前編: 婚約とその解消
ラルフ・フェラー様との婚約は、お互いの祖父の約束だった。
私の祖父シュテーガー前伯爵と、ラルフ様のお祖父様フェラー前子爵は学生時代からの友人で、先の隣国との戦争で共に戦った戦友でもあった。何でも決戦前夜に酒を酌み交わし、年頃が合えば自分達の子供を結婚させようと約束したのだけど、戦後処理などで忙しくしているうちにそれぞれの子供はそれなりにおさまり、両家の縁談は実現しなかったそうだ。
それから数十年後。久々の再会で話が弾み、孫同士がたまたま男女で同い年とわかり、すっかり乗り気になった祖父達。ところが私の家には男の子がいなかったので、ラルフ様が養子に来ない限り難しいと父が反対した。ラルフ様は嫡男だったのでフェラー家も難色を示し、その話は立ち消えになった。
その後に私が生まれ、祖父は大喜びした。父はもっと羽振りの良い貴族と縁を得たかったようで、長い間渋っていたのだけど、結局父親には勝てなかった。
正式に婚約が決まったのは、私が七歳、ラルフ様が九歳の時だった。ラルフ様は領で暮らしていて、私は王都にいたから会うこともなく、紙の上での婚約者に過ぎなかった。その後祖父は私が十一歳の時に亡くなり、父はフェラー家に婚約の見直しを打診したけれど、ラルフ様のお父様はこの婚約に乗り気でこのまま継続することになった。
ラルフ様が十四歳になり、学校に通うために王都で暮らすことになり、フェラー家にご挨拶に行った。
フェラー家の王都の家は小さくて少し古めかしかったけれど、インテリアの色遣いはとても上品で、由緒ある絵画が飾られ、置物の配置は自然で住んでいる人のセンスが感じられた。
初めて見たラルフ様はとても優しそうな方だった。そっと見守られているような温かな眼差しで、使用人に対しても柔らかな口調で、
「すまないが、お茶をもう一杯持ってきてくれるかな」
そんな風にものを頼む人は私の周りにはいなかった。父ならお茶を切らすと気が利かないと怒るところではないかしら。
話し上手というわけでもないけれど、私が退屈しないように気遣ってくれているのがわかり、帰る頃にはこの人とならきっと大丈夫と思えるようになっていた。
ラルフ様は領の運営をお手伝いされていて、長いお休みになると早々に領に戻ってしまう。その分学校のある期間は月に一度お互いの家を訪れていた。
うちに来る時はいつも花束を持ってきてくださった。明るい色の花を選んでくださってとても嬉しかったのに、姉からは
「あら、そんな小さな花束で満足するなんて」
と残念がられた。
私が婚約してから一年ほどして弟が生まれ、家を継ぐための養子を取る必要がなくなり、婿養子を前提とした姉の婚約は双方の合意の元解消されていた。以来姉はあちこちの貴族のご子息から声をかけられるようになり、花束はもちろんプレゼントをもらうのに慣れていた姉にとって、数本の花束をもらって喜んでいる私が惨めに思えたのかもしれない。
だけど、格下の子爵家に嫁ぐとなると、今より控えめに暮らすことになるのは必至だもの。
見せつけられた抱えきれないほどのバラの花束を思い出すと少しだけ羨ましく思いはしたけれど、それを口に出すことはなかった。
二年後、私も同じ学校に通うようになった。
学校内でラルフ様と会える機会は少なかったけれど、時々一緒にお昼を取ることができた。二人だけでなく、お姉様やラルフ様のお友達、私のお友達とご一緒することもあった。
マルク・ベルマン様は陽気で人なつっこい方で、私にも気軽に声をかけてくださった。静かなラルフ様とは正反対のようでいて気が合うみたい。
ヨハン・バーデン様はラルフ様と成績のトップ争いをしていて、
「僕は万年二位だよ」
とラルフ様は言うけれど、いいライバルのよう。お姉様はヨハン様が気になるようで、ヨハン様がいらっしゃる時は必ず声をかけてきた。ヨハン様もまんざらじゃないみたい。
パーティでお会いしたことのある方だけでなく、新しい友達も増えた。
友達にも既に婚約者がいる方が何人かいて、相性の合わないお相手に苦労している話だとか、既に先方の家に週に一度通い、お相手の家のことを学んでいる人もいた。
「家を継ぐ方の元にお嫁に行くのでしたら、領のことを学ぶのは当たり前でしょ?」
そう言われてはっとした。
ラルフ様は嫡男だけど、フェラー家に伺ってもご両親にお会いすることはなく、特に何も教えてくださることはなかったし、父も母もフェラー家ことを学べなんて言ってくださらなかった。
私は父に頼んで、フェラー家の治める領のことを教えてくださる方を呼んでいただき、自主的に勉強するようにした。
「ラルフ様の領では梨の栽培が盛んだとお聞きしました。そろそろ収穫が忙しい頃ですか?」
ラルフ様とお会いした時に学んだことを少し話してみると、少し驚きながら笑みを浮かべ、そっと頭を撫でてくださった。
「勉強しているんだね」
まるでテストでいい点を取って褒められたようで嬉しかった。
ラルフ様は長期休みに入ると領に戻ってしまうのは相変わらずで、私は友人の別荘に行ったり、我が家の別荘にお招きして長いお休みの数日を共に過ごした。これも社交の練習の一つだし、お友達との学校の外での交流では普段は話せないようなことも色々聞けてとても楽しかった。
新緑が美しい季節に、久々にフェラー家に伺い、お庭でお茶会をした。
友人の家に行き慣れた私には、あまり広くなくて花樹も少ないフェラー家の庭はちょっとつまらなかった。いつかここで暮らすようになれば、もっときれいなお花の咲く木を植えて庭師に手入れさせなければ。花壇に季節の花を植えてもっと華やかにしたい。そんなことを考えていたところに、ポトッと何かが机の上に落ちてきた。
「きゃああああああっ!」
風に吹かれて落ちてきた青虫に私は慌てて立ち上がり、そのまま躓くところだった。素早くラルフ様に支えてもらい、何とか転ばずに済んだ。線が細いように見えてラルフ様のたくましい腕は私を支えてもふらつくことはなかった。
「ああ、青虫だね」
ラルフ様は近くに落ちていた葉で青虫をすくい上げて追い払った。
「驚かせてすまなかったね。青虫、嫌いだよね」
「ええ。虫は苦手よ」
「あの…」
遠慮がちに声をかけられ、振り返ると近くにいたフェラー家の侍女が生成り色のレースのリボンを手にしていた。それは私がつけていたものだったけれど、さっきの騒ぎで外れてしまったみたい。リボンには土や葉のくずがついていて、侍女はそれを手で払って私に差し出してきた。
「それは差し上げるわ」
「えっ、で、ですが」
「土がついてしまったもの。もうつけないわ」
恐縮したのか、手を引くに引けなくなっている侍女に、ラルフ様は小さく頷き、侍女は少しおどおどしながら小さく会釈をしてリボンをポケットにしまった。
その日のお茶会はそれで終わり。
その後、フェラー家の庭でお茶を楽しむことはなかった。
卒業をあと一年に控えた頃からラルフ様とお会いする機会が減っていった。学校でもお見かけすることがなく心配していたけれど、領の経営がうまくいってないみたいで、お父様を手伝っていらっしゃるのだと聞いた。単位は取れているから心配ないと聞いていたけれど。
時々マルク様からラルフ様のことをお聞きした。領のお仕事の関係で学校以外でもよくお会いするそうで、元気にされていると聞いて安心した。ラルフ様に代理を頼まれていると言って何度か街に連れて行っていただいた。流行のカフェをご存じで、訪れた店にハズレはなかった。
「さすが女性の心をよくご存じですね」
と冷やかし混じりに言うと、
「こういうとっておきの店には誰でも連れて行く訳じゃないよ」
と言われ、ちょっと勘違いしそうになってしまった。
卒業が近づいたある日。
「領でいろいろあってね…。卒業するとしばらく領から離れられなくなる。王都にはなかなか足を伸ばせなくなるだろう」
ラルフ様からそう聞いて、少し寂しくなった。私はあと二年は学校に通わなければいけない。ラルフ様が王都に来られなければ、お会いできる機会はうんと減ってしまう。
「…寂しいけれど、ラルフ様だって大変なんだもの…。…たくさんお手紙を出すわ」
ラルフ様は笑顔で頷いた。
「卒業式には、エスコートしても?」
ラルフ様に手をそっと持ち上げられ、甲に口づけされて、私は即答した。
「ええ、喜んで!」
数日後、ラルフ様から明るい水色のドレスが送られてきた。
ラルフ様は常に学年二、三位の成績だったから、卒業は大丈夫だろうと言われていたけれど、最終試験の日、急な用事で王都に戻ることができず、試験を受けられなかったと聞いた。事情を汲んで追試験を受けさせてもらえたけれど、首席は取れなかった。
今年の卒業生で首席になったのはヨハン様。ヨハン様は姉との婚約が決まっていた。卒業後は王城で働くことが決まっていて、首席で卒業できることを誇らしげにしていた。
卒業式の三日前に、マルク様が我が家に来て、ラルフ様からの手紙を手渡された。
そこには卒業式に出られなくなったことが書かれていた。
当然卒業パーティにも出られず、そのことへのお詫びと、「君さえよければ」マルク様と参加してはどうかと書かれていた。
「実は、僕も頼んでいたパートナーが急に出られなくなってね…」
マルク様が直接お手紙を持って来られたのは、このためなのね。
ラルフ様からいただいたドレスに合わせて靴も、ネックレスも、髪飾りもそろっている。母にも準備を手伝ってもらい、侍女達もどんな髪型にするかずっと考えてくれていた。それに姉の卒業でもあり、是非参加したかった。
「あいつの代役には力不足かもしれないけれど、よければ一緒に行ってもらえないだろうか」
「…ぜひ、お願いします」
私はマルク様の手を取った。
王立学校の卒業式には陛下もお越しになり、厳格な雰囲気から一転、式の後のパーティは王城の夜会を思わせるほどに華やかだった。
マルク様の服は私のドレスの色に合っていて、
「ラルフから聞いて、急いで色を合わせたんだ」
そう言って照れたように笑うマルク様は、いつもの明るく活発な姿は影を潜め、とてもかわいらしく見えた。卒業記念の大切なパーティにマルク様を一人で参加させずに済み、こんな私でもお役に立てたことが嬉しかった。
姉はヨハン様の手を取り、紅色の鮮やかなドレスを着て周りの方々の目を奪っていた。姉とヨハン様のダンスは優雅で息が合っていて、二人の仲の良さをアピールしていた。私とマルク様は初めはぎこちなかったのだけど、マルク様のリードは巧みで、とても踊りやすかった。
卒業する先輩方ともご要望のままにダンスに応じ、気が付けばあっという間に時間が過ぎていた。
マルク様に家まで送っていただき、部屋に戻ってドレスを脱ぎながら、このドレスを送ってくださったラルフ様が出席できなかったことを思い出した。
すっかり私が楽しんでしまっていたけれど、本当ならラルフ様が楽しむべきパーティだったのに。
一緒に参加できていたら、きっと素敵な思い出になったはず。
そう思うと、浮かれていた自分が嫌な人間に思え、モヤモヤした気分になった。
それから三週間後、父の書斎に呼ばれ、こう言われた。
「フェラー家との婚約は解消することになったよ」
あまりに急なことで驚いてしまった。
「ど、どうして?」
「おまえが悪い訳じゃない。彼の父親の残した借金のせいで、領の維持が危ういらしい。向こうから断りがあった」
「そんな…。お父様が援助することはできないの?」
「これまでも援助してきたが、持ち直すのは難しいだろう。婚約解消は互いに瑕疵なしとし、最後に幾分かの援助をすることで話はついた」
フェラー家の要望でつながっていた縁だもの。向こうが断ってくれば我が家が応じない訳がない。父に言わせれば、フェラー家とこれ以上縁を持っても意味がないのだろう。
最後に、父と一緒にフェラー家を訪問した。
父はサインをもらうだけだから家で待っていればいいと言ったけれど、それでは気が済まなかった。
久々に訪れたフェラー家は、ずいぶん殺風景だった。
飾られていた絵画や置物はなくなり、使用人もほとんどいない。
お茶を出されることもなく、少し待たされた後、ラルフ様がお一人で現れた。
久しぶりに見たラルフ様は少し痩せていて、目の下に隈があった。私と目が合うと小さく会釈しただけで、すぐに父の持参した書類に目を通すと、既に父のサインの入った書類にさらりとサインした。
互いに瑕疵はなく、この婚約は解消する。
少しも迷う様子はなかった。
本当にサインをもらっただけ。それだけで全てが終わってしまった。
もうこの家に来ることもないのだろう。
「お元気で」
変わらない笑顔でお別れ。
玄関先で私達を見送るラルフ様は手を振ることもなかった。
ふと振り返ると、ドアが開いてそこから女性が現れた。
その女性に見覚えがあった。この家の若い侍女。私がリボンをあげた、あの…
あの頃のようにお仕着せではなく、ドレスを着ていて、貴族の女性になったかのよう。
二人の交わした言葉は耳に届かなかったけれど、ラルフ様はにこやかに女性に話しかけ、そのまま家の中に入っていった。
ラルフ様には好きな方がいたんだわ。心変わりをして、いいえ、もしかしたらずっと私のことよりもあの人のことが好きだったのかもしれない。それであんなにも簡単に婚約をなかったことにして…。
お父様は女性に気付いていないようだった。
私は馬車の中でぐっと手を握りしめ、必死で涙をこらえていた。
事情があって婚約を解消された娘として、しばらく社交界の噂になるのかしら。
噂高い貴族の間でラルフ様の想い人のことはすぐに噂になって、私は捨てられた女として好奇心の目で見られるに違いない。
そんな心配は杞憂だった。
それから一ヶ月後、私には新しい婚約者ができた。
マルク・ベルマン様。ラルフ様の友人、あの卒業パーティでご一緒したマルク様。
フェラー家の斜陽ぶりは社交界でも広まっていて、我が家との婚約がなくなるのは時間の問題だと思われていた。私がマルク様と一緒に卒業パーティに参加したことで、世間では私のお相手がマルク様に変わったのだろうと周りの誰もが思っていたみたい。
今思えば、婚約者がいるのに別の方と同行した私を、父も母も咎めるどころか後押ししてくださった。
私の知らないところで既に話が進んでいたのだと思うと、ちょっと悔しいけれど、マルク様は卒業後も時々我が家に来てくれ、姉に引けを取らない花束をお土産に手渡してくれた。
時には街に連れ出してくださり、素敵なカフェに行き、観劇や演奏会を楽しみ、夜会に参加するたびに新しいドレスを送っていただいた。
こんなに気遣っていただけたことはなくて、これが普通だと言われると、私は何て蔑ろにされていたのかしらと、ラルフ様と婚約していた頃の自分が可哀想に思えてきた。
卒業を一年後に控える頃には、マルク様のお母様から招かれ、ベルマン家の歴史や領について教わるようになった。
私は本当にマルク様と結婚するんだわ。
なんだか安心して、マルク様と婚約できることを心から嬉しく思えた。