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後編: 再会

 学校を卒業して半年、学生時代の友人の結婚式に呼ばれたエリーゼは、王都から少し離れたタルナート領に向かっていた。

 侍女二人と、護衛が一人同行していたが、自分一人のための旅。こうした旅は久しぶりで、学生時代に友人の別荘に遊びに行ったことを思い出してわくわくしていた。


 途中の街で買い物に時間を費やし、出発が遅くなってしまった。日暮れまでにタルナートにつけるか微妙になり、馭者が渋い顔をしていた。

「この先、北に向かってちょっと近道しますよ。少々道ががたつきますが早くつきまさぁ」

「わかったわ」

 自分のせいで遅れたこともあり、エリーゼは道の変更を承諾した。


 馭者の決めたルートは舗装されていない道だったが道幅はあり、他の馬車が少ないこともあって思いのほか順調に進んだ。

「これなら予定通りにタルナートに着けますね」

 馭者にそう言われて安心していたのも束の間、西から湧いてきた雲は見る見るうちに空いっぱいに広がり、ポツリポツリと雨粒が落ちてきた。

 馭者は早く着くことを優先し、雨用のコートに袖を通す間も惜しんで馬を走らせた。

 そうこうするうちに雨は本降りとなり、馬車の動きが次第に悪くなってやがて途中で止まってしまった。

 護衛が降りて様子を見ると、車輪がぬかるみにはまり動けなくなっていた。ねっとりと粘り気のある土が車輪に絡みつき、馬達は雨を嫌って言うことを聞かない。

 エリーゼは馬車の中で待っていたが、少しも前に進むことはなく、窓から外の様子を覘いていると、どこからともなく人がパラパラと集まってきた。怪しい者達ではないようだ。後ろから押しているのがわかったがやはり動かず、

「中の人、降りてくれ」

 扉が開き、エリーゼだけを残して侍女二人も車外に出た。侍女は近くの木の下で待っていたが、雨をしのげるほどではなかった。

 車体が軽くなり、ようやくぬかるみから出られた時には、辺りはうっすらと暗くなりはじめていた。


「お嬢様、この付近には宿がないそうです」

 護衛の言葉にエリーゼは絶望的になった。本通りを通っていれば道がぬかるむことはなく、遅くなっても近くの街の宿に泊まることができたのに。馭者にこの道を提案され、許可してしまったことを後悔した。

 そこへ

「お館様のお屋敷を使っていいそうだ。案内して差し上げろ」

 村人の声がして、びしょ濡れだった護衛と侍女はそのまま馬車に乗るのを遠慮していたが、急げと村人に押されて乗り込み、馭者に背を向ける席に三人で窮屈そうに座ると、済まなそうに俯いていた。

 馬車は元来た道を少しだけ戻り、右に折れた先の小さな集落へと向かった。


 着いたのは、田舎の小さな屋敷だった。

 先に誰かが知らせてくれていたようで、少し年を取った女性が現れた。

「大変でしたねえ。あらあらびしょびしょじゃない! どうぞ、お湯が沸いてますよ」

 女性は迷うことなく侍女と護衛を先に屋敷に招いた。護衛はそっけなく断って馭者と話をしていたが、侍女は女性に腕をつかまれていた。

「お、お嬢様を…」

 侍女は主人を優先しない女性に戸惑っていたが、

「あなた方が先よ、風邪をひくとお嬢様のお世話もできないでしょ? ほら、早く」

「いいのよ、先に行って」

 エリーゼが促すと、押しの強さに負けて屋敷の中に入っていった。


 エリーゼは一人車内に残され、馭者と護衛、地元の男達が積んでいた荷物を運び出していくのを横目で見ていた。

 雨は小降りになっていた。

 ここは貴族の家ではなく、作法を知らないのかもしれない。こんな田舎の家だし、お世話になるのだから我慢しなければ。


 やがて別の女性が現れた。さっきの女性より若く、この家の侍女のようだ。

「お待たせしました。どうぞこちらへ」

 エリーゼはドレスを両手で軽く引き上げると、エスコートもなく馬車を降りた。

 侍女か護衛が車内につけた泥がエリーゼのドレスの裾を汚していた。玄関に行くまでにも泥が付いたが、仕方がないと諦めて案内された部屋に入った。


 用意されていた部屋は二階にあり、自室や旅の途中に使った宿に比べるとずいぶん質素で古めかしかった。

「一階の客室が使用中で、この部屋になりますが」

 恐縮する侍女に、エリーゼは笑顔で返した。

「お部屋を提供していただけるだけで助かりますわ」

 着替えを手伝ってもらい、汚れのない服になってようやく一息つけた。


 外は雨が上がっていた。運の悪いタイミングの通り雨だったようだ。

 返す返すも、近道をしたことが悔やまれた。それを許してしまった自分が。

 出されたお茶は温かかったが、いつも飲んでいるものより渋みが強かった。あまり良い茶葉を使っていないようだが、厚意に感謝した。


 三十分ほどで自分の侍女達が部屋に来た。

「お待たせして大変申し訳ありません」

 深々と頭を下げる侍女達に

「いいのよ、あんなにびしょ濡れだったんですもの」

と言って笑いかけた。

 二人が借りていたこの家のお仕着せは清潔だったが、あまり上等な布ではなかった。


 食事に呼ばれてダイニングに行ったが、席についていたのは女性が一人だけだった。この家の奥方と思われ、大きなおなかは産み月が近いように見えた。

「あいにく当家の主人はまだ戻っておりませんが、どうぞ遠慮なくお召し上がりください」 

 出された食事は品数は少なかったが味は良く、サラダは新鮮で、野鳥の肉は柔らかく煮込まれ、ウインナーは茹でただけだったが充分おいしく味わえた。食後のデザートはなく、いつもの習慣で口寂しくなったが、礼を言って席を立った。


 ベッドは少し固めだったが、疲れていたのかぐっすりと眠れた。


 翌朝になり、賑やかな音で目が覚めた。家の主人が戻ってきたようだ。

 外からの光はまぶしく、昨日とは打って変わっていい天気だ。

 身支度を整えた後、主人に挨拶に伺ってもいいか侍女に確認をとってもらうと、

「間もなく朝食の時間で、今日はご一緒されるのでその時にとのことです」

と返事があった。


 その言葉通り、さほど待たず食事に呼ばれた。

 ダイニングに向かうと、そこにはかつての婚約者、ラルフが座っていた。昔会った時には見たことのないラフな格好で、さっきまで腕まくりをしていたのか、袖にはしわが入っていた。

「おはよう」

 昔と変わらない笑顔で迎えられ、エリーゼは偶然の導きに驚いた。

「うちの領の道をあの馬車で通るなんて、結構無茶をしたものだね」

「この度は大変お世話になりました。お久しぶりです。お元気そうでなにより…」

 遅れて奥方が現れた。

 ゆっくりと焦ることなく歩く奥方。そのおなかの中にいるのは彼の子供…

 思い返せば、この女性はあの時の侍女のように思えた。青虫が落ちてきた日にリボンをあげた侍女。そして婚約を解消した日にドレスを着て現れ、ラルフが笑顔を向けた、あの女性…。

 顔はうろ覚えだが、間違いないだろう。自分を裏切った二人と再び会うことになるなんて。

 エリーゼは手の内側に爪を立てたが、何とか怒りをこらえた。


 ところが、奥方はラルフの隣には座らず、食卓の長い縁の二番目の席に腰掛けた。

「よく眠れました?」

 笑顔で問いかけられて、エリーゼは一瞬顔をこわばらせたが、何とか笑顔で

「ええ、おかげさまで」

と返事ができた。表情を取り繕うのは貴族社会では日常だ。

「先に食べようか」

 ラルフの合図で食事が始まり、それから五分ほどして大柄の男が現れた。

「遅くなりました」

 息を切らし、汗をにじませている。剣の練習でもしていたのだろうか。来客がいるのに食事に遅刻するなんてあまり感心できない。エリーゼは落ち着きのない男の様子にも軽く会釈をして笑顔を見せた。


 男はエリーゼの向かい、食卓の長い縁で最もラルフに近い席に座った。奥方の隣、奥方が空けておいた席だ。

 と言うことは、この男性がこの女性の夫? この女性は、ラルフ様の奥方ではない?

「朝からお疲れ様。ふふっ」

 女性はハンカチを取り出すと、男の汗を軽く拭き取った。男の照れたような嬉しそうな顔。間違いない。この男がこの女性の夫だ。


 たわいもない日常会話を交わしながら進む朝食。

 真っ白ではないパンは少し苦みがあって口触りが良くないが、バターは家で食べている物以上に上等で、つけて食べると実に味わい深かった。卵料理は素朴な味付けでソースもかかっていない。昨日と同じウインナー。男性には充分な量があり、女性には少なめに盛ってあったので、どれも残すことはなかった。


 途中、執事がラルフに小声で話しかけた。ラルフは軽く頷くと、今聞いた話をエリーゼに伝えた。

「道のぬかるみも何とかなったので、昼前には出発できるんじゃないかな」

 ラルフの砕けた口調に、女性が首を傾げた。

「あら、お兄様、お知り合い?」

「ああ、奇遇なことに、学生時代の友人なんだ」

 お兄様。ということはラルフの妹だ。あの時の侍女だと思っていたが、別人だったようだ。余計なことを口にしなくて良かったとエリーゼはほっと胸をなで下ろしたと同時に、「友人」という言葉にチクリと痛みを感じた。

 ここにいる妹とその夫に対して、そう説明した方が手っ取り早いからだろう。もちろんそんなことはわかっていたが、一時期でも婚約者として過ごしたあの日々が崩れていくような気がした。

 しかしそれを顔に出すことなく、エリーゼは

「私も今朝この席にご一緒して、こちらがラルフ様のお宅だと知りましたの。通りすがりの者にも手を差し伸べる優しさ、あの頃とお変わりありませんわ」

 ラルフはほのかな笑みを見せただけだったが、代わって妹が答えた。

「困っている方をお助けするのは当たり前ですもの。ねえ、お兄様?」

 明るく問いかける妹に、ラルフは

「そうだね」

と頷いた。



 昼食の誘いは辞退し、準備が整ったと聞いてエリーゼは最後の挨拶にラルフの元を訪れた。


 案内された書斎は書類が積まれていたがそれなりに整理されていて、今も書類に何かを書き込んでいる。

「もう少しだけ待ってもらえるかな」

 机の手前にあるソファに座るようエリーゼに促すと、きりのいい所まで終えたラルフは向かい側に座り、タイミング良くお茶が出された。昨日より上等なお茶だった。


「今回は本当にありがとう。助かりました」

「あの道を選ぶなんて、馭者を替えた方がいいね」

「ええ、お父様にもそう伝えるわ」

 ラルフが鼻から息を漏らした。笑っているように聞こえたが、そんなはずはないとエリーゼは思い直した。

「…あの、妹さん? が、いらっしゃったのね」

「ああ。…以前君も会ったことがあるよ」

 そう言われても、妹を紹介されたことはなかった。ラルフの両親とも一、二度会ったことがある程度で、婚約者でありながらそっけないほどに家族との交流はなかった。

「君がリボンを施した侍女がいただろう? 覚えてないかな。…妹はね、父の後妻に疎まれて家の雑用をさせられていたんだ。着る物もお仕着せになっていたから、侍女にしか見えなかっただろう。そう扱わないと妹がいじめられるのでね、かばうこともできなかった。弟が生まれていたらきっと僕も下男か、下手したら殺されていたかもしれない」

 そんな事情があったとは、エリーゼは思いも寄らなかった。


「…土が付いたくらいでもう使わないと言ったリボンに、妹は心を痛めていたよ。妹もあんなきれいなリボンを何本か持っていた。母からもらった大切なリボンは汚れても洗って何度も使っていた。我が家は裕福ではなかったからね。それを全て義母に捨てられた。君が妹に与えたリボンも取り上げられた。簡単にあげると言われ、簡単に捨てられる…。つらかったみたいだ」

 リボンを侍女にあげただけ。たったそれだけのことをそんな風に思われていたとは。エリーゼは愕然とした。


「あの頃から、君には僕の婚約者は無理だと思っていた。ここには虫がたくさんいるしね、王都の家には専属の庭師なんていない。体裁を整えるために年に二度人を雇って庭を整えていたが、それさえもできなくなっていた。とても虫を追い払う事なんてできないからね」

「そう、だったのね…」

「この領の特産は梨じゃないよ」

「え?」

 そう言えば、昔フェラー領のことを学び、特産は梨だと学んだことがあった。それを得意げにラルフに話して、褒められたのに…。家庭教師が嘘を教えていた? そんなはずはない。

「今、ベルマン伯爵の領のことを学んでいるかい?」

「ええ、もちろん」

 ラルフはエリーゼが友人のマルクと婚約したことを知っていた。貴族であり、友人であれば当然だろう。

「ベルマン領の特産は?」

 梨だ。そう言われれば、領の気候、農作物、特産品、加工品、…ベルマン家で領のことを学びながら、どこも似たようなものなのかと思っていた。フェラー領について学んだ内容はどれも大雑把で、ベルマン領の具体的な話を学びながら参考にはなったと思っていたのだが…。

 エリーゼの反応を見て、ラルフは溜息のような笑みを漏らした。

「あの頃から、シュテーガー伯はベルマン家との縁組みを視野に入れていたのかもしれないね。マルクが君を気に入っていたから」

「あの頃、から?」

「両家の先代から押しつけられた婚約は、うちへの援助の約束があったから父は解消に応じなかった。新しい母は贅沢が好きでね、領の金に手をつけて貢いでいたせいで、領の運営は壊滅的だった。勉強なんてしている場合じゃなかったんだけど、王立学校を卒業しなければ領を継いでも他から信用してもらえない。…本当に大変だったよ、あの頃は」


 長期休みのたびに領に戻る婚約者を「寂しい」と思いながら、それを紛らわせるために友人との交流に費やしていたエリーゼ。「寂しい」と思ったことはあったが、ラルフの領のことを考えたことがあっただろうか。行ってみたいと、様子を見てみたいと思ったことは…。


「君は結婚しても王都に残る気満々だったけど、あの家を持ち続けるのは無理だとわかっていた」

 借金を返すため、卒業後すぐにあの王都の家は売りに出された。小さいながらも立地が良く、すぐに買い手が付き、古い屋敷は壊された。あの青虫の庭はもうどこにもない。

「両親がいなくなってから、ようやく全てが動き出した。義母の贅沢品を売り払い、身にそぐわない婚約を解消し、王都の屋敷を手放した。おかげで何とか領を維持できるようになった。…この家は、もともと伯爵家のご令嬢に来ていただけるような家じゃなかったんだ。婚約解消は君のせいじゃない」

 その微笑みを見た時、エリーゼは気が付いた。

 彼が自分に向ける微笑みもまた、自分が身に着けたのと同じ、貴族のたしなみの微笑みなのだと。


「ご両親はいつ?」

「卒業式の一週間くらい前かな。その数日前から連絡が取れなくなって、…馬車の事故だった」

 あの時、ラルフの両親が亡くなっていた。そんなことも知らなかったことにエリーゼは愕然とした。

「どのみち卒業式には出るつもりはなかったんだ。…ネタばらしをしたらあいつに怒られるかな。君のドレスはマルクが選んだものだよ。僕の家にあんなドレスを買う余裕なんてなかったからね」

 マルクは同じ色の服を用意していた。あれは初めから仕組まれていたことだったのだ。


「単位はほとんど取れていたから、最後の年は学校に行く日数を極力減らした。その分マルクが君に話しかけていただろう? あれをただの友情だと思っていたとしたら、あいつにとって君はなかなか手強い女だったと思うよ」

 婚約者の友人、そう思って節度を持って接してきたつもりだった。今思えば、卒業までの最後の一年は本当の婚約者以上に接する時間が長く、婚約を解消した時も周りの誰もが驚きもしなかったのは、ああやって下地を作っていたからだったのだ。卒業パーティだって、周囲には代役ではなく本命に見えていたのだろう。

 そうやって周知され、円満に婚約者が入れ替わったのだ。


「…最終試験も受けられず、首席での卒業を逃したのは残念だったわね」

 プッと吹き出したラルフに、エリーゼの顔がこわばった。

「いや、首席が必要な奴に譲っただけだよ。一年の時、学年トップになったらいろんな奴に絡まれたから、金次第で手を抜いてやってもいいともちかけた。ただし、八割以上は手を抜かない。それでも僕がトップになるなら自分達の勉強不足だとけしかけたら、どいつもやる気を出してね。トップテンから落ちれば成り立たなくなる商売だったから、それなりに大変だったよ。その甲斐あって最終試験の欠席にはかなり高額を出してもらえた。単位だけ見れば、僕が首席なのは間違いなかったからね」

「そ、それって、不正じゃ…」

 思わず「不正」という出してはいけない言葉を口にし、笑顔が崩れたエリーゼに、ラルフはなお笑みを見せていた。

「田舎の一領主に首席はいらないんだよ。必要な人が首席になればいい。…そうやって世の中は動いているんだ」

 姉の婚約者の首席は、あれほどまでに誇らしく語りながら不正によって得たものだった。

「他言は無用だよ、君の姉上にも、父上にもね」

 口止めされなくても、言える訳がない。


「君は何も考えなくていいんだよ。元婚約者の領に一度も足を向けなかったことも、この家を訪れたことさえなかったのも。僕の両親の死も、君の人生に必要ないから伝えられなかっただけだ。…ベルマン領には行っただろう?」

「え、…ええ」

 エリーゼの首肯に、ラルフは少し違う笑みを見せて頷いた。

「それでいい。ずっと王都のタウンハウスで暮らす領主の妻なんていらないからね」

 これがラルフの本音だと、エリーゼは鼓動が早まるのを感じた。


 ラルフの婚約者だった時、自分はずっと王都のタウンハウスで暮らすのだと思っていた。ずっと暮らしてきた王都で、実家も近くて安心。王都の家を守るのが領主の妻の役目なのだと。

 ベルマン家で学んだ内容は違った。領のことを学ぶ。学んだことは領に出向いて確認する。親戚家族を把握して付き合いの匙加減を覚える。領民の暮らしを支え、税収を得る。ベルマン家で学んだことこそ、本当の領主の妻の役割。


 今なら、ラルフの言いたいことがわかる。

 周りに情報を操作され、聞かされたことだけを鵜呑みにし、自分から領に行きたいと言うこともなかった。興味を持った時でさえ、机上の偽情報を信じて学んだと満足し、確かめたいと思うこともなかった。

 虫を嫌い、土が付いただけでリボンを新調したがる伯爵令嬢を引き取ったところで、領の負担にしかならない。負担になるからこそ、自分は婚約を解消されたのだ。



 泥だらけだった馬車はきれいに洗われていた。

 馬達もきれいに土を落とされ、ブラッシングされて機嫌を良くしている。

 車中も掃除され、多少雨の染みは残っているが、濡れた部分には補うように古びたマットが敷かれ、その上に毛布が置かれていた。


 身重の体で見送りに来たラルフの妹とその夫。袖をまくり、ついさっきまで荷物の積み込みを手伝っていてくれたようだ。

 馬が彼に懐いている。馬の世話をしてくれたのも彼なのだろうか。

「ご挨拶が遅れ、申し訳ありません。私はエリアス・ドナウアーと申します。レベッカの夫です」

 挨拶の仕方から貴族に見えた。

「ドナウアー、…伯爵家の?」

 家の名を聞き返され、エリアスは恥ずかしそうに頭を掻いた。

「ええ、三男なんですけど、そうは見えないでしょ? 家でもおまえはバカだから馬の世話でもしてろと言われてたくらいですから。ははは」

「そんなことをお嬢様にお話ししなくても…」

 レベッカが軽く肘でつつくと、エリアスは頭を掻いていた手をシャキンと伸ばした。

「エリアスはよくやってくれてるよ。おまえが来てくれてから本当に助かっている」

 ラウルが笑いながらエリアスの肩を叩くと、エリアスは照れくさそうに視線を下げた。


「間もなくお生まれになりますの?」

 エリーゼがレベッカに問いかけると、レベッカは自分のおなかにそっと手を当てた。

「ええ、来月には」

「元気に生まれてくることを祈ってますわ」

「ありがとうございます。エリーゼ様もお元気で」


 久々にラルフのエスコートを受けて馬車に乗り込んだ。

「この天気ならタルナートまで二時間もかからないだろう。これからはどんなに時間がなくても、舗装された広い安全な道を行くようにね。元気で」

 見送りを受けながら、馬車は小さな領の小さな領主の家を離れていった。


 昨日ぬかるんでいた道は上から土や石が被せられていた。がたついたがぬかるみはなく、その場所を越えると後の道は多少のがたつきはあっても車輪を取られるようなところはなかった。


「ここまでしていただけるとは。…本当にありがたいことです」

 侍女は手にバスケットを持っていた。昼食代わりの軽食にとビスケットが入ってた。



 貴族である自分よりも濡れた使用人を優先する家。

 古びた家、白くないパン、デザートもない夕食。困っていた時だからありがたく思えたけれど、それが日常になった時、耐えられただろうか。


 自分達が部屋で過ごしている間に道を整備し、馬を洗い、馬車を洗ってくれた人がいる。

 自分は全てが整ってから乗るだけ、それが当たり前だと思うエリーゼは、ラルフの婚約者でい続けることはできなかった。


 あの婚約解消は誰にとっても正しい選択だった。

 そう思うのに、静かな笑みで冷静に人を見つめ、細やかに気を配るラルフに認められなかった自分のことが心に重くのしかかってきた。

 裏切られたと思っていた時よりも、ずっと。






お読みいただき、ありがとうございました。



気の向くままに予告なく修正してます。

誤字ラの出現、ご容赦のほど。

(ご連絡ありがとうございます)


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