11.苛む影は病魔の如く
11 苛む影は病魔の如く
雨粒がアスファルトを打つ。水溜りに、濁った赤が混じっていた。
倒れ伏す自分。それを見下ろす影。聞こえるのは嘲笑と、自らの腹に何度も何度も蹴りの叩きこまれる音だけ。
ガスッ、ガスッ、とありふれたスニーカーの爪先が無防備な腹にめり込む度、肺の中の空気が無理矢理押し出される。最早、吐き気と苦痛以外の感覚を感じることはできなくなっていた。
口から漏れる無様な呻きに、影は益々笑みを濃くした。そして、振り子のように機械的に降り続けてきた脚を唐突に止めた。
代わりに、空に手を翳す。そして、何事かを口の中で呟いてから、それを視認も難しいくらいの速度で振り下ろした。
途端、右肩から左の脇腹にかけて、一直線に焼けるような痛みが走る。痛覚が焼け付くような信号を発した。
斬られた、と気付いたのは痛みに一瞬送れて、皮膚が裂けた時だった。影の手に刃物などないはずなのに、傷は深く、そして鋭い。
水溜りに混じる赤が、より一層その色味を強くする。少しずつ、少しずつ意識に靄がかかってくる。
ああ、死ぬんだ。
痛みと倦怠感の狭間で、それを悟る。恐ろしいことのはずなのに、それを恐ろしいと感じるだけの力も残っていなかった。
ただ、自分の目の前に死が横たわっている。その事実があるだけ。
走馬灯というのか、脳裏に瀑布の如く友達や、家族や、親しい人達の姿が過ぎった。そして、最後に幼馴染の姿がフッと浮かんで。
ああ、死ぬんだ。
何時の間にか、受け入れていた。どうにもならない状況に心が生を手放していた。
目を閉じる。霞んだ感覚の中で、雨音がやけに鮮明に聞こえた。
そして、気付く。雨音の中に踵を少し擦るような、聞き慣れた足音が混じっていることに。
「ねえ……ん……」
駄目だ。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。来ちゃいけない。来ないでくれ。
生を手放した心。それでも尚、傷付いて欲しくない人がいる。
叫ぼうとした。駄目だ、と。でも、そんな力は打ちのめされた体に残っていなかった。
足音は除々に近くなる。声は届かない――
電話の音。
耳障りな電子音に、夢の底に沈んでいた意識が掬い上げられる。
気持ちの悪い汗で湿ったティーシャツ。テーブルで寝入ってしまったからか、首が重い。そして何より、右肩から左の脇腹にかけて、一直線に鈍痛と熱のラインが走っていた。
瞼の裏の暗闇では、その不快さだけが確かなものだった。
「つっ……」
瞳を開く。頭は鉛でも詰め込まれたかのように痛み、性質の悪い風邪をひいたような倦怠感が体を縛り付ける。
動けない体。電話のコール音が分厚いベールを通したかのように、くぐもって聞こえる。それを無視して、宗太は右手をそっと左の脇腹に添えた。
「く……そ……」
夢。
二年前の再現。リゼリアに拾われたばかりの頃は、眠る度にこの悪夢にうなされていた。
ここ一年ほどになって、漸く記憶が薄れ、めっきり見ることはなくなっていたというのに。昨日のフラウと名乗った魔物との遭遇は決して無関係ではないだろう。
憎悪と後悔。救いようもなく暗く、重く、そして禍々しい炎がチリチリと胸の内を焼く。体が動かないのは幸いだった。もし、動いていればこの激情をぶつけるように、そばにあるものに手当たり次第に八つ当たりしていたかもしれない。
膨れ上がる黒い火。それを鎮めようと抵抗する小さな自分。心が異物の詰まった歯車のように噛み合わなかった。
それでも、呼吸を半ば無理矢理整え、僅かばかりの間を置く内に除々に心が仮初の安定を取り戻していく。それに合わせて、体も動くようになってきた。
電話はいまだ鳴り続けている。
「……はいはい、今出ますよっと」
努めて軽い口調で呟きながら、宗太は腰を上げた。そして、重い体に鞭打って、喧しく鳴き続ける電話に小走りで向かい、受話器を持ち上げた。
入学二日目は丸々部活見学に費やされるのが、白領高校の伝統らしい。二、三年生が朝から部活動に興じ、その様子を一年生に披露するのだ。
企業コンサルタントを兼業しているという理事長曰く「学校は学ぶ場所」。そして、その学びの内容とは英文や数式を書き綴るだけに留まらない。
人間関係の構築、目標へと走り続ける姿勢、何より人生を楽しむということ。それらを学べる場所であって初めて、学校は学校足り得るとのこと。
そんな理事長の理念もあって、白領高校は部活動にも熱心だ。それを動機に入学してくる生徒も少なくない。もっとも、中学一年から帰宅部を貫き通している明日香にはあまり関係のない話なのだが。
だから、今日は朝から、部活動に命を燃やしている親友の付き添いに従事していた。
「剣道部、第一体育館脇の道場で活動中です! 是非見学に来てください!」
「クッキング部、見学に来てくれた人にクッキー配ってまーす!」
「ラグビー部、切実に女子マネージャー募集中です! つーか来て女の子マジで! 今年も男だけのむさ苦しい青春は嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!!!」
廊下に響くのは勧誘の二、三年生の声。
窓ガラスがビリビリと震えるような大音響に、明日香は肩を竦めてしまう。
「すごい熱気……」
「ま、部員が集まった方が予算とか練習の場所取りとかも何かと有利だからねー。こんなもんじゃない?」
思わず漏らした感想に答えるのは、隣を歩く恵那だ。体育会系のノリに慣れているからか、明日香のように動じた様子はなく、涼しい顔をしている。
「でも、私もちょっとこんなに賑やかなのは苦手かな……」
落ち着かない様子でそう言ったのは、恵那の右隣を歩く千秋だ。落ち着かなげに辺りに視線を巡らせる様子は人に慣れていない子犬のようで、大変可愛らしい。
「千秋は根っから文科系だしねー。体育会系のノリは合わないっしょ」
「うん。中学の時は先輩も静かな人が多かったから……」
「私もその辺はよく分かんないなぁ。なんか、青春って感じで、いいなぁって思うけど」
適当な会話を交わしつつ、明日香は朝のホームルームで配られた部活紹介の冊子を開いた。生徒会謹製の品だというが、写真のレイアウトや文章にセンスが光り、完成度が高い。
「次は何処行こうか? 美術部とラクロスは回っちゃったし、行きたい所ある?」
「んー、アタシは別にないかなー。千秋は?」
「私も特に……明日香ちゃんこそ、どこか見学しないの?」
千秋にそう問われ、明日香は冊子をペラペラ捲りながら、目ぼしい場所を探してみる。しかし、そもそも部活をしようという意思がないので、どれもピンとこない。
ちなみに、美術部は千秋の、ラクロス部は恵那の入ろうとしている部活である。千秋は性格がそのまま反映されたような優しい絵を描き、恵那は持ち前の運動神経で中学時代はエースを張っていたのだ。
余談だが、ラクロスとは虫取り編みとテニスラケットの中間みたいなクロスとかいう棒を使用するあれだ。何度か恵那の試合を見に行ってはみたものの、明日香は未だルールが理解できていない。
閑話休題。
冊子に一通り目を通した明日香はパタンとそれを閉じて、二人に向き直った。
「私も見たい所はないし、もう帰っちゃう? 駅前でお昼食べようよ」
部活見学といっても、明日香のように帰宅部で通している生徒や、諸般の事情で部活動に参加できない生徒からしてみれば、退屈以外の何者でもない。その辺りに配慮してか、この日だけは好きな時間に下校することが認められているのだ。
しかし、その提案に恵那と千秋は揃って渋面を作る。
「明日香ちゃんも、何か部活始めてみたら?」
「そーそー、せっかく高校入ったんだしさー。楽しーよー、合宿とか大会とか」
「あー、うーん、私はいいかなぁ、そういうのは」
自分のためを思って言ってくれる親友の言葉は嬉しかったが、明日香は曖昧に笑って首を横に振った。
そもそも、これといって得意なことがあるわけではないのだ。運動部にしろ文化部にしろ、部活に熱中している自分の姿というのが、まったく想像できない。
それに、何より。
再び、同じ学校生活を送れる彼も、きっと部活には入らないだろうから。
一緒にいたい。なるべく長い時間を一緒に過ごしたい。朝でも、昼休みでも、放課後でも、ずっと、ずっと。待っていた分だけ、より強く。
二人には宗太の帰国をまだ告げていない。二人もそれなりに宗太と仲良くはあったから、彼の初登校の日に驚かせてあげたいのだ。
明日香の意思を尊重するつもりなのか、二人とも一度首を横に振るとそれ以上強くは勧めてこなかった。
結局、明日香の意見が採用され、その後は駅前での昼食となった。三人連れ立って、賑やかな校舎を出る。
校門を出たところで、明日香は一度振り返った。そして明るい喧騒の中に佇む校舎を目を細めて見詰める。
髪の長いお節介な女の子と、女の子みたいな顔をした優しい少年が並んで歩く姿をそこに重ねて。
電話の内容は白領高校からの編入試験の合格通知だった。
合格は半ば確信していたし、それ以上に学校のことなどどうでもよかったこともあって、これといった感慨はない。
寧ろ、リビングの時計が十一時半を示していることの方が印象に残ったくらいだ。疲れていたとはいえ、どんだけ寝てるんだよ、俺。
とはいえ、合格したのは事実であるし、客観的に見ればそれなりに大事な出来事ではあるだろう。学校の事務員を名乗る女性との会話を終えた宗太は、再び受話器を取る。今度はこちらがかける番だ。
国際電話をかけるための所定の番号をプッシュし、次いでイギリスの国番号、コッツウェルズの市外局番を入力。そして、本来の電話番号を押し終えると、一拍遅れてコール音が鳴る。
五回、十回とコール音が無為に積み重なり、宗太が相手の不在を心配し始めた頃、漸くそれが途切れる。
『っち、もしもし?』
そして、何故か舌打ちで出迎えられた。
「…………あー、あのぅ、し、師匠ですか? 宗太です」
遠いイギリスの地にいる魔術の師匠、リゼリアへ宗太はオズオズと英語で語りかける。語調に出てしまったように、心中は戸惑いでいっぱいだ。
何故?
何故いきなり不機嫌?
『宗太? アンタこんな時間に何の用よ?』
「は、こんな時間って……?」
窓外では高く上った太陽が煌々と輝いている。電話をかける時間としては、そうそう非常識ではないはずだ。
ビクビクしながらも首を傾げる宗太に、電話の向こうのリゼリアは呆れきった声音で言った。
『アンタねぇ、時差のこと忘れてんでしょ?』
「……あ」
日本とイギリスの時差、八時間。更に今の時期はサマータイムが適用されるため、それを勘定に入れて、現在のイギリスの時刻を計算すると。
午前二時半。
そんな朝なのか夜なのかもよく分からん時間に叩き起こされれば、そりゃあ、ぶちぎれる。お世辞にも穏やかとは言い難いリゼリアなら尚更だ。
「あー……その……なんというか、ホント、すいません」
『ったく、アンタは本当に抜けてるわね。これっきりにしなさいよ、こういうのは』
電話口だからか、起きぬけで気力が足らないのか、彼女にしてはあっさりと許してくれる。
その言葉に安堵しつつ、宗太はイギリスと日本を隔てる距離に感謝した。もし、お互いが手の届く範囲にいれば、確実に痛烈なお仕置きを喰らわされただろうから。
まぁ、リゼリアならあらゆる超高等魔術を駆使して、この場所まで何らかの危害を加えられそうな気もするが、そこまではしないだろうと思っておく。というか、心の平安のためにそう思いたい。
『んで? 結局何の用? つまんない用事だったら、呪うわよ?』
「師匠、リアルに呪いのスキルを持ってる人が言うと、微塵も冗談に聞こえないです」
『本気だし。それで、用件は?』
「…………」
師弟愛。この言葉の意味をリゼリアは知っているのだろうか。
冷たい秋風に実を晒したような物寂しさを覚える宗太だが、よくよく考えればリゼリアのこんな態度はいつものことなので、溜息一つで気持ちを切り替えることにする。
「あー、報告が一つと、相談が一つって感じですね」
『ふーん。何?』
素っ気無く尋ねてきてから、電話の向こうでリゼリアが欠伸を漏らす音が聞こえる。さすがに、日が昇るかどうかの早朝に叩き起こされては眠いのも当たり前だ。
手短に済ますことを決めて、宗太は口火を切る。
「まず報告の方なんですけど、セッティングしてもらった編入試験、受かりました」
『ああ、あれね。なら、今度きっちり理事長んところにお礼に行きなさいよ。結構無理聞いてもらったことだし』
おめでとう、の一言もなく淡々とリゼリアが告げる。しかし、宗太はそれを薄情だとか、酷薄だとかいうようには思わなかった。
基本的に、人を褒めるのが下手な性格なのだ。口には出さずとも、心の内に目一杯の祝福を抱いていてくれていると知っている。
リゼリアのこういうところは、嫌いでない。寧ろ、好ましいとすら思っている。だから、宗太は口元に笑みを浮かべつつ、心持穏やかな口調で答えた。
「はい。分かってます。あと、師匠もありがとうございました」
『アタシは理事長に掛け合っただけよ。それより、会いに行く時は気をつけなさいよ。アンタの学校の理事長、かなりの変人だから』
素っ気無い口調で応じるリゼリアが微笑ましい。ただ、理事長が変人という話は捨て置けない。ただの照れ隠しのための嘘ならばいいが、リゼリアをして変人と言わしめるような人に会いに行きたくない。
「あの、変人っていうと?」
『元々、アタシと同じで魔術研究してた魔術師なんだけどね。専攻が錬金術だったんだけど、変なもんばっかり作ってたから、学会から放り出されたのよ。学校の理事長ってのは、親戚の跡を継いだらしいけど』
変人ぞろいだという魔術師の学会すら放逐された人物。会いたくないポイントが加算される。
ちなみに錬金術とは《作り出す魔術》の総称だ。卑金属を金と化し、不老不死を齎すという《賢者の石》などが有名所だが、現在では合成生物や人工生物、魔道具といった兵器としての利用価値が高いものが主流となっている。
『ま、悪い奴ではないし、腹括っときなさい。多分、アンタが一番関わりたくないタイプの人種ではあるだろうけど』
会いたくないポイント、更に加算。
小さく溜息をついてから、宗太は話題を変えることにした。これ以上、理事長の人となりを聞いたら、本気で会いに行く気が失せてしまうだろう。
それに、本題は次の話題なのだ。
「じゃあ、報告はこの辺にして、次は相談なんですけど」
一呼吸の間を置く。脱力していた筋肉を一気に緊張させる時にも似た感覚で、宗太は心の内を怜悧に研ぎ澄ます。
そして、その名を告げる。
「《道化のフラウ》って魔物、知りませんか? 昨日、突然襲われたんです。結局、決着つける前に逃げられちゃいましたけど」
『……どういうこと?』
「本当かどうかは分かりませんけど、本人が言うには……御神楽の差し金だそうです」
『……なるほどね。道理でアンタらしくもない殺気立った声出してるわけだ』
リゼリアの声もまた、眠気の覗く口調から鋭いものへと切り替わる。
『道化の……ね、何となく聞き覚えがある気がする。ちょっと待ってなさい』
そう告げて、リゼリアが電話口から消えた。五分ほど、受話器を耳に当てて待機していると、再び彼女の声が聞こえてくる。
『今、連盟のデータベースにアクセスして調べたけど、手配中の魔物みたいね。ブラックリストに載ってた』
連盟のデータベースは基本的に連盟の関係者か、加盟結社の上層部しかアクセスできない。しかし、リゼリアは魔術研究の功績が認められ、七段階ある内の上から三番目Bクラスのアクセス権を与えられているのだ。
Bクラスになると、連盟支部の幹部と同じレベルのアクセス権限を得る。流石に登録されている魔術師の個人情報などは不可能だが、Eクラスセキュリティの魔物情報は常時閲覧可能だ。
『危険度はSSからFまでの評価でB+。まぁ、アンタなら油断しなければ対処できるレベルね。ただ、直接的な戦闘力とは別に、随分姑息な手を使うみたい』
「姑息な手というと?」
大方の予想はついているものの、あえて宗太は尋ねる。すると、リゼリアは嫌悪をありありと乗せた声音で言った。
『ハーメルンの笛吹きは知ってるわよね?』
「あー、はい。ネズミを退治した笛吹きの話でしたっけ?」
グリム童話の一話であるこの物語は十三世紀末のドイツの町、ハーメルンで起きたといわれる悲劇を綴ったものだ。
ネズミの被害に悩まされるハーメルンの町に、ある時笛を携えた不思議な男が現れ、村の大人達にネズミを駆除する代わりに袋いっぱいの金貨を寄越せ、と要求する。
半信半疑の大人たちもやらせるだけやらせてみようということで、それを了承する。すると男は笛を吹きながら町を歩き始めた。
何をしているのかと首を傾げる大人たち。しかし、ネズミたちはその笛につられるように男の後ろで大行進を始めたのだ。男はそのままネズミたちを川まで誘導し、溺れさせることで駆除に成功する。
ここで終わるなら、単なるハッピーエンドのお話だが、あくまでこれは悲劇。ここからが物語の佳境だ。
見事ネズミを退治した男は大人たちに約束の金貨を求める。しかし、ネズミが退治されたことで気が大きくなった大人たちはそれを拒み、あろうことか約束の金貨を支払わなかったのだ。
それに怒った男は再び笛を吹き、町を歩いた。すると、今度は町の子供達が男の後ろで大行進を始めた。
うろたえる大人たちを歯牙にもかけず、子供を引き連れた男はそのまま何処かへ姿を消した。それがこの物語の顛末だ。
「たしかロリコン猟奇殺人犯の大量誘拐がモチーフでしたっけ?」
『ま、他にも少年十字軍の遠征に行ったまま戻らなかった子供達を描いたものって説もあるけど。あとは流行り病説に土砂崩れ説とか』
修行時代、リゼリアに叩き込まれた西洋史は様々なマメ知識、雑談などの寄り道を含んだ、民俗学的な色の濃いものであった。
おかげで、西洋の民話童話寓話に関する知識は人一倍身についており、宗太の密かな自慢でもあった。
『ま、今は起源はどうでもいいんだけど』
どうでもいいんかい。
『肝心なのは、この魔物が童話を実践したこと。七十年前の話だけど、洗脳系か催眠系の術式を扱えるみたいでね、それを使って操った子供を引き連れて連盟の支部を襲ったのよ』
「そいつはまた……」
『性質が悪いったらないわね。子供をうまく盾に使われて、地区担当の魔術師は死亡か、よくて重傷。連盟から応援が駆けつけた頃には子供を連れてどっかに消えてた。後から、幼児の惨殺死体が見つかったけど』
想像以上に血生臭い話に、宗太は顔を顰める。昨日の態度から、かなり凶悪な魔物であることは想定していたが、これは洒落にならない。
そんな魔物が現れたとなれば、間違いなく連盟も動くだろう。
「時間との勝負ですね。あんまり余裕を与えると、術で一般人が巻き込まれるリスクが増えますし」
『まぁね。それに、御神楽の差し金なら、どんな入れ知恵されてるかも分からないし。下手したら、アンタの知り合いを優先的に洗脳するような真似もするかもしれない』
知り合い。
そう言われた瞬間、真っ先に思い浮かぶのはあのお節介な幼馴染の姿。
幸いにして、帰ってきたばかりの宗太に、そこまで親しい人はいない。しかし、もし明日香が狙われるような事態になれば、冷静を保っている自信はなかった。
懸念される最悪の事態に俯く宗太に、リゼリアは厳しい声を投げかける。
『アンタ一人で片をつけたい気持ちは分かるけどね、今回は連盟の手を借りておきなさい。いくら魔術師でも、一人じゃ守りきれる範囲には限界がある』
「それは、分かってますけど……」
リゼリアの言うことを考えなかったわけではない。だが、他人の手を借りることになった場合、不安な点が一つある。
それはフラウとの闘いを自分以外の誰かが済ませてしまうことだ。勿論、リゼリアの話しを
聞いた今、フラウを倒すことに躊躇いはない。しかし、宗太にとって、討伐は決して最終目標ではないのだ。
本来の目的はフラウが所持している《御神楽惣介の情報》を得ること。しかし、治安第一の連盟にとって、そんな個人の事情は関係ない。情報を吐き出したか否かに関係なく、フラウは討伐されてしまう。
そんな思考を見抜いたのか、電話の向こうでリゼリアが黙り込む。そして、針のような尖った沈黙を経て、ひどく力のある声で言った。
『気持ちは分かるけどね、今回は守ることを優先して闘いなさい。アンタがアンタ自身の日常を取り戻したいなら、周りの人を傷つける真似は絶対にしちゃならない』
「…………はい」
彼女の言うことは正論だった。周りを傷つけて目的を達するのは宗太の本意ではない。
何より、周りを巻き込んでしまった時点で、宗太の目的は潰えてしまうのだと言っても過言ではないのだ。
『ま、無理は禁物。出来る範囲のことをしなさいってこと。連盟への連絡、アタシがしとこうか?』
「いえ。伝があるんで大丈夫です。それじゃあ、朝早くにすいませんでした」
別れの言葉で締め括り、宗太は受話器を置いた。そして、その姿勢のまま俯いた。
日の差す室内は空気まで死に絶えてしまったかのように、音がない。遠くから聞こえてくる車のクラクションが酷く虚ろな残響を残す。
宗太は視線を床に落とし、そこへ雫を零すように小さな声で呟いた。
「俺自身の日常を取り戻したいなら、か」
違うんですよ、師匠。
俺が取り戻したいのは、俺なんかの日常じゃなくて。
本当に取り戻したいのは、俺の弱さに摘み取られてしまった、姉さんの――