第九話 回顧
昭和四十五年、片桐春京の夫である片桐清志は父親の急逝により二十八歳の若さで株式会社片桐印刷の社長に就任する。時代は戦後の焼け野原から立ち直った日本が高度成長期を迎え、国は活気付き国民の大半は生活に余裕が生まれた頃だった。
社長に就任した清志は、裕福になった日本人がこれからは頻繁に旅行するだろうと見越し、それまでの帳票類を中心とした印刷業務から土産品や贈答品のパッケージ印刷に特化した印刷業務へとシフトチェンジを断行する。
清志の読みは正しく片桐印刷は瞬く間に業績を伸ばした。先代の時は社員数三十人程度だった零細企業が七年後には社員数三百人を超え、北から札幌・仙台・東京・静岡・名古屋・大阪・京都・広島・福岡に営業所を構え、工場は本社のある岐阜県に第一・第二、隣の三重県に第三工場が建てられた。丁度その頃に妻の春京が長女を出産する。第三工場を建てた年と同じだったことから三重子と名付けた。
その後、片桐印刷は他業種にも事業を拡大していく。ホテル経営、ゴルフ場経営、旅行代理店、イベント業、タウン誌の発行、など清志には先見の明があり悉く業績を伸ばしていった。今現在、片桐印刷を母体とした片桐グループは、岐阜県民であれば幼稚園児でも知っている大企業である。
一人娘の三重子は病気がちではあったが、無事高校を卒業すると大学へは進学せず片桐印刷の一事務員として働き始めた。清志は能力のある者が会社を継げばよいと考えていた為、無理に三重子に会社を継がせるつもりは無く、娘には人並みの幸せな人生を送ってもらいたいと考え、春京もそれに賛同していた。
三重子が働き出して二年が過ぎた頃、彼女に連れられ北条克己が初めて片桐家を訪れる。交際を認めて欲しいと二人は両親に懇願したが、清志と春京は認めなかった。
数時間話しただけで、清志と春京は北条克己の軽薄な人間性を見抜いていたからだ。娘には人並みの幸せな家庭を築いてもらいたい。それだけが両親の望みであったが、この男ではそれも儘ならないと容易に想像が出来る。何よりも、娘への愛情を微塵も感じなかった。
北条克己は片桐印刷の第一工場に勤務していた。清志はすぐに北条の身辺調査をさせたたが、評判は初対面の時に受けたものと差異は無い。男性との交際経験が無かった三重子には、見せ掛けの優しさが見抜けない。偽装と方便で固められた北条克己の外面しか見ることが出来ず、内面を見抜くほどの慧眼が備わるには三重子はあまりに幼すぎた。
どんな手段を使ってでも二人を別れさせる。清志は北条を解雇してでも三重子を守る決意だったが、その願いは叶わなかった。
三重子が北条の子を宿したのだ。
清志はそれでも二人を認めようとしなかったが、春京に説得され三重子と北条の結婚を承諾せざるを得なかった。
北条が改心し家庭を守れる男になってもらうしか、三重子や生まれてくる孫が幸せになる道は無い。清志と春京にとっては三重子と孫の幸せなくして自分達の幸せは無いのだ。
翌年、三重子は元気な女の子を出産する。母親の名に因んで志摩子と名付けられた。
一抹の不安を抱えながらも、清志と春京は幸せそうに志摩子を抱く三重子の笑顔を見るのが何よりも幸せだった。
父親になった北条は真面目に働いていた。その頃には自分達の不安が杞憂に終わり、日々仕事に勤しむ北条を清志と春京も認め始めていた。
志摩子が七歳になった頃、清志は北条を取締役専務に採りたて、自分は第一線を退き会長に就任する。北条は能力の高い人間ではなかったが、清志とて子や孫は可愛いい。北条の栄達が彼女達の幸せになるならと、初めての私情を挟んだ人事だった。
それが悲劇を生む。
会社において無能な上司ほど厄介者は居ない。況してやカリスマ経営者の親族ともなれば尚更だ。まさか専務にコピーやお茶出しをさせる訳にはいかない、かといって難しい仕事は出来ない。良かれと思っての人事が、結果的には社内での北条の居場所を奪ってしまった。
そんな北条に救いの手を差し伸べたのは、清志に会社を託された社長の宮下だった。彼は北条に実務ではなく外交をさせた。所謂、接待である。
最初に教えたのはゴルフだ。シングルプレイヤーの宮下の手解きを受け、コースに出るのに恥ずかしくない程度には上達したが、北条はそれ以上を求めない。元より努力が出来ない男だ。
次に、宮下は北条を高級クラブに連れ出した。北条は酒席では饒舌で愉快な男だったが如何せん話の質が低い。接待の場で知的な話でも出ようものなら、忽ち目が泳ぐのは容易に想像できる。
宮下は苦慮の末、接待をする側ではなく受ける側に北条を配置する。
これ以上ない悪手だった。
初めは宮下が同行して接待を受け、相手の要望を聞く。二度目からは北条が一人で接待を受け、宮下が下した条件や要望を伝え相手の要望を持って帰る。宮下は何度も接待に赴くほど暇ではなく、要は宮下の名代だ。
接待はどうしても夜に行われることが多く、徐々に北条の生活は昼夜逆転していく。今迄に行ったことの無い高級店で飲んだことの無い高級な酒を飲み、着飾った女にチヤホヤされて、自分より年上に頭を下げられる。北条は酒に酔い、女に酔い、権力に酔った。
努力を必要としない。努力するのは接待をする側の人間や、客を楽しませる女達であり、自分はそれを、ただ、楽しめばよいのだ。結論を出すのは宮下の仕事で何の責任も無く、北条にとっては夢のような職務である。
数ヶ月で北条は接待のコツを掴む。取引相手から寄り良い条件を引き出すコツではなく、自分が寄り良い接待を受けるコツだ。情報のリークである。
そんなものが長続きする筈が無い。北条の悪行は瞬く間に宮下の耳に入る。北条が情報をリークした取引先からだった。
当然だ。北条から得た情報で仕事を受注出来たとしても、次は自分達の情報を同業他社に与えるのは目に見えている。少し頭の廻る人間ならば短期的な仕事を得るよりも、不正を申告して片桐グループに借りを作った方が遥かに得策だ。
宮下は決断しなければならかった。情報をリークして接待を強要するのは、会社の評判を著しく低下させるどころか、法に触れてもおかしくない。謹慎や降格で許されるレベルの話ではないのだ。だが北条にその任を与えたのは、他ならぬ自分である。
清志の期待に応えることが宮下の生きがいだった。若い時分から清志に認められたい一心で必死に働いた。そんな自分に清志は会社を託してくれたのだ。
嬉しかった。一番認めてもらいたい人物に、後継を託されたのが心底嬉しかった。その日から会社を守り社員を幸せにすることこそが、宮下の責務となった。
優先すべきは会社と社員である。それだけは何があろうと、誰が相手であろうと変えられない。
決意と覚悟お決め、清志と久しぶりに話しをする為、夜の予定を全てキャンセルして受話器を取った。
片桐家を訪れると玄関で春京が出迎えてくれた。春京に案内されて清志が待つ居間に通される。
簡単な挨拶を済ませすぐに本題に入った。北条のしでかしたことを説明し、彼を解雇する種を伝える。最後に自分の任命責任を説き、辞表を提出した。
清志は辞表を受け取ると、ライターで火を着け目の前の灰皿に放り投げる。辞表が燃え尽きるのを待って「申し訳ない」と頭を下げた。
宮下の責任を問う以前に、北条を専務に取り上げた自分こそ責められるべきだ。宮下が自分に娘婿の首を切ると言わざるを得ないのがどれ程のことか、会社の秩序を守る為に自ら身を引かねばならぬことがどれ程断腸の思いかを考えると、自然と謝罪の言葉が口をついた。
それと同時に自分が選んだ後継者は正しかった、この男なら会社を託しても間違いないと改めて感心する。たとえ相手が片桐清志であろうとも、会社を、社員を守る為であれば間違いを正せるこの男を、北条などの為に失う訳にはいかない。
明日、同じ時間に来るように告げ宮下を引き取らせると、清志は受話器を手に取る。相手は岐阜の歓楽街、柳ヶ瀬で四十年以上前から占い師をしている女、通り名は柳ヶ瀬の母。
北条の悪評は既に柳ヶ瀬では知らぬ者は居ない周知の事実だった。そればかりか、会社の金で数人の女に貢いでいると聞き清志は憤慨する。三重子はこのことを知っているのか、居ても立っても居られず春京に三重子を呼び出させた。
三十分程で眠そうの目をシバシバさせる志摩子を連れ、三重子がやって来た。先に別室で志摩子を寝かし付け、清志と春京の前に現れた三重子は、自分が何故呼び出されたのかを理解しているのか、鎮痛の面持ちで二人に対座する。
清志の話を聞き終わると三重子は両親の前で額を畳に擦り付けた。
三重子は知っていたのだ。北条がホステスに手を出していることも、自分を愛していないことも。
年を重ね親となった今なら、両親が何故北条との交際を反対したのかが手に取るように分かる。だが生まれてきた娘には何の罪も無い。清志と春京が三重子の幸せを何よりも望んだように、三重子にとっても娘の幸せが最優先事項である。自分がどんなに虐げられようとも、北条がどんなに軽薄な男であろうとも、娘にとっては父親なのだ。娘を守りたい一心で三重子は耐えてきた。
これは両親に対する裏切りだ。自分が志摩子の幸せを願うように、両親は自分の幸せを願っているのだから。三重子は土下座をしながら声を上げて泣いた。
心臓に刃物を突き刺されたような痛みが清志と春京を襲う。この世のどんな場面よりもおぞましい光景が眼下にある。額を畳みに擦り付け慟哭する娘の姿は、自分たちが描いた理想の未来と間逆だ。
愛の無い夫が必要か、愛情の無い父親が必要か、清志の問いに三重子は無言で首を振り北条との離縁を決意する。
最愛の娘と孫を苦しめ、手塩に掛けた会社を危険に晒す、北条が片桐家の敷居を跨いで十数年、遂に悪の枢軸を排斥する。あの男と初めて顔を合わせた時から、災いの素だと予想できていたのに、あまりに時間が掛かりすぎた。
翌日、同じ時間に宮下が北条を連れ片桐家を訪れた。自分が呼ばれた理由を考えもせず、北条は舅と対座する。昼間のうちに三重子が生活に必要な物全てを自宅から片桐家に移動したことなど露とも知らず。
宮下が昨夜陳情した報告をもう一度繰り返す。青褪める顔を一瞥し宮下が解雇を通達すると、北条は震えながら嘔吐した。
話し終えると宮下は清志に一礼して席を立つ。入れ替わるように三重子と春京が現れたが、北条は俯き震えたままだ。
三重子は清志の隣に腰を下ろすと、持ってきた封筒から一枚の用紙を取り出し、ペンと印鑑と共に北条の前に差し出す。緑の文字で離婚届と印刷してある用紙は既に記入済みだった。一箇所を除いて。
「氏名と捺印をお願いします。理由はおわかりですね」
何年か振りに北条は三重子の顔をマジマジト見る。記憶にあった三重子に比べ少し頬が扱けたなと思った。
どうしてこうなった。北条はペンを取らず考える。
十数年前、三重子に近づいたのは愛でも恋でもない。ただ、彼女と結婚できれば人より少し楽が出来る、そう思っただけだ。財産や会社には何の興味もなかった。自分には荷が重過ぎると分かっていた。片桐家の人間になれば衣食住に困ることはないだろう。最低限の努力で人より少し上の生活がしたい、楽をして人生を送りたい、それだけだったのだ。
取締役常務になどなりたくなかった。一工員でよかった。経営者の娘婿だからと周りが気を遣って、他の工員より少し楽がしたかっただけなのだ。
自分の能力以上の、やりたくもない役職に就けた片桐清志が悪い。自分に出来る仕事を与えてくれなかった宮下が悪い。配偶者のくせに自分を庇いもしない三重子が悪い。
「離婚に応じて頂けないのであれば、裁判所でお会い致しましょう」
三重子が凛然と言い放つ。出会った頃は自分の甘言に簡単に靡く世間知らずのお嬢様だったこの女も、やはり片桐家の血が流れているのか。蔑んだ目が片桐清志と瓜二つだ。
北条は無言で席を立つと、二度と門を潜ることの無いであろう片桐家を立ち去った。
帰宅した北条は閑散とした室内に愕然とする。自分の物以外全て運び出されリビングは体育館のように広く感じた。
慌てて寝室に向かいクローゼットに収納された金庫を開けると、通帳と印鑑は所定の場所に置かれたままだった。額面は24,518,221円、貯金額としては充分な金額だが今の北条には少なすぎる。今更、他社に就職して安月給で真面目に働く気など更々無く、無収入で今迄の生活レベルを維持すれば持って三年だ。
「詰んだな・・・」
離婚をごねたところで今迄の生活には戻れない。自分を引き上げたのは片桐清志でもなければ宮下でもない。三重子だ。彼女が引き上げてくれた。三重子の夫だから楽が出来た。その三重子に見捨てられた時点で元の木阿弥だ。だが、ただの木阿弥には戻れない。うまい酒の味も、いい女の味も知ってしまった。
「畜生・・畜生・・・畜生・・・・」
恨んでやる・・仕返しをしてやる・・あいつ等の一番大切なものを奪ってやる・・・
一睡もせずに朝一で銀行へ向かい預金を全額引き出すと札束を裸で鞄に押し込み、タクシーを拾って岐阜羽島駅から東京行きの新幹線に乗る。
東京へ着くと新しくなった東京駅やスカイツリーに目もくれず、佐原法律事務所へタクシーを走らせた。
佐原法律事務所所長の佐原貢は実家が向かいの同級生、世間で言う所の幼馴染だ。
北条は佐原が苦手だった。幼少期、勉学の成績は下から数えたほうが早い北条に対し、佐原の成績はずば抜けていた。母親は常に佐原の両親を羨み、自分の息子の不出来を嘆く。北条にとって佐原は劣等感の象徴であり、同じ空気を吸うのも嫌な存在である。
佐原も北条を嫌っている。目から血が出るほど勉強して今の地位まで上り詰めた自分に対し、何の努力もせず片桐印刷社長の娘を娶った北条を嫌悪している。
「久しぶりだな、片桐印刷の大専務様」
応接間で暫く待たされ、開口一番この嫌味である。お前は招かざる客だと言っているようなものだ。
「昨日、首を切られた。今は元の木阿弥だ」
その言葉に驚きの表情を見せ、嬉々としてソファーに腰を下ろすと、詳しく聞かせろと促す。北条は今迄の出来事を包み隠さず話した。
「それで、俺に何の用だ」
このまま用件を言ったところで佐原が応じないのを北条は分かっている。だが北条は佐原貢という男をよく知っていた。
この男は北条の知り合いの中でもずば抜けて頭が良く、ずば抜けてケチで金に汚い。東京で自分の名前が入った弁護士事務所を構えても、その性分は変わらない。
鞄から朝一で引き出した金の内、二千万をテーブルに積み上げ佐原に差し出す。
「俺の全財産だ」
積まれた現金に佐原の目の色が変わる。
「娘の親権を取りたい」
佐原はニヤリと口角を上げ、その金を受け取った。
そのまま今後の方針を話し合う。片桐家、いや三重子の唯一の弱点を北条から聞いた佐原は裁判に絶対の自信を見せると、事務所から離婚に応じる電話を掛けさせ離婚届を郵送で北条宅へ送るよう指示した。
ノートパソコンを持ち出しカタカタと何か打ち込むと、直ぐにプリントアウトして北条に手渡す。用紙には親権を希望し、裁判も辞さない旨が記載されていた。これを返送する離婚届に同封しろとのことだ。
その日の夕方に岐阜へ戻り、今のところは自宅である家へ帰り着くと、既に郵便受けには離婚届が入った封筒が届けられていた。余程早く縁を切りたいのであろう、郵便には出さずに直接持ってきたようだ。直ぐに署名捺印をすると、佐原に渡された用紙を同封して家を出た。
片桐家へ向かう道すがら、北条は今後の生活を考えていた。残された金は約四百万、節約すれば二年位は持つかもしれない。だが、そんな気は毛頭無い。今迄と同じ生活レベルを保てば持って半年、それまでに裁判を決着しなければならない。
奴らに一矢報いる。
自分だけ不幸になるなんて御免だ。
奴らにも絶望を味わわせてやる。
一番大事な物を奪ってやる。奪った後なんて知ったことか。
握り締めて皺の寄った封筒を片桐邸の郵便受けにねじ込むと、北条は逃げるように全速力で走った。