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15.相応しきは


 窓外の空はキャンバスに絵の具を零したような、曇りのない青。その下で、体操服姿の男子生徒達がサッカーボールを追いかけている。

 六時間目の授業の最中だ。だが、教壇から響く数式の解説は耳を素通りしてしまう。軽く唇を噛んで、明日香は背後の席にそっと視線を向けた。

 そこには酷くつまらなそうな顔をして、ノートにシャープペンを走らせる宗太がいた。


「あ……」


 小声で呼びかけようとしても、口の中がカラカラで言葉を紡ぐことができない。それでも、喉から僅かに零れた呻き声に反応して、宗太が瞳を向けてくる。

 いつもの――二年前までの、優しい光を湛えた瞳ではない。硝子に黒の塗料を貼り付けただけのような、無機質で無感情な瞳だった。

 悲しくて、切なくて、明日香は堪らない気持ちで視線を黒板へ逸らす。やっぱり、教壇からの声は意識を素通りしてしまった。


 宗太の編入から、今日で三日が過ぎた。入学間もない時期であったことが幸いして、彼はこれといった障害もなく、クラス内でも自然と無難なポジションを獲得している。

 そしてもう一つ。今日はあの放課後から三日経った日でもある。

 あの日、宗太の指示通りに行動した明日香は、事情も分からないまま理事長の用意してくれたタクシーで帰宅した。

 当然、それからすぐに宗太の家の戸を叩きに行った。しかし、彼は家には居らず、電話は繋がらない。メールをしても『大丈夫だ』と、短い文面が返ってきただけで、それっきり連絡が取れなくなってしまった。

 それからは学校でもそれ以外でも、宗太とはまともに話もできない状態が続いていた。


 どうしたらいいのかな。


 そっと、真っ白なノートに瞳を落として、心の中で呟く。と、前方からよく通る声が明日香へ向けられたのはその時だった。


「それじゃあ、宮代さんの列の前から三人、カッコ一から三まで黒板で解いてください」


「え……?」


 教壇で人懐っこい笑みを浮かべるのは数学Ⅰの担当である及川だった。明日香は首を傾げる。

カッコ一から三。一体何の話だ。

 慌てて教科書を手元に引き寄せると、視線に飛び込んだのは『祇園精舎の鐘の声』と始まる漢字と平仮名の羅列だ。

……こんな数式の解き方はまだ習っていない。そして、多分これから先も永遠に習うことはないだろう。

 何処からどう見ても平家物語。きちんと見てみると、ノートの横に置いてあるのは古典の教科書だった。

 後ろの席の二人は既にノートを手に黒板へと向かっている。明日香も机から引っ張り出した数学の教科書を手に小走りで黒板へ向かった。

 は、いいのだが。


「……どこ?」


 ポツリと、内心の疑問を口にする。

 何ページの何番のカッコ一を解けばいいのか、その大前提が分からない。ずっと授業内容を何処吹く風と気にも留めていなかったツケが回ってきた。他の二人は既に黒板に数行の数式を綴り始めているというのに、明日香は未だチョークを握ってすらいない状態だった。

 教科書を捲りながら、軽くパニックに陥る。素直に及川に何ページの何番を解くのかを聞けばいいのだか、それはかなり恥ずかしい。下らない見栄かもしれないが、宗太が隣にいる状況で、そんなことはしたくなかった。

 八方塞り。いよいよパニックが最高潮に達しようとした時、隣でチョークを置く音が聞こえた。見れば、宗太が下らない芝居でも見たようなしらけた表情で、己が書き終えた数式を眺めていた。

 そして、その視線が明日香が解答を記すべき箇所に映される。数字の一つも書いていない状態に訝しそうな顔をしてから、すぐに黒板の前から立ち去ろうとする。

 小さな呟きが聞こえたのは、彼が明日香の背中を通り過ぎようとした時だ。


「十四ページの問三。ちゃんと聞いとけ」


「え?」


 乱暴な言い草だった。だが、それは確かに、明日香に向けられた宗太の声だった。

 三日前から、彼と交わした言葉は数えるほどだ。まして、自分を助けてくれるこんな言葉は初めてである。

 けれど、喜びはなかった。ただ、頭の中で重く反響する言葉があった。


――足手纏い。そして、邪魔。


 詳細は分からない。けれど、宗太が何か大きなものに巻き込まれていることだけは、漸く理解できた。

 昔の宗太なら、腕を斬り付けられて平然としていることなんてできない。暴漢を素手で圧倒することも。それは会えなかった二年の間に身につけたものなんだろう。

 そして、そんな宗太にとって、自分が隣にいることは負担にしかならない。足手纏いなだけ、邪魔なだけ。

 無力が悔しくて、悲しくて、苦しくて。どうしようもなかった。宗太が帰ってきてさえくれれば、また昔に戻れると思っていたのに、あの頃の暖かさは遠くなるばかりだった。

 俯く。すると、教壇の前に立つ及川が、心配そうに首を傾げてきた。


「宮代さん、大丈夫?」


「あ、す、すいません」


 慌ててチョークを手に取り、宗太の教えてくれた問題に視線を落とす。


 結局、解けなかった。







「遅い……ね、上谷君」


 校門の門柱の影から下校する生徒達を監視しながら、千秋が呟いた。傍を通る人の視線に身を竦めながらも、大きな双眸は一生懸命、ターゲットの姿を探している。


「まさか、もー帰っちゃってるとかないよね?」


 訝しげに首を傾げたのは、千秋の頭にトーテムポールのように自分の頭を乗せている恵那だ。千秋とは対照的に奇異の目を気にしない胆力は流石だが、全く見習いたくない。

 そこから三歩離れた位置で、明日香は二人の背中に遠慮がちに声をかけた。


「あの、もう本当にいいから……」


「遠慮しなくていーよ! せっかく千秋が作戦考えたんだしさー」


 こちらを見もせずに、恵那が答える。すると、千秋が恵那の頭が乗った顔を不便そうに動かし、明日香へ向けてから言葉を継いだ。


「明日香ちゃんには大事なことだし……私たちも気になるから」


 静かな口調ながら、不退転の意思が覗く瞳。これはいよいよ『作戦』の中断が叶わなくなったと悟り、明日香の気持ちは重くなった。

『上谷君に彼女がいるか確かめちゃおう作戦』。それがこの奇行の主旨である。

 名は体を表すという言葉を見事に体現している、もといこの説明不要なまでに安直なネーミングの作戦は三日前、千秋が立案、恵那が命名したものだ。

 宗太のクラス内での立場も落ち着いたところで、本日実行する運びになったこの作戦。こうして校門前で宗太を待ち伏せしているのも、その伏線だ。

 正直、既に宗太が自分を避けている理由が――納得出来るか出来ないかは別にして――分かっている明日香としては徒労以外の何者でもないのだが、なにせ二人が張り切っている。事情が事情だけにマトモな説明もできず、流されるようにここまで来てしまった。

 宗太と顔を合わせるのは辛いが、親友の心配を無碍にもできない。そんな葛藤に溜息を吐きながら、明日香はチラリと校門の方を一瞥する。恵那があっと声を上げたのはそのタイミングだった。


「来たよ! 明日香、ゴー!」


「え、いや、ゴーって言ったって……ちょっ、きゃっ」


 やけに重い足取りで進む宗太を見つけた時にはもう遅かった。恵那に引っ張られ、彼の方へ押し出された明日香は五、六歩たたらを踏み、そして宗太の横合いでバランスを崩してしまった。

 ぶつかる。激突の衝撃を想像し、明日香はぎゅっと目を瞑ってしまう。そして、訪れるその瞬間。

 トンっと、思っていたよりも随分軽い衝撃。そして、地面に尻餅をつくがした。

 明日香が、ではない。

 宗太が倒れる音だった。


「ごっごめん! 大丈夫!?」


 目を開き、自分が引き起こした事態を目の当たりにした明日香は、半ばパニックに陥る。慌てて、地面に座り込み顔をしかめる宗太に手を差し出した。


「ん……あ、明日香か」


 随分と鈍い反応で明日香を見上げてから、宗太は差し出した手に気付いていないかのように自ら立ち上がった。

 腰の辺りを手で払いながら、宗太は明日香を見もせずに立ち去ろうとする。


「あ、あのっ」


 反射的に彼の背中に声をかける。すると、宗太は緩慢な動作で明日香へ視線を向けた。

 その瞳の冷たさに、明日香は息が詰まりそうになる。だが、『作戦』のことを抜きにしても、久々に宗太ときちんと離すきっかけが出来たのは確かだ。

 それを思った途端、明日香は弾かれたように、無意識のまま言葉を紡いでいた。


「この前、英語教えてって言ったでしょ? その、もし暇だったらこれからいいかな?」


「あー、言ってたな、そういえば」


 つまらなそうな口調で呟いてから、宗太は頬を掻いた。


「悪い。急いでるから、今度に――」


「つれないこと言うなよー!」


 宗太の背中から割り込んでくる、場違いに陽気な声。明日香どころか、つまらなそうな顔をしていた宗太までもが目を見開き、声の方へ向き直る。

 と、同時に、宗太の両手にそれぞれ二本ずつの腕が絡められる。


「おっしゃー、上谷君ゲットだぜ! 千秋、がっちりロックだー」


「え、えっと……私たちからも……お願いします」


 片や言葉通りがっちりと、片や恥ずかしそうに控え目に。宗太を左右から拘束するのは門柱に隠れていた筈の恵那と千秋だった。

 作戦では二人の登場は明日香のお誘いが成功してからの筈だ。呆気に取られる明日香に、恵那はバチィっとウインクをかましてくる。任せろ、ということか。

 正直なところ、もう作戦とか死ぬ程どうでもいいので、さっさと宗太から離れて欲しい。というか何をほんのりと赤面してるかバカ幼馴染。


「さー、行こうぜー。上谷君の家に進路を取れー!」


「お、おー」


「え、いや、ちょ、まっ」


 ハイテンションに宗太を引き摺る恵那。無理してそれに乗っかる千秋。そして、赤い困り顔で戸惑い、されるがままになっている宗太。


 うまくいった。作戦は大変順調に進行している。


 腹が立って仕方がない。






 何やってんだ、俺。

 シャープペンを手元でクルクルと回しながら、宗太は首を傾げる。確か、今日も放課後はひたすらフラウの捜索に当たる予定だった筈だ。

 それが何故、自宅で女の子三人と卓袱台を囲んでいるのだ。


「ねーねー上谷君“smuggling”ってどういう意味?」


 卓袱台を挟んだ正面から、恵那が英語の教科書を捲りながら尋ねてくる。自分の置かれている状況への疑問を更に深めつつ、宗太はとりあえず返事を口にする。


「密輸」


「じゃあ“gangster”は?」


「ヤーさん」


「なら“traffic”は?」


「密売……ってか、笹村さんは何を読んでんの? それ、本当に教科書?」


 単語の関連性が微妙に怖い。人気のない港でパンチパーマでサングラスをかけた強面のオッサンが白い粉を売っているシーンを想像してしまう。

 最近の教科書はなかなか前衛的らしい。首を傾げていると、今度は斜め前から声がかかった。


「あの、上谷君……“imagination”の発音、教えてもらえますか?」


「あ、うん……」


 コホン、と一つ咳払い。それから、妙に改まった気分で一言。


「imagination」


 アクセントはtの前のaだ。イギリスに居た頃と変わらぬ、我ながら完璧な発音。

 しかし、恥ずかしい。生粋の日本人のくせに、なにがイマジネィションだ。発音の完璧さがかえって痛々しく、我ながらバカみたいだとも思った。

 そんな宗太の羞恥に対して、千秋はといえば全く笑う様子はない。寧ろ、感心しきったようなキラキラした尊敬の瞳を向けてくる。

 まったく誇らしくないといえば嘘になるが、やはり恥ずかしい。小動物めいたクリクリの瞳から逃れるように視線を横に移す。そして、後悔した。

 卓上で開いた教科書を見るでもなく、ただじっと俯く明日香が視界に入ってしまったから。


「っ……」


 こんな明日香を見ているのは辛かった。そして、その原因が自分だと思うと、堪らない罪悪感で胸が締め付けられそうになる。

 足手纏い、邪魔。三日前のあの言葉。本心でないにせよ、明日香に対してそれに似た感情を抱かなかったと言えば、嘘になる。

 巻き込んでしまえば、守りきれる保障はない。だからこそ、距離を置こうとした。にも拘らず、昔の関係を望む明日香に鬱陶しさに似たものを感じていた。

 この優しすぎるくらい優しい少女に、宗太の住む世界は優しくないというのに。

 三日前の出来事は決別のために丁度良かったのかもしれない。事情は分からずとも、宗太が明日香の手の届かぬ所に、明日香の力の及ばぬものに巻き込まれていると分かってもらえただろうから。


「お茶淹れてくるよ。ちょっと待ってて」


 そう断りを入れてから、立ち上がる。これ以上明日香を見ていられなかった。未練で、吐き気にも似た胸の苦しさを覚えてしまうから。

 三人の返事も聞かず、足早にキッチンに向かうと、棚から理事長に分けてもらったウバの葉の入った缶を取り出した。

 ウバは世界三大紅茶に数えられるポピュラーな紅茶の一つで、苦味と湿布に似たメンソールのような香りが特徴だ。

 特有の香りと味故に好みが別れやすい紅茶だが、宗太は割と気に入っている。明日香達の舌に合うかは分からないが、ミルクと相性がいい品種でもあるので、苦手な場合は甘いミルクティーにしてしまえばいいだろう。

 電気ポットで湯を沸かしつつ、棚を漁ってお茶請けを探す。勉強中だし、ウバと合わせるなら甘いものがいいだろう。

 だが、この三日間、マトモに買い物もしていなかったことが災いした。棚の中は寂しいもので、それらしいものは何も見つからない。

 コンビニにでも足を伸ばそうか。そんなことを考えた時、ふと背後で足音がした。


「あの、上谷君……」


「あ、永倉さん。どうかした?」


 キッチンの入り口から、遠慮がちにこちらを覗き込んでくるのは千秋だった。視線を向けると、彼女は居心地が悪そうに身を捩ってから、キッチンに足を踏み入れた。


「トイレなら廊下の突き当たりだけど?」


「あ、いえ、その……ちょっと話があるんですけど……いいですか?」


「話?」


 作業の手を止めて向き直ると、彼女は小さく頷いた。それから、妙に力の篭った瞳で宗太を見据えてくる。


「明日香ちゃんの……ことです」


 一瞬、本当に呼吸が止まるかと思った。

 表情を硬くして、千秋を見詰める。緊張を吐き出すように、大きく息を吐いた。


「どうして、明日香ちゃんのこと避けてるんですか?」


「……避けてるわけじゃない。ただ、二年も離れてたんだから、昔みたいにはいかないだけだよ」


「その二年の間、明日香ちゃんはずっと上谷君のことを想ってました」


 淀みのない、強い口調だった。彼女がここまではっきりとものを言うところを、宗太は見たことがない。


「知ってますか? 明日香ちゃん、上谷君がいなくなってから何度か告白されたんです」


「…………」


 僅かに、胸が疼いた。

 嫉妬する資格もないくせに嫉妬している自分が、本当に卑しく思えて仕方がない。


「女の子からは人気のある男の子も、何人かいました。けど、好きな人がいるからって、全部断ってきたんです」


「それは……」


「分かりますよね? 明日香ちゃんが誰を想ってそう言ったのか。忘れてしまえば楽なのに、ずっと忘れられなかったのが誰なのか」


 分かる。分かるからこそ、こんなに苦しいんだ。

 真っ直ぐすぎる言葉に、グッと拳を握り締める。

 湯が、沸騰した。千秋の視線から逃れるようにポットの湯のスイッチを切る。

 暫く、紅茶を淹れる音だけがキッチンを満たした。四人分の紅茶を淹れ終えてから、宗太は初めて明確な言葉を口にした。


「たとえば……さ」


 千秋の目を真っ直ぐ見据える度胸はなかった。ティーカップの琥珀色の水面を見下ろす。

 寂しそうに笑う、自分の顔が映った。


「一途で、健気で、不器用なくせに優しくて……そういう女の子がいたら、絶対幸せにならなきゃいけないんだよ」


「ならっ――」


「でも、その相手は俺みたいのじゃない。ヒロインのピンチにすぐに駆けつけて、何があっても守り抜く、そういう漫画の主人公みたいな強い奴じゃないと駄目なんだ」


 俺は弱いからさ。

 最後にそう呟いて、千秋に視線を向けた。何か言いたげな彼女に先んじるように、宗太はティーカップが三つだけ乗った盆を差し出した。


「悪いけど、これ運んでおいてくれないかな? で、飲み終わったら帰ってくれ。結構、忙しいんだ」


「……分かりました」


 奥歯を噛み締めるような表情で頷いてから、千秋がキッチンを去る。

 小さく息を吐くと、宗太は壁に背中を預けた。彼女と向き合ったこと、そして、この三日間、寝る間も惜しんでフラウを探し続けたせいか、心と体が疲弊していた。

 けれど、止まる暇はない。

 全部全部捨て去って、それでも果たすべきことがあるのだから。


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