うが。

 そんなことを考えながら、明日香はペラペラとページを捲っていく。その中には時折、明日香自身の姿や、宗太の姉である泉の姿も一緒に見受けられた。

 特に、泉が嬉しそうな表情で宗太と遊んだり、世話をしたりしている写真は印象的だ。顔立ちが似ていることも相俟って、可愛らしい姉妹にしか見えない。

 もし、宗太の父と会う機会があったら、これと同じ物を焼き増ししてもらおう。

 そんな決心と共にアルバムを眺めていると、不意に気になる一枚が目に入った。


「ねぇ、宗太、これなんの写真だっけ?」


「ん?」


 振り向いて尋ねると、顔を顰めていた宗太は首を傾げながら明日香の手元のアルバムを覗き込んでくる。嫌そうにしていたのに、無視して掃除に戻っていなかった辺り、宗太も実は気になっていたのかもしれない。

 宗太は明日香の肩越しにアルバムを見ているため、二人の距離は大分狭くなる。顔の側面に垂れた髪に宗太の頬が触れた途端、明日香の心臓がトクンと悲鳴を上げた。

 いけない、平常心、平常心。

 頬が熱くなりかけた自分にそう言い聞かせつつ、明日香は気を紛らわせる意味も含めて、一枚の写真を指差した。


「あー、これ、あれだよ……」


 口の周りを泥だらけにした宗太が泣いていて、その傍で幼き日の明日香が涙目でオロオロしている一枚。それを見た宗太は、記憶を手繰るように頭を手を当てて、言った。


「おままごとの最中に、お前に無理矢理泥団子食わされて、泣いちゃったやつ。お前、この後、おばさんに滅茶苦茶叱られてたんだよなぁ」


「え、あ、言われてみればそんなことも……」


 確か、幼稚園に入りたての頃だったか。おままごとの真っ最中、はいあなた、とか何とか言いながら、砂場で作った泥団子を彼の前に出した記憶が薄っすらと残っていた。

 目をキラキラさせて、食べて、と要求した覚えがある。我ながら、何と無茶を言っていたことか。今思えば、あの時の宗太の表情は引き攣っていたような気がしないでもない。

 半眼で睨んでくる宗太の視線が痛い。冗談交じりの行為ではあろうが、それでも妙に居た堪れなく、明日香はアハハと誤魔化し笑いを浮かべながら、更にページを捲る。

 そして、明日香は更に墓穴を掘ることとなる。

 適当に開いたそのページ。見開き一ページに六枚並んだ写真の一番左上。

 そこには上谷家のバスタブの中ではしゃぎ回る。

 全裸の明日香と宗太の姿が――


「キャアァァァッ!」


 バン、と勢い良く明日香はアルバムを閉じる。背後で、宗太が驚愕に咳き込んでいるのが聞こえる。

 まずい。これはいくらなんでも、まずい。

 幼いとはいえ、お互いに一糸纏わぬ産まれたままの姿。写真には、この歳では絶対に人に見せることは出来ない部分まで、鮮明に印刷されている。

 気まずい、などというものではない。羞恥のあまり、明日香は死にたいとすら思った。


 というか、なんて物を秘蔵してるんですかおじさん!


 当然、そんな心の叫びがイギリスにいるという元凶に届くはずもなく、明日香はすぐ傍の宗太と顔を向き合わせないように、俯いた。

 多分、今宗太と視線を合わせたら、ただでさえ熱くなっている頬が火を噴いてしまう。

 空気がグッと圧縮されて、重く圧し掛かってくるような時間が、しばらく続いた。

 たっぷり三十秒も間を空けて、宗太が気を取り直した様子で口を開く。


「あー、掃除、しようぜ? こんな寄り道ばっかじゃ、昼までに終わんないし」


「うん、そだね、うん」


 ぎこちなさを振り払うように幾度も頷きながら、明日香は立ち上がる。先の出来事はなかったことにすることが、脳内では閣議決定されていた。

 羞恥を振り切るように、思考を掃除のことへ切り替える。廊下の掃除が終わったら、次は何処に取り掛かろうかなどというような内容である。


「あ、そういえばさ」


 そこで思いつくことがあって、明日香は再び本棚の掃除に向かっていた宗太に声をかけた。


「ん?」


 振り返りはせず、作業に集中しながら、宗太が反応する。もしかしたら、まだ顔を合わせるのが恥ずかしいのかもしれない。

 気にせずそのまま、明日香は続きを口にする。


「泉さんの部屋は、私が掃除しようか? 女同士だし、そっちの方がいいと思うんだけど」


 単純に、気遣いのつもりで発した言葉だった。

 だが、明日香はほんの少しだけ、それこそ明日香でなければ気付けないほど僅かに、宗太の纏う雰囲気が変わったのを感じ取った。

 それは、言葉で表現することすら難しい、小さな差異。まるで、水を満たした水槽に、絵の具を一滴だけ落としたような、小さな澱み。


「あそこはいいよ。姉さんから、部屋はいじらないでくれって言われてるからさ」


 明日香の受けた印象とは裏腹に、宗太の口調は穏やか過ぎた。まるで、そういう声を無理矢理作り上げているかのように。

 それは、つい昨日の再会の時と同じ、明日香の知らない宗太の姿で。

 二年の間に開いてしまった距離を象徴しているようで。

 何なんだろう、と明日香は思った。


「……そっか。じゃあ、私、下に戻ってるね」


 とりあえず、こちらを向かない宗太の背中に小さく微笑みかけてから、踵を返して書斎を出る。

 どうしだろう、と明日香は思った。

 やっと、また会うことができたのに、宗太が遠い。或いは、彼を待って焦がれていた日々よりも。






 いけないな、とリビングの庭に面した窓を拭きながら宗太は思う。

 掃除を始めてから、既に三時間半が経過していた。とりあえず、日常生活に困らない程度の掃除、ということだったから、二人掛かりだと憂慮していたほどの時間はかからない。

 とはいえ、それでも魔術の方が格段に効率はいいのだが。

 窓拭きをしながらも、自己嫌悪と後悔を混ぜ合わせた不快な気分に苛まれていた。自分は何をしているんだろうと思うと、自分自身を力いっぱい殴りつけたくなる。

 

「ふぅ……」


 明日香と二人きり。掃除のためとはいえ、それはひどく気まずい時間になるだろうと思っていた。

 だが、思っていた以上に彼女と過ごすことを自然に受け止めている自分がいる。明日香の二年という、決して短くない時間に影を落としておきながら、彼女に甘えている自分がいる。

 それは、相変わらず自分の幼馴染でいてくれる少女を都合良く扱う行為に思えて、自分が腹立たしかった。

 それに、何より――


「…………もう少し、考え直さないとな」


 彼女との接し方や距離感を。

 それが、身勝手な自分に出来る、唯一のケジメのつけ方だから。

 一通り磨き終えた窓から雑巾を離す。日の光を受けて澄んだ輝きを放つ硝子と、黒ずんで汚れた雑巾が対照的で、まるで明日香と自分の対比を見ているようだった。

 口元に自嘲の笑みが浮かぶ。その時、肩をチョンチョンと突付かれる感覚を得た。


「なにニヤニヤしてるの? ちょっと怪しいよ?」


 明日香が、首を傾げてこちらを見ていた。宗太は愛想笑いを顔面に貼り付ける。


「悪い。ちょっとな」


 我ながら答えになっていない答えだと思ったが、明日香は怪訝そうな顔をしただけで特に追求してこなかった。代わりに、テーブルの上に置いてある、彼女が持ってきた重箱を指差した。


「時間も時間だし、そろそろお昼にしよ? 残りは……まぁとりあえず、明日にして」


「ん、ああ。そうだな」


 頷きながら、宗太は持っていた雑巾を足下に置く。そして、テーブルまで歩むと席につく。明日香も、その対面の席に腰を下ろした。


「私が料理できたらいいんだけどね……流石に、黒焦げのお弁当持ってくるのはアレだから、お母さんに頼んだんだ」


 恥ずかしそうに笑いながら、明日香が重箱の包みを取る。その様子をぼんやり眺めながら、宗太は明日香が料理が苦手だったことを思い出した。

 明日香は基本的に不器用だ。といっても、包丁で指を切ってしまったりだとか、砂糖と塩を間違えたりだとか、そういう定番のミスを犯すわけではない。

 ただ、複数の作業を同時にこなす、ということに関しては壊滅的なまでに才能がない。たとえば、肉を焼いている間の空き時間に野菜を切る、という行動をとろうとした場合、野菜に気を取られ過ぎて、肉は炭になる。

 時間をかければ、普通程度の料理は何とか作れるだろう。だが、今日は朝も早かったから、そんなことをしている暇もなかったに違いない。

 つらつらとそんなことを考えている内に、明日香の手によって、弁当の全貌が晒される。それを眺めて、宗太は思わず感嘆の声を漏らした。


「すごいな……美味そうだ」


 唐揚げや卵焼き、お握りといった弁当の定番は勿論のこと、里芋の煮っ転がしや鰆の西京焼きといった、手の込んだ和食メニューまでもが、大きな重箱の中にところ狭しと並んでいた。

 恐らく、外国帰りの宗太への気遣いだろう和風の彩りはあまりに魅力的で、気付けばゴクリと唾を飲み込んでいた。


「宗太が帰ってきたって言ったらね、お母さんがすごく張り切っちゃって」


「あー、そういや、おばさん料理好きだったけ?」


「うん。今度、晩御飯も食べにきなさいってさ」


 言いながら、明日香は「どうして料理の才能は遺伝しないんだろ?」と不満そうに唇を尖らせている。

 宗太はといえば、過分な明日香の母の気合の入りっぷりに、半ば恐縮していた。この料理にかけられた手間を思うと、申し訳なさ過ぎて居た堪れない。

 とはいえ、食欲という生き物の最も根源的な本能には逆らえるはずもなく。


「じゃ、食べよっか」


 明日香のありがたい一言に大きく頷くと、手を合わせてから、がっつくようにお握りへ手を伸ばした。

 程好い固さで握られたご飯に、米本来の甘味を引き立てる仄かな塩味が抜群の相性を演出している。中身の具は梅干で、下が痺れるほどの酸味がまたご飯と合う。

 味わいながら、宗太は俺も日本人なんだなぁと実感する。米を求める本能がDNAレベルで刻まれているに違いないと思った。


「そんなに慌てて食べなくても、誰もとらないのに」


 お握りを小さな口で食べ進めながら、明日香が苦笑している。


「いや、だって、美味いからさ」


「にしたってねぇ……むこうのご飯、そんなに口に合わなかったの? イギリスのご飯は世界一不味い、って何かで聞いたことある気がするけど」


「あー、別にそういうわけじゃないけどさ……」


 向こうでの宗太の保護者であったリゼリアは、意外にも家事を器用にこなす。食文化の違い故に、多少味の好みに差異はあったものの、彼女の料理は宗太にとっても満足できるものだった。

 そもそも、イギリスの食文化だって、馬鹿にしたものではない。料理大国であるフランスと比較され、貶められることの多いイギリスだが、決して食のレベルは低くない。

 例えば、紅茶の供でもあるマフィン、サンドウィッチなどは充分過ぎるほどに美味しいし、ローストビーフやフィッシュアンドチップスだって悪くない。

 ただ一つ、不満な点があるとすれば。


「和食とか、中々食べる機会がなかったからな。日本人街とかに行けば、普通に食べれるけど、田舎の方だったから、そんなもんないし」


 味の好みは幼少から食べてきたものを基準に形成されるという。醤油や味噌のない生活は慣れるのに苦労したものだ。

 宗太の語り口に、明日香はふーんと頷いてから、小さく微笑んだ。


「じゃ、明日のお弁当もお母さんに頼んで和風にしてもらおっか。私もそっちのが好みだし」


「え、明日?」


 思わぬ台詞に、宗太は間抜けな声を漏らす。すると、明日香はさも当然のように続きを口にする。


「うん、今日の続きあるでしょ。明日は普通に学校あるから、夕方からしか手伝えないけどね。あ、でもだったら、宗太にウチに来てもらって、夕飯一緒に食べる方がいいのかな……?」


「いや、それは……」


 顎に手を添えて何やら考え込む明日香に、宗太はどんな言葉をかけるべきか、迷う。

 断るつもりだった。正直に言えば、彼女の心遣いは非常にありがたい。だが、つい数分前の決心を思うと、とても素直に誘いを受けるわけにもいかなかった。

 大体、それを言うなら、こうして明日香の持ってきた弁当にありついていることすらおかいい筈なのだ。一応、持ってきてくれたものを無駄にするわけには、と言い訳もできるが、やは何処か甘ったれている所がある。

 これを、ケジメの第一歩にしよう。

 早くも決心の揺るぎかけている自分に喝を入れる意味も込めて、宗太はハッキリとした口調で言った。


「明日はいいよ。ここまでやってもらっただけでも、十分ありがたいし」


「もう、だから変な遠慮はしなくていいって言ってるでしょ」


 明日香が頬を膨らませて、怒ったような口調で言う。いや、実際少し怒っているのだろう。お節介で、頑固な性格だから。

 ここでギャーギャーと言い合う気はないから、宗太は絡め手を使うことにする。


「いや、実は明日も午前中に掃除は終わらせるつもりなんだよ。足りない日用品とか色々買わなきゃならないから、午後は忙しくてさ。多分、結構遅くまで動き回らなきゃいけないし」


「でも、だったら、買い物だけでも付き合うよ。一人じゃ荷物持つのも大変でしょ?」


「女の子に荷物持たせられるかって。それに、下着とかも買い足すつもりだからさ。ま、俺のトランクスの柄が知りたけりゃ止めはしないけど」


「っ……!」


 明日香の顔が完熟トマトのような赤に染まる。触ったら、火傷ぐらいはするかもしれない。

 その様子に、宗太は自分の策が上手くいったことを悟った。明日香は宗太をからかうのは大好きなくせに、からかわれるのは苦手なのだ。

 昔からお互いにからかい合ってきた仲でもあるから、こういう下品な冗談に弱いことも熟知している。こういう時、幼馴染というのは便利だ。


「ま、そういうわけだからさ、明日は来てもらわなくて大丈夫だよ。パンツは見られたくないし」


「分かったわよ!」


 肩を怒らせながら、明日香はこの話題は終わりとでも告げるようにお握りにかぶりついた。苦笑しながら、宗太はおかずに手を伸ばす。

 数分はそうして、食べることに集中していた二人だが、やがて羞恥が収まった明日香が、話題作りのつもりか宗太へ尋ねてくる。


「ところで、この後の予定って何なの? 随分、大事な用事みたいだけど」


「ん、ああ、高校の編入試験」


 別段隠すことでもないので、鰆の西京焼きを咀嚼しながら、サラリと答えてやる。香ばしい味噌の香りが堪らない。


「は? え、ごめん、もう一回」


 ポカンと間抜けに口を開いたまま、明日香がそんなことを言ってくる。耳にゴミでも入ったのだろうか。


「だから、高校の編入試験。ちょっと変な時期だけど、理事の人が便宜を図ってくれたみたいでさ。特別にってことで」


 一音、一音をハッキリと、さっきよりも詳しく言ってやると、明日香はその言葉を吟味するように難しい表情で眉間にシワを寄せる。それから、顔を引き攣らせて、口を開いた。


「え、あの、だったら……こんなことしてていいの?」


「え、何で?」


「何でって、勉強とかは……」


「ああ、大丈夫、大丈夫。国数英の三科目なんだけどさ、数学は得意だし、英語なんか問題にもならないだろ。まぁ国語が少し不安だけど、どうにかなるって」


「なるわけないでしょ! 高校受験を舐めないの!」


 バンとテーブルの天板を叩いて、明日香が身を乗り出してくる。まるで、最上位の魔物を前にしたような緊迫が宗太の身を襲う。

 その迫力に及び腰になるのを自覚しつつも、宗太は怒気を鎮火すべく言い訳を口にした。


「いや、ホントに大丈夫だって! 向こうでもちゃんと勉強してたからさ、絶対受かるってホントに!」


「ホントでしょうね? そんなこと言って落ちたりしたら本気で怒るわよ?」


 いや、現在進行形で本気で怒られてますが!?

 そう思った宗太だが、もちろん口には出さない。代わりに、従順な子犬のような態度で、プルプル震えながら何度も頷いた。

 実際、イギリスにいた間も普通の勉強は欠かさなかったのだ。いや、リゼリアによって欠かさないように強制された、と言った方が適当か。

 実は魔術には学術的な知識が不可欠だ。そもそも、現存するいくつかの学問には、魔術の存在によって発展していったものも少なくないのだ。

 たとえば、天文学は占星術のために確立された学問であり、薬学などは魔法薬を作る魔女の秘術から派生したもので、数学はカバラと呼ばれる魔術的な思想と深い関わりを持っている。

 そんな数ある学問の中で、宗太が学んだのは語学、西洋史、数学、天文学の四つ。

 語学に関してはイギリスでの生活のためだが、他の三つはタロット・スペル習得のためにリゼリアに猛烈な勢いで叩き込まれた。

 勉強、修行、勉強、修行。それが延々と繰り返される日々の辛さは、筆舌し難いものがある。リゼリアのスパルタが過ぎるあまり、一時期、数字や星がトラウマになりかけていたほどだ。

 とはいえ、明日香がそれを知っているわけもなく、言われてみれば先の言葉は全国の受験生に喧嘩を売るような発言である気もした。

 魔術漬けの二年間で、少しばかり常識を失ってしまっていたかもしれない。反省。


「ふぅ……まぁ、嘘は言ってなさそうだし、信用はしてあげるけど……」


 明日香が呆れきった表情で視線を投げてくる。それを愛想笑いで受け流していると、彼女はハッとしたような表情で尋ねてきた。


「そういえば、何処の高校受けるの?」


「え? えーっと何つったかな……?」


 記憶を探って、編入先の学校名を思い出そうとする宗太に、明日香が信じられないものを見る目を向けてくる。確かに、入学するかもしれない高校の名前を忘れるのはかなり非常識だ。

 とはいえ、仕方がないじゃないかと宗太は思う。

 白状すると、宗太自身には高校入学への関心はあまり存在しなかった。

 イギリスに居た頃は修行に明け暮れて学校に行っていなかったし、必要ないとも思っていた。だから、ここでも最初は高校受験の意志は皆無だったのである。

 それに反対したのが、リゼリア。彼女がわざわざ、高校の理事長を務める知り合いに掛け合って、時期はずれの編入試験をセッティングしてくれたのだ。

 親御さんからアンタを預かってる以上、しっかり将来のことも考えてやらなきゃならないから、と言っていた。

 こめかみをグリグリと揉みながら、記憶を辿り続けている内に、宗太は漸く目当ての名前を見つけ出した。


「あー、確かあれだ。白嶺はくりょう高校! 隣町にあるやつ」


 気になっていたことを思い出した快感に浸りつつ、宗太は呆れた顔をしているであろう明日香を見やる。

 そして、予想外のものを目にし、想定外の事実を聞くこととなる。

 目に映ったのは、驚きと喜びが等分に混ざった、予想とかけはなれた明日香の表情。

 そして、


「それって……」


 耳にしたのは、神様の悪戯としか思えない、偶然だった。


「私と一緒の学校だよ!」


次回から漸く敵キャラが現れます。

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