02.懐古
やたらと時間がかかった割に、何やら読み難い文章になってしまいました……
一途なヒロイン、初登場です。
公園の中央に一本だけ植えられた桜の木から、春風が薄桃色の花弁を運んできた。
仄かに甘い香りが漂う。狭い土地の中に申し訳程度に設置されている小さなブランコが、暖かな風に応じるように、小さく揺れた。
宮代明日香はブランコの座面の汚れを軽く払うと、そこに腰掛ける。そして、持っていた学校指定の紺色の鞄を膝の上に置き、そっとブランコを漕ぎ始めた。
キィキィ、と規則的なリズム刻みながらブランコの鎖が鳴く。これの設計者は高校生の使用を想定していなかったのだろう、地面に付いたままの靴底が砂と擦れる音がした。
揺れる視界の中で、朝日に照らされた公園がのどかな雰囲気を漂わせている。住宅街の余った敷地に遊具や木々を適当に据えただけのいい加減な公園だが、吹く風と桜の木が見事に春を体現していた。友達を集めて、ちょっとした花見でもするには丁度いいかもしれない。
もっとも、この場所でそんなバカ騒ぎをするのは、明日香としては気が引けるものがあるのだが。
ここは大切で、特別な場所だから。
ブランコの鎖に触れる指に僅かに力を込めて、明日香は語りかけるようにポツリと呟いた。
「私ね、今日から高校生だよ」
風に運ばれてきた桜の花びらが、腰まで流した髪に引っ掛かった。ブランコを止める。
「これから入学式。ちょっと緊張してるんだ」
指先で花びらを掬い取る。それを掌に乗せて、フッと息を吹きかけた。それは戸惑うようにひらひらと風に靡くと、やがて遠くへ消えて行く。
「友達は恵那と千秋も同じ学校だから問題ないんだけど、部活とか、あと勉強が不安でさ」
またブランコを漕ぎ始める。そして、一年の始まりに相応しい青空へと視線を転じた。
「数学とか、難しくなるじゃない? 私、理系の科目苦手だから……」
真っ白なキャンバスを塗り潰したような、青一色の空。日差しが眩しくて、目を細める。
「数学、得意だったでしょ? 一緒にいられれば、教えてもらえるのになぁ」
寂しさとか、懐かしさとか、怒りとか、色々な感情が胸の底から湧いてくる。どんな顔をしていいのか分からなくて、明日香はブランコを止めて目を伏せた。
ブランコと靴底が地面を擦る音が消えてしまえば、朝の住宅街には殆ど音がない。車も滅多に通らないような場所であるから、尚更だ。
穏やかな静寂の中で、明日香は目を閉じる。そして、頭の中にある少年の姿を思い浮かべた。
男の子にしては線が細く、少女めいた陰影の見える顔立ち。真っ黒な髪には少しだけ癖があり、どこか黒猫めいた印象の、そんな幼馴染。
そして二年前、自分に何も言わずに消えてしまった少年。
「何処にいるのよ、バカ宗太」
二年も経つのに、心は彼が突然いなくなってしまった日のまま。自分はどれだけ彼に執着していたのだろうか。
唇を噛み締め、目を閉じたまま、そのことばかり考える。すると、唐突に聞こえてきた声がぐるぐると巡る思考の輪を破った。
「明日香ちゃん、そろそろ行かないと間に合わないよー」
公園の入り口の辺りから聞こえてくるのは、中学時代からの友達の声。入学式へ向かう途中だというのに、こんな情けない真似をしている自分を嫌な顔もせずに待っていてくれる親友。
出来れば、もう少しこうしていたいと明日香は思った。とはいえ、これ以上待たせるわけにはいかない。入学早々遅刻などして悪い目立ち方をするのは嫌だったし、親友をそれに付き合わせるのはもっと気が引けた。
それに、どの道、こんなことを何時間続けていても気分は晴れないし、彼が帰ってくるわけでもないのだ。
「うん、今行く!」
ブランコから腰を上げると、明日香は小走りで公園の出口へ向かった。敷地の外へ出る直前、未練がましく座っていたブランコに目をやる。
――そういえば、あのブランコは宗太の指定席だったっけ。
古ぼけた小さなブランコは朝日の下で僅かに揺れている。その光景を眺める明日香の思考は次第に過去へと傾いていく――
キィキィ、とブランコの揺れる音。
そのすぐ脇に設置された円筒形のベンチに座ったまま、明日香は重い溜息を吐く。
公園は夕焼け空に照らされて茜色に染まりきっている。五時を回って少し過ぎた頃だから、遊び回る子供の姿もなく、敷地の隅に転がる薄汚れたサッカーボールがどこか物悲しい雰囲気を演出していた。
中々絵になる景色だが、明るい情景とは言い難い。ただでさえ暗く沈んでいた気持ちが、更に深淵に落ちていくように思えて、再び溜息を吐きながら呟いた。
「どうしよ……?」
呟きが合図であったかのように、ブランコが止まる気配がした。代わりに、呆れの感情に彩られた声が、その方向から投げられる。
「お前さ、お節介も程々にしとかないと身が持たないぞ?」
音源に視線を向けると、ブランコに腰を下ろした幼馴染、上谷宗太が眉間に皺を寄せていた。その足下には、ぺしゃんこの学生鞄が放り捨てられている。
彼の皮肉めいた言葉に唇を尖らせながら、明日香は抗議の声を上げた。
「だって、ほっとけないでしょ? クラスの雰囲気だって、悪くなっちゃってるし……」
「だから気にし過ぎなんだって、お前は。いいじゃんかよ、ほっとけば」
細面の中性的な顔立ちを面倒臭そうに歪めながら、宗太はひらひらと右の掌を振る。その粗野な仕草と、それに似合わぬナイーブそうな外見とが、彼独特の奇妙な調和を見せている。
産まれた時から数えて十四年弱。家が隣同士だったのと、母親同士が学生時代からの親友だったこともあって、常に隣にあった、見慣れた姿。それを憤りを込めて、睨む。
「もう、宗太も少しは真面目に考えてよ!」
「いや、んなこと言ったって……喧嘩なんて、他人が口出ししてどうこうなるもんじゃないだろ」
正論じみたことを言われて、明日香は言葉に詰まる。対する宗太は、明日香の不満げな視線を受けて困ったような顔をしていた。
しばし、居心地の悪い沈黙が辺りを満たす。公園前の車道を通る車の音が、やけに鮮明に鼓膜を震わせた。
やがて、重い空気に耐え切れなくなって、明日香はポツリと呟いた。
「しょうがないでしょ。気になっちゃうんだから」
いじけた子供のそれに近い心境で目を逸らすと、宗太が呆れたように溜息をつく気配があった。それが悔しくて、唇をきゅっと引き結ぶ。
何をそんなに思い悩んでいるのか、と問われれば答えは単純で、学校で勃発したとある喧嘩が原因だった。
一ヵ月後に控える体育祭の準備の折、クラスの女子のリーダー格と、お調子者の男子の間で衝突があったのだ。それはクラスごとの応援合戦の方針についての意見の食い違いが原因だった。
最初は単純な口喧嘩に過ぎなかった。しかし、両者が熱くなっていく内にそれは激化の一途を辿り、最終的にはクラスの男女を真っ二つに割る大喧嘩に発展してしまった。おかげで、放課後に至るまでのクラス内の空気は最悪と言っていい状態。
勿論、全員が全員喧嘩に参加しているわけではない。とはいえ、主犯格がクラスの中心的人物であるために、その規模はかなり大きくなってしまっている。明日香としては、どうにかしたい気持ちでいっぱいだった。
とはいえ、宗太の言う通り、明日香一人にできることは殆どないのだが。
三度目の溜息と共に肩を落とす。すると、宗太がブランコから立ち上がり、足下の鞄を手に取った。そして、明日香の下へ歩み寄ると、居心地の悪そうな表情で口を開いた。
「あんまりクヨクヨしてんなって。お前が原因ってわけでもないんだから、悩むだけ損だぞ」
慰めてくれているのだろう。だが、その程度で気が晴れるわけもなく、明日香は見下ろしてくる彼と視線を合わせないまま、無言を貫いた。
「ほら、そろそろ帰ろうぜ。暗くなってきたしさ」
「…………」
「あ、そうだ。何なら今日はウチで夕飯食っていくか? 姉さんが今夜はシチューだって言ってたし。明日香、あれ好きだったろ?」
「…………」
黙ったままでいると、宗太が困ったように頭を掻く気配が伝わってきた。それでも一言として声を発しずにいると、宗太が根負けしたように長い溜息を漏らした。
「あーっ、分かったよ! 手伝えばいいんだろ、手伝えば!」
「え、ホント? 手伝ってくれる?」
あっさりと顔を上げて宗太を見やると、彼はいかにも悔しそうな表情をしていた。その顔がおかしくて、明日香は思わず小さく吹き出してしまう。
「お前、本当に現金というか……いい性格してるよな」
「ふふっ、ごめん、ごめん。ありがとね、宗太っ」
最上級の笑みと共に礼を告げると、宗太はブツブツと文句らしき言葉を呟きながら、そっぽを向いてしまった。心なしか頬が赤いのは、きっと夕日のせいばかりではないだろう。
先ほどまでとは打って変わって弾む気持ちで、明日香はホッと安堵の息をついた。協力者がいるといないとでは、心の安定感が違う。もっとも、学校帰りに彼に相談を持ち掛けた時から、こうなることは大方予想できていたのだが。
面倒臭そうにしながら、それでも最後には必ず自分を助けてくれる。目の前の幼馴染はそういう人だから。
――お節介はどっちだか。
明日香はくすぐったいような、暖かいような、名状し難い心地良さを胸の内に覚えて、宗太へ笑みを向け続ける。すると、それに耐えられなくなったのか、宗太は踵を返して公園の出口へ向かってしまう。
「おら、行くぞ!」
照れ隠しの乱暴な口調。それすら微笑ましい。
はいはい、と苦笑交じりに答えながら、明日香は立ち上がり、彼の下へ歩み寄る。だが、宗太は明日香を待たずに、早足で家路を歩き始めてしまう。
「もう、待ってよ」
小走りで追いついて、抗議の声をぶつける。すると、宗太は悪びれもせずに言った。
「姉さんが飯作ってくれてんだから、あんまり待たせらんないだろ」
「うわ、出た、シスコン発言」
時折飛び出す、宗太の姉贔屓な発言が明日香はあまり好きではなかった。昔から、彼と彼の姉は見ていて不自然なほど仲が良い。姉弟で結婚でもするつもりか、というくらい。
その上、宗太はいつも、宿題が分からなければ姉に聞く。悩みがあれば姉に相談する。誰よりも真っ先に、姉を頼ろうとする。それが明日香には気に入らない。
私だって、宗太の力になれるのに、と思ってしまう。
あからさまな軽蔑を乗せた発言に、宗太の顔色が再び熟れたリンゴのそれになる。勢い良く明日香に向き直ると、大音量で唾を飛ばしてくる。
「シスコンじゃねえっ! 言いがかり付けんなタコ!」
「はいはい、そーですね。宗太君は十四にもなって姉離れも出来てない、情けない男の子じゃないですもんねー」
皮肉たっぷりに告げると、宗太がグッと歯を食いしばって睨んでくる。言い返したいけど、思い当たる節が多すぎて反論できない、といったところだろう。
反応が単純で、面白いったらない。しばらく、その表情を冷たい表情で眺め続けて、それから明日香はクスリと笑った。
「ほら、大事なお姉様が待ってるんでしょ? 早く帰ろ?」
言いながら、怒り顔の宗太の手に自分の手を絡める。羞恥のせいか、女の子のような細い指先は熱を持っていた。
そして、宗太が何か言ってくるよりも早く、明日香は駆け出す。
「お、おい、何して……」
「この位いいでしょ? 幼馴染なんだから」
聞こえてくる文句を適当にあしらいながら、両の足で強く地面を蹴る。不思議と、体が軽かった。
頬を撫でる風の心地良さに、明日香は充足と幸福を感じた。細く、頼りないこの手を握っていられることが、自分の全てだと思える。
大好きな人とからかい合って。喧嘩とも言えないような喧嘩をして。そして、二人で笑って。それはいつまでも繰り返される当たり前の日常。当たり前の幸せ。
少なくとも、この時はそう信じていた。