14.過ぎたる後は石の如く
ストーリー進行の都合上、止むを得ず『14.カラマワリ』を削除し、今話に変更する次第となってしまいました。
こんな拙作を読んで頂いている読者の方々には大変申し訳ありませんが、よりよい作品作りのためにご理解頂ければ幸いです。本当にすいませんでした。
明日香視点の段落は前話の『14.カラマワリ』とまったく同一ですので、既読の方は宗太視点のページから読んで頂ければ問題ないと思います。
本当に申し訳ありませんでした。
少し焦げた卵焼きが、横合いから延びてきた箸によって、明日香の弁当箱から取り上げられた。
その箸の主はゆったりとした所作で卵焼きを口に放ると、静かに咀嚼する。ゴクリと固唾を飲み込みながら、明日香はその様子を見詰めていた。
「…………」
「……ど、どう?」
緊張に上擦った声で尋ねると、箸の主――宗太はじっくり咀嚼した卵焼きを嚥下した。そして、眉間に皺を寄せた。
むっつりと押し黙る彼の様子に、明日香の緊張はいよいよ頂点に昇る。そして、引き結ばれていた宗太の唇がゆっくりと開いた。
「……五十点。まだまだおばさんには及ばないな」
彼の言葉と同時に緊張が解け、それまで聞こえなかった教室内の喧騒が耳に入ってくる。
昼休みの教室である。窓から差す日差しは暖かく、室内は食べ物の匂いが漂っている。昼食の席を宗太と並べた状態で、明日香は宗太に不満の声を差し向けた。
「むぅ……しょうがないでしょ、慣れてないんだから。お母さんを引き合いに出すのは狡いよ」
七十点くらいは貰えると思ってたのに。
唇を尖らせながら、明日香は弁当箱の中で唯一自分が作った品、卵焼きを口に入れた。途端、口の中身を噴出してしまいそうになる。
口内に広がるのは過剰な塩味。なるほど、これは確かに五十点かも知れない。
ケホケホと咽ながら、慌てて水筒のお茶を喉に流し込む。見れば、宗太も顔を顰めながら、ペットボトルの緑茶を飲んでいた。
「ご、ゴメン……味見するの、忘れてた」
目尻に涙を滲ませながら謝ると、宗太は渋面ながらも気にするなとばかりにひらひらと掌を振った。
「予想はしてたしな。それにまあ、昔よりは進歩してる……と思わなくもない」
「そこは進歩してるってことでいいじゃない……」
偉そうなことが言える立場でもないのだが、一応頬を膨らませて抗議しておく。
なにせ、昔は卵焼きを作ろうとしたら、スプリンクラーが作動する始末だったのだ。こうして形が出来ている分、大きな進歩といえるではないか。
「始めが悪すぎたってのもあるからなぁ……」
呆れきった調子で呟きながら、宗太がクリームパンを齧る。コンビニで一つ百円ちょっとで売っている安っぽいものだ。
昼ごはんとしては呆れるほど貧弱だ。普段なら見向きもしない代物だが、塩辛いものを食べた後は甘いものが恋しいもの。正直、ちょっと羨ましい。
そう思ったら、口が勝手に動いていた。
「ねぇ、一口ちょうだい?」
「え? いや、まあ、いいけど……」
いい、と言いながらもちょっと不満そうな顔で、宗太がクリームパンの食べ進めている側とは逆の端っこを千切ろうとする。
そこで、明日香は制止の声を投げた。
「あっ、そうじゃなくてさ」
言いながら、彼の手からひょいっとクリームパンを取り上げた。そして、宗太の歯型がついた部分を齧った。
あっ、と宗太の驚いたような声が耳朶を打つ。それと同時に、甘いクリームがトロリと舌に広がった。
うん、悪くない。最近はコンビニのパンも中々美味しくなってるらしい。
「お前なぁ……」
「んー、どうかした?」
お世辞にも人が好いとは言えない笑みを顔に貼り付けて、何か言いたげな宗太を見やる。眉間に皺を寄せた彼の頬をよく見てみると、微かな朱が差していた。
相変わらず、可愛い。自然と、頬が緩んでいく。
「ったく、あんまりふざけるなっての」
クリームパンをひったくり、宗太がぶっきらぼうな口調で吐き捨てた。それから、気恥ずかしさを誤魔化すようにクリームパンを齧ろうとして、動きを止めた。
困ったような視線の先には、明日香の齧った跡がある。
「間接キッス……なんちゃって」
茶化すように口を挟むと、宗太はきつい視線をぶつけてくる。平静を装って、澄ました顔で応じていたが、内心はそう冷静でもなかった。
トクトクと、心臓が煩く鳴いている。口内に残る甘美な感覚が血を熱くさせた。
恥ずかしくて、本当に死んでしまいそうに思えてくる。余裕ぶっていられるのは口だけだ。
「まぁ、そんなに気にしなくていいじゃない。昔はこんなのしょっちゅうだったでしょ?」
「小学生の頃の話だろうが。今、俺、高校生、お前も、高校生」
クリームパンを持て余しながら、宗太が恨めしそうな目をする。拗ねた子供のような表情が堪らなく可愛らしくて、愛しい。
自然と口元が綻んでいく。
「気にしない、気にしない。幼馴染なんだからさ」
――みたいな感じになるはずだったのになぁ、と。
しょっぱい卵焼きを顰め面で飲み込みながら、明日香は溜息を零した。
「あ、あの、元気出して明日香ちゃん……ね?」
「そーそー、気にしたってしょうがないって。男には男の付き合いがあるんだしさー」
フォローするように隣と向かいから声をかけてくるのは、昼食を共にしている千秋と恵那だ。適当に三つ並べた机の周りに、宗太の姿はない。当然だ。昼休みが始まるや否や、クラスの男子達に食堂へ拉致(誘われた、とも言う)されてしまったのだから。
心底面白くない。弁当箱の一角を占拠する卵焼きを機械的に片付けつつ、明日香はフンと鼻を鳴らした。出来損ないのそれが、異常なくらい不味く感じられる。
「はぁ……」
「もー、元気だしなってば! ほら、食べて食べてー」
恵那がいつも通りの元気のいい声で暗い雰囲気を払拭しようとするが、生憎と今の明日香にそれに乗る元気はなかった。原因は言うまでもなく、宗太のことである。
今朝方抱いた、宗太と共に過ごす学園生活への願望。それは今この時に至るまで、悉く打ち砕かれていた。
例えば、授業中。小声でこっそり喋るくらいは、と思っていたのに、前後という席の位置関係のせいか、いまいち上手くいかない。
授業の合間の休み時間。イギリス帰りの編入生に興味津々の級友達が彼を取り囲み、立ち入る隙なし。しかも、野次馬の中には少なからず女の子の姿もあった。
そして、今である。彼のためにたった一品だけ用意できた卵焼きも、全て明日香の胃に収まる結果となってしまった。
本当に、面白くない。こんなはずではなかったのに。
乱暴に卵焼きに箸を突き刺し、口に運ぶ。本当に不味い。
「そ、そういえば!」
気弱な性格に明日香の怒気が堪え難かったのか、千秋が珍しく大きな声を上げた。
すると、恵那と明日香の視線は驚いたように彼女に向かう。そのことに恥ずかしげに頬を染めつつ、千秋はおずおずと口を開いた。
「あの……上谷君と再会した時は……どんな感じだったの?」
「あー、それアタシも聞きたかった! やっぱ、感動のご対面だったわけ?」
千秋を援護するように、恵那も声を張り上げる。
気を遣わせていることを申し訳なく思いつつも、明日香は肩を落としながら恵那の言う『感動のご対面』という言葉を吟味する。そして、小さく笑った。
自嘲の笑みである。
「ん、まぁ、私は泣いちゃったりしたし……嬉しいのとか、驚いたのとか、ごちゃごちゃになっちゃって……」
感動していた、と言えばそうなのだろう。少なくとも明日香は。
でもね、と。翳りを乗せた声で続ける。
「宗太はどうなのかなぁって。なんだか、その、うまくは言えないんだけど……なんか、私よりも、もっと別のことに気を取られてるみたいで……」
二人の表情が疑問と心配を混ぜたような複雑な形に歪む。
余計に気を遣わせてしまう言葉だったけれど、それでも少しだけ心が軽くなる。やはり、苦しいことを心の中に溜め込んでいるのは良くない。
フッと肩の力を抜く。すると、珍しく控え目な調子で恵那が口を開いた。
「ね、ねー、それってもしかして……」
「え、なに?」
「えーと、何というか、言い難いんだけどさー……」
はっきりしない様子で、明日香へ視線を向けたり、逸らしたりを繰り返す恵那。明日香と千秋が首を傾げると、やがてポツリポツリと語り出す。
「その、さ。上谷君、二年もイギリスにいたわけじゃん?」
「う、うん」
「そしたらさ、こう……向こうで彼女なんか作っちゃったりとか」
ピシリ、と頭の奥で何かがひび割れたような音が聞こえた。
手の中の箸が零れ落ち、床でカラカラと音を立てる。
「え、恵那ちゃんっ!」
「あ、いや、別に絶対そうだって言ってるわけじゃ……あぅ、ごめん……」
先ほど以上の大声をあげる千秋に、恵那が身を小さくしている。普段なら、滅多にあり得ない光景だが、今の明日香にはそれを気にする余裕もなかった。
宗太に彼女。考えもしなかった。
イギリス人の女の子なら、やはり金髪や赤毛だろうか。日本人と比べたら長身で、スタイルが良くて、大人っぽくて……
そんな女の子が、宗太の隣にいる姿を想像する。途端に心臓を乱暴に鷲掴みにされたような苦痛にも似た悪寒が走った。
絶対に、絶対に、絶対に、そんなのは認められない。
「あ、あれだよ、もしかしての話だから! 上谷君は明日香一筋だって絶対!」
「そうだよ。上谷君、明日香ちゃんのこと大好きだもの……」
「……分かんないよ、そんなの。昔だって幼馴染だってだけで、好きとかそういうこと、言ったことも言ってもらったこともないし」
宗太とは友達よりは遥かに親密で、けれど恋人同士だと胸を張れるような決定的なことはなかった。
そりゃあ勿論、お互いの誕生日にプレゼントを欠かしたことはなかったし、クリスマスに二人で出かけたこともあるし、バレンタインは毎年、彼だけにチョコレートを渡していた。
だが、甘い睦言を交わしたこともなければ、ドラマじみた告白イベントがあったわけでもない。ふざけて手を繋いだりしたのが精々で、キスやそれ以上の行為は以ての外だ。
所謂、友達以上恋人未満。新天地でそんな惰性に満ちた関係から解放された彼が、明日香よりもずっと素敵な相手を見つける可能性だって零ではない。
本当に零ではないという程度の可能性だが、一度考えてしまうと不安は拭えない。
はあぁぁぁぁぁあ、と重く暗い溜息を零し、俯いた時、必死に慰め役に回っていた恵那がパンと手を叩いた。
「そ、そうだ! なら、確かめよーよ。アタシ達も協力するからさ!」
「…………どうやって?」
「…………それはー……」
お世辞にも、頭脳派とは言い難い恵那。明日香の陰気な口調の問いに、縋るように千秋へと視線を向けた。
突然頼られても困るに決まっている。そう諦念しながら明日香も恵那と同じ方へ視線をやった。すると、予想外の言葉が耳に入った。
「それ……うん、いいかもしれない……」
「さっすが千秋! なーんか思いついたの?」
「う、うん。ほら……上谷君、帰国子女だからそれを口実にして……」
喋るのが苦手なのに、それでも一生懸命千秋が語ってくれる作戦。
その全貌を聞いた時、明日香は暗中に微かな光明が差したように感じた。
一時間目から昼休みを挟んで帰りのホームルームまで、忍耐と愛想笑いで耐え抜いた。
引き攣った顔面筋の痛みに渋面しつつ、宗太は廊下を早足に進む。
帰りのホームルームが終わるや否や、真っ先に教室を出て、下駄箱へ向かっているところだ。まだホームルームの終わっていない教室も多いようで、廊下はそこまで人気が多くない。
歩きながら、宗太は今朝神代から渡されたばかりの携帯電話を取り出した。そして、操作に少しばかり苦労しながら、メールの受信ボックスを呼び出す。
その中に二件だけ、受信メールがあった。
片や、神代からの業務連絡。
片や、困ったことがあればいつでも掛けてきなさいという旨の理事長からのメール。
その内の神代からのメールを開き、宗太は眉根に皺を寄せた。
「やる気あんのか、あの人は……」
真っ先に目に飛び込んできたのは色とりどりの絵文字だった。
ヒヨコの絵からニッコリマーク、顔文字といった具合に絵文字が並ぶ文面は『業務』の二文字から果てしなく遠い代物に見える。
女子高生かあのオッサンは、と呆れつつも、宗太は液晶画面の隅から隅までキチンと目を通す。
『初メールおめでとうございます』やら『私のメアドです。是非是非ご登録を』などという余計な文を除けば、それは概ね宗太の期待通りの内容ではあった。
「合計で十五……か。思ったよりは少ないか……」
夕凪で中年男性が七名。武倉でOLが三名。相生市で小学生が五名。並ぶ文字は神代に頼んで調べてもらった、この辺りでここ三日ほどに行方を絶った人間の内訳だった。
これらは全員、フラウの《傀儡の種》よって手駒にされたと思われる人間でもある。
先日のフラウとの戦闘。その際、宗太が感じたのは『一対一の直接対決なら負けはない』という確証だった。
一撃の威力、攻撃の範囲、連射性、身体能力等々、諸々の能力を計算に入れても、フラウの単純な戦闘能力は宗太に対してかなり劣る。となれば、奴の取る選択肢は一つに限られてくる。
――『ハーメルンの笛吹き』だ。
「女子供がいるとなると、肉弾戦で沈めるわけにもいかないか……」
無意識に歩みが速くなるのを感じつつ、宗太は思考の海に浸かる。
やはりフラウとの戦いで最も厄介なのは操られた人々の存在だ。無闇に傷つけるわけにはいかず、かといって向こうはお構いなしに攻撃を仕掛けてくる。
最小限のダメージで仕留めるには、二通りのやりかたがある。
一つは《傀儡の種》を魔術的に解除してやることだ。しかし、この方法には少々ばかりの欠点が付きまとう。
もう一つは肉弾戦で相手を気絶させた後、術の発生源である針を直接引き抜くことだ。しかし、これもあまり現実的な手段とは言えない。
相手が成人男性ならある程度の打撃でも大した怪我は負わないだろうが、女性や子供となれば話は別だ。拳の一撃でも、致命的な重傷を負わせてしまう可能性は否めない。それに、相手は総勢十五名。一斉に掛かられて対応できるほど、宗太は格闘術の巧者ではない。
「やっぱり遠距離戦が一番か……でも、どう遠間に持ち込むか……」
ああでもない、こうでもない、とブツブツ呟きながら携帯を畳んでポケットにしまおうとする。聞きなれた声が思考を妨げたのはその時だった。
「宗太、ケータイ持ってたんだ」
「ぬおっ!」
変な叫びを上げつつ、バッと背後を振り返る。すると、声の主は不機嫌そうに頬を膨らませて言った。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「あ、あー、悪い。ちょっと考え事してたから……」
適当に言い訳で応じつつ、宗太は足を止めて不機嫌そうな明日香に向き直った。
当然だが、彼女が身に纏うのはこの学校の制服だ。濃紺のブレザーに同色のリボンを合わせている。
この姿を目にするのは帰国初日以来二度目だ。あの時は驚愕のあまりに意識はしなかったが、色白で細身の彼女にはよく似合っていた。
薄桃色の唇を尖らせて見上げてくる明日香は、しばらくしてから肩の力を抜くと、いつも通りの穏やかな口調で語りかけてくる。
「まあ、許してあげるけど。それより、ケータイ買ったんだ」
「あー、まあな。昨日、色々買ったついでにな」
ポケットにしまいかけた携帯電話を再び取り出して、明日香に示す。それを綺麗な双眸で興味深そうに見詰めてから、明日香は機嫌良さそうに笑った。
「ふふっ、丁度良かった。私もね、入学のお祝いに買ってもらったんだ」
じゃーん、と効果音付きでスカートのポケットから取り出したのは薄型の携帯電話だ。宗太のものと違いスライド式で、画面が表に出ているタイプである。
見るからに最新式、といった具合の機種。しかし、それ以上に目を引いたのは本体の色だった。
「お前、黒はないだろ、黒は」
ピアノブラックというやつか、光沢のある黒色の本体。それを見ながら呟くと、明日香はどういうわけか一瞬身を竦めてから、拗ねたような態度を見せる。
「いいじゃない、別に。これが一番カッコ良かったの。大体、宗太だって黒じゃない」
「俺は男だから良いんだよ。もっと可愛い色、他にあっただろ」
言ってやると、明日香は不機嫌そうに睨んできてから、不意に宗太の手の中にある携帯電話をひったくった。そして、宗太が文句を言うよりも先に何やら目にも止まらぬ速さで二人分の携帯電話を操作し始める。
突然のことにどうして良いやら分からず、ただ戸惑いながら傍観していると、明日香は憮然とした表情で宗太の携帯電話を突き返してきた。待受け画面が表示されているところを見ると、とりあえず目的の作業は終えたらしい。
首を傾げて疑問の意を示すと、明日香は偉そうに胸を逸らしながら言った。
「アドレスと番号、赤外線で交換しておいたから。あとでメールちょうだいね?」
「あ、あー、ありが、とう?」
意味も分からず礼を述べると、明日香はクスリと微笑んでから、どういたしまして、と頷いた。
電話帳の画面を呼び出すと、二件しか登録されていなかった番号の中に、確かに『宮代明日香』と登録されている。それを複雑な思いで見つめていると、明日香が気軽な調子で言った。
「それじゃ、行こっか」
「は?」
「帰るんでしょ? 私も何にも用事ないから、一緒に帰ろ?」
いや俺はこれから用事が、と口にする前に明日香は当然のように歩き始める。
本当なら、これからすぐにフラウの捜索に移るつもりだったのだが、何となく断るタイミングを逸してしまい、仕方なく明日香の後に続いた。
帰ってからでいいか。そんな風に平和ボケした思考をしている自分が少し情けない。
無言のまま、連れ立って歩く。かといってそれが気まずいわけではなく、言葉なくとも居心地の良い幼馴染特有の気安さがある。
これでいいのか、俺。複雑な思いを抱きつつ並んで校門を出たところで、明日香が自然な調子で口を開いた。
「久々だね、こういうの」
「え?」
「一緒に帰るの。誰かさんが急にいなくなっちゃうからさ」
意地の悪い発言。答えに窮して口を噤むと、明日香は悪戯っぽく微笑んだ。
「ごめん。許すって言ったのにね」
「……いいよ。誰から見たって、悪いのは俺だよ」
「ううん。ちゃんと帰ってきてくれたもん。何にも思わないわけじゃないけど、今は許せるよ」
気負いのない言葉と共に、明日香が僅かに宗太との距離を詰める。拳二つ分ほど空いていた二人の距離が一つ分まで縮む。
心臓の音が少し高まる。
「おんなじクラスになれて良かった」
一気に話題が変わる。それでも口を挟んではいけない気がして、宗太は隣にある明日香の横顔をただ見詰めていた。
曇りのない水晶のような、澄んだ表情。
「今日はあんまり話せなかったし、お昼も一緒に食べれなかったけど、昔みたいに一緒にいたい」
昔みたいに。そう言われて、二年前までを思い出す。
確かに、いつもいつも一緒にいた気がする。不器用なくせにやたらと気負い易い明日香から目が離せなかったし、離したくなかった。
でも、そんな気持ちは遠いところに置き去りにしてしまった。だから――
「なれるよね、また。昔みたいに」
――だから、縋るように見上げてくる瞳に頷いてやることは出来なかった。
無言のまま、視線を前方へ向ける。擦れ違う人や、車道を走る車がテレビ画面を眺めているように現実感を伴わなかった。
隣で明日香が悲しげに俯くのが気配で分かった。でも、視線を向けてやることはできなかった。
宗太の方から縮んだ肩と肩との距離を離す。空いた拳三つ分の距離が寒々しい。
また、無言の時間。しかし、とても居心地が良いとは言えなかった。ただ、鉛のような罪悪感が胸を潰そうとする。
やがて、人気のない路地に差し掛かると、革靴の底がアスファルトを叩く音が鮮明に響くようになる。硬い音をBGMに、明日香は重い空気を払拭するような場違いに明るい声を響かせた。
「あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」
「ん、何だ?」
「英語、教えて欲しいなぁって」
「英語?」
首を傾げてみせる。すると、明日香は慌てて言葉を付け足した。
「ほら、高校入ってから英語の授業も難しくなりそうだし、生の英語を聞けば勉強になるかなぁって……」
「教えられなくもないけど、俺のはクィーンズイングリッシュだぞ。アメリカ英語とは大分違うし、試験やら何やらは素直に授業聞いて問題集解いた方が点数取れると思う」
日本人が正しい日本語を知らないことがあるように、英語圏の人間が正しい英語を知らないというのもよくある話だ。
日常会話ならともかく、正式な試験となると特にそれが顕著になる。日本の高校生の方が点数的には英語圏の学生を上回るというのも珍しい話ではない。日本人にも国語が苦手な人間がいるのと同じことだ。
否定的な返答に明日香の表情が曇る。それでも退く気はないのか更に言葉を重ねてきた。
「でもね、千秋とか恵那も教えて欲しいって言ってて、その、私から頼んでおくって言っちゃったから……」
「永倉さんと笹村さんが?」
懐かしい名前だった。明日香の親友であり、宗太ともそこそこ仲の良い友達であった二人の少女。
そういえば、教室で級友達に囲まれている時、隙間から何度か二人の姿を見かけた気もする。どうやら、未だに明日香と仲良くしてくれているようで、実にありがたい話だ。
とはいえ、それとこれとは話が別だ。明日香の方へ向き直る。
「まぁ、いつか――」
暇があったらな、と適当にはぐらかそうとして、言葉を続けることができなかった。
原因は二つ。
背筋が粟立つような悪寒と、そして明日香の背後でナイフを振り下ろそうとしている大柄な男性の存在。
「っ――!!」
視界の隅に映った脅威に、宗太は咄嗟に明日香の背を庇うように二人の間に滑り込んだ。頭の高さで防御に掲げた右腕を熱と痛みのラインが走った。
傷は骨までは達しておらず、出血も大したことはない。だが、右腕を苛む激痛はしばらく利き腕を使ったアクションが不可能になったことを告げていた。
だが、この程度で行動を止めることはしない。そんな甘ったるい判断力では、そもそもリゼリアの修行に耐え抜くことすらできない。宗太はナイフを振り抜いて無防備な体勢の男性に対して、懐に抉り込むようなショルダータックルを敢行した。
鳩尾の辺りに肩を食い込ませると同時、頭上から呻き声。更に、身長差を利用して顎へ頭突きを叩き込むと、男性はたたらを踏みながら二、三歩後退していく。
一連の攻防に費やされた時間は三秒少し。明日香が振り向いたのはその半ばでのことだった。
「え…………?」
黒真珠の瞳が状況へ理解が追いついていないことを示すように見開かれている。それを肩越しに一瞥してから、宗太は男性へと視線を戻した。
相手はスーツを纏った中年の男性。何かスポーツをやっているのか、年齢の割には体は引き締まっていて、手足も太い。そして首筋には銀色の針のようなものが光っている。
間違いなく、フラウの手駒。よりによって、明日香のいるこのタイミングで。
「宗太! 手……血が……っ!」
狼狽する明日香の声が耳朶を震わせる。舌打ちをしてから、宗太はこの辺りの地図を頭に描いた。
来た道を戻れば、すぐに人気の多い大通りに出られる。
「明日香」
ダメージが残っているのか、すぐに襲い掛かってくる気配のない男性に注意を払いつつ、宗太はか細い肩を震わせる明日香へ視線を向けた。
縋るような視線が向けられる。それに努めて無表情を返しながら、指示した。
「合図したら、あいつの脇すり抜けて学校まで走れ。事務室行って、理事長に話を通せば家まで安全に帰してくれる。すぐに会えなかったら、俺の名前出せ」
「え……あ……」
動揺が大きいのだろう。すぐには宗太の言葉を理解した様子はなかった。
だが、数秒の時間を経た時、宗太は目を見開いた。明日香の肩から、腕から、足から、全てから震えが消えていた。
「宗太は、宗太はどうするの!」
瞳に微かな怒りを滲ませた恐怖があった。だが、その恐怖は男性へのものでも、その手にある宗太の血を滴らせるナイフへのものでもない。
ただ、宗太がこれからしようとしている事を察し、それを恐れる目だった。
「俺は大丈夫だ」
「大丈夫なわけないじゃない! そんなに血が出て――」
反論は許さない。その意思を宗太は一足飛びで男性に肉薄することで示した。
狙いは足下。男性がカウンターの要領で振るったナイフをしゃがんで回避する。明日香の悲鳴が聞こえても構わず、そのまま男性のズボンの裾を左手で掴んだ。
立ち上がる勢いと共に男性の足を勢い良く跳ね上げる。利き手に比べて握力の弱い左手では多少無理はあったが、何とか男性のバランスを崩すことには成功した。
相手が仰向けに倒れようとする最中、宗太は声を振り絞る。
「行けっ!」
「っ、行けるわけないじゃないっ!」
感情を露にした激しい声と表情。こんな明日香は二年前までだって、滅多に目にすることはなかった。
彼女の心の底に何があるのか。知っているからこそ、それが鬱陶しくて。
気付けば何も考えないまま、宗太は呟き、
「邪魔……なんだよ……」
そして、叫んでいた。
「お前は足手纏いなんだよ! 邪魔するなっ!」
一息に叫んだ途端、明日香の顔から表情が消えた。
何もない、まるで人形のような真っ白な顔。両腕は糸の切れたマリオネットのように垂れ下がり、細い足は今にもくずおれそうに震えていた。
「行けっ!」
叱咤するようにもう一声。すると、叱られた子供のようにビクリと体を震わせてから、おぼつかない足取りで走り始めた。
今にも転んでしまいそうな危うい足取りだが、速い。この分なら、すぐ学校に到着するだろう。
安堵の息を吐こうとした時、倒れた男性が機敏な動作で立ち上がり、明日香に追い縋ろうとした。
「余所見してんじゃねぇよ」
挑発的に呟きながら、男性の背に肉薄する。そして、その広い背中に左の肘を打ち込んだ。
カハッ、と肺の空気を押し出すような音。一拍の間を空けてから、男性が振り向き様にナイフを振るってくる。
間合いを詰めすぎたせいで、回避が追いつかない。丁度、右のこめかみの辺りに迫る刃が宗太の目にはやけにゆっくりと映った。
三十センチ、二十センチと縮まる死へのタイムリミット。宗太が咄嗟に刃と顔の間に掲げたのは、血の滴る右腕だった。
ザシュゥ、と刃が皮膚を裂く音。同時に先ほどと同じ激痛が、同じ右腕に走った。
堪えがたい痛み。だが、問題はない。始めから役立たずの右腕がいくら傷付こうとも、戦力がダウンすることはないのだから。
そして、相手の攻撃後はこちらの攻撃を当てる最大のチャンス。
数ある選択肢の中で宗太が選んだ攻撃手段は、目潰しだった。
派手に出血する右腕を振るい、男性の顔面に血液を付着させる。その内の何割かは瞳の上から絵の具をぶちまけたように、男性の視界を塞ぐことに成功した。
そして、混乱する男性の隙を突き、直接《傀儡の種》の元凶である針へと手を伸ばす。そして、指先に針の先端を捕らえ抜き取った。
「よし……」
ささやかな勝鬨。それに呼応するように、男性の四肢から力が失われ、重力に従って地に伏そうとする。それを左手で支え、優しく地面に寝かせてから、目立った外傷がないかを確認する。
宗太が攻撃を加えた箇所は痣になるかもしれないが、それ以外は問題はなさそうだ。ホッと一息吐くと、宗太は路地の汚れた壁に背を預け、ポケットからタロットカードを取り出した。
大アルカナ八番の札《力》。
「《Strength》」
《力》の札は怪力と同時に、回復の意味をも司る。身体強化のベクトルを体の各器官の活性化に向けることで、傷の治りを早めることができるのだ。
現に、先ほど切りつけられたばかりの傷は早くも血が止まり、かさぶたになり始めている。だが、痛みは収まらず、寧ろ強くなるばかりだった。
傷の痛みではない。胸の深い処の痛みだ。
「バカかよ……俺」
去来するのは、一瞬だけ見えた路地から走り去ろうとする明日香の横顔。その瞳から零れていた雫。
自分はなんて無力なんだろう。そんな嫌悪が宗太の心を蝕む。
二年間、ただ愚直に刃を研ぎ澄ませておきながら。
魔術師として、ただ強くなることだけを願いながら。
魔神なんて、呼ばれながら。
女の子にあんなに悲しい涙を流させてしまうなんて。
「バカ野郎……」
嫌悪の声は夕日に滲んで消えていく。
何も、何も残らなかった。