-精油と思索の反転-
第6章 カップのナイト:Knight of Cups
濃い霧が冴えた眸で瞬く。
その瞬間に彼らは小刻みに進んだ。
十字路に差し掛かったところで立ち止まる。お互いの手を堅く握り合った。女の豊麗なその指先は男の節の太い指と絡んだ。
季節を巡り巡り――どこまでも続くような墨汁のような雨は、鍾乳石のように歪に森を通り抜けて、夜の子宮に滴り落ちているようだ。
際限なく道が続く。魑魅魍魎たちの平静を失わせるためだけに長いようにみえる。その先にも後にも目指すべきものはない。十字路の部分だけが誰かに抉り取られているようにみえるのは、おそらく先々を隠す濃い霧のせいもあるだろう。
周りでは、牡山羊、馬、驢馬たちが静かに円形をつくっている。
―今宵は幾千年続けられてきたミサ。諸君に今からおこなってもらうことは――。
野太く低く響き渡る。
『ねえ、本当にあなたがやらなきゃいけないことなの』
『許して欲しい。どうしても今日だけは……』
女の隣で、男の首筋に走る血管が、その声に抗うように収れんする。
―今宵は悪魔の宴。偉大な劇場の幕開け。
ここに集まる者にはすべての役割が与えられ、そしてその与えられた役を全うすることで物語の終結に貢献できるのだと、声の主は続けた。
声の主の名は――天上から顛落したとされるルキフェル。
かつて神に罰を受け、地獄へ落とされた存在だ。
男には、善・悪、光・闇などの二項対立のもの全てが暗闇の先には共存しているように見えた。陰気な一本道の先にはその底も蓋もない。
ここが、中なのか外なのか判断できないほど霧の中に列をなす者たちは放り込まれている。
『ここまで着いてきたけど、今夜だけは一緒にいて』女は目を伏せて言った。
『どうしても――』同じ言葉を返す。
『お願い……いまならまだ間に合うわ』
宿命に従わなければいけない。そう固く信じていた。
『森に帰って静かに一緒の夢を見ましょう……ね』女は男を見上げた。
『夢……』男は幻想的な昔話でも聞かせてやるように、女だけが聴こえるように限定的な声で物語を切り出した。
『昨晩、こんな夢をみた』
うしろめたさが幾分男の目の端をかすめる。
『夢の中でも夢をみていた――草原に大きな一本の木があった』
2人の前にちょうどそのとき霧が一瞬晴れ、大木が姿を現した。
『その木は、ちょうどこれくらいの大木にもかかわらず、葉だけでなく白い花を咲かせていた。我らの森に生えているどの木よりも大きく、そして厳かに聳えていた。香りこそ弱いが、エルダーに似ていた。その大きな木の木陰で眠っていたのだ。経緯は分からない。夢は入り口と出口が分からないようにできているらしいから』
『それで、夢って』
さっきまで、男が進む道の困難さを嘆いていた女は今度は道を急いだ。
『眠っていると……俺はたしかに眠っているのだが、その眠っている俺を見ている俺がいた。すると、遠くから懸架式の馬車がこちらに向かってくる。中から降りてきたのは乳のみ子を抱えた女だった。その女は俺を起こそうと揺り動かすが、起きなかった……諦めてその馬車が轍だけを残して走り去った。すると、今度は、俺と同じ年ぐらいの若い男女が降りてきて、同じように起こそうとするが、俺はまたしても起きない。走り去った……次に近づいてきたのが、血のついた剣をもった同族の男だ。そいつが起こして殺すつもりだったように思えるが、やはり俺は起きない。さらに、今度はクピドーがあらわれて、もちろんあいつに揺り動かされただけでは起きない。最後は――』
そこで男は顔を強張らせた。
『出会ったことも、名も知らぬ、何の変哲もない人間だった……』
『夢さえも利用してわたしを納得させたいの』
『そうじゃない。朝露みたいだった』
遠くを眺めるような目で男がぼそりと言う。
『日がでたらすぐ消えてしまう。閻浮提の現象だった……』
『こういう場面がわたしは怖くてあなたのことを慕うのを躊躇していたんだったわ』
女は男の手を振り払おうと力を込めた。
『あなたはわたしの中で……とても……すごくおおきいのよ……』
涙をずっとこらえていた。
鼻をすすった瞬間に顎がひくっと上がる。それから、ただただ身を任せ、すすり泣いた。
男は、自分の中の不承の覚悟の箱の鍵をあけるように、話を続けた。その泣き声を聴いた魑魅魍魎の笑い声が遠くで微かに聞こえる。
『あなたがいつかあのお父様のようになりたいと陰ながら願っていることを、わたしはすごく心配していました。覚悟していたはずなの……だけど、こんなのって……』
幽遠な静けさが増す―。
視界が殺風された。その深層の魔の意識を狭窄させる白を赤い血が染めた。ある刹那でも己の手綱を緩めてしまえば、主人を置いて暴走する軍馬のように、一朝にして分断される予感を孕んでいる。
一歩男が前に進む。金色のテーブルクロスにはパンとワイン、それにあらゆる種類のごちそうが並ぶ。一同は食べながら怪奇な歌を口ずさむ。
食事が終ると、ある者は蝋燭をもって薄暗い森の中へ消えていき、姦淫を繰り返す。またある者は、踊り狂い、ある者は悪魔の規律について若者に講義をしている。
中央の玉座に巡らされた血の池の垣がマグマのように煮えている。その玉座に陣取るルキフェルが男の目をみて何かを物語るかのように口を開いた。
彫刻のような躍動感溢れる上半身がむき出しで、片肘を立てて小宇宙の創造主としての威光を放つ。傍らには7人の斎つ翼をもった、静かに佇む大天使たちの姿が見える。
古くは東方の三神山にいる3人の仙人達との談笑しながら、ルキフェルがもらった3つの秘密の産物で、パラケルススに作らせた杯を飲み干してからというもの、不老不死としてルキフェルは君臨してきた。杯に並々と葡萄酒のようにも血のようにも見える液体がひとりの天使が注ぐ。
―我々悪魔の所業は神でなく悪魔でもない生き物が住む閻浮提のリセット。全宇宙の真理の表象としての義務を果たさなければいけない。
ルキフェルが語りかける。
―ただし、悪魔の力を授けられるべき93人目をこの中から選ぼう。悪の所業において、まだ閻浮提に降りたことのない君たちに、万が一、罪の意識などというつまらぬ気が湧き、しかも、買い殺すこともできす苛まれるようであれば、君達に力を与える訳にはいかない。繰り返すが、我こそに権限があるのだ!
―さて、それでは始めよう。
女は男の手をぎゅっと握った。
ルキフェルが男に命令する。
―君は、目の前の女の魂を奪いたまえ。君は相当鼻がきくはずだ。だから、この赤い実の飲み物に毒薬をいれた。これを女に飲ませるだけで君の願いを叶えてあげよう……。
男の魂はどこか悠遠な場所へと飛んだ。霧の中で契りがそこに完結した―。
―ようこそ。君が93番目だ。うん?……メフィストフェレス家だな。
子を奈落の底に落とそうとする威厳の衣を着たルキフェルが声に出して嗤った。そして、子に寵愛を授ける父のような、期待を込めた眼差しを男に送る。
男は拮抗を余儀なくされる。
顔を唾棄すべき真実から背けたい。
その衝動に抗うもうひとつの衝動。
直視して生涯視覚というたった一つの感覚だけに頼り切った光景を不滅のものとしなければいけないという強迫。それらの間で胸をかきむしった。
男は咆哮をあげた。一陣の風が舞う。霧を切り裂き、森の葉を落とす。
―今宵のミサの最終だ! 皆の者、多いに讃えよ! メフィスト家の末裔に大いに酒を飲ませろ。抒溷の宴だ!
やがて男は睨むように自分の右腕を、脈打つ心臓に手を伸ばそうとするかのごとく、自分の胸に強く打ち震えながら押し当て続けた。左手は、ひとつの目的のためだけに震え続けている。
女の手の平を爪で楔のように食い込ませてもなお足りないくらいに強く、骨を砕くような力で握り続けていた……。
燻製された空気が風を編む。
一気にさきほどまでの乱痴気騒ぎは闇の中へ消えた。
凝縮と昇華が発生したような空気は、ルキフェルの笑い声に共鳴する。ミサの終結を意味していた。
―大命を果たせ!!
第7章 審判:Judgment
1
新宿御苑の大木土門と目の鼻の先にある高層ビルの22階のレストランの窓際からはライトアップされた新宿御苑の内側が見渡せる。
「やっぱり、こっちの方が落ち着く」嬉々として眺める泰平をよそに、祐麻は頬杖をついてガラス窓に移る自分の顔を眺めていた。
「祐麻が帰ってから、面白いことを聞いたんだよ。祐麻も聞いておくべきだったよ」
祐麻は黙って聞いている。
「あの祐麻の左斜め前に座ってた人。目のぎょろっとした人。海外の童謡の話が面白くてさ」
温かいスープも冷やしてしまうような冷然たる笑顔が浮かぶ。
笑わなければと祐麻は力んだ。変な力の入った笑顔を作る。一昨日産婦人科を訪れた。その結果に祐麻は驚いた。いや、どちらかと言えば自身の心境に戦慄をおぼえた。
「タイトルが「くもとハエ」っていうんだ。くもってスパイダーのほうのね。気になったからネットで調べたけど、ちゃんと出てきた。単純に言えば、クモが甘い言葉でハエを誘い食べちゃう話なんだけど、これがなんか面白くてさ」
「どこが面白いの」
訊ねてから祐麻は残っていたシャンパンを最後まで飲み干した。
「クモはしきりにハエを誘うんだ。ハエは最初は相手にしない。でもどうなったと思う」
祐麻の空いたグラスにまたシャンパンが注がれる。言葉を考える。結論はもう出ていた。
「どうなったって? ハエがクモに食べられちゃう」
最初に言ったはずだ。
「あの、話があるんだけど……」
きちんと話さなければいけないと思っていた。
「最後まで聞けよ」
笑いながらではあるが、見下すような言い方だ。
「クモはよく分かってたんだよ。愚かなハエがまたすぐ戻ってくることがね。そこで、賢いクモは小さな隅にこっそり細かな網をこしらえて、おいしいごちそうのためテーブルの支度を整えていた。それで一旦外に出て、歌を歌い始めたんだ。『ようこそ、ようこそ』って。また容姿を褒めたんだよ。すると、ハエはそのお世辞を聞きつけて、飛んできたところを捕まえた。らせん階段を引きずりあげて、真っ暗がりの部屋の中へと連れ込んだ。それっきりハエは出てこなかったんだってさ」
「あの……」気づいて欲しかった。「食事中にそのトピックふさわしいのかなあ」どうせならば気づいてほしい。気づかないようであれば……あなたを捨てなければいけない。
「それが感想? ここまで詳しく話したのに、その感想はないだろう」
甲斐甲斐しく彼が不満を口にした。まるで芝居をみせてやったんだから、金を払えと言われているように聞こえて、顔がひきつる
「いや、だって、隣の人とかこっちみてたよ」
何度も見ていたという事実だけは伏せた。
「なんだ、その態度……もういいわ」
咎められるべき態度をとっているのはどっちなのだろう。祐麻は潜考した。
気づくと一度は気にしないで彼を許そうと思っていた。そんな自分が無性に情けなくなった。ここ数日間休む暇なく祐麻を苦しめていたのはそういう自分への憐憫の情だった。そんなうらぶれた生活が続くと、だんだんと怒りの感情が芽生えてきていた。いつのまにか「何か他に理由があるはず、他に理由が……」ぶつぶつと唱え始めていた。
何か考えをめぐらせるように目玉を一周させて、冷たく突き放すように息を吐いた。泰平もそんな婚約者の相手に困っているのか、黙々と食事をする2人はその場で浮いていた。
「すみません!」
突然の大きな声に祐麻は手に持ったフォークを床に落とした。
さきほどからワインを注いでいるウェイターの声だ。年齢は40代で髪の毛は薄い。その薄い髪を薄い顔にオールバックにしている。ふと白いテーブルクロスを見ると、赤黒く染みが広がりつつあった。「お客様申し訳ありません、テーブルクロスを交換する間、あちらでシャンパンはいかがでしょうか」
泰平が相手の目を直視する。「テーブルクロスにこぼすのも失礼だけど、おれらをどかすのはもっと失礼でしょ」ウェイターの手が震え始める。
「優先順位がつかないのは、もう終わっているとしか言いようがないけど。サーブでお金もらっているんだったら、ちゃんと仕事した方がいいんじゃないんですか」
「おっしゃる通りでございます。誠に申し訳ありません。それか、お席を動いていただくことは可能でございましょうか」
「いやいや」相手を愚弄するように笑う。「可能なわけないでしょ。この席、夜景が見える席を予約しているんだから。まじで頭悪いんじゃないんでしょうか」
八つ当たりしているように思えた。
「ちゃんと仕事してくださいよ」
相手の想像上の過去に土足で上がり込みながら話を続ける。
「申し訳ありません。良い席をご用意いたします」ウェイターは精一杯な様子で返した。
「は? この席はそんなには良くないんですか」
強張った相手の顔を愉快そうに見ながら訊ねる。周りの客たちも不愉快そうに見始めていることに、祐麻しか気づいていない。
「1カ月前に電話して、最上級の席って言ったのに、それでかしこまりましたって約束したでしょう。つまり、約束破ったってことですか? 最低だな」
正論は寛容さの欠如の言い訳にはならない。祐麻は小声で「ちょっと」と何度も言って彼を制しようとした
「申し訳……ありません……今夜はお代は結構ですので」
「いや、別に金はもってますよ。ほら、これだけあるでしょ」
財布を取り出して中身を見せる。中には一万円札がどっさりと入っていた。
「それでは……あちらの窓際のお席をすぐにご用いたしますので」
もう一度同じ妥協点を提案すると、気が済んだのか、彼は「それなら、あそこのテーブルいますぐを片づけてよ。あっちで待ってるから」と別のテーブルを指さしながら言った。
祐麻は婚約者の豹変ぶりに沙門しさを感じずにはいられなかった。
「かしこまりました。ご協力ありがとうございます」
そう言うと、ウェイターは俊敏に動いて、テーブルのセットに取り掛かった。
その光景に彼は気のない視線を送る。
「見た? 祐麻、あれがハエだよ」祐麻の目を見ずに話し続ける。それから、うっすらと刳い表情でウェイターの背中を彼は見据えた。
「誤解しないで聞いて欲しいんだけど、オレを信じてついてきて。絶対損はさせない」
今度は目を見て話した。しかし、祐麻は彼の目に映る自分を直視はできなかった。ハエが映っていた。全部嘘だと思いたかった。
異彩を放つテーブルがひとつだけあった。泰平と祐麻が座るテーブルからちょうど死角にあたる、角の窓際の出っ張ったところにメフィストでインキュバスが座っている。
『またですか!』
インキュバスが激昂を真空管の中にぶちまけるように声を潜めて言った。
大悪禍の決定が予定より遅れている。そのことをインキュバスは柔らかく忠告した。
『悪魔に宿命はつきものだ。人間がもつ運命なら彼らは変えることが許されている。その場その場の決断で、運命はすぐにでも変えられる』
『だったら、その人間のもつ運命を変えるために、大悪禍を!』
飲みかけのコーヒーはとっくに冷めている。
『宿命だ。宿命は変えることはできない。私がメフィストであることも、貴様がインキュバスであることも、あいつらが神であることも、それは変えられない』
『災いは全てを変える力をもっています。まるきり役に立たない哲学に陶酔している場合ではありませんよ……』と言ったあと、すぐに『その哲学をもう少し有効活用してください』と言い直した。
『昔から言われている通り、どんなアンフォラにも把手がふたつあるように、どんな出来事でもふたつの面がある。不幸をもたらす面と、慰め元気づける面だ』
『手前にもわかるようにお願いします』
インキュバスの主人は子供のころの「苗」の植え替えを―ゆっくりとその苗から必要な情報を取り出そうとしながら―行う心つきで追懐するように目を閉じる。
『はっきりとは分からない』
インキュバスの視線が主人から外れていた。
『インキュバス……おい、インキュバス……聞いてるか』
インキュバスの動揺した横顔がメフィストの思考を止めた。
どちらかと言えば否定的な意味で使われがちな「動揺」という言葉だが、彼らの関係上、その意味はわたし達が想像するものと大きく異なっている。悪魔は動揺などしないはず。動揺するのは神か人間なはずなのだが。
ところが、インキュバスはいまメフィストの目の前で明らかに目を左右に素早く泳がせながら動揺していた。これが初めてのことだった。インキュバスが主人の声よりもほかの音を優先したのは。
泰平がジャケットの右ポケットから黒いビロードでできた立方体の箱を取り出す。そっと。祐麻の腰骨のあたりに宙ぶらりんにしておいた左手の手首を軽く握った。
今は止めて……。心の中でそう思った。思い続けた。どうか、指輪じゃありませんように……。しかし、彼女のしてほしくないことを独善的に行うのが泰平という男なのだ。
「結婚して欲しい。一生オレが大事にする」
顔を綻ばせる彼には、一切の拒否を受け入れないとする態度が全身に漲っている。
祐麻は、少なからずの恐怖を感じた。それは感じてはいけないものだった。感じるはずのものではなかった。すぐ隣のガラス窓には夜景をバックに幸せの絶頂に届いた男女が映るはずだったのだ。
落ち着かせようと胸のネックレスに触れる。
「そういえば――」彼が祐麻の胸元を直視して言った。「それ、オレがプレゼントしたものじゃないね。初めて見た気がするけど、前からもってたっけ」と訊いた。彼がプレゼントしたネックレスはラウンドダイアモンドを十字架の形にしたものだ。ところが、今つけているのは赤・紫・黄色・白のダイヤがついた十字架が複数つけられたものだ。
「うん」憔悴した表情で肯いた。
「どうかした」
「話があるんだけど……」
「うんうん」彼は楽しそうに返事を期待しているようだ。
「妊娠……」
「えっ」凍りついたように肘をついた。
「してなかったの……」
―この人のはずだった、この人のはずがない、でも、この人のはずだった。
「妊娠……してなかったの。だけど――」
「よかった。ちゃんと順番は守りたかったからさ……オレは別に妊娠しても全然うれしいけどね」
慰めようとしている。嫌な予感がした。女性にしか備わらない不安へのセンサーだ。
「違うの……ほっとしちゃったの……」
彼は理解できないのか首を横に捻った。
「子供欲しくないんだと思う」
―だって……最初から気づいていたのに、こうなることが分かってたのに、それでも自分を騙してきたのは……だれ?
周りの客がちらほらと2人を気にし始めている。何度もロマンティックなプロポーズを期待していた。それができるだけの、なるだけキザが似合う男性を選んだはずだった。フランス映画のような地味で深みのあるプロポーズよりも、ハリウッド女優がはちきれんばかりに声をあげて涙がこぼれるのを必死に手で扇子のように扇いでみる仕草をしてみたかった。
嘘……? 樹脂で固められたように。奥にたしかにあるはずのその言葉は―かつて何度か準備していたし、もっと言えば、小さなころから思い描いていたセリフでもある―見えているだけで掴めない。
ピアノの音とナイフやフォークの皿に触れる音だけに満たされた2人の間に停滞する奇妙な分厚い沈黙に、彼は少し苛立ち始めていた。いい加減、感動で圧倒されているにしては長い沈黙に、業を煮やし始めたのだろう。
声を弾ませ、鼻息荒く喋る彼の目をしっかり視て、話そうとしたその瞬間だった。祐麻はやっと思い出した。頭の中で記憶を書き換えていたのだ……。ネックレスをもう一度触る。あの時の感触がよみがえった。
表情が激しく変わる。目からも口元からも、目の前にいる男への一度は着想した愛を取り剥がしにかかっていた。片方の目が痙攣する。しきりに擦りながら彼への嫌悪感を露わにしている。
「………………どういうこと? よく理解できないんだけど」
中央のグランドピアノでは、夜想曲第8番が奏でられている。プロのピアニストらしき女性がショパンが到達させたその独特の右手遣いにひとつ、またひとつとテーブルに座る貴婦人達が心を奪われているようだ。
一方祐麻は、その演奏者の卓越した右指の動きには目も触れていない。黒と白の鍵盤をただ見つめた。自分と婚約者の関係と重ねた。
―アタシが白い鍵盤だとしたら、この人は黒い鍵盤―世界中の四隅を探しても、同じ音は見つからない。一方彼は、思わぬ反応に心が抉られる思いで返答に詰まった。それからその傷は自分を守るための刃となって相手に向ける。
「は? オレは投資しているんだよ! 祐麻もそうだろ? 祐麻は気付いてないかもしれないけど、そういうパラダイムシフトが都会では起きてるのが、なぜ分からないかな」
動揺と自己防反応が闘ってその火花が口調に表れていた。
「祐麻みたいに凡人がひいたレールに、オレの思想をのっけて自分の大事な人生を生きることはできないんだよ」
過去の延長線上に未来はない―窃笑しながら祐麻はそう想った。
泰平がマンションに帰ったのは、祐麻とレストランで別れて1時間ほど経ったときだった。スイートルームで浴びるように酒を飲んだが、途中で馬鹿馬鹿しくなってチェックアウトしたのだった。
祐麻が先に帰っているのに気づいて安堵より先にうんざりした。兎に角ひとりになりたかった。玄関に入ると、何の音もしない。彼女のネイビーのドルセースタイルのパンプスがきちんと揃えてあった。合鍵を渡したのが2週間前だった。
リビングに入ると、こくんと首をたれて彼女が俯いていた。デコルテラインから肩にかけてシースルーデザインの黒のドレスが間接照明のなかで、部屋の中の闇と一体となっているように見えた。その華奢で可憐な背中を抱きしめようかとも考えたが、気が進まなかった。セックスする気にはなれなかった。侮辱をセックスで相殺を許しているようで癪に障った。
精神的に手持無沙汰だ。話し掛ける気にもなれない。仕方がないのでとりあえず泰平は彼女を視界には入れながら、仕事机でパソコンの電源を入れた。彼女に背中を見せた格好だ。起動の音が2人の糸を削りとるようにこだました。
彼女が「あの」と言いかけると、泰平が話させまいとするように「祐麻」と真剣な口調で切り出して「今日はひとりでいたいんだ。悪いけど帰ってれないか。タクシー代ここにおいておく」そう言って財布から1万円取り出した。取りに来ないのがわかると、立ち上がって彼女が座る隣にぱらっと落とした。そういえばいつか玉葱が投げられた場所だとパソコンに向かった時に思い出した。
忍び笑いながら彼女は一言も発さなかった。やがてどたどたとわざと音を立てるように廊下を走っていった。玄関を力強く閉める。その閉め方がまた泰平の神経にやけに触った。
それから何時間経っただろうか。時が流れるに連れて、我慢できないほどの寂寥感に襲われてきた。机から立ち上がって彼女の痕跡を探す。1万円札はそのままになっていた。泰平は1万円札を手に取らず、踏みつけた。一度では飽き足らず何度も踏み続けた。それから気を失いそうになるくらいに発狂した。部屋中を走り回り、机も椅子もひっくり返した。本棚の本もすべて強盗のように床に放り投げた。苦情がくるかもしれないと一瞬頭をよぎったがどうでもよかった。これだけの屈辱に耐えるだけの手段が他に見つからなかった――。
身体から怒りという熱が放出されると、脱力してくたっとベッドにうつ伏せで寝転がる。ポケットから携帯電話を取り出した。電話をした。発信音の7回目鳴りやまないうちに相手が電話に出た。
「祐麻、さっきはごめん。最近なんでか分からないけど、色々うまくいってなくて、いつもならプラスに考えられるんだけど」
泰平はとにかく謝ろうとした。そして自分の怒りを正当化しようともした。
「ほんとゴメン。オレが全部悪かったよ。祐麻はオレにとってたった一人の家族になるひとだから、失いたくないんだ。今からまた来てくれないか? 寂しくて……」
―アタシは凡人でしょ? あなたの相手はできないわ。
祐麻は受話器のむこうで婚約者を嗤笑した。
「悪かったよ、ゴメン」
泰平は、電話だと、どういう声の出し方が最も寂しげに伝わるかがわらかなかった。
―他に謝ることはないの??
「えっ」
文末に疑問符が2つ、それも大きな符がついているような大袈裟な質問に、泰平は「何様だ」と胸糞が悪くなった。もしダメだったら電話する相手はもう決まっている。既に早紀のことを考え始めていた。
―嘘ついてたでしょ?
ちくっ。皮膚に針を刺されたような感覚が脳を刺した。驚いて腕を確認したくらいだ。泰平は必死に考えた。思い当たる節がない。あるとすれば早紀との関係。バレてしまったのかもしれないという予想だった。思わず起き上がってベッドに座りなおす。無邪気さを必死に装ったが、声の弱弱しさだけは隠せなかった。
―アタシも悪かったの……。
しばらく2人は沈黙した。お互いがお互いの出方を待っているように。
「こっちに来て話そう」
そう言うのが精一杯だった。
「オレたち運命なはずだよ」
―冗談でしょ?
受話器のむこうで相手が固まったのが手に取るようにわかった。
「何が言いたいんだ? 怒ってばっかりじゃないか」
―黙って話を聞き出そうともしないくせに……聞くこともできないくせに……
怒りが泣き声混じりに泰平にぶつけられる。それは彼女自身への自嘲となって戻り、やがて泰平への抗えない嫌悪感へ達したように舌打ちした。
―ゆる……せ……ない。
「少しは優しくしてくれよ、そんなに性格きついんじゃ、オレも付き合うのはきついよ。アサーティブ過ぎて、なんかいつもオレが追い込まれている感じがするから」
束の間の無言のあと、彼女が言った。
―あなたなのね……。
縁が切れたようなうらがなしい沈黙が部屋をふたたび襲った。泰平は寝言のように抑揚のない声で呟いた。「あなたなのね……」
2
気づくともう4時間も求めていた。早紀の一糸纏わぬ姿。ときおり耳を劈くような獣声。泰平は、生命を再び嘆願するような感覚を覚えた。
色々な心へのひっかかりは泰平の食欲を根本から奪っていた。食べ物が咽喉を通らない日々がここ1週間続いていたのだった。ゼリー状のものとアルコール、そして栄養ドリンクで過ごしていると、外出も億劫になり、ベッドに一日中横になって携帯を眺めていたのだった。
しかし、性欲だけは失われていないことが証明され、泰平は安堵していた。
お盆休み。都内のホテルは比較的すいていた。
彼女が呼吸を戻そうとしながら「今日はなんかあったの」と訊く。泰平は天井の中世風の絵をみつめながら「何もないよ」と短く応えた。
4時間前―。泰平はこれまでのことをきちんと詫びるつもりだった。謝罪するために祐麻のマンションを訪れていた。
品川区の天王洲アイル駅から歩いて数分ほどの東品川海上公園に近い立地で、31階地下一階立ての23階の東京湾を望める2LDKが彼女の部屋だ。
地下に車をとめて、祐麻の白いベンツAクラスの車を疲れた目をこすりながら確認する。地下の気持ちの悪い涼しさに一瞬吐き気を催した。何もないはずの胃が悲鳴をあげているのがわかる。
ドアホンを緊張しながら鳴らした。待っていると、「はい」と応答があった。ところが、それは男の声だった。泰平は気が動転して、口ごもって、「あ、あ、あ、……」とだけ言って、逃げるようにそこから走って駐車場に向かった。運転席に乗り込んでから整理しても、やはりおかしい。
彼女の父親の声は把握している。一度彼女の実家がある横浜で会って和やかなムードで談笑しているので、義理の息子になるはずの相手の顔を覚えていないはずがない。彼女には男兄弟はいないし、一人娘だ。会社の人間や友人を家にあげることも考えられない。自分とのツーショットぐらい見せているはずだ。
声の主は完全に自分のことを知らなかった。婚約しているという事実もおそらく知らされていない。会ってないにしても、婚約者がいると知らされていれば家にあがっていることに少しは警戒しているはずだし、同じ年ぐらいの泰平が訪れてくれば、僅かな勘さえ働かせれば分かるはずなのだ。
泰平はエンジンをかけて、急いで彼女のマンションを後にした。
男の声が耳朶によみがえる。野太く、威厳があり、そして泰平を見下すような響きがあった。
動揺したまま首都都心環状線を猛スピードで走り、気がつくと六本木通りを走っていた。六本木通りに出るためには3つのジャンクションを通過しなければいけないが、通過した記憶が全くない。それでも、無意識的に早紀のサロンを目指していたとなると、自分が今一番会わなければいけない人のような気がした。
青山通りで路上駐車して電話をかけると、10コール目で彼女が出た。
「もしもし、村沢でございます」
「早紀さん、ごめんね……おれ、今、下にいるんだ……」
「……あ、はい、かしこまりました。お電話誠にありがとうございます。その件に関しまして、ご説明させていただきたく存じますので、すぐに向かえますが、ご都合いかがでしょうか?……ありがとうございます。お忙しい中恐縮です。それでは失礼いたします」
電話を切ってからすぐに彼女は泰平の車の後部座席に乗った。
蛇口をひねる。桜の木に墨をぶちまけられたような、肚の底から厭気が蒸し昇ってきた。シャワーを浴びていると、熱気で胃を刺激されたのか突然の空腹に後頭部をなぐられる思いがした。呆気なく食欲が復活した。体力の消耗を補うものを口にしなければ部屋から逃げ出すことさえままならない。歯痛のように空腹が頭痛を併発させてきそうな予感があった。
泰平は数分後タオルで髪の毛をふきながら出てきた。早紀は既に入室と全く変わらない状態に戻っていた。
緊張が走った。座るように促されると、濡れた髪のままベッドに座った。性的欲望を満たされたあとに、ただの雄に過ぎないのよと言われたような気がした。泰平は空気を変えようとほど遠い話題を切り出した。「ルームサービス頼むけど、何か食べる」
「ううん、いらない」
「そんな、さすがにお腹すいたでしょ」
「ううん、すいてないわよ」
「本当に大丈夫」泰平は白々しく念をおした。
彼女は泰平の不安げな目をみた。しばらく無言のあと忍び笑い、そのうち我慢せずに高笑いに変わった。ベッドの枕元に座って、壁に頭をもたれかけながら泰平に届くか届かない声で「冗談でしょ」と投げやりに言った。
希覯な沈黙が部屋に訪れる。彼女は、首が折れるのではないかとばかりに横に傾けた。首筋の血管が濃厚な皮膚を押し上げるように隆起する。
泰平は重力を失った。
「そういう優しさじゃないのよ――」
黒い何かが押し寄せてくる。それは飛んでいる。ハエだ。ふわりと何食わぬ顔で漂っているハエがパチンと無残に叩かれた。
不気味なほど妖艶な皺を口許につくりながら、光を屈折させる涙が力の抜けた目に宿っていく。五芒星のイアリングを自分の耳に戻すと、無言で彼女は扉を閉めた。床にはガーターベルトとストッキングが生き物の抜け殻のように捨ててある。泰平は何かの意味を見つけようとして、しばし目を停止させた。
誰なんだ!? 息絶え絶えのハエと己が重なった。同時に、祐麻のマンションの玄関で聴いた男の声が耳朶によみがえった。底のない絶望に胸底が溶かされていくように泰平は膝から崩れ落ちた。
昨晩ホテルの帰りに大量買いした缶ビールを冷蔵庫から取り出すと、一気に手首を傾ける。胃にアルコールが落ちる音が聴こえる。本当にどうでもよくなってきた。
まただ。ベッドの上で携帯電話から音楽が流れている――手に取って画面をみると、スケジュールアラートだった。
昼から日本流行色協会(JFC)でのセミナーに参加する予定だ。とにかく負のオーラを払拭しようと、急いでシャワーを浴びる。身支度をして泰平は部屋を出た。朝からフィットネスジムでマシンとランニングを1時間ほどして、水泳を45分ぐらいして、部屋に戻ってきた。そして、スーツに着替えまた部屋を出る。
神保町にある協会の入るビルは神保町駅から九段下方面に靖国通りをまっすぐ歩き、2つめの角を曲がったところにある。駅から徒歩2分なので、泰平はマンションから徒歩3分近くの芝公園駅から都営三田線で神保町を目指すことにした。
昼前だというのに電車は比較的混んでいた。どうやら今朝の線路内人立ち入りと客のトラブル、さらには踏切でトラックが立ち往生というトリプルパンチで、電車は大幅に遅れていた。おかげで、普段の本数の半分近くにまで減っているため、ぎゅうぎゅうな電車に泰平は乗り込むことになってしまった。
クリーニング仕立てのジャケットに皺が寄るのを見ながら、泰平は心底気分が悪くなった。隣の大工姿の男は昼から発泡酒を飲み、隣の金髪の女子高生は匂いのきついファーストフィードを食べている。これからランチと言わんばかりに香水を振りまいた中年の女性たちはおしゃべりが止まらない。薄倖と汚臭と鄙劣に塗れた車内は泰平の気持ちを決して上げることはなかった―。
「きゃーーーー!!」
悲鳴は日比谷駅を通過して数秒後のことだった。
度を失った金切り声に車両の全員が振り向いた。声の出所を探そうと各々が聞こえた音をさがそうと首を動かす。くぐもった感じが全くなかったので、電車の外ではないことはたしかなようだ。
さっきまで一心不乱に携帯電話の上で指を滑らせていた黒髪の女子高生が愕然としている。泰平が立つ目の前だ。どういうわけか両腕を震わせ、固まっているのだ。よっぽど衝撃的なニュースでも見てしまったのか、泰平は迷惑そうにその女性を下に見た。
ところが、ただごとではない様子だ。女性の両隣に座る私服の大学生らしき男と初老の女性も、泰平の両隣も固唾を飲んだ。
その女子高生の琥珀を焦がしたような栗色の首筋には血管が浮きでている。そして白目を剥いた目は充血し、唇はわなわなと揺れ動いている。
当初、ニュースだと思った泰平も首を傾げた。さきほどから携帯電話を見ようともしない。泰平は暇つぶしに想像してみた。
そのとき、奇臭鼻腔に入ってきた。アルコールの臭いでも脂っこいポテトの臭いでもない。加齢臭でもない。香水とも思えない。
「ヘンタイ!!」
ふと我に返った。誰かが痴漢でもしたのだろうか。なんだ、そういうことかと泰平がようやくフィールド情報の集中にあたろうと首をさりげなく左右に振った……そのときだった。脛をおもいっきり蹴られた。
「どこ向いてるんですか!」
広がる景色は一変していた。女子高生の両隣の人間が泰平の顔から目を離さない。「何してんのよ!」と右隣の初老の女性が、泰平に向かって上ずった声で叫んだ。すると、左隣の大学生に波状する。「気持ち悪!」今度は金髪の女子高生のグループの声。静かに泰平の周りから次々と人が離れていく。泰平は釈然とはしなかった。ただただその場に立っていた。電車はもう少しで大手町だ。
念のため顔に何かついていないか触ってみた。何もついていない。さりげなく下半身を前のめりになって確認したが問題はない……が、そこには理解できない白い液状の塊が付着していた。
あっという間に、背後に風が吹いた。
誰かが凄まじい勢いで近づく。自分の首を絞めて、身動きを封じた。他の男性が自分の両手を動けないように掴む。
『死ね』
首を締める男が耳元で囁いた。幻聴にも思えた。
3
芝公園駅から乗った都営三田線電車のあの車両で何が起こったのか。事態は一瞬だった。頸動脈を押さえつけられて息ができなくなった。ブラックアウト。倒れた。その後のことは覚えていない。
思い出せることはつい24時間前の早紀との会話だった――。
「泰平君、怒らずにきいてね――」
その後のセリフを思い出すだけで全身が粟立つ。
「わたしに近づいたのは、愛してくれているからじゃないのは最初から分かっていたの」
探偵が最後にすべての謎を解く直前の爽快感と緊張感が早紀の顔には滲んでいた。
「最初はどうでもいいのよ、男女がくっつくときって。わたしは小さい時に母親を火事で亡くしているから、男手一つで父親に育てられたから父親の愛情が基本なの。父の愛情だけが本物で、後は全部偽物なことは分かってる……」
肌理の細かい配慮を施そうとする直前の、透明のビニールで包まれた残虐性が口元をそっとかすめたのを泰平は見逃さなかった。その後の空白の時間はじりじりと首を絞めていくようだった。
「自分の価値を確かめたかったのね。男としての価値がどのレベルのものなのか、だから、村沢望の妻であるわたしの気を引いた。別れても口外しないという約束で今日で終わりにしましょう」
きっとこの女性なら、ずっと自分を愛し続けてくれる。裏切られる心配は皆無だ。尽くしてくれるだろう……そう村沢主催の謝恩会に参加で出逢った時に思った。
相手の女性を名誉毀損で訴えることもできた。冷静に考えれば、そうするべきだった。
大手町駅事務所から警察署へ連行された泰平に意識はほぼなかった。辛うじて歩けるだけだった。
さらには、タイミング悪く、祐麻との喧嘩と、早紀との別れが、屈辱に抗う冷静な思考を奪っていた。泰平はひとり暗い個室で奥歯をかみしめる。
名前が呼ばれた。律するような声。既に囚人のような気がした。留置所での食事が配給された。それにはひとつも手をつけないまま、まんじりともなく壁を見つめる。やがてこのままだと完全に頭が狂ってしまうと思い、目を閉じた。このまま眠れなくてもいいから、目を閉じようと思った。
気づくと夜が明けていた。明けて欲しくなかった夜が。会いたくなかった朝陽が泰平の身長より少し高い位置にある東の窓から差し込んだ。この日の接見の相手――それはマットだった。
「オレじゃないんだよ! オレがやるわけないだろ……」
自棄になってはいない。内心泰平は安堵している。
「祐麻ちゃんから連絡あった。自暴自棄になるとしても、ここまでするか……」
初めて聴く通声穴を通しての彼の声は、どこか知らない人間の声に聞こえた。泰平は自分が置かれている状況を改めて痛感する。「な、何言ってる……」泰平の顔にへばりついていた笑みが消えた。
「オレがこんなバカなマネするわけないだろ。何のメリットが……人生を棒にふって、何のメリットが!」
「今さら後悔しても遅いんだぞ」
「お、おい……」
様子がおかしい。事の経緯も聞かずに一方的に責める彼を前に唖然とした。
「悪いネ、泰平」にやり、と彼は眼鏡を押し上げながら含みのある笑いをした。「身から出た錆、身から出た錆、というものヨ」その笑みから推測できることは、間違っても寛容さや親和でなく、どちらかといえば挑発と陰謀だ。泰平は悟った。確実な推測だった。
泰平の感覚が波打つように心臓の鼓動を速める。
「おまえ、もしかして……」
彼が困惑の顔とは到底無縁な、今から全てを語ってやる、とでもいいたげな予兆を瞳に宿した。
「おい! マット! 何でだ!? 何でこんなことを!? ふざけるな!!」
鬱積していた怒りとも……
「なんでだ!」
悲しみとも……
「答えろ!」
呼べないものが一気に泰平を激昂させた。拳を強く握りしめ体中の憎しみをもって睨んだ。相手を睨めつけながら力一杯額をテーブルにぶつける。
泰平の癇癪声を聞きつけた外にいた刑事らしき人間が2人ドアをけり倒すような勢いで入ってきた。面会の中止を叫んで泰平を連れて戻ろうとした。泰平の背中は樽のように曲がり、その後ろ姿はもはや生気というものがまるで感じられない。
背中に、マットの射るような視線が刺さる。正気と狂気の閾はもう目の前だ。
脳震盪を起こしている頭で理解しようとする。必死に痛みを忘れようとして、集中を彼に向けた。
両手の爪に部屋の光が反射するのを彼は確認している。足を組み替えて、息を殺して泰平の目を彼は直視していた。「祐麻をねらってこんなことしたんだろ。人の女に手をだすなんて下衆野郎!」泰平は怯むのを必死に我慢しながら罵った。
大量の唾が透明なアクリル板に飛んだ。
地味な恋愛関係を築くのが面倒臭くて、新大久保界隈の風俗街にしかいかない男なのは知っている。だからこそ罵りながらも自分でおそらく間違っているのではないかという予感は泰平は捨てきれずにいた。
「思い違いするなヨ」気圧されている様子もなく淡々とした語り口調だ。「あなたの女なんて1ミクロンたりとも興味はない。一回ヤれば満足」妙なアクセントが話の真剣度合いを下げる。さっきから泰平の耳には事の深刻さと告白の軽薄さが拮抗していた。
何を話しているのか泰平には少しも理解できない。思わず対処に困る人間と対峙したときに起こる防衛反応として、泰平は相手との距離をとるように窓から離れた。反射的に泰平の目がこれ以上の直視を拒否した。
目を閉じると天井にはめられた蛍光色の電灯の輪っかが目の裏に浮かんでくる。真っ白になった今、自分の手足の感覚がみるみるうちになくなってくる。怒りを爆発させたせいで胃がきりきりと痛んだ。怒りを発散させれば少しは気分がマシになるかと思ったが、胃はちくちくと痛むばかりで、呼吸をうまく吐けない。
全身の血が逆流する。狭く、きつく、細い血管を真っ赤な血が外への道を見つけられずに、狂ったように身体の中で暴れている。やがて泰平は耐えきれず、目を開けた瞬時に嘔吐した。
一体なぜ? いつ? どこで? いつから嵌められたのか?
あの声……ドアホンから聴こえた声はコイツだったのではないか。これだけの小さな穴を通した声でも親近感を失ったように聞こえるのだ。ドアホンだったらなおさらのことではないだろうか。泰平の唇からは胃液が流れ、目は涙で潤んだ。冷たい床に胃液と涙が混じった液体が落ちる。
「大……丈夫です。もう少しだけ……お願いします」
警察官たちは「しかし、このままでは命の保証ができない」と首を振る。
「お願いします、吐いたものは後で自分で処理しますので、どうか……この通りです」
泰平より3つ4つ年上に見える男性が一喝する。頑なな拒否の姿勢が眼鏡の奥に浮かんでいた。
「看守さん、もうこれ以上彼を刺激するようなことは言いませんので、もう一度彼をそこに座らせてあげください。このままでは彼は今日自分の寝床で自分の首をつりかねませんヨ」
彼の言葉に憮然とした態度を維持しつつ、そっと制服姿の男たちは手綱を緩め、泰平の意志に任せる態度をみせた。視線を合わせず、泰平は軽く会釈した。
「どうして……」
言葉が詰まる。今、一番、何が聞きたいのか頭を巡らす。嘔吐による脱水症状のせいか、舌がざらつく。しかも嘔吐したものが腔内にへばりついているのか、自分の口臭がたまらないほどの臭気を放つ。意識が再び朦朧としはじめる。
「……オレに、こんな罰を与える権利がどこにある」と訊ねると、「……罰を与えたか……」と不気味に彼が笑った。
声を出さずに嗤うマットを視ていると、胃液が逆流してきそうでになる。口を抑えた。呼吸が整ってから、最も訊かなければいけない質問を投げる。
「おまえのせいなんだろ? これは全部」
「いいか」
彼が座りなおした。パイプ椅子と床がこすれた嫌な音がする。愉色の笑顔をわざとらしく見せつけるように、下を見つめる泰平に気づかれようと弓腰になって目を合わせようとした。
「この私は思考がチューニングされている。怒り、悲しみ、罪の意識なんてのは現実には邪魔だヨ」
泰平は何を考えていいのかわからずただ絶句した。
「『アンタゴニスティック・ダブル・イナベーション』って言葉知っているか」
片方の眉をひくっとあげながらおおよそ場にふさわしくない質問を彼が投げた。
「『二重支配』という意味だ」と、先に答える。
「それがなんなんだ」泰平はさらなる不都合な真実を迎える覚悟を急いで決めた。
「人は生きているだけで誰かにとっては迷惑なんだヨ。誰か、または1グループが成功するということは、成功できない誰かや他のグループがある、ということなんだヨ」
「クズだな……恥ずかしくないのか!」
「クズ? 一遍頭冷やした方がいい。塀の中で」
憎悪と嫌悪を浮かべたぐちゃぐちゃの表情をよそに、彼は爪を擦りながら物思いにふける。
「殴りたいだろ」
泰平はただ視点の定まらない目で相手のぼやける輪郭を捉えた。
「殺してしまえば楽になる。単純に刑務所で何年か過ごせばいい。規律に従って生きればいい。でも……あなたはこの私を殴れない」
「必ずここから出て貴様を地獄に落としてやるからな」
「偽善者め」
泰平は「偽善者」という言葉に少なからずショックを受けた。なぜなら、そんなはずはないはずだった。常に周りのことを考えて、優しく振舞ってきたつもりであるし、人に嫌われるようなことは何もしていないという自負があった。
「だからこそ、鍵を閉め忘れた時、祐麻ちゃんみたいな女を傷つけたんだヨ。レイプするよりも、殴るよりも男として最低」
泰平は言葉が出てこない自分に苛立った。アクリル板の窓を彼が殴った。驚きのあまり泰平は椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。
「目的はなんだったんだよ。こんなことの……」
「な、ひとつ聴かせてくれよ。捕まったとき、どう思った」
「こんなことに、なるなんて、想像してなかったさ……普通に、冤罪でどうにかなると思ってた」泰平は間をおいて吐き出した。舌に酸っぱいものが広がった。
「雲を掴むような話だな」と言わんばかりに、彼が下を向いて不適な笑みを浮かべる。
「おまえクリスチャンだよな? こんなことして罪の意識とかないのか」
泰平は潤んだ瞳で自分の手の平を見た。自分という人間が確かに塀の中にいる。
「神に背かないように生きるってのは笑えない冗談だ」
前のめりに姿勢を変える。
「神に背くように生きるように初めから創造されてるのだとしたら、どうだ? どうだと思う? 天使として創造したのではなく、初めから堕天使として創造されていたルキフェルは初めから神に背くように創造されていた。そして彼が地獄や拷問というコンセプトを生み出して、強烈に善の原理の中枢であり神の荘厳なる光を増してくれるという寸法だヨ。わたし達だ。だから、背くこと自体は神様の言うとおり。深海に生息する生き物から、天高く舞う鳥に至るまで、全てそのルールは適用されるネ」
それからしばらく白々しく同情する旨を伝えたあと「目が眩むほど、理路整然とした世界だろ」と結論づけた。
「マタイ伝福音書第6章24節〈汝ら神とマモンとに兼ね仕うる事あたわず……〉。じゃあネ。さっさと街からいなくなった方がいい」
わざと囁くように言った。
「人間に不幸と幸福をちゃんと配分する女神ネメシスに罰せられた。この私は、悪魔の存在を信じる者ヨ」
パイプ椅子から腰をあげると「そろそろ帰る」と言って、ピースサインを作った。それから、2、3歩歩いた後、半回転して泰平の青ざめた白い顔を愉快そうにみた。
「ビー・チェックメイト」
リバースされたピースサインが、泰平には首が吊るされた男に見えた。
4
クピドーは久しぶりにメフィストの工房を訪れていた。今日は橙夏はお休みのようだ。
『なるほど』と彼は見回りながらテーブルで足が止まった。かわいらしい文字で《クッキー》と書かれたノートがある。
『当初はロンドンの予定だったなあ、そういえば』
長く昏い回廊と階段と扉を渡った先にある彼の心中をクピドーは察した。この時期どうして訪れたのか理由はわかっているはずだ。確認だ。決定したかどうか。
『あれ、あいつは』
ようやくもうひとりの存在がいないことにクピドーが気づいた。
『どこか外にでも出てるんだろう』
『なんかあったのか』
『別に』
『吐き出せ。不安なら飲みこまずに』子供に親が話しかけるような口調だ。『飲み込んだものが間違って気管の方に入ってしまうと、危険信号のように体中がたいへんな騒ぎになるぞ』
クピドーは身体をねじっておどけてみせた。少しでもの気遣いだ。様子がおかしいのはイカロスの報告で知ってはいたが、自分で目で見るまでにわかに信じがたかった。悪魔が躊躇するような所以はないはずなのだ。もし渋っているのだとしたら……もし、その原因が到底ルキフェルが看過できないようなものであった場合を危惧せずにはいられない。
いつものことだが彼はハーブティーをテーブルに置くと、巍然と立ち上がり、くすりともしない。
『過去の苦痛を代替して――』と彼が言いかけると、長くなるのを察してクピドーが『まあ座れよ』と窓際のダイニングテーブルを顎で指した。クピドーが座る客用のセンターテーブルと距離にして10メートルほど離れている。亜望と橙夏と食事をしたテーブルだ。その椅子にドンと音を立てて座り込んだ。立っていたときとは違って威厳の欠片もない。
『――何かで癒やすことをどう思う』
話が途切れたので、上の句と下の句を頭の中でつなぎあわせる。すると難しそうな顔を作ってクピドーはしばらく黙り込んだ。『驚いた』と目を丸くする。
『感情というものをもってるのか。なかなか可哀想な悪魔だな。さては―』と続けようとすると、『感情にほしいままにされるのも人間だけだ』と先を越された。
『何百回と弓の練習してもいっこうに上達しないくせに。もはや存在してるだけで詐欺で、しまいには、盲目だからという哀れみまで閻浮提の人間に受けてる存在には言われたくはない』
彼は時々窓の外を眺めながらクピドーに向かっていつものように暴言を吐く。
『もうちょっと爽やかな風を編めないもんか』
彼は依然心ここにあらずといった様子だ。
『おや? この距離で着信拒否なのかな』
考え込んでいる癖であることは分かっていて茶化してみた。すると重い扉を開けるように彼は質問を変えた。
『幸福を定義してみてくれるか』
『幸せは恐怖』
ウィンクを2回。即答した。葛藤の霧の森で迷っている友人を救うため、予想とは思えぬ確信さに満ちた調子で話し続ける。
『怖いんだよ。人は幸せという目に見えない獣がさ。幸せは恐怖で、恐怖は幸せだ』
彼は『拝聴する価値がなかったな……』と皮肉を込めながら言った。いつもとは違う。棘がない。その皮肉はどこか自身に向けられているようなひきつった笑みがただ浮かんでいる。
『最後まで話させろ。このハーブティーが冷める前には話し終わるから』一呼吸ハーブティーの香りをぐっと肺に吸い込んだ。清涼感たっぷりのペパーミントの香りだ。
『幸せになった次の瞬間には、こんな幸せが続かない、という恐怖に襲われる。ただでさえ幸せを掴む前に、なんとも切ない気持ちになりながら胸のあたりを掻きむしるような想いで進んできたというのに……愛は死の恐怖よりも切迫した問題だ。どんなに高価な代償を払ったとしても、人間に結論に達することなど俺は無理だとは思ってるけどね』
『そうなのか』半信半疑で彼が肯く。
『待てよ。とすると、お前、人間的だな』
クピドーの背中にうっすらと冷たいものが走る―。
『どうして人間みたいに怖れてるんだ』
『それよりイカロスはどうした』
『話を逸らすな』 彼は反射的めいたスピードで被せた。『お前、見損なったぞ!』室内に響き渡るほどの大声で叫んだ。ロンドン大火災のときのメフィストの先祖のような、神の形相とは思えない表情で喚き散らした。
煙に巻くことはできないと悟ったのか、彼は椅子から立ち上がり伸びをした。
『過去の自分と決裂したらどうだ。一番感情にしがみついてるのは誰だ? それが来ないと分かってるんだったら、どうして逃げる? 苦しい時に逃げることなんて誰でもできるんだ。自分が人間と違うと豪語して自分自身に自尊心というモノがあるのならば、他人と同じことしてどうすんだよ』
呆れた視線が四体を伸ばす彼に向かった。
クピドーは彼に掴みかけたものをもう一度取り戻して欲しかった。かつて愛を知ったのだから。そんなちっぽけな自尊心をかくまったりしても、もともと誰も奪いにこないのだから。理論的ではないし、名言でもない。人生哲学でもないし法則でもない。方法論でも思考論でもないが、恋は魂を奪い、心を打つ。彼が人間の魂を奪ってきたように。
『お前の中にはある死が訪れたんだよ。悪が死んだ。それでいいんじゃないかな。残念な結果かもしれないが、それがいい気がする。それでいい気がするよ。たぶんだけど』
輪廻転生の目的は果たせなかったかもしれないが、その方がクピドーは嬉しい結末だったのだ。人間たちが苦しむのを見ずに済むのだから。
悪魔の都合は人間の犠牲につながり、人間の犠牲は神の嘆きにつながる。ところが、悪魔の都合も創造主が創ったので、創造主の都合は悪魔の犠牲につながることになり、悪魔の犠牲は悪魔の救いにつながるのかもしれない。それは理解できたとしても、やはりここ東京が犠牲になるのを観察しなければいけないという使命はできれば果たしたくはなかった。
『俺の見込み違いだったのか? どうしたいのか、もうちょっと考えた方がいい。魂の契を奴としたとしても、なんとかできるはずだろ』
クピドーは天井を見つめた。虚空に目を向けてつぶやくように言う。
『新しい葡萄酒は新しい革嚢に盛れ、というやつだ。古いのに入れたら、春の雪がとけていくときの青々とした草木の瑞々しい香りも、分からなくなる』
『いい話なんだが……』
ようやく彼が返事をしたのだが、また様子がおかしい。
『いいよ。恥ずかしいだろ』クピドーが照れくさそうに制止した。奇しくも名言を言った予感が自分でしていたのだ。
『さすがに私の前で聖書の引用は御法度だろ。私の前では遠慮しとけ』
『この野郎、言いたいことはそれだけか』埒外な反応に思わずムキなって言い返す。
『それにどうしたいのかは考えてある』
『いつからだ』
『今だ』
クピドーが身構えた。神ならぬ男が遂に大擾乱の宣言をしようとしている――。いよいよだ。いやがうえにも神の血が滾る……脹脛、背中、肩甲骨、鎖骨と順番に紅潮してきた……うん? こいつはそもそも本当に神ではないのか? 過去と未来をつなぐ輪からの解脱を目論むこいつは本当に神ではないのか? 額に悪魔の署名でも焼き刻まれていれば楽だろうが……。
大袈裟に深呼吸した。仕切り直しだ。これから話す内容が内容なだけに、神妙な顔つきを作りたいと願ったが、空回りして二重の瞼が奇天烈なことに一重になっている。
ところが、きょろきょろと額のあたりを検証するクピドーを尻目に、彼の口から出てきたのは意外な言葉だった。
『例の場所に連れってくれないか』
『…………』
クピドーが記憶を煮詰めていくように何度もかき回す。
『嘘だろ? 喜んで連れていく!』
歓喜のあまりに声が裏返った。それに共鳴したようにたたんでいた羽が拡がった。棚に並べてある瓶は巨大な羽によってあちらこちらに散乱してしまったのだった。
『気にせずに……行こうか』クピドーが怯えるのを堪えるように及び腰で誘導しようとした。瞼の痙攣だけは隠せそうもなかった。
『話を逸らすな』
眉のあたりがピクリと動いた。謀ったような末恐ろしいほどの微笑みがクピドーに向けられたのだった。神妙な顔つきを作りたかったのだろうが、空回りして二重の瞼が奇天烈なことに一重になっている。彼は自分の手の平に爪を立ててすんでのところで耐えた。
神と悪魔は、石畳の古い街並みの一本道を歩いている。
大きさや質感の違う石。メフィストには牧歌的というよりは寂れているように見えた。ロンドンの西に広がる丘陵地帯コッツウォルズ。都市部からの開発の波も行き届かず、人間以外の住人も数多くいるとさえ言われている。そんな幻想(真実)を人間に抱かせてしまうような古い屋敷。はちみつ色の屋根。家々の壁の窓枠は小さな薄紅色の花で彩られている。
左側は森の壁で、右側には無限に続く田園風景が広がり、さらにその先にはなだらかな丘陵地帯が広がっている。絵の具で塗ったような青々とした濃い緑と薄茶色が作る景色はメフィストを少なからず驚かせた。静かだ―。
目に写るのは、一本道の100メートルほど先の方の古そうな建物――今にも雨が降り出しそうな灰色の雲の下に建つ、悠久の年月を経たロマネスク様式の老朽した教会だ。
思わず拍子抜けしてしまいそうになって、ぼんやり歩いていると小石に躓きそうになった。クピドーが一笑する。とてもじゃないが、「どんちゃん騒ぎ」ができるような環境には見えはしない。
やがてふたりは鄙びた教会の前まで止まった。
正面の真鍮の大きな鍵穴のついた木造扉は2人の降臨を待ち構えていたかのように少し開いている。扉口の上には、建物と同じ年月を経てはいないであろう比較的新しく美しい角燈がとりつけてあるだけで、灯が灯るのかどうかは、信じるより疑う方こそが正気の沙汰というものだろう。ドアの上から伸び放題に伸びた枝垂れた草木を手で払いながら、クピドーが先行してその木造扉ををあけると、中にギコーっ、という音が木霊した。彼も後に続いて入る刹那、太陽の光が雲の割れ目から地上の田園に降り注ぐのを見て緊張が走った。
外から想像していたよりも中は広い。かびやほこりの匂い。塵がきらきらと太陽の光を浴びて室内に星がちりばめられているかのようだ。外の九夏三伏の暑さとはまるで違い、肌にひんやりとした空気があたる。しかも中に気配はない。至る所の壁の塗装は剥がれ落ちている。「質素」をとっくに通り越えている。しかし、クピドーは慌てる様子もなく、奥の祭壇の方へと進んでいく。祭壇の上には祭壇画が飾られている。信者たちの崇拝心を視覚的に支える役割を果たすためのものだ。天井の壁のフラスコ画も例外ではない。銀の蝋燭台があちらこちらに置いてある。
祭壇に着くと、クピドーは深呼吸した。
『シスター! シスター!』
静まりかえった教会内にクピドーの声が響いた。どう考えても人の気配はしないし、呼ぶのならば教会の裏手に回って呼ぶべきではないか、と彼は訝しんだ。
「オーロード!」
彼の背後から突然小柄なシスターがうさぎのように跳ねて現れた。突然重力を失った主人に驚かされたようにしてロザリオが揺れている。さすがの彼もびっくり驚いて『ヴァイス!』と思わず叫んでしまった。
『まだ生きてたのーシスター・バートウィッスル!』
クピドーは敬意を込めた挨拶としてシスターの右手に口を寄せる。
「オーロード!」
『そっちもまだ生きてたのかーシスター・アボット!』
またもやひょこんと柱の陰から小柄なまだ30歳にも到達していないだろうシスターが現れた。シスター・バートウィッスルと同じ身長だが、フォルムがイカロスのようにまん丸い。飛び跳ねて喜ぶと僅かに床が揺れた。
2人の修道女が出現すると、どこに隠れていたのか次から次へと同じ修道服を着たシスターたちが現れた。
「オーロード!」
『みんな元気そうだね! まだみんな天国に来てくれないからさ、久しぶりに遊びに来たよ!!』
各々がクピドーのところに集まってきた。
彼女たちが身に着けている修道服は、少し変わっていた。トゥニカと呼ばれるくるぶし丈のワンピースと、ウィンプルと呼ばれる白の頭巾をバンドーと呼ばれる布で縛って着用しているところまでは見慣れているが、頭巾の上に黒いベールをかぶってはいない。コルネットと呼ばれる白い頭巾を余らせて顔の両側に垂らしている。
「前のクピドーちゃんがこちらに来たのはまだわたしが子供のときでした。70年以上も経っていますわ! 相変わらず、腕白で、天真爛漫で、そしてあいくるしい。まさに我々の偶像そのものよ」
シスター・バートウィッスルよりも若そうなシスター・モーリスが感慨深げに言った。
『今度わたしの親友の彼――』と言いかけてクピドーが後ろで所在なさげにしている彼の背中を押した『――の用事で一緒に降りてきたんだ』天井を指で指す。
遅れて彼が挨拶した。クピドーは彼が歓迎されないことを十分覚悟していたのを知っていたので、からかい半分に今日一日だけは俺が面倒みてやる、と小声で囁いた。
「まぁまぁ、それはそれは――」彼と視線重ねる。「メフィスト様もどうぞどうぞ、でもあれですよ。ここでは大悪禍は止めてくださいよ」
思いもよらない反応だった。一拍遅れて応える。
『も、もちろんですシスター・バートウィッスル。私の生業をご存知のことでしょう。過去も全部理解しておりながら、受け入れてくれる数少ないお方のようなので、その方たちの前でそのようなことはしません』
小柄なシスター・バートウィッスルは水に濡れた鳥の羽のような青く澄んだ瞳で彼を歓迎した。左手の薬指には薄暗い室内でも十分光を放つ芍薬のような形の指輪がおさまっている。
「出迎えが遅くなりまして申し訳ありませんでした。ちょうど地下で聖母マリアに祈りを捧げていたものですから」皆一様にロザリオを強く握りしめる。
目の前で重ね合わせた手と手の間に息を吹きかけるようにして微笑みながら、彼女hが続ける。
「神が作られたものに、善も悪もありませんわ。あれは都合よく二極化して物事を理解した方が分かり易いという都合主義です。本当は、センターもなければディセンターもないし、光も闇もありません。光は闇で、闇は光です。わたし達も、同じ気持ちであなたを歓迎させていただきます」
その言葉が合図となったようだった。というのもシスター・バートウィッスルだけ残して他のシスターたちは、皆正面や裏の扉から何も言わずに外にぞろぞろと出て行ったのだ。
呆気にとられているのを悟られまいとして、開いていた口をすぐに閉じた彼に微笑みを絶やさず話し掛ける。クピドーはそれを嬉しそうに見つめている。
「今夜は大いにどんちゃん騒ぎをいたしましょう!」
外に止めてあった車から立て続けにエンジンが起動する音が鳴った。見事なくらいに狂宴を煽るようなタイミングだった。
「さあ、こちらへ」と彼とクピドーは祭壇の前の長椅子に腰掛けるよう案内された。目の前の磔にされたイエス・キリストの大理石の彫刻を視ながら、クピドーが口を開く。
『それにしても、こいつが一番口は悪いけど憎めないやつでさ』
彼を顎で指しながら、言った。
「オーロード! 先程から観察していますと、わかりますよ。仲が良ろしいのが――」
『とんでもない』と彼は急いで訂正しようとした。
『だって、お互いに距離感というものを大事にしながら、触れてはいけない部分を隠し持って接していながら、一心同体かのようにお互いときどき見つめ合うではありませんか。いますぐ食事を用意いたしますので。先に。葡萄酒でもいかがですか」
『ありがとう、いただくよ』
クピドーは遠慮なく歓迎されたまえと言わんばかりに胸を張って、また彼に目配せした。彼といえば、暗闇の中で突如はじまったルネッサンスのような爆発的な「物語」の展開を整理するのに時間がかかっているようだった。
『それで、最近こっちはどう』クピドーがごく自然に訊いた。
シスターの表情から急に生気がなくなったように表情が没した。埃に混じって重い沈黙の匂いが3人の周りに振っているようで、思わずクピドーは手で払いながら訂正した。
『そんな真剣な顔するような質問してないよ。ただの世間話だから』
「わかっております……」立ったままロザリオをまた固く握った。
「わたし達人類は、試練の時を迎えています」
『深刻そうな顔だね』
「わたし達シスターたちも日々祈りを捧げるばかりです」
『力になれるかもしれません』クピドーは椅子から転げ落ちそうになった。
2人が驚きの表情で彼をみると、彼女は崩れた表情をといて語り始めた。
「『理由』です――」
クピドーも彼も黙って聞く準備は整っていた。
「それが神の創られた宇宙を解明し、いささか解明する必要のないものを解明しているようですが、それがわたし達の文明を支えてきました。科学全般も政治も、経済も、全て『理由』です。『理由』が全てです。それがその中にとどまっていてくれればよかったのですが……」
『いま、それは、ついに開けてはならない箱を開けてしまったと』クピドーが予想した。パンドーラ―の箱を頭に描いたからだ。ところが、開けてはならないのは外の箱ではなかった。
「わたし達ですよ」予想外の結論だった。
「主から頂いたわたし達の身体の中は『理由』という病に侵されているのです。処方薬もない。なぜなら、処方の薬は人間の中、つまり『理由』が侵入しているその場所にあるからです」
シスターは束の間の沈黙を挟んだ。
「わたし達は、全て『理由』、そして法律にさえ触れなければ何でもしてかまわない、という考え方で生きています。時には、法律に触れることさえも、それによって正当化できる悲しい人間もいます――長くなってしまいましたが、それに縛られるわたし達は……自由ではありません」
クピドーは古びた箪笥から虫に食われた衣類を引っ張り出して、それを知らずに着ているかのような居心地の悪さに襲われ始める。
人情や慈悲が古いものとされ、道徳心や倫理観が煙たがられて、無私よりも外見の個性、無欲よりも享楽、普通よりも特別、思い遣りよりも正論、容赦よりも刑罰の時代となった。しかも、その時代の到来を待ちわびていたのは他にもいた。競争と勝敗、そして自由と金銭だろう。19世紀の暗い錯節したパリの下水道を彷徨っている気分だった。
「合理的な『理由』がないと、人を愛せなかったり、助けられなかったりする。『理由』を先に考えて、神が望んだ行動を行う。要するに全て打算的になりかねません。『理由』は、わたし達の中に入ってきてはいけないんです! いますぐに出て行ってもらわなければいけません! 当たり前の行動をするのに、『理由』がないと動けないのだとしたら……だとしたら、わたし達はもはや神に向ける顔がないじゃないですか……」
しばらく沈黙のあと、長広舌をふるった時間を恥じるように深々と首を垂れた。寂しそうにシスターは笑った。葡萄酒の準備をと奥にいくと、残された2人はただ俯いたまま動かなかった。
沈む夕陽が教会内に差し込むころようやく他のシスターたちが戻ってきた。葡萄酒やバケットなどを手に取りおのおの祭壇の右側にあるテーブルに並べていく。バケット、ココット、チーズ、キッシュ、鶏肉のパイ包みが並んだ。
「わたし達はメフィスト様を心から受け入れます」
シスター・バートウィッスルが代表して宣言した。
「『悪魔なければ救い主なし(ヌルス・ディアボルス・ヌルス・レデムプトル)』です」
テーブルに定間隔で並んだ彼女たちはにこりとメフィストに向かってウィンクした――。
食事の間、クピドーとシスターたちは色々な話をした。1914年以後、世界大戦、ホロコースト、カンボジアのジェノサイド、飢餓、核による絶滅の脅威に常に晒され、シスターたちは、限られた地域で起こる戦争よりも、今はテロリズム日々不安を感じているという話をした。そして、その背景には、今の外の世界では2つの観点が支配しているようだ、ということも。
「一つは相対主義とニヒリズムの混じった下液に文化的絶望をふりかけたようなものです」
シスター・モーリスが表情を変えずに言った。どうやら彼女たちの中では最も冷静沈着で感情を表情に出さないことがわかった。
「もうひとつは罪深き我々の進化への信仰です。わたし達は、何の希望もないことを心から怖れています。主がいるかぎり、わたし達が殉教や死へ導かれようとも、この世から希望がなくなることはありません。ところが、主を信仰されない人達はや闇雲に希望を持って、しかもその希望は絶対的ではありませんので、任意で相対的に姿を変えていきます。人を救うことに希望をもっていた人間が翌日目ざめてみたら他の民を殺すことで人を救うことにしたとします。その虐殺は正義のもとで行われているわけでありますから、人類に希望をもたらしたとされます」
シスター・アボットは遠くを見るように仮定の話をした。メフィストは我ながら神でも悪魔でもない生き物の別次元の悍ましさが、いたく体内に染み込んでいく想いがした。
「つまり、いま外では主も悪魔も居場所がない、ということです」
周りにいるシスターたちも沈んだ表情で下を向いている。
すると、遅れて戻ってきたシスターがひとりの女の子と一緒に入ってきた。10歳に届くか届かないかで、水玉のワンピースにくたびれた猫のようなライオンのようなぬいぐるみを小脇に抱えている。片方の手でシスターの修道服の裾を握っていた。
『遅かったねーシスター・キャロル』
クピドーが歓談を中断して声を掛ける。
「ごめんなさい。この子がぐずったものですから」
どうやら、シスターたちは家から通っているようで、教会の中に住んでいるわけではないことが分かった。
『名前は』と、メフィストが話しかける。
「ブライトといいます。難民の子です。2年前知人から相談されてわたしがこの子を育てることに致しました」
『いい名前だね。スペルは』
立ち上がってメフィストはその少女の下へ近づく。
「b.r.e.i.t.eです」
『なるほど、ドイツ語だ』
「はい。世界に平和と愛をもたらす存在、この子が将来そういう架け橋になって欲しい、という願いを込めて名前をつけました」
少女は彼女の後ろへ隠れた。それでも手を引き戻さなかったメフィストを不思議そうに見つめている。恥ずかしがっているだけで怖がっているわけではないようだ。その証拠に、だんだんと裾を掴む手の力が抜けていく。少女はぬいぐるみを抱えていない方の手を伸ばした。悪魔と希望との握手をそこにいる誰もが神聖なものに祈りを捧げるように見つめていた。
『さあ、一緒に食べよう。子供はたくさん食べなければ』
そうして白の頭巾が全員揃ったところで宴は再開された。
そのうちクピドーと対面するように座っているシスターの3人がひそひそと楽しそうに打ち合わせのように話し合ったと、真ん中のひとりのシスターが言った。
「クピドー様! わたし達からプレゼントがあります!」
『え! 何だろ!』
「じゃーん」
大きな包みがシスターたちの頭巾と同じ白の生地で包まれていた。形状からして額縁だろうか、とメフィストは思った。
『オーロード! こんなことしなくていいのに!』
彼は言葉とは裏腹に力が抜けたようにふにゃふにゃになりながらにやけ顔になった。
大きな包みからでてきたものは額縁に入った一枚のデッサン。絵に描かれているのは寓話的な世界観。死体のクピドー、葬列に参加するニヤニヤした裸のクピドーたち。『アウグストゥス帝とティブルの巫女』で有名なフランス・ボーヴェ出身の宮廷画家のアントワーヌ・カロンの作品『Les Funérilles de l'mour(『アモルの葬列』)』だ。
『おお、これは、カロンの下書きかー懐かしい!!』
期は16世紀。アントワーヌ・カロンはイギリスをお忍びで一人旅行中に道に迷い、4時間歩いた果てにこの教会に辿り着いた。
『あいつが、酔っ払いながらささっと書いたやつだよね! ちゃんとした絵はルーブルに飾られているけど、これはそれ以上の価値があるでしょ! これ、ほんとにもらっていいの』
シスターたちはグラスを顎のあたりまで上げてクピドーに献杯した。
鬱蒼とした森に囲まれて窪まった位置にある教会の外壁は、夜になると天空からの月明りがいっそう際立たせていた。月の光に照らされる〈緑人〉をさきほどから眺めていた。〈Green Man〉と呼ばれる〈緑人〉は、中世の教会に刻み込まれた数多くの首や顔を意味する。
「ここにいらしたんですか」
鼻歌交じりでシスター・バートウィッスルが現れる。どうやら独りのようだ。
『シスター・バートウィッスルでしたか。中にいなくていいんですか』
彼女はメフィストの肩を気さくにぽんっと叩いた。
「せっかくの星空を独り占めはさせませんよ」
隣に並ぶように立つ。
「この教会のほかに、サウスウェルの牧師館、スコットランドのドーノッチの聖堂とマンチェスターの聖堂が有名なもので、そのほか何百もあるんですよ」
慈愛のこもった優し気な目線を上に送っている。
『これは何のかたちですか』気になるかたちがあった。
彼女は声に出さずに笑った。
「それは『シーラ・ナ・ギグ』と呼ばれるものです。女性の外陰部を大げさに表した裸体の彫刻なんです。『シーラ・ナ・ギグ』とは『乳房の女神ジュリア』を意味しています」
『そんなものが教会に……。意外と教会も清廉潔白ではないんですね』
彼女は意味深に笑った。「女性器だけでなく教会の西壁に行けば、男性器もご覧になられますよ」彼女は言ったあとわざと口に手を当てた。
『インキュバスが喜んだだろうな』
レストランでの一件以来、ほとんど工房にも戻ってきていない。寝静まった夜中に返ってはきているようだったが、姿を見せないということは会うことを避けているのだろうと考えていた。
「古代ケルト人は、戸口を守る役割の呪術として「女陰」に似た形の物を戸口や門の所に打ち付けておく風習がありました。南の入口にある東側の柱には、数多くのデーモンの要素や占星術の意味合いが残されています」
彼女が緑人について語る間、メフィストは聞き入ったように彼女の横顔を見つめた。横からでも青く美しく黒く澄んだ瞳がみてとれる。「自らの尾を噛むウラボロス、ドラゴンを食らうドラゴン、鳥の頭をもつ怪物、黄道十二宮の双魚宮などがあります」
『ヴァイス! 教会にデーモンですか』
「おかしいですか」
『この教会はエヴァンゲリカルプロテスタントの教会なはずですから……』
彼女は含み笑いした。実にさまざまな笑い方をする。
「ええ、だからこそうちのシスターたちはあなたを受け入れたのかもしれません。あなたの背後には多くの罪や血の匂いのする重たいものがあるとしても……」突然話を中断した。メフィストは横顔を見つめているのに気づかれたと思い、下を俯く。
『どうかされ――』
「そうだ、あれを見てください」
メフィストが視線を彼女の指の先に向ける。
「さきほどのジュリアも含めそうなのですが、全〈Green Man〉と呼ばれ、中世の教会に刻み込まれた数多くの首や顔がこうよばれます。首からなっていて、口から花模様の装飾や蔓が伸びているのが分かりますか」
確かに、なにやら蔓のようなものが伸びている。
「はい。ああいうものが口から出ていますから、オカルト的にデーモンだと盛り上がって今はそれが通説となりました。が、実はわたしの母が代々わたしの子孫にだけ伝えていくものなのですが――」もう一度途中で話を切り上げる。
何かを考えるように目を閉じた。メフィストは瞼に包まれた瞳を想像した。
「一切他言してはならぬ秘密があるのです」
秘密……それは私のような存在には教えてはもらえないものだろうか、とメフィストは残念に思った。
「この緑人は、そのままデーモンではなく、わたし達人間に関わるものなのです」意を決したように語り始めた。その物語は、全てに関する学問を熟知したはずのメフィストさえも知らないものだった。
「ロゴスはご存知ですね。あれは、人間の言葉の概念を表していると言われています」
彼女はもっと教会の外壁に近づいて、そして手を伸ばした。
「あそこの口から伸びた花模様の装飾は、ロゴスに結び付く開口部を介して人間から流れるエーテルの力を表しています」
『なるほど……ということは―』
「クピドー様に言うなと言われたのですが……」
『いいですよ。気にしなくて』
「『あいつは悪魔の癖に、酒も喧嘩も嘘もつかない。飲むのはハーブ酒。趣味はヨガ。仕事は精油をせっせとブレンド……これ、どうみたって、悪魔云云よりも、独身女性か! ってツッコミたくなるだろ? いわゆる世俗主義的なことをやろうともしない。だからこそ同僚からも距離を置けられていた。誰もあいつをどう扱っていいのか分からなかった。それは天使なのか悪魔なのか、普通はこの二項共存で成り立ってるから。でも、俺には分かった――』
彼女の物真似は実に堂に入っていた。感情が高ぶると声が必要以上に高音になるところなぞそっくりだった。
「『こいつは一生俺が守っていかなければいけない』って」
メフィストは黙って何かを考え、そして口を開いた。『一方的な気持ちは、暴力と同じですけどね。あいつに守られた覚えはないんですけど』
それ聞くと彼女は豪快に笑った。ひっそりと静まり返った薄闇で虫の声に混じった笑い声は実に耳に優しかった。それにストレートな笑い方がメフィストを居心地よくさせた。
「こんなことも言っていましたよ――」悪戯っぽく笑った。
メフィストはしばらくまた彼女の茶化したような物真似を聞いていた。
メフィストは笑いながらその一部始終を聞いて、心の中で首を垂れた。ボーリングでガーターを出して喜んでいた間抜けな神ではあるが、教会を訪れる前に物凄い剣幕で怒ったのは心配してのことだろうと、やっと気づいたからだ。
「最後に、泣きながらこう言ってました。『もうすぐ別れることになるんだ』」
シスター・バートウィッスルがが快活な声で機敏にカーテンを開けた。絵のような田園風景と山並み、そして夏の陽光、空を翔け巡る鳥たち。「きれいなエメラルドグリーンですね。さきほど少し雨が降ったんですが、今では見てください、あそこの西の空低くに虹がかかってますよ」
目を擦りながら口の中を舌でなぞる。内壁が乾ききっている。昨夜のどんちゃん騒ぎのあとどうやってこのベッドにたどり着いたのか覚えていなかった。サイドテーブルのデカンタに入った水をグラスに注いで一気に飲み干した。『あー』ようやく目覚めの鐘が鳴った。
窓の外を見ると思わずクピドーの口から感嘆な声が漏れた。自然が紡ぎだす人間の力を凌駕した色遣いの虹が、鮮やかに空を抱き寄せている。
『あいつは』見事な空の鑑賞も早々に切り上げる。
「メフィスト様ですか? 朝早くお帰りになられましたよ」
『なんだって!? 俺を置いていくなんて……案内した神に対しての礼儀かよ。まず友を愛せって話だ……あれ、でイカロスも迎えにこなかった』
「はい、いらしてませんよ」
『そっか。世話になったね。久しぶりに愉しかったよ……』しみじみと昨晩のことを思い出す。久しぶりに羽を伸ばせた。
「わたし達も、たいへん愉しい一夜でございました。主に感謝いたします」
『シスター……』
「はい」
『あいつが初めてここに連れてきて欲しいって言ったんだよ』
嬉しいような悲しいような表情で言った。
「そうだったんですね」
『初めてだったんだよ……悪魔が神の端くれに願いごとをするのは。最近は……』
「どうかしましたか」
『うん』
クピドーの炯炯たる視線の先は机の上だ。何かを察したようにぴくんと片方の眉が動く。右手をベッド脇にある机の上にあるものに伸ばした。
『これは……あいつが忘れるなんて、珍しいな』
ただの忘れ物を見つけたとは違う、神経質な笑顔をシスターにむけた。それから一言も発せず古そうな本を上から下からと眺めた。緊張した空気が漂う。彼女はそれを嗅ぎ取った様子で、あたりさわりのない質問をした。
「それは、メフィスト様のものですか」
質問に応えないクピドーを彼女は心配そうに覗き込むように中腰になった。
『誰も暗い水に浸されたあいつの秘密に触れることはできない』
口元に諦めたような笑みを浮かべている。
『俺にも教えてくれないんだ。この本には一切の装飾がない。そして、俺らにはこのページをめくってに何も書かれていないようにしか――』クピドーは『ほら』と言っておもむろにページをめくって見せた。
『見えないんだけど、あいつには何か見えるんだろうな』ぱらぱらとページをめくる。
何も書かれていない空白のページがどこまでも続いているだけだ。日に焼けたような染みが残っているのと、背表紙がとれかかっており、全体的にオレンジ色をしている以外わかることがない。
『あいつは反乱の修羅場にも加わららなかった。虚偽や誘惑にも手を貸さず、情慾にも溺れず、かつて愛した悪魔の想像を絶する裏切りにも自制心を失わず、根っこから地獄に墜ちずにいられるのは――おそらくこの本のおかげだ。こればかり読んでいたからね……』
クピドーがない混ざった感情の塊を対処できずに身体をぴくんとさせる。
「わたくしには、『理由』に縛られない存在に見えました……」
『どういうこと』クピドーは昨夜の話を思い出す。
「人類の希望のような……御赦しください」彼女は急いで片膝をついて懺悔の姿勢をとる。
「わたし達の試練の時に終止符を投げる予言者のように昨夜見えました」
『そんな玉と違うけどな。あいつは平和主義者じゃないよ』クピドーは一笑した。しかし、あながち間違ってはいないともどこかで思える。それは今まで思ったことがないわけでもなかったのだから。
『あいつ、苦しいんだろうなあ』窓の陽はいっそう強く窓から一直線に差し込んできた。
『俺は戦うあいつよりも、のんびりと閻浮提で今まで生きてきた日々の方が好きだったよ』
もうすぐ一番目を伏せたくなる友とその友の力を、倦むことなく直視しなければいけない未来が待っていると考えると、真っ青な世界が膨らんだ。
慈悲深い眼差しに思わずクピドーは涙目になる。
『ちくしょ、あいつ、なんで、ちくしょ、俺は、なんで……』
力一杯に瞼を固く閉める。涙と涙。その一杯の涙が意思を宿された生き物のように頬を伝った。一度別れた涙が顎の先でまた遭遇するまで彼女は何も言わなかった。
「そうだったんですね。そんなに大切な本ならば、《カエサルの物はカエサルに》ですね」
シスターは明るく笑った。その笑顔には一点の曇りもない。
『見殺しにはできない……』
息ができない。嗚咽をもらしながら、咽び泣いた。やや紫を帯びた深い水縹の涙の中で、希釈されない悔しさと無力感が後から後から追いかけ蠢いている。ひくひくと途切れ途切れのその声は教会の中を谺していく。
「まずは腹ごしらえですよ!」声に快活さが戻った。「たっぷりと朝食は準備していますので、他のシスターたちとお食べください」
『そこまで世話になるわけにはいかないよ。今度必ずまた来るから、その時一緒に朝食を食べよう』
「かしこまりました」
シスターは思い出したように他の話をし始める―。
「さきほどのお話ですが、わたし達閻浮提の人間も時々忘れてしまうんですよ」
思いを馳せるように深まる緑の森を窓から見つめる。
「あまりに世の中が忙しない。生き急いで動くせいですね。わたし達もです。死に直面すると、初めて自分が生きてきた道を再考して愕然とする方もいらっしゃるんです。ですけどね……どうやって生きてきたか、生涯に何の絵を描いてきたか、どういう彫刻を掘ってきたか……そんなことは、死ぬときは少しも関係はしないんですよ」
手元にある本をずっと見つめていたクピドーが顔をあげた。
泣きじゃくった痕が顔に残っているのを確認するようにシスターが覗きこんだ。そして、にぱーっと向日葵のような笑顔が輝いた。
「神への深遠な信仰心、そして泉石膏肓の思いから教会に入り、裏の畑で作物を耕し、草花を育ている日々を送らせていただいているわたくしですが、死ぬ前に一瞬でもどう死にたいか、死んだ後にどう生きたいか……毎日、神のご意志なんでしょうね、わたくしが一生掛けて解かなければいけない難題なのでしょうね……どう生きたいか、という難題をいつも想います。そうやって考えればいいんですから」
ふたりは視線を重ねて同時に笑った。
『死んだあと、どう生きたいか……か』クピドーは声に出してみた。重要な問いに思えた。
「鍵の穴から天を覗くような出過ぎた真似を御赦しください」
『ありがとう。気にしなくていいから。じゃあ、そろそろ行こうかな』
「神のご加護を。あっ、おまちくださいませ! 忘れるところでした!」
そう言うと、シスターは走って奧の部屋に行き、そしてすぐに何かを手に持って戻ってきた。
「こちら、メフィスト様からクピドー様に預かっておりました。何やら、何も言いませんでしたが。おそらくクピドー様のためだけの特別なもののようです」
小さな包みをあけると、何やら見慣れた茶色の瓶が入っていた。
「使い方はイカロスさんに聞いてみたらいい、とおっしゃっていました」
料理家が隠し味を言うときの台詞回しの調子で励ました。
「〈いいものは小さな包みに入ってやって来る〉とよく言われます」
―シスター・バートウィッスル……シスター・バートウィッスル!
「おや、誰かがわたくしを呼んでますわ」
この日、数週間ぶりにインキュバスは工房でメフィストと会っていた。いや、対峙していた。
もともと細身の肉体がさらにやせ細っているが、顔の精悍さは反比例して前より増していた。ある覚悟を瞳に宿した者だけが見せることのできる、漲った緊張感が所狭しと部屋の中に満ちていく。その背後にはひとつの決断があった。
『どこにいらっしゃったのですか……』神経の衰弱が滲んだ声で訊ねる。この日、実はメフィストにとっても工房に戻るのは久しぶりのことだった。教会での一夜以来消息を絶っていたのだった。
『手前があなた様を見失ったことはありませんでした。ご命令なら、自分の手足をもぎとってその血を捧げます』
弛まぬ緊迫感はメフィストにも浸透したようで、ただ言葉を失ったように沈黙を続ける。差し迫っている張りつめた糸が切れるその瞬間を感じずにはいられないのだろうか。インキュバスの逓増する緊迫感は血走った目をみれば容易にわかることだった。
『3世代前のメフィスト様にお仕えしている時に、18世紀のニューイングランドに降りたことがあります――』唐突にインキュバスは昔話を始めた。カップを口にもっていくメフィストの手が止まる。
『そこでは当時ヨーロッパでの7年戦争の一環であるフレンチ=インディアン戦争で人間たちは人殺しに明け暮れていました。鮮やかな血がほとばしり、こんな時代なんかより明媚なひどくアンティ・ディバインな景色が続いていたものです』
ちらちらと主人の様子を確認する。
『戦争とは宿命的に人間と調和するものですよ』
インキュバスは意志を徹頭徹尾貫通させた。使命を完遂するとぐったりとした心持に襲われる。口の中にぬるぬるっとした異物を感じる。自分の地位や役割と完全に相反する役を演じようとしているからだった。もしそのことで破門の脅威に晒されようとも覚悟はできている。この日主人であるメフィストを烈しく非難するつもりでいた。
『何が言いたい』
糾弾するような言い方に背筋が凍りつきそうになった。
『わかりませんか』敢て挑発してみることにした。
『私の意見では、全ての殺戮、全ての差別、全ての虚構、ばかげた浪費、浅はかな合理的思考、借り物の理論武装、警戒のための追撃、人間としての尊厳よりも自らの権威、地位、威厳、自尊心を維持するために行う森羅万象の「血の湖」などは、けっして幸福になることのできなかった輩、そして幸福になろうと自分の意思で努力する人々に我慢ならない輩の仕業だ。そんな連中は一年中黒雲の中に隠れて月も太陽も照り輝くことなど無く、絶望に希望を被せているだけに過ぎない。何だって、そんな愚かな、悪魔にも劣るようなことが、閻浮提の人間にはできるんだ』
ふと異変に気づいた。珍しい。工房には何の香りもしない……。
『17世紀に増え続けた牢獄も処罰の形として爆発的に機能しはじめたのは18世紀を通してでした』インキュバスは講義に話を元に戻した。『というのも、マサチューセッツ州の最高裁判所の1790年から1794年の間の告発件数は1750年から1754までのそれと比べるとおよそ6倍まで亘りました』
『誰が貴様の講釈を頼んだ』
『牢獄からさらし台へと続く、草の刈られた一本道を歩く人間たちと治安判事や牧師たちの対立する構図は視るも愉快な光景でしたね』
インキュバスにとって、主人の説得はやり遂げなければならないことだった。己以外の意見など容れない狭隘さのためというよりは、狼狽を必死に抑えるために耳を貸す余裕がなかったので、自らを包囲して独り戦火の最前線にいるような錯覚を覚えた。
『インキュバス』俯いたまま名前が呼ばれた。『私には……今回はどうしてもできない』うすうす感づいていた告白が実際に完遂に及ぶと、意外にも重々しい空気にはならず、空っ風が肌にあたるような妙な感触だった。苦しんだ末の結論だというのはよく分かる。むしろそうでなければ主とはいえ、首を絞めるどころの騒ぎではなかったはずだ。にもかかわらず、許す気には決してなれない。
『今の時代に共通する大悪禍は理解した』
『光を亡くす』
『それでも、やはりできない』
理由などどうでもいい。結論が問題なのだ。理由を問いただしたところで、結論が変わらなければ意味はないと、インキュバスは焦れた。
『何を言っているのですか? 何か悪い媚薬でも飲んだのですか』被せるように怒りを閉じ込めて返す。説明を求めるように視線を重ねた。
『いや』と応えると『では、弁解の余地はありませんね。ご自分が言っていることが分からないんですね』と、インキュバスは吐き捨てるように追撃した。
『手前の唇に教え込んでくださった媚薬は破壊です』
裏切らないでほしい一心に、インキュバスは主を褒めたたえることに作戦を変える。
『その破壊の神であるメフィスト様が常に手前の生きる道を照らしてくれます――手に触れない空気のように蠢き、手前の周りを遊泳し、永遠に罪深い欲望でこの肺を満たしてくれている。メフィスト様は悪の華です』
陳列された本に溜った埃を一冊一冊払いのけるように、一言一言に押し流れる感情たちを込めた。
『どうやら彼らとの境目が分からなくなってきた』
『境目ですって!? 何を言っているのですか!?』インキュバスは、鬼の、いや、悪魔の形相で主を睨みつけた。言葉に帯びているのは、信仰心を踏みにじってくれるな、と教祖に自信を取り戻させるようなメッセージだ。
『誰かのように去勢にでも手を振るおつもりですか? 禍患に背をむけるのですか? 手前の心臓は、血に染まれた剣で心臓を守るあらゆる骨を砕き、その後にゆっくり突き刺して頂かないと、また黄金の夢をみることなどできません!』
剣幕に閉じ込められた嘆きは部屋中の壁に染みていく―。
『これ以上はもう続けることはできない。冒涜です。判断の夜までもう2週間をきりました』
もういい加減に指をくわえて視ているわけにはいかないのだ。人を、人々を殺してやりたい。この喉は血の塊を飲みこんでいる自分を想像してきたのだ。
『あなたは所詮、光の影に過ぎない。影は光についていくだけで意志はもたない。ただ、光と正反対なことをすればいいんです。それが悪魔の定義ではないのでしょうか』
一縷の望みを託した。
『手前はただ人間の必然性を壊したいだけです』インキュバスは最後に憂喜を統制した。
『必然性……』
『文明を退化させ、復興を食い止める。帝国主義は復活し、民主主義は即刻唾棄されるべきです。奴隷制を復活させ、人間の劣悪な部分をもっとこの眼で見たいのです。無関心は横行すべきであるし、人殺しは正当化されるべきです。子供は親に強姦されるべきで、老人は自殺するべきです。死刑囚が被害者の家族を轢き殺し、教育よりも戦争の仕方を教えるべきだ。伝染病と貧困も――』
どれもこれもが人類が「間違っている」という猛省のもと、道徳感を無理やり成長させてきたからこそ、人類が乗り越えてきた問題だ。そのことがインキュバスは心底気に入らない。乗り越えてきた問題こそが人類を人類たらしめているものだったのにもかかわらず、愚かなあいつらは利口ぶって解決してきやがった。
だからこそ、メフィストフェレスという存在が必要なのだ。
『それが望みか』
『あなた様の望みでもあります』
一触即発の状況下でインキュバスは一歩も引かない。袂を分かつときなのか。重圧がインキュバスの背中にのしかかる。相容れない者同士が対峙した時に必ず生まれるもの――君臨と顛落のどちらかを選ぶしかない血塗られた覇権争いだ。
『……影は裏切る』
インキュバスはそんな哲学に免疫をもってはいない。
『あなた様の無鉄砲さには今まで何度も驚かされてきました』インキュバスは一笑した。冗談だと思ったのだ。
『貴様はこのまま影として生きていたいのか』
『少々悪戯が過ぎませんか』口許がひくつく。
『諦める……』
『安堵いたしました』笑みが戻る。
『転生を……』
『冗談でしょうね』
憤怒とも憐憫ともつかない心緒は、インキュバスに一線を越えさせた。その一線を越えることで、みずからの世界における地位を刷新されることも厭わない覚悟でそもそもここに戻ってきた。しかも、心緒の先は三叉の鉾のよう至る所を一斉に刺した。ここまで傷ついた状態で、目の前の主に仕える意味がどこにあるというのだろうか? ここまで裏切られてまだ仕える価値があるのか? ここまで腑抜けな悪魔に弁明の余地はあるのか? まるでダナイデスの娘たちのように底のない水甕に水を汲み入れる罰を与えられているようなものだ。
悪魔としての采配を放棄する者……冥界から追放されるか、地獄の炎の中で下等な悪魔たちにその魂を食い尽くされるだろう。それに、あの万魔殿に鎮座するルキフェルへの背信行為が容赦される可能性などひとつもないのだ。今回の降臨の最初のロンドンの時から、疑問視していた……にもかかわらず、ここまで信じてきた自分への憐れみが全身の奧の奥まで食い込でんきた。
『いい加減にしろ!!』煮え切らない態度についにインキュバスが業を煮やした。
『貴様に沈黙を命じる。番号で呼ばれたいのか!!』主も同じくらいの怒号をもってインキュバスの下剋上を鎮圧した。そのように見えた。
泡がぽつぽつと、これまで禁欲的に己の性欲に対して非寛容の態度を遵守し続けてきたインキュバスの上半身で破裂し始めた。
このときインキュバスは決断をした。それは考えてもみなかったことだ。が、考えてみればずっと考えてきたことだった。言うなれば抑圧してきた渇望だった。それはもう出口の扉の前まできていた。
『――ちょっと頭を整理してきます』
考えは決まっているような背中は燃え滾る炎の観を呈していた。
夏の果て、時刻は夕方6時を打った。
――誰かが泣いている(kh-kh-kh-hhhh)。
大展望台とそれより100メートル高い特別展望台には多くの観光客が集まっている。夏休み最後の土日ともあって、賑わいは最高潮だ。燦々(さんさん)と照りつけ、行き交う人達を炙るような太陽はようやく沈みそうだ。蝉の声がうるさい炎暑も、もうすぐ終わり。とにかく長かった日本の夏が終わる。
後もう少しで、ライトアップされるのを今か今かと皆が待ち望んでいた。
早々と周囲の光の弱さを感知して点滅を始めたのは、東京タワーの航空障害灯だ。避雷針に囲まれるかたちで点滅する塔頂部、アンテナゲイン部、塔本体最上部、大展望台上部……。インキュバスがいる。大展望台上部の人がひとり辛うじて立てる場所に。
目の眩むような西日を手で塞ごうともせず、橙色に輝くその表情からは息をしているかどうかも分からない。それくらいに静かに佇んでいるのをみると、嵐の前触れだとはとても思えないほどだ。
油照りの時刻。太陽が沈んでもぬめぬめとした息苦しいくそよ風の吹かない東京の暑さの幕開けだ。外を歩く人々はその粘着質な蒸し暑さに翻弄されるように扇子や団扇で夕涼みに余念がない。
日没と同時に180個の白色のランドマークライトが一斉に点灯した。ライトアップされたタワーを見て多くのこども達が嬌声を上げている。涼しげなサンダルやストラップシューズが展望台を走り回っていた。夏の灰色の闇の中に浮かび上がった東京タワーは不気味な凄みがあり、冬のライトアップとは異なる妖艶さを醸し出している。
雲は天空にはどこにも見当たらず、無風状態。
『乱痴気騒ぎ(メイヘム)を!』
インキュバスの儀式が始まる。
『暗闇を背にして告ぐ
全存在を大きく凌駕する
俺の名を叫べ
叫べ、インキュバスと!』
遠くで他人行儀く雲が膨れあがり、そして同時に微風がインキュバスの髪を撫でた。みるみるうちにインキュバスの青白い皮膚がどす黒く染まり始める。やがて闇と同化していく。黒潮していくようで、黒い血が体中に流れているような染まり方だ。
――また、少女のような声で泣いている(kh-kh-kh-hhhh)。
積乱雲の中の氷の粒が激しく擦れ合うように、一声一声に感嘆符を打つ。風はさらに強まり風の音がインキュバスの祈祷を天に昇らせるようだ。やがて」と肩で息をしはじめ、喘息のような苦しそうな息が漏れ始める。一方地上にいる人々はどこか涼しさが感じられる風を秋の訪れと錯覚していることだろう。
――大勢が泣いている(khh-khh-kh-hhhhhhh)。
いつのまにか空をさらに暗くするひんやりとさせる雲が膨らんでいる。残響から新たな音が蠢き始める予兆だ。
その時だった。一呼吸で人々の視界を塞いだのは滝のような雨だ。東京の空中の埃をさらった大きな雨粒は滴となり、やがてアスファルトを穿つ。濡れたアスファルトと空中の塵と埃が混ざると、まるで有機体となって意志をもって立ち上ってくるよう独特の匂いが広がっていく。
そうして黒い雲からの豪雨は地面に到達すると飛沫となって日中照りつけたアスファルトを暴力的に接吻するように愛撫し続けた。蝉の鳴き声は止み、雨脚の激しい夕立が東京タワーの周りに降臨すると、ライトアップされたタワーも外を歩く人々の目に滲んで映る。皆は目をこすって茫然としている。
インキュバスは雨滴を全身で受け止める。身を奮わせながら頬の肉をゆるめた。自分の求める光景がもうすぐ目の前に映る……映画の前のカウントダウン―そのカウントダウンは、政治家や科学者など人類史上誰もが監督したことのない類いの大悪禍だ。
『あの詩人はこう吹き散らした―『偉大な詩人にとっては、美の感覚というものが、他
のどんな思想にも勝る。あるいは、他の全ての思想を消し去ってしまうと』
あの科学者こう豪語した―『科学者は、罪を知った』
あの哀れな政治家はこう囀った―『意志あるところに道は開ける』
あのむかつく哲学者こう言った『愛とは、2つの肉体に宿る1つの魂から成る』
我は輪奐の美を極もうとする者
俺の名を叫べ
叫べ、インキュバスと!』
――やはり少女たちが泣いている(khhhh-khhhh-khhhh-hhhhhhhhh)。
ひんやりとした空気は看過できないほどまで空気を冷凍した。秋が通り過ぎてまるで冬の早朝のように肌寒い。いくら夕立でもこれほどまで空気を冷やすことはありえない。アスファルトにはところどころに大きな水たまりができ、まるで浸水するのではないかと思うばかりに、夕立は長く、そして激しさを増していった―。
視線を上に戻すと、インキュバスはぼんやりとした陰影を残し幽霊のように立ったままだ。人間は生きているだけで、誰かの忌まわしき迷惑だと言わんばかりに、殺気だった視線を地上に注いでいる。
ネオンと共に息吹く街が物憂げな濃霧の中に浮かんでいる。
白い大鴉はその羽をひろげて霧を薫らすと、鼠色の霧の街をその羽で包み込んだ。濃霧は生き物のように街を飲み込み、その様子を見ることをゆるされているのはかぎられた者だけだ。高度3万5000フィートを走る旅客機か、東京タワーのような地上から100メートル以上の位置にいる者だけがそれにあたるだろう。
東京タワーの展望台にのぼってきた人々が楽しみにしていたのは、他ならぬ摩天楼の夜景だったはずだ。が、薄紙をはぐように不安が伝播しているようだ。大多数の見物客がタワーを降り始めた。
――だいすきだよ………。
『あぁぁぁぁぁ!!』
インキュバスは肚の底から咆えた。低く垂れた霧に己の迷いを投影してしまったのだ。そして、それを払いのけるように、地の底から這い上がってきたような声で咆え続けた。その声には人間を傷つけるしかない道を孤独に歩くしかない己へ憐れみと、彼女の中に自分の道を探そうと一瞬でも考えてしまった己へ罰が込められていた。
最後に指をぱちんと慣らして静かに目を閉じた。
第8章 塔:The Tower
1
塔の頭上。くっきりとした陰影を湛える藤紫の宙が踊る雷鳴を轟かせる。
別次元に長い夕立。不均衡に濃い霧。不可視の号哭。つばぜりあう天と地。地上から天空に向かって伸びる若紫の幾千本の稲妻。
インキュバスの怨念と欲望は飽和した。それが蜷局を巻いて巻き上がり雲を突き抜ける。すると、やまびこのようにぎざぎざ状と曲線状の稲光が周囲に降臨した。一度に集中したかと思うと、至る所にある都心部の架空地線付近に落雷したのだった。
通常、架空地線に落雷した時には、雷の電流は地面に流れていくようになっており、停電は発生しないのが通説だ。なぜなら、架空地線に落ちた雷の電流は、鉄塔と電線間の絶縁の役目をする、磁器でつくられた「がいし」を損壊しないように、角の形のアークホーンという雷の電流を角の間で放電させて流す。いわゆる「フラッシオーバ」という現象を誘発する。ところが、雷の電流が非常に大きな場合、架空地線や送電鉄塔に大きな電圧が発生して、その電圧が電気を送っている送電線の電圧を上回ると、アークホーンから送電線側に電流のスパークが発声する。いわゆる「逆フラッシオーバ」だ。
この時起きていたのはまさにその「逆フラッシオーバ」だった。さらには、街を包む、物欲しげな濃霧が雷を助ける役目を果たした。というのも雷は電気抵抗の少ない場所を一番通り易い。なので、霧の濃いところというのは電気抵抗の小さいところであるので、雷が架空地線に落ちないのだ。逆に、電気を送っている電線の方に落ちてしまう。
こうして未曾有の大停電が首都圏及び関東一帯を襲った。
―東京タワーのライト消滅。見渡すかぎり信号機は消えた。人も車も大混乱。東京タワー内のエレベーターに残された人達はパニックを起こし始めた。悲鳴が飛び交う。だがしかし、驚きに目を見張る大悪禍――悪なる舞踏――はまだ序章に過ぎなかった。
ちょうどその頃。
森川泰世を含む葛根田地熱発電所からの蒸気輸送設備・中央操作室研修団が品川火力発電所を訪れていた。葛根田地熱発電所は岩手県雫石町に位置し、森川家がある花巻市からは通勤電車で1時間ほどかかる。
午前と午後の研修が終了し、ようやくホテルに引き返すところだった。長時間の研修で凝り固まった肩や背中をそれぞれが思い思いの方法でほぐしている。泰世は、ホテルに戻る前に電話をしておこうと、他の研修員たちから少し離れた位置で、携帯を握っている。
「もしもし、緑か」
―あら、あなた、研修は終わり?
「ああ、さっき終わったよ。長かった」空を仰ぎながら深く息を吐いた。
―そう、お疲れ様でした。予定通り明日の朝帰るんでしょ? 今度はまた変更とか言わないでよ。今日子供たち一日中すねて機嫌とり大変だったんだからね。
電話の向こうからの愚痴でさえもほっとできた。本来ならば昨日の夕方の新幹線で岩手に帰る予定だったのが一日延びたのは、今日火力発電所の出張イベントがあったからだった。どうしても品川の職員だけでは足りなくて、葛根田地熱発電所からの研修団も研修の一環として参加を急遽上司から義務づけられたのだった。
「明日の朝帰るから。子供たちにも伝えといてくれ。東京のお土産たくさん買ってくるからって」
―分かったわよ。あっ、お菓子とかじゃなくて新幹線のプラモデルとか東京スカイツリーのプラモデルとかの方がいいかもよ。お菓子とかじゃなくて。
送迎のバンに戻ると「よっ、愛妻家」と揶揄した声が泰世に飛んできた。言われたくなかったからこそ離れたのだが、笑ったときに思わず声が大きくなってしまったかもしれないと、泰世は曖昧に笑ってその場をすり抜けて自分の座席に戻る。窓から空を確認した。癖なのだ。いつでも空を確認してしまう。
車は海岸通りをまっすぐ走ること13分。東品川のビジネスホテルにようやく到着した。バンから仲間たちと出て上を見上げる泰世は、どこか東京の空の下で生活する人々を気の毒に思った。高層ビルこそないが、送電線がやたらと視界を遮っているので、夕陽の色も一日の仕事の終わりを告げてくれる優しい使者には思えそうもない。
フロントで預けていた鍵を受け取って部屋に戻って着替えると、まず大浴場に出かけた。夕食まで20分ほどだが、仕事の汚れをさっぱりとしたかった。身体にまとわりつく辟易としてくる都心の暑さが残した火照りを、少しでも早く拭い去りたかった。
部屋を出ようとすると、ゴゴゴゴと突然音がした。窓から外を見ると、ホテルを入るまで雲ひとつなかったはずなのに、上空には雲はおろか霧のようなものが濃く拡がり、大量の雷と雨が走っていた。
テレビのスイッチを急いで押した。テレビ中継で天気予報を確認してもどこの局も大雨注意報など出ていない。能天気な旅番組や夕方のニュースが流れている。妙だなと思ったが、別段気にせずに浴衣に着替えて大浴場へ向かった。
泰世の部屋が8階。大浴場は10階だ。2台のエレベーター扉の前で待っていると、突然世界が揺れた。吠えた。揺れた。そして、光を失った。
泰世は目をカッと開いた。一度に多くのことが起こりすぎて困惑して、まず現状を把握しようと、エレベーター近くの窓から外を眺めるた。すると驚くべき光景が広がっていた。電線の全てが焼き爛れていた。大量の同時落雷を物語っている。
「う、う、嘘だろ……」
気象状況よりも深刻な問題なのは停電だ。エレベーターは止まったまま。仕事柄落雷には敏感だが、落雷ごときで停電するわけもない。そして、もし落雷で停電するほどの凄まじい電圧が電線に落雷したとしたら……
「火力発電所が危ない!」
急いで部屋に戻った。まず家族のことが心配になった。しかし家族は幸いなことに離れたところにいるし、管轄は東北電力なので影響はおそらくないと泰世は受話器を置き直した。作業着に着替えて火力発電所の研修担当の杉並に連絡するためにホテルに備え付けの電話を掴んだ。
「もしもし、杉並さんですか? 早く避難してください」
―おつかれさまです。え? 森川さん……あーはいはい。今日はお疲れ様でした。停電? そうみたいですね。連絡は入っています。港区の架空地線に落雷したそうです。大丈夫ですよ、保護継続方式で電力系統は保護されるようになっていますし、夏は雷と台風は多いですから。そんなたいしたものじゃないから大丈夫ですよ。原子力発電所とは違うんですから、避難は大げさですよ。
この時、東京電力が運営管理する他24カ所の火力発電所にも同様な連絡が入っていた。
実際、事態は想像も及ばないほど尋常ではなかった。落雷により大規模電源がいくつも脱落することで、事故波及防止のシステムは追いつかなかった。しかし、事態は停電どころの騒ぎではなかった。インキュバスの大悪禍はそんなところで終わりはしない。落雷による大停電の裏で進んでいたもうひとつの大悪禍。それは人類にとっての進化の証のアンチテーゼとなろうとしていた。
落雷による一時的な停電は、発電量と電気使用量のアンバランスを瞬く間に引き起こしていた。それによって生じる周波数低下のシナリオが頭に描かれたとき、泰世は背中に凍るような戦慄が走った。
「泰平……」杉並に逆に落ち着かされた泰世は弟の名前を無意識につぶやいた。受話器を置く。今度は泰世は弟の泰平の安否が気になった。長年連絡はとってはいなかったが、電話番号だけは携帯に登録していた。
「泰平か? いまどこにいる」
―兄貴か?
電動歯ブラシが震えるような音がした。どこか屋内いるような空気が耳に伝わる。
「いまどこだ」
―どこって……新幹線だよ。
受話器のむこうの声には生がまるで感じられなかった。ただ咽喉から空気を出しているような無常な、吐息に近い音に、泰世は底冷えのする思いがした。「新幹線? どこを走ってる」弟の表情が浮かんだ。膝を胸に近づけてうずくまって話をしている姿を知っていた。
―なんで?
「なんででもいいから、とにかくどこを走ってるんだ」
―…………。
「おい、聞いてるんか」
―どならないでくれよ……もう色々あって死にたくなってるんだから……。
声が押し殺されているのか、それとも低く抑えられているのか、泰世は判断がつきかねた。
泰平は、この時東京駅18時20分発の秋田新幹線「こまち」31号に乗っていた。故郷を目指し、東京―大宮間を走行していたのだ。大宮到着は18時40分頃と予定されている。
―兄貴、オレ自殺しようとしたんだ。
「自殺……何言ってるん、だ……」
線路に寝そべっていたら、身体の上を電車が通過して、心臓を守る皮膚が張り裂けるような衝撃だった。目の前の大停電。目先の空前絶後の周波数の低下が引き起こす事態。そして電話の先での弟の自殺。関係性を必死に頭で考えた。全て同じ理由なのではないかとさえ心の中で思った。
―オレ……本当に、人生は面白いわ……オレは最低のヤツなんだよ。兄貴が正しかった……オレは負けだよ。
彼は泰世に事の顛末をかいつまんで説明した。むこうで電話を切ろうとしたので、何か言わなければと見切り発車で泰世は喋り始める。
「本当に、お前が、最低な悪者なら……」表面的な話以外ここ数年したことがなかったので緊張で少しどもった。「おれが東京から逃げ去ってきたから、お前に変なプレッシャーをかけたんだと思う」自覚はしていた。認めるのがただ嫌だった。兄の失敗が弟の人格を変えてしまった。思い上がりとも思われかねないが、事実だった。それは弛まぬ事実だ。
弟は短く笑った。
「前を見れば悲しみはない。悲しみは翼を与えられて空高く舞い上がるんだよ! 上を見るな。前を見たらすべきことが分かるはずだ!」
誰を今救わなければいけないのか―見失わないようにするため自分に言い聞かせるように語気を強めた。泰世は、弟の人生の尊さをひとつも疑いたくなかった。それは、ごく当たり前の感情だった。
―兄貴、いつも、説明が足りないよ。オレは、兄貴みたいに頭良くないんだからさ。
品川火力発電所では研修担当の杉並の楽観が叩きのめされていた。火力発電所の警報ブザーがけたたましく鳴り響いている。
数カ所の大規模電源の脱落により、関東一帯では発電所の発電量に比べて電気使用量が凌駕した。それによって、周波数は大きく低下。周波数が低下したまま品川火力発電所の発電機室のタービンの羽根は回転を続けていた。火力発電機停止の元凶となった。
タービン羽根の共振周波数と低下した周波数の倍周波数が一致すると共振現象が起きる。それによってタービン羽根が大きく変動してしまったがために、タービン羽根および車軸が受ける負担が頂点に達した。
彼女は緊急避難指示を出し、職員全員を外に避難させた。泰世からの電話を切った直後、念のために発電機室に向かおうとするすんでのところで、自動避難警告が流れた。強く握りしめていた携帯でかたっぱしに天気予報とニュースを調べたが、気象庁も発表が遅れているのか、情報が何もないことに焦燥感が募った。彼女にとって―火力発電所で働く全職員にとってもだ―火力発電の停止はおとぎ話のようなものだった。
タービン羽根と車室の隙間は数ミリしかなく、高速回転しているうえに蒸気の温度が高い。そのため僅かな振動があっても蒸気タービンは損壊する。周波数の低下により、火力発電所は壊れないように、周波数低下を感知するセンサーが働いたことによって、火力発電所が完全に停止したというわけだ。
火力発電所と同じ現象が複数の火力発電所で起こり、発電機は次々と壊れていった。こうして計画停電をする暇も与えることなく襲ってきた首都圏の火力発電所の停止は、陸・海・空あらゆる電気システムに障害を与え、国家の機能を麻痺させる一歩手前だった。
朱色と橙と紫の集合体が描く天空―インキュバスが創った完成した世界―からは、雷と雨の音以外何も聞こえなくなった。品川火力発電所の外からぼんやりと発電機舎を眺めながら、彼女をはじめ誰もが非現実的な考え方で自分を落ち着かせようとしていた。
神の怒り……。
橙夏は成田国際空港のターミナル2での出国審査を終え、18時10分発全日航空008便ボストン行きの搭乗案内をゲートで待っていた。
この時期の国際線の搭乗ゲートは、ボーディングスクールの秋学期のために日本中の帰国子女たちが一斉集会をしているかのようになる。普通の乗客には異様な風景だ。というのも格好は13時間の長い走行時間に耐えうるジャージ素材のパンツとパーカーのラフな格好で、日本人であるのに、聞こえてくる言語は英語だけなのだから。
いつもの空港での過ごし方は携帯で音楽を聴きながらインターネットをするが、このとき橙夏は座禅のように姿勢よくベンチに腰掛けていた。隣の小さな子供が騒いでいても、全く集中がきれることがない。
ゆったりとしたベージュのサルエルパンツに無地の白のトップスを着た橙夏はこの夏の思い出をドラマや映画の回想シーンのように、のんびり振り返った。
こうして、また現実が始まろうとしている。その現実に耐えるために、思い出す必要がどうしてもあった。橙夏にとってメフィストと過ごした夏の日々は、17年間の歴史の中でかけがえのない時間だった。
頭の中で時計を巻き戻す。そうして思い出しているだけで涙が込み上げてくるので、顔を下に向けて耐えた。
瞼が置くなって、呼吸が浅くなり、目が乾き、指にしびれがきても、目を閉じることができなかった。悪魔が自分の目に棲みついて歌でも歌うように爛々(らんらん)と光の暴力的な束を収れんさせると、遅れるようにして浅く不定期な呼吸音の間を悲哀と暗澹がそれぞれの領域を侵さないようにすり抜けていった。救いの鐘の音は一度も掠めもしなかった。
《これより皆様を機内にご案内致します》
橙夏は、手を2回パンパンと叩いた。それから立ち上がる。覚悟と期待。復活の合図かのように辺りにほんの一瞬響いた。すぐに周りの会話にかき消されはしたが、爽快な気分だった。学校初日に提出しなければならないエッセイ……ミシュレの『魔女』のエッセイは既に書き終えていた――。
右翼側3連席の窓側の席に腰掛けた。窓から見える右翼を赤紫の夕暮れが橙色に染め塗っている。
全日航空008便は、予定時刻通り乗客200名を乗せて、全長2・5キロのB滑走路の手前で停止した。管制塔の指示を待つ。世界各国からの離着陸を捌く成田国際空港の心臓部である高さ90メートルの司令塔だ。
「あの人と、あの人達と出会った―」と紫の髪ゴムを触りながら、橙夏は免税品の機内誌をぱらぱらとめくりながら思いを巡回させた。機体は5分ほど経って着陸許可が出たよう機内アナウンスののち加速し始めた。
「あの薪ストーブ動いてるの見てみたいし、その時にまた帰ってこよう。でも、私がいない間にあの人と……デキちゃったらちょっと嫌だな」―でも、それも何だかすてきかも。独り言に誰かが返した。「それがいいのよ」と女の人の透明な色をした優しい声だった。
蝉の声と油照りする幽玄な夕陽によって縁取られた機体の影が滑走路を移動していく。
成田空港滑走路上空の夕映えは、付近に管制塔以外は高層ビルがないため、愚鈍なまでに赤の玉が地平線に完全に沈むまで地上一帯の色は空と同化する。空港内展望デッキの人も増え、皆が視野の彼方まで広がる体を焼くように熱い夕焼けが沈むのを見守っていた。各国の空港から着陸態勢に入って降下してくる飛行機たち。それらの機体の色も同じ橙紫色に塗られていくのを見ていると、橙夏はふと魂が一緒に遠くへ飛んでいくような心持ちにさせられた。
夕陽が沈めば、滑走路の誘導灯がバトンタッチし、夜のしじまの主役となるはずだった。
機内から夕陽に目を細めていた乗客たちは、戦火を機体が浴びているような音に茫然とするしかなかった。橙夏の座席の窓から見える右翼にも攻撃的な雨がまるで一瞬にして浸食しつつつある。橙夏は目を閉じたままだ――。
瀑布のような驟雨。天と地を繋ぎ、間の大気を裂く青光りの稲妻。2つが全てを真っ白に染めたその瞬間から数秒後―。第5貨物ビル、第2給油センター、そして管制塔の光が消えたのは、離陸直後だった。優しく目を閉じ微睡の中にいた橙夏はそれを気づくよしもなかった。
飛行機は太平洋に向かって高度をぐんぐんと上げていき、高度3万3000フィートにさしかかったところでパイロットは自動操縦装置に切り替える。全日航空ボストン行008便が、航空路を管制する東京管制区管制所のレーダーから突然消えたのは、離陸後わずか10分を過ぎたところだった。
亜望は仕事に没頭していた。完成したコピーを目を離して見つめて満足そうに頷いた。
誰かのためにコピーを書くことに専念した。すがたかたちが曖昧な相手や不特定な相手より、たったひとりを思い描いて、その人間へのメッセージを送るようにすればいい。
ふと、亜望は自分の子宮のあたりをみた。指で下腹部に触れる。聞こえないはずの音。もっと長く聞くはずだった音。恵まれない子供とはいえ流産した罰として、美沙世の願いとして、そして自分1人で生きていく決心の土台として、連綿と続いてきた塊がもうすぐ絶え入るばかりの生々しさを直に感じた。
ピンポーン―。マンションの共同玄関のインターホンの音ではなく直接ドアのインターホンの音が微かに聞こえた。すっぴんだったので急いでマスクをして、玄関に向かう。すると、立っていたのは招かざる客たちだった。
「これから一緒に部屋で食事しよう!」
驚きのあまり返答ができないでいると、菖がさらに追い打ちをかけるように言った。
「ぜったいきてよ! 着替えてからね。親友がお願いしてるんだから、ぜったいだよ!」
秀弼と会うのは結婚式依頼だった。彼は居心地が明らかに悪そうな顔を隠せずにもぞもぞとして、亜望とは目を合わせなかった。ドアはそのまま閉じられた。
亜望は、けろっとした表情で笑った。すぐにメイクとヘアセットにとりかかった。クローゼットの隅っこからペイズリー柄のエスニックなプリントワンピースを取り出す。敢えてアクセサリーは何もつけずに、ベージュのサンダルを合わせてエレベーターに乗った。
萎える気持ちを奮い立たせるようにわざと足音を鳴らした。リビングへと進む。テレビと目と鼻の先にソファが置いてあって、どれだけの至近距離でテレビを視ているのか不思議でならなかった。人に見せるためだけに置かれているようなインテリアはシャネルで統一されていた。
菖はやけに上機嫌だ。定石通り、シャネルのインテリアを眺める。
亜望は、仕方なく意識を菖の上機嫌な理由の推測に無理に向ける。おそらく理由は特にないのだろう。お気に入りのアーティストのコンサートチケットが当選したとか、ひいきのヨーロッパのサッカーチームが優勝したとか、そういう類のことだろう。
「どうぞどうぞ」秀弼がうながす。瞬きが多いのは相変わらずだが、声に生気はない。亜望は目を離さずにちょこんと肯いた。無意識に下腹部に手が伸びる。「そう……それはよかったね」蛞蝓に塩といった表情だ。何だかひどく憔悴しきった様子だったのは意外だった。
その後、会話とは呼ばない会話が、彼女が電子レンジで次から次に解凍しては皿に盛っていく間、続いた。
ふと、外をみるときれいな夕日が落ちる寸前だ。お昼を食べてから机をかじるように座って仕事をしていたので、時間の経過が麻痺していたことに気づいた。結局なぜ食事に誘われたのか聞くのを忘れて3人は缶ビールで乾杯した。
――誰かが泣いている……(kh-kh-kh-hhhh)。
カーテンのかかった窓を眺めた。5センチほどの隙間から見たこともない厚い雲が迫ってくる。
亜望の異変に気づいた彼が、後ろを振り返る。広辞苑のような雨がざざざあと落ちてきた。
「うわーすっごい雨ねー」
彼女が特に気にとめない様子だった。しかし、箸を冷凍のポテトに戻すと、突然の鼓膜が破れんばかりの雷が轟いた。
亜望は夢遊病者のようにベランダから体を乗り出した。信じられない光景。残照を感じさせぬ暗黒と赤紫色に光る光明がせめぎ合うような空が視野の果てまで広がっている。亜望は慌てて帰る支度を始めた。彼女の返事を聞く前に、亜望はハンドバックを手に取って玄関に向かった。電気が部屋で彼女はパニック寸前の状態に陥っていた。
サンダルをはかないまま片手でもってエレベーターへと全力で走った。停電ということを思い出したのは、エレベーター前でボタンを何度も連打した後だった。急いで階段で下に降りようとしたその時。
亜望の体が一瞬宙に浮いた―。
引き伸ばされた沈黙に雨の音がようやく取って代わった。雨の音は女の叫び声にさらに取って代わられた。階段の上には夫婦。下には亜望がいた。胎内の芯からパニックになったような彼女が、頭から血を流した亜望を視て、ヒステリックな甲高い声をあげていた。
薄気味悪い笑顔を浮かべた夫が妻の肩を支えていた。どちらも生気を失ってただ震えていた。
泰平は途中で切れた兄の言葉を別段噛み締めるまでもなく、死んだ魚のような目をして車窓からの景色を眺めていた。携帯を握る手にも力が入らない。
朝方、自分の部屋のベッドの隣で眠っている女を視て決断したのだ。決断するまでにかかった時間は、カフェでコーヒーにするか紅茶にするかを悩む程度の時間だった。大方の自殺してきた人間たちもこういうものなのだろうなと妙に納得できた。
上野駅に到着すると、まばらだがグリーン車の11号車にも乗客が乗ってきた。空いている隣に誰も座らないことを願いながら、前から後ろから乗り込んで自分の席を探している人達が通り過ぎるのを横目で視ていた。運良く泰平の隣には誰も座らずにこのまま岩手まで帰れると安堵の息をもらしたその時、隣にごそっと鞄がおかれる音がした。招かざる客だ。そう思いながら、顔を左に向けると思いがけもしない相手がそこに立っていた……村沢望だ。
隣に座った村沢は肩で息をしていた。泰平の方を向かず独り言のように話し始めた。「やあ、なんとか間に合ったようだ」とまず言ってから、ペットボトルの水を飲み干した。
「どうして……ですか」力をできるだけ振り絞って声を出した。
「全て聞いている」
故意にセミナーのときのような改まった専門家口調に聞こえた。泰平は拝むような目で次の言葉を待った。
「今朝連絡がきた。君のマンションに行ったら、部屋から女が出てきて……まったく何をしているんだ……どうでもいい。君がどこにいったか分からなかったようだ」
泰平は何を話されるのか先が見えなく不安しか見つからなかったが、黙って頷いた。
「何から始めようかと、ここに来るまでの時間考えた。しかし、まだわたし自身、整理ができていない。何から始めれば君に一番いいのか……だから、話がまとまらず無意識的に話がシフトしてしまうかもしれないが、全て君に伝えなければいけない」
もう嘘は突き通せないと泰平は覚悟した。
「それにしても酷い事態になったもんだね。大丈夫か」
「なん……とか……大丈夫です」閉じた唇がなかなか開こうとせず、泰平はしどろもどろに応えた。
「ひとつ誤解を呈させて欲しい。君のためにも。わたしのほうは、彼女とは離婚を前提に結婚生活を送ってきたようなものだ」
やはりばれていたのだと、生唾を飲みこむ。
「子育てに向いてなく、お互い忙しかったから、そもそも家庭に入る気がお互いになかったんだろうな。でもお金と社会的体裁だけはあった。早いうちから一人娘をアメリカにいかせることで、お互い楽になりたかった」
「そうですか……」泰平は生返事を返すので精一杯だった。
「だから、君と妻が不倫関係にあったことを咎める資格はわたしにはないと思っている。問題なのは……君の警察沙汰の方だ」
村沢は僅かな静寂の間をとって、ある質問をした。
「君ではないんだろ」
泰平は理解者を捕まえたと思って、離すまいと神妙な顔つきで証言してみせた。ところが反応は意外なものだった。
彼の顔には明らかに失望が表れていた。「違う」と裁判長の通告のような言い方をされると、泰平は自分の内側に見つけられる答えを求めたが、答えが見つかる前に彼は話を切り出した。
「君の保釈金を払うように頼まれた。妻の不倫にはわたしの責任もあるからね。わたしは黙って支払ったよ。その時、彼女と少し話をした。保釈金を支払う替わりに秘密を告白された」
泰平は、もっと痛烈に後悔した。昨晩のことだ。誰でもいいから、弱っているから介抱して欲しいと、あろうことか早紀のサロンで働く受付の桂木早苗に連絡していたのだ。
心から謝罪してもう一度やり直したい、もう一度許してもらって彼女をこの手で抱きしめられたらどれだけ幸せだろうか。「僕はやり直したいと思ってます」咄嗟に出た取り返しのつかないような嘘は彼の表情を硬直させた。
「さっきの質問だが。『君ではないんだろ』と訊いたのはえん罪についてではない。あの時……ルーブル美術館で迷子になっている彼女の手を握ったのは君じゃないんだってな」
泰平は完膚なきまでに絶句した。
「遠い子供の頃の記憶だから、記憶違いだと思って、君だと思い込もうとしたようだ。素直に認めていればこんなことにはならなかったのかもしれないが……君は、彼女とルーブルで出会ったときの会話、洋服の話になった事を覚えているね」
「……はい」
「小さいときから緑色が好きだったようだ。緑色のワンピースと緑色の靴の話になったんだってね? しかし、彼女は靴ひもがうまく結べずに裸足で歩いていたそうだ。だけど、君は、『あの靴を将来自分たちの子供にも履かせたい』と言ったらしいね。話の日時も場所も合っていたから、信じたかったらしいよ。その気持ちが真実を曇らせてしまった。見えていたのに見えないふりをした。君と一緒だ……」
深い真実は慣れ親しんだ世界から泰平を引き離そうとするかのように猛威を振るった。なんとか現実につなぎとめておくために、乗る前に買って置いたウイスキーのミニボトルをそのままストレートで一気に飲み干した。胸のあたりで蠢く精神、感情、そして肉体そのものが焼けるように熱く、凍てつくように寒くなった。意識が溶暗していきそうになる。
「愛してその醜を忘る―。あの子は、それだけ君のことを愛していたんだ」
彼は組んでいた足を解いた。次の駅で降りようとしているように時計と電光掲示板を交互に見た。
「女が愛するとき、女は全てを許す。それが道徳に背くことや嘘でも。女が愛さないとき、女は何も許すことができない。それが正しい行いであっても……」
目を細めながら述懐する彼を尻目に、泰平は意識が混濁してきた。
「わたしは次の大宮で降りる。話はそれだけだ。螺旋階段には気をつけた方がいい。踏み外さないようにと足元ばかり見ていたら目が回る気をつけて―」
そう言うと、彼は鞄をもって車両を後にした。普通車両の方に向かっていった。
2
東京航空交通管制部(東京TC)と管制塔の管制官たちは、恐怖に震えていた。それは見えない「犯人」によって数時間内に奈落の底へ落とされる日本の「空」を想像すれば当然だった。「空」の領域は「地」の領域に侵入するだろうという予想は人間を圧迫した。緊張で嘔吐している管制官も1人や2人どころではない。2つの離れた場所の停電は刻々と訪れるその瞬間を物語っていた。
この頃、火力発電所の停止の連絡は既に入っていた。関東一帯の火力発電の停止、ということは復旧が数時間で終了することは考えられない。空を飛んでいる飛行機を、燃料を使い果たすまで上空で待機させたとしても、復旧しない状態で無事着陸させる見込みはゼロだ。停電のような機械の障害が生じた場合でも、安全性を維持できるフェイル・セーフ機能が基本的には作動するようになっている。これは、空港の管制システムに限らず、踏切や信号機などにも同じ安全システムが用いられている。徹底した機能障害への対策だ。
ところが、管制官内及びレーダー室の脈絡のない阿鼻叫喚は、そのフェイル・セーフ自体の機能不全を証明していた。気象情報と各航空機の位置を把握するレーダー画面が消えた今、現在進行形で空を飛んでいるパイロットは全て目視で航空機同士の接触を避け、そして着陸を余儀なくされていた。しかし、理論上それは不可能なことだ。天候は最悪の濃霧と大雨の状態だ。目視などできるはずはない。1922年、世界初の空中での衝突事故の原因のひとつが悪天候にあった。
管制官はすぐさま非常用無線で未曾有の大停電の事態を、橙夏が搭乗している全日航空ボストン行008便にも伝えなければいけなかった。
《ZK 008便、こちらTOKYO TC。こんばんは》
《こんばんは、TOKYO TC こちらZK 008。何がありましたか》
切迫感の滲んだ声は、パイロットが離陸直後から何度も管制官に呼びかけていた証拠だった。
《ZK 008。緊急事態発生。成田に戻るため高度2万5000フィートまで降下してください》
《TOKYO TC、緊急事態宣言。航空障害灯が全てダウンしている》
離陸直後に航空障害灯も当たり前のように停電している事を副操縦士が気づき、霧の中で視界が完全に遮られた状態で飛行していた。
《ZK 008 了解。そのまま降下。羽田アプローチ要請します》
《TOKYO TC、了解》
羽田アプローチ? 当然ともいうべき疑問が、パイロットの2人の頭をもたげた。
この時、幸いにも航空機のレーダーは正常に作動していた。だからといって航空機のレーダーだけで羽田アプローチをすることは至難の業だ。世界でも有数な複雑な空域を持ち、各国のパイロットがその離着陸に最も神経を使うと言わしめる日本の「空」。管制塔からの指示なしで着陸することなど無理難題に近い。
離陸直後の地上を真っ二つに裂くような幾千本の雷によって、既に客室では緊張と不安、そして客室乗務員たちの精一杯の歪んだ笑顔が交錯していた。騒ぐ他の乗客たちをよそに、橙夏はバックからバニティポーチを取り出した。ラベンダーの精油の瓶をだけ座席のテーブルの上に置いた。それから自分の手の平にたっぷり落として、首の後ろと胸元、足元、そして手の平を何度もこすった。あの時の彼のように―。
いま目の前で広がりつつあるパニックを鎮めるのは自分しかいないと思ったからだ。近くで不安がる外国人夫婦にも声をかけ、落ち着かせようと座席を動いて必死に叫んだ。
パイロットや管制官たちは、まさに盲亀の浮木とも呼ぶべき着陸成功という奇跡を神に祈るしかなかった。
さいたま新都心を過ぎるころ、泰平は背もたれに足を組んで体を預けて目を閉じた。村沢が去った後、もう3本、それも一気に酒瓶を飲み干していた。精神が崩壊寸前だ。目を開けて現実を受け入れる気などなれなかった。しかし、こうして目を閉じていても現実はその姿を隠しはせずに、却ってより鮮明に泰平の頭の中を支配した。酩酊状態に入る寸前のところで、のらりくらりと左右に揺れながら外をぼんやりと眺めた。
景色など意識の上に昇ってはこなかった、しかし激しい雨は例外だった。妙な雨だ。厚い窓のむこうで重く薄情な液体が地上に落ちている。泰平は、ふと故郷の「蓮華の壁」を思い出す。子供の頃に家族で行った幽玄洞の出口付近にあった鍾乳石だ。今でも皮膚の奥深くに残っているあの感覚。酔いを冷ますために泰平は自分の上腕筋の部分に頬をくっつけた。洞内は寒くて狭くて息苦しさを覚えるほどだった。霊的な存在がわからない子供でも怯えてしまうほどだ。一瞬でも緊張の糸が切れたらパニックに陥るだろうと、子供心に恐怖に慄いた。もう切れたよ……。おふくろ……。
泰平は、筑波山のあたりで起きるだろうと予想して眠りに落ちた。
午後6時43分。交流2万5千ボルト、架空電車線方式で時速110kmの高速で走行するE6系「こまち」は大宮に到着しようとしていた。
「キキキキキキキー!!」鼓膜が破れるほどの轟音が乗客たちの足元でけたたましく響いた。
意識の遠くで聞こえてくる音。泰平は既に無力な酩酊状態だった――。
2004年の10月23日午後5時56分。新潟県中越地震が発生。この時、「ときわ」325号は地震動により11軸が脱線。幸いなことに先頭車は横転せず姿勢を保ったために、脱線こそしたものの、奇跡的に負傷者は1人もでなかった。
泰平が乗車していた「こまち」は回生ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキを使用しての緊急停止を……するはずだった。緊急停止の鳴動が真っ暗な中響いた後、一瞬空白の時間が流れた。その空白はひどく現実離れしていて、極楽が近くまで来ているようなある幻想的な風が車内に吹いたように泰平は感じた。
その出来事は数秒間に過ぎなかった―。車内は尾を引く静寂が支配し続けている。
―カーブでの緊急停止の摩擦に耐えられずに全7両が脱線した。東京―大宮間はそのカーブの多さが故に、上越新幹線のようにはいかず、茜色の車体は先頭車をはじめ全車両が、停電で真っ暗な中を底のない底へと直走る。
新幹線開業以来―2004年以来2番目の脱線事故。死傷者が出ない、という奇跡が起こるはずもなかった。
奈落の底へ乗客を落されるときの……絶命するときの悲鳴は車体の上から側面にまっすぐに蠢落る雨にかき消された。
機内アナウンスは羽田空港へ緊急着陸する旨だ。それまで胸ぐらを掴み合っていた乗客や、泣き叫んでいた乗客、ペンを貸してくれと叫んで遺書を書こうとしていた乗客さえも少しずつ落ち着き払うように座席に座り込み始めた。
他の乗客たちの言葉を繋いでみると、常識外れの数の雷だったらしいが、機体に落雷したような衝撃はなかったはずだ。機内の故障が一切ないのに、なぜ緊急着陸なのだろうか? いくつもの疑問が沸々と湧き起こった。
しかし、次の瞬間―。突として高度が下がった。理由を探そうと、橙夏は窓の外を視た。驚くべき程近くで、斜め上を他の旅客機が飛んできた。間一髪だった。いつか大宮から帰る時に乗った埼京線の隣を通る京浜東北線のような距離だ。
着陸する衝撃だけを心配していた橙夏の血の気が一気に引いた。恐怖の淵に追い込まれる。ペンや固いものは座席の前ポケットに収納という指示が先ほどでたばかりだから、遺書も書けない。
「あっ!」あまりに大きな声だったので、近くの乗客たちの注目を不本意にも奪った。
橙夏は祖父の命日を思い出す。2000年7月25日。離陸直後に墜落したエールフランス4590便。遺書も何も残せず天国へ旅立った。
首を大きく横にふって、バックパックからポーチごと取り出した。中をあけると、10本以上の小さな瓶が並んでいる。それぞれに橙夏の字でラベルが貼られている。メフィストが最後の日に工房で渡してくれたものだ。そこから、フランキンセンスの精油瓶を取り出した。慣れた手つきで、数滴手に落としてから擦り合わる。その両手で顔を覆った。ゆっくりと呼吸をする。5往復。じわじわと胃のあたりに巣食っていた失望が散っていく。
感情に支配されるわけにはいかないと気持ちを奮い立たせる。橙夏は自分の頭の中を片付けた。
それに、自分が世話をしてあげた方があの猫も喜ぶ。きっと待っていてくれる……。橙夏はこうして死への覚悟を心の中でふっ飛ばした。
その後、全日航空ボストン行008便は奇蹟的に機体が揺れることもなく、嵐の前の静けさなのか、順調に高度を下げていった。機内の動揺は少し収まりかけていた。
―それから10分後。機内。
「頭をさげて! 前にかがんで!」
衝撃防止姿勢の指示が2本の通路を反り返りながら貫いた。ときおり声が裏返ったり掠れたりしながら指示は何度も繰り返される。
ドアの隙間からのエアーの漏れ? 火災? 異常は見当たらない。天候による影響も受けているようには感じられず、電気系統も点滅すらせず正常なのだ。
指示を出している客室乗務員たちは自分たちの指示に疑問を感じながらも業務を遂行していた。
6000フィートまで降下。地上の夜景がはっきりと見えてくる―。
そこで客室乗務員たちは息を飲んだ。何度見ても飽きない東京の夜景。それらが目の前に広がっていない……。
機長からチーフアテンダントに、そして他乗務員たちに「成田も羽田も管制塔と交信ができない」という情報は伝わっていたが、それは管制塔だけの電気系統の問題だと推測していた。
それが―都心全体。事態の全容がうまく飲みこめない。脂汗を拭い、全保安員がシートベルトをつけて非常口近くから声を一層振り絞って叫んだ。
幸い、なるべく早く衝撃防止姿勢の指示を出しているので、皆下を向いているはずだ。乗客の中で外の異常さを目撃している人はごくわずかだろう。しかし、ひとりが叫び声をあげればすぐに浸潤していくのが集団妄想だ。それは保安員であるならば常識だった。
廃墟のような街が眼下に広がっているだけで、羽田空港傍の東京湾と地上との境目がほぼ見えない。こんな状態では、滑走路手前の東京湾に着陸しないとも限らない。管制塔までが真っ暗となると停電は広範囲に及んでいると考えて間違いない。管制官に、航空路のレーダーでこの機をモニターすることも要求できそうもない。
コックピットでは必死にレーダーから位置を頭の中で描き、東京湾と滑走路の境目を暗闇の中に探そうしていた。目視で確認は当然できない。グラスコックピット(6台の大型液晶パネル)で機体の飛行姿勢、機首の包囲、速度と高度の情報と、そして生と死の境界線となるのがパイロットたちの風景の追憶だ。
東京TCからのエンルート上からの降下許可も、羽田空港管制塔からの着陸のためのアプローチ許可と着陸許可もなく、地上の灯りもなし。勘と記憶と判断を頼りに高度と速度を下げ、後は運を天に任せるしかなかった。
両翼の根元部分からフラップを下ろし、エンジン出力をゼロへ。飛行機はグンと一段下がった。機首を上げ、失速させる。。
後輪が地面へ接地。すさまじい喚き声と、野太い絶叫が響く。着陸の車輪に関しての報告を受けていない保安員たちの緊張はここから異常値まで詰め上がる。地面衝突は避けたようだが、滑走路のセンターラインが暗くて見えないばかりか、滑走路の距離が許す範囲で停止できるかどうか。
全身を強張らせて、最悪の航空事故に備えた―。前輪が降りる。地面との摩擦音がいつもより客室内の空気を駆けていく。
無言の緊張が雄弁な喝采に変わったのは機体が完全に停止してから数秒経った後だった。
緊張から解き放たれたばかりのぎこちない拍手があちらこちらから飛び交う。
窓の外に、消防車、はしご車、放水車、救急車数十台が右側一体に見えて、事の重大さを橙夏は改めて痛感すると、膝から足の指にかけて震えが止まらなくなった。
《機長の伊藤です。当機無事に着陸いたしましたが、みなさまを出口までお連れすることが難しいという判断ですので、非常口扉より、脱出用スライド……みなさまをドアから直接地上にスライドしながら降りていく滑り台で地上に降りていただきます――》
アナウンス終了後、橙夏は急いで通路を歩く乗務員の一人に手を挙げて声を掛けた。
「あの! 私、英語もできますので、サポートにまわります―」橙夏の声は裏返らなかった。逞しくなった自分を撫でたくなる。
「ありがとうございます!」橙夏の気迫に一瞬鼻白んだ表情を見せたが、相手の目はきらりと光った。快く承諾してくれた薄いグリーンの瞳が特徴的な乗務員の女性は、真剣な表情で橙夏はまっすぐ目を見て礼をする。くるんとした毛先が可愛らしくて思わずほっとした。橙夏は照れ隠しにはにかんでみせた。
ふと、見覚えのある顔だと思った。どこかで会ったような気がするが、思い出すことができない。
それからスライドでの降り方及び衝撃防止姿勢について説明を受ける―。幅跳びのようにして足を前に出し、摩擦で火傷しないように手を前に突き出した状態でこぶしを握る。ハイヒールの様なヒールの高いものは脱ぐ。非常ドアの下部の出っ張りにスライドが格納されている。乗務員の彼女が、ドアの右側にあるセレクターレバーをオートにして、出っ張りを床に固定した。その状態でドアレバーを時計回りに回転させると、ボンと音がしてドアが開いたと同時にスライドが展開する。
グランドスタッフをはじめ、消防隊員、救急隊員など50名近くが待機していた。
室乗務員たちはスライドの展開を確認後、反対側のドアを確認する乗務員と確認をしながら、ひとりひとりに指示を与えて脱出を補助する。橙夏も、来る乗客ひとりひとりに「大丈夫」「落ち着いて」と日本語と英語で交互に声をかけ、背中をぽんぽんと叩くと「せーの!」と合図をする。これは、非常口でジャンプするか尻餅をつくようにしないと、手から滑り台についてしまうと摩擦で火傷するので、安心させるために背中を叩くように彼女に指示をされていたからだ。
次々と乗客が滑り台を降りていく。橙夏は的確に指示を出していく。誰も転ぶこともなく、けが人もいないようだ。残り少なくなってきた時に、橙夏と同じくらいの年齢の男の順番が回ってきた。恰好からするに橙夏と同じような帰国子女の日本人の青年だ。精悍で頼もしそうな目をしており、鼻の周りのそばかすとのミスマッチが妙にしっくりくる。どことなくメフィストに似てなくもないかもしれない。
その時、彼は橙夏の肩をその小麦色の太い腕でそっと触れ、「ありがとう」としっかりと目を見て言った。近くで見るその青年の目に自分が映っている。2人は息を呑む。一瞬見えた―。
初めてだった。初めて見えた。勘違いではないのは、彼の目を見ればわかる。2人の視線は―ほんの数秒だが―複雑に絡み合った。17年分の歴史をお互いが交換したのだ。
橙夏はさきほどの乗務員のように真剣な表情になった。青年の目を見つめ返す。
「せーの!」
するするっと無事に彼は地上に到着して、救急隊員に補助されて立ち上がった。
立ち上がると、橙夏の方を一点に見つめた。
橙夏は地上からの青年の視線には気づかず、最後の乗客を補助すると、ほっと安堵感に満たされた―。
客室乗務員たちと橙夏は残された乗客がいないか、各座席を確認してまわった。
もしかしたら震えて動けなくなってうずくまっている乗客がいるのかもしれないと思い、声の反応は期待せずに動き回って隅々まで確認して最後尾まで進んでいく。橙夏は汗も拭わなかった。「お客様、ありがとうございました! 後はわたし達が確認いたしますので、お客様は早く避難されてください!」という制止も橙夏の耳には入らない。
確信めいたものがあった。最後尾まで誰もいなかった。踵を返して、安心して非常口に戻ろうとした。その時、視界に目を疑う光景が。《OCCUPIED》の文字。
橙夏は目を剥いた。ノックすると……誰も返事はない。学校の化粧室も同じことがよく起きる。誰もいないのに使用者を表す赤のマークがドアノブの窪みにでていることがあるのを思い出して、立ち去ろうとしたその時。ガチャと乾いた音がした。《VACANCY》ドアは向こうから静かに少しだけ開いた。
緊張で臓器の重さが身体から消えた。そこには自分と同じ年齢ぐらいの女性がパニックに陥った状態で、下着を足元までおろしたまま座っていた。頭を抱え、髪を掻き毟った後が落ちている大量の抜け毛で容易に想像できる。気分が悪くなって嘔吐したのだろうか、胃酸と強い消毒液が混じったような臭いが橙夏の鼻をついた。身につまされる思いで橙夏はしばらく動けなかった。
目の前の光景に驚愕の色を隠せなかった。果たしていまこの状況を変える力があるだろうか。橙夏は自問した。答えは思いがけないほど早く戻ってきた。注意深く決断している猶予はないとすると、これしかない。
「なんだあ、ここにいたんだあ」
不安に押し潰されないようにすっとんきょうな声をわざと出した。少しでも陽気な奴だと思ってもらえれば本望だった。そして、かつて包帯が巻かれていた手首を手の平が自分の方を向くようにひっくり返して、手首に鼻を擦りつけた。ラベンダーが身体を纏っていると思うと、安心できた。
それから橙夏は急いで下着を戻して、彼女を抱え込むようにして便座から立ち上がらせた。
「もうひとりいます!」大声で叫ぶ。
「大丈夫。安心して。みんな無事だから。さぁ、一緒に帰ろう!」
女性はぶるぶる震えながら何かつぶやいているようだが、聞きとることができない―。
日本語なのか英語なのか、それとも他の言語なのかも区別がまるでつけられない。表情も見えず、ただ髪の長さと胸のふくらみから女性と判断できるだけだ。落ち着かせるために、ポケットに入れておいたフランキンセンスの瓶を取り出して、彼女の頭から振りかけた。木のぬくもりと力強さが融合した香りが彼女の心の乱れを治してくれることを願いながら。
橙夏は、彼女に声をかけ続けた。「大丈夫だから。大丈夫だから。怖かったよね。もう大丈夫だよ」言っているうちに、なぜだか涙がこみ上げてくる――。
ねちねちと愚痴や泣き言、悪口を言ったり、他人からの憐れみを求めたり、同情を買うことで被害者になりすます。ストレスや劣等感を解消していたかつての自分を見つめているようだった。彼女の滲み出る気持ちが、橙夏の中に染み込んでくるからだ。抱きしめているのは……励ましているのは……他人ではなく過去の自分だった。
「この子で最後です!」
「ありがとうございます!」
「ほら、じゃあ、たぶん教わってないよね? 説明するね―」
そう言っても、彼女と一切視線が合わすことができない。願いを込めて橙夏は優しい声で衝突防止姿勢を説明した。彼女は終始無言だ。
「じゃあ、いくよ、せーの!」
彼女は降りようとしない。橙夏は、諦めずもう一度声をかけた。彼女は固まってしまったように動かない。橙夏は彼女と並んで降りる作戦に変更した。乗務員が代わりに合図をしてくれる。
「それではいきますよ! せーの」
橙夏は乗務員の声に合わせて防止姿勢をとる前に、掌を一杯に開き、指からできるだけ力を抜いて、隣で立ち尽くす彼女の背中をそっとぽんぽんと叩いた。そして、自分の背中を乗務員の女性がぽんぽんと同じように触った。ふわりと香るフランキンセンス。あっ!
―きゃっ!
(えっ)
―何するの!
(えっ)
―あぶない!
橙夏はスライドからバランスを崩した。背中を橙夏にぽんぽんと叩かれた彼女は恐怖が極限に達したように、狂い暴れ始めたのだ。さらに、あろうことか必死で抑えようとする橙夏を横に突き飛ばした。スライドの横の長さを大きく越えていく力で押されて―。
橙夏は声もでないまま。その体は宙に浮かぶ―。
薄れ行く目に飛び込んできたのは、白い暗闇の下で重なった2つの影だった――。
天空は雲ひとつなく、満天の星空が広がっている。
17歳……そうではない……村沢橙夏。色彩や陰影のない世界だった。天空の下にぽつんと孤立して存在する2人の身体。ぬくもりに包まれた。もうひとつの魂に溶け込み、そして自分を失った。その自分を失う感覚こそが、自分が自分たる証明だった。
『ザ・ショー・イズ・オーバー』