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第一夜:年末、夕暮れ、木屋町

 なんでも、京都は学生の町らしい。十人に一人は学生というから、京都市の人口が百余万であることを加味して十万は下らない学生がこの町を跋扈していることになる。となれば当然、彼ら彼女ら若人には十万通りの学びがあり、出会いがあり、未来がある。しかし、その十万通りの中にも、この冴えない男の現状ほど惨めな結末へと辿り着く道はそうないだろう。


「いったい、おれは何をやっているんだ」


 彼は独り寒空の下、ネオンに照らされる高瀬川を橋から眺め、ため息をついた。忘年会シーズンで賑わう四条木屋町で、こんなに暗い顔をしているのはこの男くらいであろう。あまりに暗いものだから、いつもは無節操に通行人に声を掛けるキャッチでさえ、彼とは目も合わせようとしなかった。


 このところ彼は、教授からの度重なるメールを無視して狸寝入りを決め込み続けている。研究室でどことない居心地の悪さを感じていた彼は、安息を己が部屋に求めたのだ。

 とはいえその心中は穏やかではなく、漠然とした罪悪感はとどまることを知らなかったので、もう日が暮れまいかという頃になってようやく追い出されるように部屋を出た。

 さて、そこまでは良かったのだが、研究室までの足取りは頗る重く、結局途中で引き返して河原町通を南下してしまった。別に用事などはない。ただ、新京極や寺町の雑踏に揉まれている間はなんとなく気が紛れるような気がして、引き寄せられるように辿り着いただけであった。彼は、そんなことをこのひと月くらいずっと繰り返している。


 神童と呼ばれ、地元で崇め奉られた在りし日の彼は今や見る影もない。京の名の知れた大学に合格し、地方から意気揚々と上洛して来たのは良いが、すぐさま周囲の圧倒的な才能に打ちのめされ、完全に自信を失ってしまった。にも拘らず惰性で博士三回まで上がってしまったものだから、アカデミアでやっていくだけの熱意も覚悟もなく、その上企業への就職を志すにはあまりに実用性に欠ける専攻だったもので、大学にも残れず、社会にも出る術を持たない迷い人となったのである。

 ここで彼に人望があれば話は違ったのかもしれないが、残念ながらそれほどの人の好さや話術といったものを持ち合わせてはいなかった。それゆえ、孤独に袋小路で途方に暮れる他なかった訳で、また、それこそ今彼がここにいる理由であった。


 ふと彼は、学部や修士で社会に羽ばたいていった同期たちのことを思い出し、おもむろにインスタグラムを開いた。どうもみな、それ相応の暮らしをしているらしい。車を買っただの、海外へ出張だだの、結婚しただの、今の彼がどう背伸びしても届かない充実した日々を謳歌している。そんな彼らを見て、男は何とも言えない鬱屈とした感傷に浸った。

 抑々、人間関係が希薄であった彼にとっては同期など他人も同然の存在である。しかし、一度は間違いなく同じステージに立っていたはずの人間が、かくも成功者としての地位を恣にしているという事実は、劇物のように彼の劣等感や焦燥感を刺激した。


 とはいえ、やるべきことを悉く放っぽり出し、こんなところでしみったれていたところで何の解決にもならない。むしろ、その手の悪感情は増幅されるばかりだ。そのうえ年も暮れとなれば、年末特有のセンチメンタルのみならず、ありとあらゆるタイムリミットが彼の心に重石の如く圧し掛かる。その重石はいずれ足枷となり、彼を小汚い四畳半に閉じ込めようとする不可思議な魔力を放つこととなろう。彼は、負の連鎖から抜け出す術を失っていた。


「やれやれ、なんと無様なことよ」


 光の消えた瞳で、力なく自嘲気味に呟く。そんな折、遂に進退窮まった男の脳裡にふと暗い考えが過ったが、それを叶えようにも高瀬川は些か浅すぎた。

 死に損なった彼は、透けて見える川底を恨めしそうに睨みつける。そして、ポケットにあった丸善のレシートをくしゃくしゃに丸め、水面に叩きつけた。そんな時のことである。


「おやおや、不法投棄ですか。感心しませんねェ」


 ふと、後ろから若い女の声がした。口調こそ標準語だが、抑揚は関西弁。それが、より一層胡散臭さを引き立てている。振り返ってみると、そこにはモダンな装いの胡散臭い女が、胡散臭い笑みを浮かべて立っていた。

 張り付いたような薄い笑み。男はこの笑顔に見覚えがある。学部一回生の頃、嫌というほど大学構内で遭遇したからだ。この手の人間を相手にしても碌なことがない。彼は、すぐさま目線を水面に戻し、無視を決め込むことにした。

 しかし、この女はまったく立ち去る気配がない。気味の悪い笑みを浮かべたまま、彼の後ろで突っ立っている。流石に居心地が悪くなってきた男は、ついに痺れを切らして口を開いた。


「何か用でも」


「貴方には素質がある。是非、私たちと一緒に」


「壺なら買いませんよ。わたしは金欠なのでね」


「壺なんか売りませんよ。どこぞの新興宗教じゃあるまいし」


 男の言葉に、女は不本意だとでも言いたげな目をして、唇を尖らせている。そして、男のすぐそばまで寄って来て、橋の手摺に頬杖をついた。男はそんな彼女を疎ましそうに睨みつけたが、女は再び気味の悪い笑みを浮かべている。厄介な人間に絡まれてしまったらしい。結局、男は観念してため息をついた。


「なら、なにを売るんです」


「売るんじゃない。買うんです」


「なに」


「夢を買うんですよ。買って、それを育てて野に放つ。で、そいつを捕まえて錦で売るんです」

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