表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
叫び  作者: 池田
5/5

最期

 今日で最後なのだと告げると、酒屋のじいさんはとっておきだと言って枡酒を振る舞ってくれた。こんなことしなくて良いから、期限までにちゃんと金を払ってくれとは言えなかった。

 じいさんは俺が来なくなることを寂しい寂しいと嘆き、足が悪くて普段は家の奥から出てくることのないばあさんまで引っ張ってきた。酒屋のばあさんは話には聞いていたが確かに昔は美人と言われたのだろう。染みや皺が刻まれた顔は色白で、くたびれた目元はそれでも優しさを滲ませていた。

 ばあさんは初めて顔を合わせた俺に深々と頭を下げ、身体に気をつけてと皺々で柔らかな手で俺の両手を握った。

 俺は存外、周りの人間に恵まれていたのかもしれないと気付く。この手でこの世から初めて排除した二人の人間を除けば、俺はずっと周りの人間を、愛せていたのかもしれない。そのことに気付けただけでも、この人生を生きて来て良かったと思えるような気がした。

 

 事務所には相変わらず、麻雀牌を洗う音が響いている。いつものように集金用のセカンドバッグを金庫にしまい、金庫の鍵をコートのポケットに入れた。後で直接、須藤に渡すためだ。

 窓を開け、外の空気を呼び込む。シャツ一枚で煙草をふかしている連中が反射的に肩を竦めたのが分かった。通りの反対側からは、威勢の良い赤ん坊の泣き声が聞こえる。笑ってしまうほどいつもと変わらない風景だった。

 トイレから戻って来たらしい新川が、俺に気付いて頭を下げる。麻雀牌の音が煩くて聞こえなかったが、挨拶を口にしたのだろう。そんな新川を指先だけで呼び寄せる。

「堂薗さん、なんすか」

「ちょっと早いけど昼飯付き合ってくれよ」

 いつもとは違う俺の誘いに数秒だけあたふたした後、新川は犬が尻尾を振るように喜んで、すでに歩き始めていた俺の後ろを着いてきた。


 事務所から歩いて五分ほどのところに、薄汚れた定食屋がある。無愛想な親父が一人で切り盛りしていて、味はまあまあだが量が多い。事務所の連中も普段から良く利用しているようだった。外にはまだ準備中の札が掛かっている。のれんも擦りガラス越しだが、構わず引き戸を開けて入っていく。親父は店の一番奥の席で煙草を咥えながら、競馬新聞を読んでいた。

「おう、悪いけどちょっといいか」

「……」

 黙ったまま店の奥に一度引っ込むと、頭に白いタオルを巻いてカウンターの中に戻って来た親父は、大きな鍋を火に掛けた。

 入り口の見える席に腰掛け、向かいに新川を促す。そわそわと落ち着かない様子を見かねてメニューを開いてやると、あざっすと頭を下げ、それを受け取った。

 カツ丼とうどんのセットを頬張る新川を眺めながら、手酌で瓶ビールを飲む。新川の勺の申し出は断った。昔から誰かに勺をさせるのは苦手だった。

「新川。それ食ったら、これ持ってすぐに家に帰れ」

 これ、と差し出したのは一本の鍵だ。新川は訳が分からないと顔に貼り付けながら口に入れたうどんを飲み込んだ。

「え、どこの鍵っすか、これ」

「内緒だ」

「え?」

「いいか、これを持って家に帰ったら、何日かおとなしくしてろ。もう二度と事務所には来るんじゃねえ」

「いやいや、訳分かんないっすよ、ちゃんと説明してくださいよ」

 突然の俺の言葉に、新川は組を追い出されると勘違いしたのか、狼狽している。

「この鍵の場所の住所は、マリに伝えてある」

 突如登場した女の名前に、新川は反射的に肩を揺らした。

「マリには、鍵を持った奴が来たらあそこから出るように言ってある」

「……堂薗さん、どうして」

「まあ、ちょっとな」

 本当はマリの名前を出すまでは、確実な証拠があった訳ではない。新川が事務所に顔を出し始めてすぐの頃、一度だけマリのいるソープの集金について来させたことがあった。そのときは二人分の金を俺が出し、いつものようにマリのところで時間を潰して帰った。二人は備え付けのテレビゲームで大いに盛り上がっていて、まるで子供の遊び場のようだと思いながら眺めていた。

 その後何度か、新川がマリを指名して店に来ていることを店長から聞いていたくらいだったが、なんとなく勘がそう働いたとしか言いようがない。

「今ならお前はまだ抜け出せる。このまま事務所には戻るな、いいな」

「でも……」

 新川は酷く戸惑っているようだった。それは自分が全うな道に戻ることが出来るのかというものに違いなかった。

「その鍵をどうするかは、お前が決めれば良い。家賃は半年分は前払いにして、大家に話もつけてある。マリの方も、店長には話を通してある」

「どうして、そこまで」

「さあなあ」

 自分でも本当に分からない。

 まだガキと変わらないこいつに救いの手を差し伸べることで、最後に慈善行為をしたという感慨に耽りたいだけなのかもしれない。明白に言葉には出来ないが、俺は確かにこいつをこの薄汚いゴミ溜めから押し上げてやりたいのだと思う。

「母親呼んで、三人で暮らすには十分なところだ。家具やらはそのまま使ってくれ」

 その言葉が最後の一押しになったのか、新川は意を決したように鍵を受け取った。それと同時に顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして、うわ言のようにありがとうございます、と何度も、何度も頭を下げた。

 

 あどけなさを残すその顔を、もう一度明るい世界が照らしてくれれば良いと思う。

 新川と一緒に店を出て、この世界から逃れるかのように背を向けて駆け出したその姿を眺めていると、流れるように俺の前に一台の車が滑り込んで来た。助手席に乗り込む瞬間にもう一度だけその背を見ておこうと思ったが、すでにその姿は遠く路地の向こうへと消えていた。

 助手席に乗り込むと、顔をしかめた須藤が、昼間から飲んでるんですか、と嫌味を言ってくる。

「いいねえ、青春だね」

「酔っ払いのおっさんですか」

「はは、そうかも」

「本部で良いんですね」

「ああ、頼む」


 オヤジはでっぷりとした身体を揺らし、自分の部屋でゴルフグラブを振っていた。

 まだ昼過ぎだが、冬の陽射しは既に西に傾き始めている。低い南の空を通って、足を早めて西の水平線を目指す。南向きのオヤジの部屋は微かに黄色味がかったそんな陽射しに照らされ、いつもよりも温かみを感じさせた。

「おう、来たか」

 そう言ってソファに腰掛けたオヤジは、いつもと変わらない様子で俺を迎え入れた。

「今回は俺の我侭を通して頂いて、ありがとうございます」

 深々と頭を下げると、頭上からは恰幅の良い笑い声が降ってくる。

「お前には随分世話になった。本当は今でも惜しいと思ってるんだ」

「いえ、俺の方こそ、オヤジには世話になりました。俺がこれまで静かに弟と暮らして来られたのは、あなたがまだガキだった俺を、手元に置いてくれたからです」

 それは嘘偽りない本心だった。この人が拾ってくれなければ、今の俺はあり得なかっただろう。今となっては、もしこうなっていなかったときのことは想像できない。

「ここにいることを選んで、後悔してるか」

「今回のことは、俺のミスです。ここにいたことは、後悔してません」

 後悔しているとすれば、それは俺がこの世に生れ落ちたことだ。けれどそれは、自分の意志ではなかった。順番に後悔を辿っていくと、最後は必ずそこに辿り着く。最後には己の後悔ではなくなってしまうのだ。割り切ることも、やり切ることも出来ない。

「そうか」

「はい」

 一度だけきつく目を閉じて、暴走しそうな感情を抑える。ぐっと堪え、来るべきときまでそれを蓄える。

「指はここで詰めなくていい。須藤に持って来いと言ってある。指なんていつ詰めても同じだ、桜木組は今日でなくなる。お前から辿って、うちを追ってくる人間はいない」

 その言葉はオヤジが、俺が失敗するようなことはないと信じている証拠だった。そしてこれは、オヤジから俺への最後の情けだ。

「これは餞別だ、持って行け」


 本部の駐車場に入れた車で待っていた須藤の隣に再び乗り込む。オヤジからの餞別を足元に置くと、ジャラ、と金属同士が触れ合う音がした。麻袋いっぱいに詰まった銃弾を、鷲掴みにしてコートのポケットに手当たり次第に入れる。懐に入れていた二丁の拳銃にもいっぱいに詰めた。

 それを見届けた須藤は、音もなく車を発進させた。

 こうして須藤の運転する車に乗るのも今日で最後だと思うと、なんとなく勿体無く思う。こいつの運転は本人の性格を現したみたいに静かで律儀で、それでいて小言くさい。

「俺の顔になにかついてますか」

 思わずその精巧な横顔を凝視していると、細いフレームを携えた眼鏡を押し上げながら嫌味くさくそう言われる。しかしその声とは裏腹に、表情は至極穏やかだった。

「いや、相変わらずキレーな顔してんなと思って」

「……気持ち悪いこと言わないでもらえますか」

「はは。お前もなんでこんなところにいるのかなあ」

 俺に言わせれば、新川だけじゃない。須藤も、事務所にたむろする連中も、みんな決して悪い人間じゃない。それなのにどうしてこんなゴミ溜めに身を浸しているのか。

「それはそっくりお返しします」

「俺はあれだよ、気狂いだからなあ」

 微かに漂っていたアルコールの幕がゆっくりと引いていくのが分かった。その代わりに、今まで殺して来た人間たちの最期の姿がゆっくりと降り積もっていく。思い出せない者もいる、いっぺんに複数人をやるときは、結局何人やったかなんて覚えていない。

 最後に蓋をするように、腐り始めた父親と母親の肉や臓器が思い出された。

「それでもあなたは、俺の出会った人間の中で、一番優しかった」

 それはいつも俺に対して、小言や嫌味ばかりを言う須藤の口から零れた、餞別だった。



 桜木組の本部は、三階建ての雑居ビルを全て使ったものになっている。下調べをしたところによれば、本部に在中している人間は全部で十一人。桜木組のオヤジがいるのは三階。一階は貸し倉庫になっていて、ビルの入り口には常に一人は組の人間が警備についている。最初は計画を立てるべきかとも思ったが、結局途中で気が狂いだす。計画通りにいったことは一度もないし、今回はなにをしてでもここを殲滅させればいいだけなので、順番に攻めていくことにする。

「じゃあ悪いけど、三十分経ったら後片付けに来てくれるか」

「分かりました」

「あと、零したらちょっとだけ手貸してくれ」

 そう言って、離れた位置にあるビルの入り口に視線をやる。

 万が一やり損ねた人間がいたら組に迷惑が掛かってしまうので、須藤にはここからそういう人間が逃げ出したときにだけ少し手を貸してもらいたかったのだ。

「いいですけど、多分、俺の出番なんてないでしょう」

「そうあるように善処する」

 そう言った須藤の声はもういつも通りに嫌味くさくて、なんだかあと少しだけここで言葉を交わしていたくなった。


 最後の仕事も結局、空は晴れ渡っている。

 車から降りてカモフラージュすることもなく真っ直ぐにビルの入り口へと向かっていく。歩く度に西日に照らされて長く伸びた自分の影が左右に揺れる。銃弾の詰まったポケットが重く、早くこれを使って終わりにしたい。

 それは己の最期だと分かっていたが、恐怖は全くない。あるのはやっとこの狂った人生を終わりに出来る安堵感と、純粋にゲームの終わりを目指す子供のようなワクワク感だけだ。

 そして気付かされる、俺の人生の意味が本当に無くなったことに。誠だけだった。誠だけが、俺の生きる理由で、全てだった――。

 入り口の警備は下調べ通り一人。恐らく持っていても銃が一丁だろう。表で騒ぎを起こすのはどこの組でもご法度だ。

 数メートル、立っている男の顔を認識した途端、スイッチが切り替わったかのように勝手に足が動き出した。コートの裾を翻し、飛び蹴りを胸に叩き込む。突然のことに反応の遅れた男は尻から地面に崩れ落ち、大きく咳き込みながらも胸元に手を差し入れた。

 遅い、遅すぎる。そう思った瞬間には、男の頭は吹き飛んでいた。

「イチ」

 サイレンサーを付けておいて良かった。通りに通行人がいる。銃声がしたら一発で通報されていただろう。

 細身の男の襟首を掴み、往来から見えない位置まで階段を引き摺り上げる。こういうとき、自分でも驚くほどの力が出る。普段の俺の力では、死んだ男を引き摺り上げることは不可能だ。

 ここであまり時間を取られる訳にはいかないが、欲求が制御できない。ズボンのウエストに差し込んであった大型のサバイバルナイフを引き出し、破裂した男の顔のすぐ下、頚動脈に突き立て、両手で力一杯胸の辺りまで引き下げる。抵抗の無くなった皮膚や肉をサバイバルナイフで裂くのはそれほど大変ではなく、ぱっくりと口を開けた。

 そこから一度大きく噴き出した血液は徐々に弱まり、それでもとうとうと流れ出していく。階段を伝って川になり、段々と先に行くほど支流のように枝分かれしていくその様を見ていると、ようやく奥深くにしまい込んでいた憎しみが湧き上がってくる。

 そう。憎い。皆殺しにしてやる。こいつらが誠にしたこと以上の報復をしてやらなければいけない。俺の全てを奪ったこいつらを、殲滅してやる。

 

 建物の構造上、階段は三階まで一直線になっているようだ。足音を消すこともせずに駆け上がる。男の身体から引き抜いたナイフはまたウエストに差込み、二階の扉を蹴破るように開ける。

 耳慣れた麻雀牌を洗う音がしていたが、それがぴたりと止む。それに代わるように両手に持った拳銃から銃声を轟かせる。

 ――ニイ、サン、シイ。

 寄り集まった男共の頭目掛けて引き金を引き続ける。応戦し始めた男たちはみなそれぞれ一丁の拳銃は持っているようだが、その銃弾が当たる気は全くしない。ゆっくりと回転しながらこちらへと向かってくるのが手に取るように分かる。

 自分の意識が全く別の物のように研ぎ澄まされていくのを感じる。

 飛散する血液が雫になって宙を舞っていく。俺は芸術なんて分からないが、なにか芸術作品でも見ているような気分だ。

 向かってくる銃弾を避けながら、事務所内のソファの背に滑り込み、手早く銃弾を詰めなおす。俺の認識が正しければ窓際に一列になって男たちが四人。

 ガキの遊び場じゃないんだ、こんなクソ狭い部屋に男が七人も寄り集まってんじゃねえ。

 片方の銃につけていたサイレンサーを手折るように外し、囮代わりに投げ捨てる。それはタイル張りの床で何度か跳ね、特有の金属音を鳴らした。

 それに一瞬相手の気が向いたのを見計り、男たちの背にしている窓に弾を撃ち込む。大きな窓が四枚。四発の銃弾でそれらが粉々に砕け散り、男たちは反射的に身を屈める。そこに残りを雨のように降らせる。

 狙いが甘かったらしく、銃弾で絶命したのは四人のうち二人だけだった。一人は床に転がり、もう一人はまだ辛うじて銃を構えている。そこへ圧し掛かるようにナイフを振り上げ、駆け迫る。

 無意識に口からなにか声が漏れた。それが言葉になっていたかは怪しく、身体の底から突き上げてくるものがただ音となって、獣の咆哮のように放たれただけだった。

 至近距離で飛び出した男の銃弾が、右の二の腕に当たった。痛みを感じるよりも先に、反射的に左手が右手に握られたナイフを支えていた。今は目の前の人間を殺すこと以外に神経が向かない。

「うがっ、ぁ……」

 刃渡り二十センチはあるナイフが勢いも手伝って男の腹にずっぽりと埋まる。仰向けに倒れた男に馬乗りになり、躊躇無くナイフを引き抜く。

「ぎゃああああああああ」

 ナイフは刺すときよりも抜くときのほうが痛みは何倍も大きく、また引き抜いた傷口からどす黒い血が堰を切ったように溢れ出す。

 痛みに顔を歪めながらも、男は必死に指先に触れる位置に転がった拳銃に手を伸ばしていた。それを足で蹴飛ばし、息をつかせる間もなく再びナイフを突き立てる。男の額は真っ二つに裂け、それでもまだ口元がパクパクと酸素を欲していた。

「死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね!」

 頭蓋骨をゴリゴリと擦る感触を手のひらに感じながらナイフを引き抜き、右目に突き立てる。眼球を抉り出しながら引き、今度は頬に、もう片方の目に。気が狂ったようにナイフを突き立てる。

 そのとき頭の後ろで重たい金属音がした。はっとして振り返ると、床に転がっていたもう一人の男が、その銃口をこちらに向けている。

「お前が死ねえ!」

 その叫びと共に銃弾が空を切って飛び出してくる。

「ひひっ」

 なぜか笑いがこみ上げ、可笑しくて堪らない。こんな死線はもう随分と味わっていなかった。

 ――楽しくて仕方ない。

 さっき銃弾を受けた、右の肩を直撃する。二の腕と肩を撃たれ、流石にもうこっちは使い物にならない。

 顔面を滅多刺しにした男の拳銃を拾い上げ、力の入らない右腕をブラブラさせながら立ち上がる。口角が不自然に上がっているのが自分でも分かる。笑いが堪えられない。

「な、なんだお前! なにっ、笑ってやがる……!」

 威勢の良いだけの小柄なその男の顔面を否応なしに打ち抜く。そもそも狙撃力が揃いも揃って低過ぎる。

 でも最高に楽しい!

 意志の無くなった身体を蹴飛ばし、もう一発銃弾を撃ち込む。銃弾の威力に身体を揺らす様はただの人形だ。

「これでハチ。……楽しいなあ、なあ!」


 動かなくなった右手を固定し、出来る限りの速度で銃弾を詰め直す。

 クソ、やり難くて興が削がれる。

 これだけの銃弾戦の音が聞こえていながら、三階からは誰も降りてこないところを見ると、残り二人はオヤジの警護に当たってるってところか。いいさ、桜木組のオヤジはただの老いぼれだ。引き金を引くことさえ出来ればなんとでもなる。あとの二人も頭を打ち抜かせてもらう。ここまで右腕一本で済んでいるのは上出来だ。

 二階の部屋を後にして、三階への階段を登る。着ていたコートはぐっしょりと血を浴び、黒い生地は錆色に光っていた。まだポケットにもオヤジからの餞別が入っていたが、重くて仕方ないのでそこに脱ぎ捨てる。それでも身体は酷く重く、右腕を切り離してしまいたかった。

 足が思い通りに階段を上がらない。身体中が悲鳴を上げるように軋み出し、感覚の無くなっていた右腕には耐え難い痛みだけが傷に擦り込んだようにじくじくと湧き上がって来ていた。

 それでもその軋みや痛みでは塗り潰せないほどに憎しみと楽しさが勝る。その二つだけが今の自分を突き動かす原動力だった。

 三階の入り口に一人。階段の途中にいた俺を見下ろすように銃口を向けたそいつを、まだはっきりとした意識で脳みそをぶち抜いたが、その前に左の肺を打ち抜かれた。

 ひゅーひゅーと風穴の開いた音がはっきりと聞こえ、頭の隅に靄がかかり始める。ナイフは一応持ってはいたが、下を向くと肺から逆流してくるらしい血が口に溜まり、吐き出さずにいられないので切り刻むのは諦めた。気管が同時にひしゃげたのか、簡単に唾液や血液がそっちに回り、咳き込む。

 ――キュウ。

 緩慢な動きで三階、桜木組のオヤジがいるであろう部屋の扉を開ける。自分の物も混ざった大量の血液を浴びて汚れた左手が滑って、古いドアノブを回すのに酷くてこずる。口に咥えた銃がやけに重く、力を入れた歯が寒くも無いのにガチガチと震えた。

 その部屋は狭く、やけに埃っぽい。桜木組のオヤジは扉の正面を向いて座り、デスクを挟んで大きな男がこちらに真っ直ぐに銃口を向けていた。

「ここまで上がってくるとは……名前を聞こう」

 男は眉ひとつ動かさずにそう言った。

「っはは」

 分かってるくせにつまんねえこと言うなあ。興が削がれるよ。そう口にしたかったが、吐き出したのは口いっぱいに溜まった血液だけだった。

 ガチャガチャと震える左手で銃を構える。視界が斜めになっている。頭に霞が掛かって、男の銃口から吐き出される銃弾が見えにくい。

 それでも俺はこいつを、そしてその後ろにいる老いぼれを殺さなきゃならない。

 引き金を引いた瞬間、身体中に轟音が響いた。認識する前に左足から崩れていく。もろに頭を床に打ちつけ、左手から拳銃が離れる。

「僕は、あなたみたいに一発で頭を打ち抜くなんてことはしません」

 頭上から芝居がかった言葉が降りかかる。癪に障る話し方をする男だ。明滅する意識の中でそう思い、これならよっぽど成瀬の方がましな人間だと思えた。

「だって、こうやって少しずつ命を削るように奪っていった方が、相手の顔が苦痛に歪む様を観察できて楽しいじゃないですか。ねえ?」

 ずい、と近付けて来た男は見た目に反して口臭が酷い。まるで生ゴミだ。

 綺麗に磨かれた靴に唾、ではなく血液を飛ばしてやる。左の眉だけがひくり、と上がったのを見た瞬間、顔面に蹴りを入れられる。蛙が潰れたときのような音が自分の口から漏れ、泣いたときのような感覚が鼻の奥を襲ったかと思った瞬間、ぷしゅ、と血管が切れる音がして、鼻血が噴き出した。恐らく鼻の骨が折れたのだろう。

「はは、無様だなあ! 桐島の狂犬と言われた男のこんな姿は!」

 自分がそんな風に呼ばれているなんて知らなかったなあ、と思いながら、頭を床に擦り付けるようにして男をなんとか見上げる。縛られているわけでもないのに、身体中で動く部分はほんの少ししかなかった。

 狂犬とは言い得て妙だ。けれど、犬だったら随分可愛いもんだなあ。

「所詮、犬だ! 這いつくばって尻尾振ってりゃ良いんだよ!」

 キレると人格が変わるタイプらしい男は、堰を切ったように俺を罵る言葉を並べ立てる。しかし意識は俺には向いておらず、どこか他にあるようだった。

「っいぬに、噛み付かれないように、な――」

 左手でゆっくりと引き金を引く。ほんの一瞬遅れて、男も引き金を引いたが、もう遅い。避ける前に銃弾は男の胸に到達していた。それを見届けた瞬間、身体を真っ二つに裂かれるような衝撃と痛みが走る。男の放った弾は、俺の腹部にめり込んだ。

「っが――」

 意志とは関係なく、口から血が吐き出される。人間は血液の詰まった風船そのものだと理解はしていたが、その場になって初めて気付かされる。あれだけ垂れ流してもまだ、吐き出す血液があるのだと。

 男は一発の銃弾で絶命したらしい。たまたま当たった位置が良かったと思うしかない。男が俺の顔面を蹴ってくれたおかげで、手放した拳銃が指先にもう一度触れなければ、俺はあのまま殺されていただろう。

 もう、指一本だって動かせる気がしない。今なら老いぼれが引き金を引かずとも、俺は死ぬだろう。

「お、い」

 搾り出した声に、老いぼれから返事はない。そもそも、老いぼれは俺がこの部屋に入ってから一度も言葉を発していないし、動いてもいない。

「おい……じ、じい」

 動かない身体を無理やり、床に擦りつけ、這いつくばるようにほんの少しずつ進んでいく。傷口が床に擦れる痛みなどは感じることもなかった。感覚は遥か遠くへと押しやられ、指先から冷たくなっていくのを感じていた。

 気がおかしくなりそうなほどゆっくりと床を這いずっていた俺の耳に、階下から人が階段を上がって来る音が届く。 

 ああ、やり損なったのがいたか。

 そう思ったが、もう頭を入り口へと向ける力もなく、ただ床に転がっていた。

「――堂薗、さん」

 聞き慣れた声だった。足音の正体は、後片付けを頼んでいた須藤だった。

「っひゅー……っ」

 須藤、と音にしたはずが、零れたのは潰れた肺から漏れ出す空気音だけだった。しかしそれでまだ俺に息があることに気付いた須藤は、驚いたように駆け寄って来た。

「堂薗さん!」

 上半身を抱え上げられ、大きく身体が揺れたのが分かったが、首から下が繋がっている感覚が既に無かった。ああ、こいつがこんなに慌てる姿、初めて見たなあ。そんなことを思っていると、自然と口元が緩んでいたのか、

「こんなときになに笑ってるんですか」

 といつもの調子で小言が飛んでくる。

 まさかもう一度こいつの小言が聞けるとは思わなかった。しぶとくてラッキーだったかもしれない。 動かない身体に見切りをつけ、視線だけで桜木組のオヤジへ目をやると、須藤はそっと俺を床に下ろし、そちらへ向かう。

「……堂薗さん、まさか、そんな」

 薄々気付いてはいたが、まさか本当にそうだったとは、俺も驚きだよ。なあ、須藤。

「あなたがこんなになるまで、やる必要なんてなかったじゃないか!」

 桜木組のオヤジは、もう随分前に死んでいたようだ。生前座っていることが多かったであろう椅子には老いぼれた小さな身体の染みが滲み、俺がこの部屋に入って来たときに認識していたのはその染みだった。その席に鎮座していたのは、額に入れられた老人の写真だった。

 誠を殺したのは、桜木組のオヤジの命令ではなかった。恐らく、統べる者のいなくなったこの組の連中が暴走したのだろう。

 それでも俺は許せなかった。誠を痛めつけ、殺し、死んでもなおその身体を玩具のように引き摺り回し、挙句の果てにはどことも分からない山に放り出した。誠は今もそこで、一人きりでいる。

 そしてそのきっかけになった俺自身を、許せなかった。大切なものひとつ守れない殺人狂には、お似合いの最期だと思った。世話になったオヤジや、事務所の奴らの役になれただろうかと思った。

 俺の元に戻って来た須藤は、眼鏡の奥の瞳を伏せ、なにも言わずに俺を抱え上げようとした。俺はそれに対して重力を味方につけ、再び床に転がった。したたかに全身を床にぶつけたが、もう痛みは一切無かった。

「クソッ! どうしてあんたはいつもそうやって!」

 須藤は泣いているようだった。本当はどうだったかは、分からない。その時にはもう、狭まっていた視界はゼロになり、俺は闇に包まれていた。

 須藤は仕事の出来る男だ。俺の頼んでいた後片付けも滞りなく済ませてくれるだろう。そのためにも、俺は早く死ななければならなかった。息のある俺の指紋をナイフで削ぎ落とし、顔面を破壊するのは、死体相手でも辛いことだろうから。

 

 死の足音がすぐ側までやって来ている。見慣れた足元だった。くたびれたローファー。誠が迎えに来ていた。

 

 死んでもなお、都合の良い夢を見ている。

 そこには俺の愛した誠がいた。


ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ