04.再会
斜め前で、栗色のポニーテールが不満気に揺れていた。
時刻は昼を過ぎた頃。早足の歩調に合わせて尻尾がピョコピョコと跳ねる。それを気まずい思いで眺めてから、明日香は右隣を歩く親友、永倉千秋に視線を送った。
すると、それを察したのか、彼女は小動物じみた大きな瞳を向けてきた。平均よりも大分小柄なので、明日香を見上げる形だ。
その気の弱そうな顔立ちに浮かぶのは、やはり気まずげな、眉をハの字にした困惑の表情。きっと、自分もこんな表情をしているのだろうと、明日香は思った。
千秋が前方を行くもう一人の親友に聞こえない程度の小声で、口を開く。
「恵那ちゃん、やっぱり落ち込んでるのかなぁ?」
「落ち込んでるっていうよりも、拗ねてるって感じだと思うけど……」
言いながら、二人は相変わらず不機嫌そうに尻尾を揺らす背中に目を向けた。
しょんぼり、よりも、ぷんぷん、という表現の方が似つかわしい、怒気を孕んだ雰囲気。それに気圧されながらも、明日香はおずおずと声をかけた。
「恵那、あの……あんまり気にしなくていいと思うよ? 休み時間とかは、普通に会えるんだし」
「……そんなこと言ったってさぁ」
唇を尖らせて、笹村恵那が振り返る。吊り目がちの、気の強そうな瞳は不機嫌を示すかのように眇められていて、千秋とは対照的な長身もあって、軽い威圧感を醸していた。
やっぱり、拗ねてる。予想が的中したことに、明日香は内心で溜息をついた。恵那とは中学校時代からの付き合いで、こうなると面倒なことを明日香と千秋はよく知っていた。
そんな心中を知ってか知らずか、恵那は殊更不満気な声で言葉を続ける。
「あたしだけ違うクラスってひどくない? そりゃ、しょうがないとは思うけどさ、納得できないわよ」
「気持ちは分かるけど……」
困りきった表情でか細い声をあげる千秋。まるで、気の弱い保母さんがガキ大将を宥めているかのような光景だ。その様子を明日香は苦笑交じりに眺める。
確かに、恵那の気持ちも分かるのだ。
入学式の前に発表された、今年一年のクラス編成。明日香が所属することになったのは、一年A組だった。
運が良かったと言っていいだろう。何故なら、他のクラスより一名少ない、総勢三十四人のクラスメートの中に、親友である千秋の姿があったのだから。
その点、恵那は運が無かった。三十五人のクラスメートの中に、知っている顔は皆無。しかも、自己紹介の折に少々『やらかしてしまった』らしく、微妙に敬遠されているとか何とか。
そんな中、親友二人が同じクラスで仲良くやっていれば、それは気に入らないだろう。三人が同じクラスになるか、いっそバラバラだった方が収まりが良かったのかもしれない。
ちなみに、何をどう『やらかしてしまった』のかは、気の毒過ぎて聞けていない。ホームルーム終了後に校門で待ち合わせした時の憔悴具合を見るに、聞かぬが華といったところなのだろう。
――不器用だからなぁ、恵那は。
心の中で呟いて、明日香は唇を尖らせる恵那を見詰める。彼女が今後、クラス内で良好な人間関係を築けるか、心配なところであった。
なるべく、彼女の教室を訪れて、あわよくば友達作り大作戦を決行してしまおう。そう決意してから、明日香はとりあえず機嫌を直してもらうべく、恵那に向かって柔らかい口調で告げた。
「今度、駅前で好きなもの奢ってあげるからさ、元気出してよ」
「……なら、ブランチェのハワイアンチョコレートパフェ」
よりによって、ちょっとお高めの喫茶店を指定してきた。明日香の頭の中で算盤が弾かれ、今月の経済事情ではかなり厳しいとの結論を紡ぎ出す。宿題もない春休みの間に、少々羽目を外しすぎて、貯金が心許ないのだ。
ちなみに、ハワイアンチョコレートパフェとは、北海道産の牛乳百パーセントのアイスクリームをベースに、パインやマンゴーなどのパッションフルーツをふんだんに盛り付けた挙句、ベルギー産のチョコレートを使用したアイスやらケーキやらを追加した、非常に節操のない逸品である。言うまでもなく、超高い。
一瞬、前言撤回したい衝動に駆られる明日香だが、吐いた唾は飲み込めない。ここで発言を翻せば、恵那は更にいじけるだろう。
愛読しているシリーズ物の純愛小説の最新刊、前々から狙っていた春物のワンピースといった具合に、購入を諦める物のリストを脳内で作成していると、気の毒そうな表情をした千秋がオドオドしながら口を開いた。
「あの、明日香ちゃん。私も半分出すから……」
ここに、天使がいる。
「ありがと、千秋。大好きよ」
半分以上本気で囁きながら、その華奢な手を握ると、千秋は顔を真っ赤にしながら、飛び退いてしまう。相変わらず、いちいち反応が可愛い。
一方、斜め前を歩く恵那はついさっきまでのいじけた様子も何処吹く風で、ニヤニヤと人の悪そうな表情を浮かべながら、言った。
「ごちそうさま、お二人さんっ。楽しみにしてるわよ」
「もう、調子が良いんだから……」
半眼で睨みつけると、恵那は八重歯の印象的な白い歯を見せてニッコリと笑った。
そんな様子を見ていると、心配していた数十秒前の自分が本気で情けなくなってくる。溜息をつきたくなる明日香だったが、まぁいいか、と矛を収めることにした。
元気になって良かった、と思っている自分がいるのも確かだったから。
と、そこで丁度、三人はY字路へと差し掛かった。ここで、明日香は二人とお別れだ。
「それじゃ、また明日――は休みだっけ?」
「うん。次に会うのは月曜日だね」
千秋の指摘に、照れ隠しの微苦笑で応えてから、明日香は小さく手を振ってバイバイ、と告げる。千秋は可愛らしい所作で手を振り、恵那は軽く手を上げてから、明日香とは反対の道へ消えた。
二人の姿が視界から消えると、明日香は自宅の方向をチラリと一瞥してから、歩き始める。自宅はここから五十メートルも進めば到着する距離にある。
歩きながら考えるのは、恵那の友達作り大作戦の概要だ。まず、恵那の教室まで行った明日香が彼女と会話しながら、それとなく周囲の人をそれに引き入れて――
――お前さ、本っっっ当にお節介だよな。
ふと、二年前までは頻繁に言われていた台詞が脳裏を過ぎった。途端、他の全ての思考が頭の中から押しやられて、それしか考えられなくなる。
彼に、宗太にそう言われる度、自分は何と返していただろうか。
僅かに薄れ、劣化してしまった記憶を辿る内に明日香は漸く答えを見つけた。面倒臭そうな顔をする彼をからかうように、自分はこう言っていたのだ。
――宗太が助けてくれるから、お節介焼いていられるの。
言っていて、顔から火を噴くんじゃないかと思うほど恥ずかしかった。でも、顔を食べごろのリンゴのように赤くする彼の前では、頑張って余裕めかした自分を演じていたものだ。
色々、可愛いところが多いのだ、彼は。
そんな思考に至って、ふと物寂しい思いに胸を締め付けられた。
どんなに楽しく毎日を過ごしていても、胸に穴が空いてしまったような感覚が消えたことはない。宗太のことを思い出さない日など、一日もなかった。
諦め切れず、割り切れず、未練がましくしがみ付き続ける。あとどれほどの間、そんな日々を繰り返すことになるのだろうか。それを思うと、宗太が憎くもある。
そんなことばかり考えていたからだろうか、自宅の隣にある彼の家だった空家が視界の範囲に入ってくると、自然とそちらに目が向いた。そして、小さな違和感を抱く。
窓が閉め切られ、明かりの灯る部屋は一つもないはずの、時間が止まった家。それを穴が空くほど見詰めて、そして、気付いた。
二階の一室。その窓が開け放たれ、くすんだライトグリーンのカーテンが吹く風に揺れていた。
「…………え?」
立ち止まる。一瞬、自分の見ているものが何なのか、全く理解できなかった。
真っ白な外壁が特徴的なその家は、二年前に消えた幼馴染の家。近所の噂を聞く限り、売りに出された気配はなく、主がいないまま、ずっと放置されていた。
五秒、十秒、と幾許かの間を置いて、漸く状況を理解する。
その瞬間、明日香は持っていた学生鞄を放り捨てて、走り出していた。
微かな埃臭さが鼻をつく。微睡みの底に沈んだ意識がゆっくりと引き上げられていくのが分かった。
重い瞼を開くと、見慣れない、それでいて何処か懐かしいような天井が目に入った。宗太はしばしの間、何を思うでもなくその天井を眺め、そして此処が何処なのかを思い出した。
帰ってきたのだ。二年の間、ずっと置いてけぼりにされていた、自宅に。
「ったたた……」
ベッドの上で上体を起こすと、頭の芯が酷く痛んだ。一瞬、風邪でも引いたのかと思ったが、すぐに眠りにつく前の状況を思い出した。
神代に連れられて入った居酒屋で、彼に乗せられてしこたま酒を飲んでしまったのだ。あの駄目サラリーマン然とした魔術師は異様に人を乗せるのが上手で、最終的には一升瓶をラッパ飲みさせられてしまった。
急性アルコール中毒で倒れたらどうしてくれる、とにやけた顔を思い浮かべながら、宗太は内心で愚痴を零す。
此処までどうやって帰ってきたのかは、もう殆ど覚えていない。車に乗ったような記憶が微かに残っているから、恐らく神代がタクシーを手配してくれたのだろう。感謝はしない。寧ろ未成年に飲酒させたのだから、それでイーブンだろう。
そこまで思い出してから、宗太はふと、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。中には財布やタロットカードといった細々したものが大量に詰められていたが、手探りで目当ての物を見つけ、引っ張り出した。
「一応、取っといた方が……いいよな」
皺んだ、トランプサイズの紙切れ。それは別れる直前に神代に押し付けられた、彼の名刺だった。ご丁寧に、彼の連絡先に加えて、《連盟》日本支部の連絡先まで記されている。
ヘラヘラした笑みと共に、彼はこう言い添えていた。
『何かお困りのことがありましたらご一報ください。なるべくお力になりますよ。いえいえ、お気になさらず、なるべく恩を売ってウチに来ていただこうという魂胆ですから』
出来るだけ、彼らの力は借りない方が良い。ただし、いざという時の最終手段として、連絡手段だけはキープしておこう。痛む頭でそんな算段を立ててから、宗太は名刺を枕元に置く。そして、グルリと二年ぶりの自分の部屋に視線を巡らせた。
四メートル四方の角部屋で、一番印象的なのは、やはり物の少なさだろう。ベッドと机、そして小さな棚以外には家具らしい家具も見当たらない。本の類は一冊も置いておらず、漫画にしても数冊が机の横に積んであるだけだ。
まったくもって、現代に生きる若者の部屋とは思えない。自室を客観的に観察している自分に、宗太は苦笑してしまう。
無趣味な中学生だったから、余分な物を持つ必要もなかったのだ。本や漫画が読みたければ、近場の図書館に行けば事足りていた。
いや、正確には無趣味というわけではない。何よりも時間を割いていたことがあったにはあった。それを趣味と言っていいのかは微妙なところだが。
長い黒髪、処女雪のように真っ白な肌、黒真珠のような輝きが印象的な瞳。とある少女の顔を思い出しかけて、宗太は思考を無理矢理中断させる。
「何考えてんだか……」
自身への呆れの言葉を呟いてから、宗太はベッドから腰を上げた。そして、部屋の二つの窓を大きく開け放つ。室内はとにかく埃っぽかった。
室内に入り込む春風が、痛む頭に心地良い。しばし、それを目を細めて堪能してから、宗太は静かな足取りで部屋を出た。
向かうのは、すぐ隣の一室。姉の自室だった部屋。
廊下をほんの数歩だけ進み、その扉の前に立つ。そして、ドアノブに刻まれた文字を見て、ポツリと呟いた。
「まだ解けてないか。さすが師匠」
黒いインクで記された、アルファベットにも似た、しかし決定的に違う文字列。それは二年前、リゼリアがこの家を訪れた折に使用したタロット・スペルの名残だった。
大アルカナ十四番《節制》と、大アルカナ十六番《神の家》の複合術式。《節制》の持つ安定という意味と、《神の家》の持つ城という意味を重ねることで、部屋の内部を魔術的、物理的な干渉を受け付けない結界とする高等術式だ。宗太にはとても扱えないレベルの魔術である。
細かな調節が成されたそれは、中にあるものが何なのかを知り、尚且つ害意を持たない者にしか扉を開けられないようになっている。
宗太は当然、その条件に当てはまった。自分の家にある物に害意を抱こうはずもない。まして、中にあるものが何なのかを知っているのなら尚更に。
宗太はドアノブに手を掻けた。ヒンヤリとした金属の感触が何時の間にか手汗をかいていた掌を冷やす。だが、いくらそれを回そうとしても、意思に反して手が動いてくれなかった。
はぁ、と自嘲の溜息。中に入ることは諦めて、代わりにドア越しに、室内にある物、否、室内に居る人に声をかけた。
「ただいま」
返事は返ってこない。当たり前のことなのに、その事実が痛いほど胸を締め付ける。
「二年もほったらかしにしてて、ごめん。一人ぼっち、嫌いなのにな」
そこまで呟いてから、一度小さく息を吐く。己の覚悟を言葉に乗せるための、一瞬の間。
「でも、おかげで結構強くなったからさ、俺」
だから――と続けようとした時だった。
ドンドン、と何かを殴りつけるような音が、静寂を乱した。ビクリと身を竦ませた宗太は、数秒の間を置いて、それが玄関の戸を叩く音だと気付く。
一体、誰が。そんな疑問を抱く余裕もくれずに、音は断続的に響く。宗太は扉への囁きを飲み込んでから、仕方なく階段を駆け下り、玄関へと走った。
何かを訴えかけるような激しさに、玄関にたどり着いた宗太は、扉の覗き穴から来客の顔を確かめることも忘れて、勢いよく扉を開け放った。
きゃっ、と澄んだソプラノボイスの悲鳴。思いっきり押し開けた扉が、前に立っていた人を跳ね飛ばしてしまったらしい。
尻餅をついた来客に、宗太は慌てて謝罪をしようとする。紡ごうとした言葉は、来客の顔を見た途端に、全て吹き飛んでしまった。
一瞬にして頭の中を驚愕が占拠する。
長い黒髪、処女雪のように真っ白な肌。黒真珠のような輝きが印象的な瞳。
「あす……か?」
僅かに濡れた瞳で、自分を見上げるのは、二年前に何も告げずに置いてけぼりにした、幼馴染の女の子だった。
やっと二人を再会させてあげられました……