第八話 祖母
「それで、君はガラス戸をぶち破ってリビングに侵入した訳か・・」
ボールペンを机にコツコツと当てながら瞑目すると、二三度うんうんと頷きながら机に設置してある受話器を手にした。
「柿谷だ。珈琲を二杯頼む。一杯は砂糖とミルク入り、君は」
「同じものを」
柿谷刑事はにっこり微笑む。
「有り有りを二杯だ」
五分もしないうちに運ばれた珈琲を一口啜ると自然にフーっと息が漏れる。そんな俺を見て柿谷刑事も珈琲を啜り一息つく。
「やっぱり珈琲に砂糖とミルクは欠かせんよな。ブラックなんて苦くて飲めん」
「同意します」
暫く二人で甘めの珈琲を楽しみ、事情聴取を再開した。
「父親がナイフを手にした時、君は何を考えた」
先程までの温和な顔は影を潜め、今日一番の厳しい表情に変わった柿谷刑事に問われる。
「その刃を北条に向けさせない方法を考えていました。此方に意識が向くようにしなければいけないと」
書類に目を向けずボールペンも置いたまま、柿谷刑事の目は俺を見据える。
「概ね間違った考えじゃない。だが、君は一つ勘違い、いや知ってはいただろうが、あの場で忘れてしまっていたことがある」
柿谷刑事が言う俺が忘れていたことに思考を廻らすが答えは出ない。
「君は数日間、北条志摩子を観察していたのだろ、だったら知っているはずだ。北条志摩子は決して弱い人間ではない。あの時、我々に連絡を入れたのは北条志摩子本人だ」
柿谷刑事の言葉に俺は愕然とした。
俺とあの男が対峙してお互いを牽制し合っていた時に北条は警察に連絡を取ってくれていたなんて。あの時、俺は警察が来るまで時間稼ぎをするべきだったのだ。
知っていたはずだ。北条志摩子は周りから持て囃され好奇の目に晒されていても、己を律し正しく強くあることの出来る人間だと。悪に対して抗うことのできる強い人間だと。
俺は正義のヒーローにでもなったつもりでいたのか。
「刑事さん。俺は・・余計な事をしたのでしょうか」
顔を上げることが出来ない。珈琲カップを見つめたまま固まる。自分の思慮の浅さが情けなくて柿谷刑事を直視出来ない。
パン!
「シャキッとしろ」
頭に衝撃が走った。顔を上げると、書類を筒状に丸めて手に持つ柿谷刑事が仁王立ちしている。
「胸を張れ。君がいなければ北条志摩子が救われることは無かった。君が手を差し伸べたから彼女は強く在れた。彼女一人ではどうしようも出来なかったところに、君が現れて、君が戦う姿を見て彼女は全てを話す勇気が持てたんだ」
ジジイと柿谷刑事、それと俺に付き添ってくれた警官。
彼らの話を自分なりに咀嚼する。俺はまだまだガキだ。人生の経験も浅く視野も狭い。未熟だから学べと言っている。
彼らは何故俺にそんなことを言うのだ。俺は教育者でも警察官でもなく、目指してもいない。俺に何故期待するのだ。俺に何を期待するのだ。
「偶々です。俺は貴方たちに期待されるような人間ではありません」
「いや、君は特別だ。不良の気持ちは不良だった人間が一番わかる、いじめられている人間の気持ちはいじめられた経験のある人間が一番わかる、だから北条志摩子のように家族の問題を抱えた人間の辛さは君が一番理解できる。違うか」
柿谷刑事は俺のことを知っている。今日初めて会ったこの男が何故・・・
「驚くことはない。私も、病院に付き添った速水巡査部長も、君を知っている。六年前からな」
事情聴取が終わり解放された俺は早足で出口に向かう。少しでも早くこの建物を出たい。息が詰まりそうで兎に角ここには居たくない。
出入り口手前の長椅子に座っていた姉さんが俺に気付き、引きつった笑顔を向ける。
「お待たせ姉さん。さあ、帰ろうか」
姉さんは俺に抱き付くなり、上手く笑えない事を隠すように胸に顔を埋めた。怪我を気遣ってか、いつもより優しく包み込むような抱擁だ。
一秒でも早くここを出たいが、心配を掛けた姉さんを引き剥がすのは気が引ける。仕方なく姉さんの気が済むまで待つことにした。
暫くすると、落ち着いたのか漸く顔を上げ通常営業の笑顔を見せる。
「もー、折角のシチューが冷めちゃったよ」
やっとここを出られる、家に帰って温め直したシチューを食べよう。一歩踏み出そうとした時に背後から声が掛かった。
「入間川息吹様でしょうか」
見るからに品のありそうな和装の女性だ。
「はい。入間川ですが・・」
「北条志摩子の母方の祖母の片桐春京と申します」
女性は両手を重ね深々と御辞儀する。お婆さんと言うには申し訳無い程若々しく、北条に良く似た端正な顔立ちは年を重ねても女性としての魅力を充分に兼ね備えていた。
その美しい顔を上げると両目から涙が零れ落ちる。
「この度は孫を助けて頂きありがとうございました。この御恩は生涯忘れません」
そう言って、もう一度深々と頭を下げる。
「あ・・頭をあげてください。と・・とりあえず座りましょう」
慌てて長椅子に座るよう促す。遥か年上の女性に泣きながら頭を下げられた時の対処方など持ち合わせていない。
彼女を座らせ隣に腰を下ろすと、姉さんが駐車場を指差し口パクで「先に行っている」と伝えながら黄色い軽自動車に一人で向かった。
片桐春京に目を移すと、彼女はジッとブレザーの袖から覗く俺の左腕に巻かれた包帯を見つめている。
「大したことありませんから」
彼女は首を横に振ると、俺の左腕をそっと持ち上げ優しく擦った。
「なんとお優しい方・・・」
また姉さんを待たせることになりそうだ。片桐春京は俺の左腕を擦りながら、シクシクと泣いている。どんな言葉を掛ければ泣き止むのか想像もつかない。俺は左腕を預けたまま、じっと待つしか出来なかった。
三分程経っただろうか、漸く握っていた左手を膝の上に丁寧に返すと、濡れた瞳を俺の顔に向ける。
「申し訳ございません。こんな大年増に手を握られて、随分と御気を悪くされたでしょう」
「い・・いえ、そんなことありません」
本当だ。麻酔が切れかけ痛みが出始めていたが、彼女に擦られている間は不思議と痛みを感じていない。
「北条は大丈夫でしたか」
「はい、身体に問題ありません。ですが・・私共に入間川様のような勇気があれば、あのような男に・・」
言葉に詰まり、悲しそうにジッと俺の目を見つめる。
当たり前だ。実の父親に操を汚され、傷つかない女など居ない。この傷を北条は死ぬまで背負い続けなければならないのだ。男の俺では想像もつかないような悲しみや屈辱を、女としての人生を諦念し兼ねないトラウマを。
「志摩子は被害者です。加害者はあの男だけではありません・・・。私共が犯した罪を全てお話します」
片桐春京は、北条の数奇な運命を語り始めた。