姉のようにはなりたくない
あたしは姉が嫌いだ。
あたしにないものを持っているからだけではない。妬みだけではない。むしろ、姉のようにはなりたくない。
『反面教師』、その言葉が一番ふさわしい存在である。
「姉さん、先に帰ってたなら風呂くらい沸かしといてよ」
「あっ、お帰りぃ。だって私、入ってきたんだもーん」
妹にすら甘えた声でにこっと微笑む姉。だが、その笑顔はあたしにとってはストレス要因でしかない。
「あっそ。じゃあいいよ」
また男のとこへ行っていたのか。そのまま帰って来なければ良かったのに……。
これ以上ツッコむ気にもなれない。
仕方なしにシャワーで済まそうとバスルームに足を向けると、姉はあたしが帰りがけに買ってきたコンビニ弁当のビニールを覗き込み、不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 私のご飯はぁ?」
「は? 食べてくるって朝言ってたじゃん。それあたしのだから食べないでよね。お腹空いてるなら冷凍庫のもん勝手に食べれば?」
「えぇー。何か作ってよぉ」
今夜はデートだからってにこにこ顔で言ってたくせに……。シャワーは浴びてきたのに夕飯は食べてこなかったとなると、せいぜい体の相性でも悪かったといったところだろうか。……知らんけど。
洗面所の水を勢いよく出し、言い訳の声をかき消した。しょぼつく瞼を押し上げてコンタクトを取る。まだぶーぶー文句らしきものが聞こえていたが、無視して雑に服を脱いだ。
熱いシャワーが気持ちいい。職場のストレスがゼロなわけではないが、姉と一緒にいるよか何倍もマシだ。自分の家ながら完全に心が休まらないので、姉が夜外出する時以外は職場か飲食店で時間を潰して帰るようにしている。
あたしが借りているマンションだというのに、我ながら情けない……。
うちの父は大学病院外科部長。母は皮膚科クリニック院長。姉はそのクリニックで美容皮膚科を任されている医師。
つまり、うちは医師一家なのだ。
4つ年上の姉は、小さい頃から成績優秀だった。長女ということもあり、両親にも甘やかされて育っている。そのため、甘え上手で人を動かす天才である。
もっとも、妹のあたしや同性からすれば『あざといかまとと女』としか映らないのだけど。
それでも、姉の周りにはいつも誰かがいるのが実情。マヌケな男たちはクモ女の網にかかり、吸い尽くされたらすぐに飽きられボロ雑巾のように捨てられていく。
そんな姉を持つあたしは成績も容姿も愛想も人並み。陰と陽だった。派手な姉の影に隠れてしまうこつこつタイプの地味なあたしは、いつもいつも姉と比べられて『お姉ちゃんを見習いなさい』と言われ続けてきた。
もちろん学生時代はほとんど遊ばず、あたしなりに精一杯頑張った。姉が男を取っ換え引っ換えしている間も、姉と同じ大学の医学部に合格するべく毎日毎日机に向かっていた。
二度挑戦したがそれは敵わなかった。両親はもう一度と応援してくれたが、あたしは実家から距離のある大学の看護学部に行かせてほしいと頭を下げた。
家族から離れ、独り暮らしを始めた。看護学部の友達も教授も、誰も姉のことを知らない。比べる人はいない。成績も上位だったので窮屈な思いもしなくて済んだ。初めて肩の力が抜けた。初めて深呼吸をしたような気分だった。初めて生きた心地がした。
ストレートで看護師免許を取り、国立病院に勤務していた際、あたしはある少女と出会った。
彼女は市立中学の二年生だった。肺の難病で幼い頃から入退院を繰り返していたため、勉強にもついて行けず、友達という友達もいないという。現に少女の見舞いは親族だけだった。
だから、登校した時は保健室だけが安らぐ場所なんだと言っていた……。
そんな彼女はなぜかあたしに懐いていた。夜勤の時には必ず「勉強教えて」と詰所まで教科書を持ってきた。忙しいから後で、と言ってもにこにこしながらあたしの手が空くのを嬉しそうに待っていた。
いい子なのにな、と思った。朗らかで学校に馴染めないとは思えなかった。病気にさえなっていなければ、教室でたくさん笑っていただろうに、神様の気まぐれルーレットにたまたま当たってしまったなんてもったいないなと思った。
こういう子が、彼女のような子が、通いやすい場所を作れたらいいな……と思った。
一年後、彼女は亡くなった。病院に勤めている以上は覚悟しなければならないことだ。
だがそれが当たり前だなんて、あたしには耐えられなかった……。
あたしは士長と折り合いが悪かったのもあり、その年に病院を辞め、養護教諭になるための資格を取ることにした。
取得後、産休の間だけの臨時職員として、市立高校に勤務が決まった。医師を諦めたあたしとしては、『先生』と呼ばれることがむずがゆかった。だが生徒たちは男女共にいい子ばかりだったので、そんな違和感にはすぐに慣れた。
ある日、生徒の一人から猫を飼ってほしいと画像を見せられた。保護猫というやつだ。
初めは汚れているのかと思っていたが、額に白い三日月のあるグレーの子猫だった。会ってみるだけ、と思っていたのに一目で気に入ってしまった。あたしが昔好きだった、セーラー服で戦う少女アニメに出てくる猫にそっくりだった。そのキャラから取り、『ダイアナ』と名付けた。
任期満了に伴い転職活動を始め、四月から私立の星花女子学園という女子校に採用が決まった。今のアパートからは少し距離があるしダイアナも大きくなってきたため、思い切って勤務地近くの2DKのマンションに引っ越した。
しかし、ダイアナとのマイペースで穏やかな日常は、転職してわずか一ヶ月でやはりこの女によって崩された……。
男遊びが祟った姉がストーカー被害にあって、少しの間だけ匿ってほしいと転がり込んできたのだ。
名門お嬢様学園とあって初めは緊張していたが、職場環境にも徐々に慣れ、新しい生活をスタートしたばかりだというのに……。
ダイアナも姉には懐かなかった。自分が一番かわいい姉には動物をかわいがるという気持ちが欠如しているのだろう。それでなくてもあたしには甘えん坊なダイアナは、姉と二人の時はあたしの部屋から出てこなかったらしい。
「ねぇ、いつになったら帰ってくれんの?」
そんな言葉を何度飲み込んだだろう。幼い頃からの『姉には敵わない』、その刷り込みが、姉に逆らうエネルギーを奪ってしまうのだ。
決して怖い姉ではないのだが、あたしが『弱い』だけなのだ……。
これは姉の策略と頭では分かっていても、どうしても喉元で詰ってしまう。現に姉はここから職場に通っているのだ。ストーカー被害にあっているのなら、知れた職場には怖くて近付けないはずだ。突っ込んで聞いても「男友達が送り迎えしてくれてるから」と嘘か本当か分からない言い訳で交わされてしまう。
面倒くさいのもある。真っ向から姉と口論する気はないのだ。今まで捨ててきた男たちのように、いつかあたしの家からも飽きて出て行ってくれるのをひたすら願いながら耐えた。
飾った自分を愛されて楽しいか? 本当の自分を見て貰えなくてもそのままでいいのか? いつかボロが出るまで演じ続けるのか?
どの男と通話しているのか知らないが、夜中に隣室から聞こえてくる、姉の甘ったるい声。吐き気を覚えながら、ダイアナだけが唯一の家族だと抱きしめて寝る毎日だった。
飲み会があるから遅くなると告げられていたある晩、仕事帰りにスーパーで買い物をしてから帰ってくると、玄関に姉のものと男物の靴が並んでいた。
外でどの男と会おうが体を重ねようが知ったこっちゃない。だが、ここはあたしの家だ。
これには完全に頭にきた。不安そうな顔で玄関にお出迎えしてくれたダイアナを一撫でし、姉が勝手に使用している部屋の扉をノックなしに開けた。
「姉さん、いい加減にしてよっ!」
姉の下半身に顔を埋めていた見知らぬ男と、バカみたいに大股を開いている姉が飛び起きた。驚きたいのはこっちだ。だがそれを通り越して呆れしかなかった。
情けなくしゅんと萎れてしまった物をしまいながら気まずそうな顔で男が出て行くと、姉は逆ギレして「最低!」と、あたしの頬をひっぱたいた。そしてそれ以上何も言わずに男の後を追って出て行った。
これでいい。嫌われて出て行ってくれるのなら、嫌われたままでいい……。
「ね、ダイアナ……」
呼ぶとあたしの足に頭突きしながらごろごろ喉を鳴らすダイアナ。喋れはしないけれど、何もないこんなあたしに懐いてくれる小さな存在が愛おしい……。
財産も家族も男もいらない。あたしはダイアナと静かに暮らしていければそれだけでいい。
あたしには元々何もなかったんだ。失って怖いものなど何もなかったんだ。
あたしを必要としてくれる生徒たちとダイアナ、これからはそれだけで充分じゃないか。
一生独りでいい。強く生きたい。頼るのは苦手だけれど、頼れる存在であり続けたい。
誰かに寄生しないと生きていかれない反面教師の姉のおかげで、そう思えるようになった。