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叫び  作者: 池田
4/5

慟哭

 あれから数日が経っていたが、誠との関係は相変わらずぎくしゃくとしたままだった。恐らくそれは一方的に俺がそういう関係を引き摺ろうとしていたのだろう。誠からはそれまでと変わらず夕飯のメニューの連絡が来ていたし、時には今日も帰ってこないのかといった内容のメールが届いていた。

 俺たち二人の奇妙な関係性――それは捕食する者と捕食される者に似ている――に気づいてしまったあの夜から、俺は仕事が忙しくなったと見え見えの嘘を吐き、事務所に寝泊まりするようになっていた。

 事務所の側には桜木組のボンクラ息子をやった時に利用した銭湯があるし、事務所に朝一番に来るのはいつも俺だったので、誰にも訝しまれることはなかった。いつもは早々と仕事を切り上げる俺が遅くまで残っていることに声を掛けてくる人間はいくらかいたが、仕事が溜まっていると言えば誰もそれに疑問を投げかけることはなかった。

 そうして一週間が過ぎようという頃、珍しく深夜に新川が事務所に戻ってきた。たまたま近くを通りかかったら事務所の電気が点いていたので、誰かが点けっぱなしにして帰ってしまったのかもしれないと様子を見に上がってきたらしい。

「もしかして堂薗さん、最近ここに寝泊まりしてんすか」

 ぼんやりと深夜のバラエティを眺めながら酒を飲んでいた俺は、特に理由もなく新川をお前も一本どうだ、と誘った。誰が買ってきて入れているのか分からないビールの缶を冷蔵庫から取り出した新川は、嬉しそうに俺の斜め前のソファに腰を下ろす。

「あー、他の連中には黙っててくれ。どうせ須藤は気付いてるだろうけど」

「家でなんかあったんすか? 堂薗さんいつも帰るの早いのに、最近遅くまで残ってたから気になってはいたんですけど」

「まあ、ちょっと兄弟喧嘩をな」

 兄弟喧嘩といっても、自分が一方的にどうしていいのか分からなくなっているだけなのだが。いま家に戻っても、誠に対してどういう顔をしたらいいのか見当もつかない。

「兄弟いるんすか」

 普段あまり自分のことを話さない俺がそんなことを言い出したからか、新川は誰の目にも明らかなほど目を輝かせている。俺は俺で、なんでこんなことをと思いはするのだが、新川のあどけなさを残した少年のような顔を見ていると、勝手に誠を重ねているのかするすると言葉が口をついてしまう。いくらか酒の力も手伝っているのかもしれない。

「弟がな」

「へえ。堂薗さんみたいな兄貴がいたら、きっと弟さんも嬉しいでしょうね」

 屈託のない笑みでそう告げる新川はあまり酒に強くないらしく、ビールはまだ缶の途中だったが、目元や頬をほんのりと赤く染めている。

「いや、俺なんかが兄貴で、あいつはきっと俺を恨んでるよ」

 俺がもしもいなかったら、あいつの人生はどうなっていたのだろう。俺が一緒に暮らすことを許さなかったら、俺が父親と母親を殺さず、あいつが居場所のない親戚の家で暮らす必要なんてなかったら、俺がもっと冷静になっていて、あいつの目の前で殺したりしなかったら。

「そうなんですか?」

「ヤクザの兄貴もって、幸せな訳あるか」

「……それは、そうかもしれないっすけど」

 新川は酔いから無理矢理に醒まされたように項垂れ、しかしすぐに真っ直ぐにこちらを向いた。

「俺、母親がいるんすけど。父親はクソみたいな人間で、俺は殴られてた記憶しかなくて、そんな俺を抱えて母親は父親から逃げたんです」

「そうなのか」

新川の身の上話を聞くのは初めてだった。こういうところに流れ着いて来る人間は、誰しも話したくない過去や家族のことがあることが多い。何のわだかまりもなく、真っ直ぐに生きてこられた人間が、こんなゴミ溜めのような場所に辿り着くことはほとんどない。だから誰もお互いの事情を詮索することはない。

「母親は俺を育てるために、身体を売って金を稼いでました。そのことは近所や同級生にも筒抜けで。……俺は段々、俺のことを守ってくれた母親のことが恥ずかしくて、憎くて仕方なくなりました。だけど俺がどんな酷い言葉使っても母親は俺のことを責めたりしなくて、俺が傷害事件で保護観察受けることになったときも、何にも言いませんでした」

 新川の父親は確かにダメな人間だったかもしれない、けれど母親はそこら辺にはいない良く出来た母親なのだということが、たったこれだけの話でもすぐ分かる。

 もしも俺たちの母親が新川の母親のような人間だったら、きっとあんなことにはならなかっただろう。けれどあの女は、母親であることよりも女であることを取った。

「今は別々に暮らしてるんですけど、俺が就職したって言ったらすげー喜んでくれて」

 新川はいつの間にか、俺の背後に母親を見ているようだった。酒の力だけではなく、目元が赤らんでいる。

「就職したっていうのは、全部嘘なんですけどね。須藤さんに声かけられて、ここに出入りさせてもらえるようになった時、咄嗟に吐いた嘘で」

「後悔してんのか」

「後悔っていうか……まあ、はい。っだけど別にここから抜けたいって訳じゃなくて、今話したかったのは、俺には兄弟っていないんすけど、家族ってそういうことじゃないかなって思うんす。堂薗さんと弟さんの間にもし何かがあったとしても、家族だったらそんなこと、全部なかったことになるんじゃないかなって……って、すいません訳分かんないこと」

 熱のこもり始めた自分の言葉に気付いて途端に恥ずかしくなったのか、新川は言葉尻を小さくしながら俯いた。

 頭が足りないなりに、俺を励まそうとしていることは痛いほど伝わっていた。

「新川、ありがとうな」

「え」

「明日は家に帰るよ」

 そう言ってみせると、新川はまるで自分のことのように嬉しそうな顔をした。

「そうっすよ、その方がいいです」

「ああ。事務所も寒いし、コンビニの弁当も飽きてきたところだし」

 そんなあからさまな言い訳をした俺に、新川はなぜか照れたような笑みを浮かべ、もう一度そうっすよ、と繰り返した。



 趣味の悪いピンク色の電飾に照らされた部屋で、マリはいつもよりも楽しそうに携帯をいじっていた。冬の冷たい風が吹き荒ぶ外とは打って変わって、本来の目的用に設定された暑いくらい暖房の効いた個室内は、まるで今が真冬だということをすっかり忘れてしまいそうだ。

 いつもと同じ九十分コースで前払いの金を払い、薄暗い廊下を突き当たりまで行くと、マリが在中している部屋がある。

 こういったソープランドを始めとする風俗店で働く、いわゆる風俗嬢は大抵が大学生のバイトや若いシングルマザーの稼ぎ処になっていることが多い。身体を売るという仕事は女だけに許された特権だろう。しかしその特権を本気になって使う女はあまりいない。余程のバカか、短時間で効率よく金を稼ぐ必要のある女だけだ。そんな中で様々な理由からこの仕事を専業としている女たちが小数ではあるがいる。

 マリはその一人だ。そういう専業は一日の大半をここで過ごすので、個室が一つ与えられている。マリはここにいないときは漫画喫茶を転々としているため、こいつのほとんどがこの狭い悪趣味な常夏の部屋に凝縮されていた。

「ねえ、堂薗さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「なんだ」

 壁掛けのテレビでは例に漏れずニュースが流れている。マリは俺が来たときは、わざわざニュースにチャンネルを合わせているようだった。俺が初めてこの部屋に来たときに、ニュースも見ないバカ女と言ったことを気にしているようで、俺の前でだけでも見ているというカモフラージュのつもりらしい。他の客とは時折余った時間でゲームをしたりするという。

「ヤクザってそんなに簡単にやめられるの?」

 特に質問の内容を想像していたわけではなかったが、あまりにも斜め上をいく質問だったため、一瞬なにを言われているのか理解できなかった。しかしそんな俺を尻目に、至極真面目な顔をして、マリは同じ事を繰り返す。

「お前そんなこと聞いてどうするんだ」

「えっ、どうもしないよ。ちょっと気になっただけ」

 嘘であることがバレバレだが、特にそこには突っ込むことはせずに頭を巡らす。閉じたまぶたの裏に、部屋の照明の色が染みついている。

「そうだな、立場にもよる」

「立場……」

 立場という言葉にいまいちピンと来ていない様子のマリに、さらに言葉を付け足してやる。

「その人間が組の中でどれくらい重要な位置にいるかってことだ。例えば上のお偉いさんと、俺みたいな末端の集金係では全然組の中での立場が違う」

「うーん。じゃあ、集金係だったら簡単にやめられるの?」

「まあ簡単ではないが……」

「映画とかで落とし前つけろって小指切り落とすじゃん」

 俺が桐島組に入ったばかりの頃、一度だけ見たことがある。人間の小指くらいなら簡単に吹き飛んでしまうのだと思いながら、どこか他人事のようにそれを眺めていたことを覚えている。

「集金係は切り落とさねえんじゃないか」

 正確に言えば、どれだけオヤジにその人間が認知されているかによるだろう。末端の人間になれば、オヤジはその存在すら知らない人間がいくらでもいる。そういう末端の奴らは極端に言ってしまえば、逃げ出してしまえばそれで済んでしまうことも多い。それも事務所のトップによって異なったりはするのだろうが。成瀬のところなんかは小指では済まないと専らの噂だ。

「なんだお前、もしかして前に言ってた彼氏って、こっちの奴なのか」

 言葉に呆れたような色を乗せてそう問うと、マリは焦ったように違うよ、ほんとに気になっただけ、と反論したがその様子は明らかだった。

「俺がどうこう言うことじゃないのは分かってるが、本気じゃないなら止めておいた方がいいぞ」

 末端であろうと一度こっちの世界に足を踏み入れた人間は、そう簡単に元の道に戻ることは出来ない。うちの事務所でも年に何人か消えていく者がいるが、最後には頭を下げて結局戻ってくることの方が多い。

 みな一度は思うのかもしれない。自分の居場所はここではなく、もっとどこか明るい場所なのだと。もしくは誰かのためにこのゴミ溜めから足を洗って、全うに生きていこうと。けれど結局すぐに気付かされる。俺たちは社会から、明るい場所から落ち、薄暗いこのゴミ溜めに最終的に辿り着いたのだと。

「一度こっちに来た奴がまともになるのは、口で言うほど簡単なことじゃない」

 はっきりとそう告げると、普段はあっけらかんとしているマリが諦めたような、それでいて裏切られたような瞳をした。

「やっぱりそうだよね」



 マリのところを出る頃には、すっかり外は暗くなっていた。見上げると雲一つない晴天だが、歓楽街から星を臨むことは出来ない。漂白したように白い三日月だけが、すでに南の空に低く顔を出していた。

 事務所に戻ればまた家に帰らずに終わってしまいそうだったので、少し遠いが家まで歩いて帰ることにした。日が暮れるのがことさら早くなったため夜の訪れは早くなったが、普段家に帰る時間にはまだ随分と余裕がある。

 そういえば今日はほとんど携帯を見なかったが、夕飯はなんだろう。そう思いコートのポケットから携帯を取り出してみたが、いつものようなメールは届いていなかった。昨日の夕方のメールを開くと、今日はカレーだよ、と書かれている。返信は結局していない。そのメールの受信時間は今日はとっくに過ぎていた。

 今日はバイトの日だっただろうか、とそんなことをぼんやりと考えてから、とうとう俺に愛想を尽かしただろうか、と女々しい考えが頭をもたげてくる。気持ちが折れそうになるのをぐっと堪えて、歓楽街から足を踏み出す。ネオンの減った寂れた街は、風が一段と冷たくなったような気がした。


 様子がおかしいことに気付いたのは、自宅アパートの下まで戻ってきてからだった。いつも点いている部屋に、明かりが点いていない。バイトからまだ戻ってきていないのだろうかとも考えたが、時計の指す時間は普段よりも十五分ほど早いだけだ。

 不安に背中を押されるように小走りで外階段を上がり、部屋の前に立つ。階下からはしばらくぶりに聞いた女の怒鳴り声が響いていた。

誠がいるときは開けておいてくれている玄関の鍵は閉まっており、念のために確認した台所の窓もしっかりと鍵がかかっていた。

鍵を取り出し部屋を開けると、外とほとんど変わらない冷たく乾いた部屋に迎え入れられる。周りを警戒しながら部屋に上がり、明かりを点ける。ダイニングテーブルの上には見慣れた弁当袋に入った弁当が置かれていた。その側にメモで、『早く帰ってきたらこれ食べててね』と書かれている。

冷たい台所のガスコンロの上には、昨夜作ったカレーが入ったままの鍋が置かれていた。朝出て行ったきり、戻ってきていない。一応メモを裏返してみるが、当たり前だが帰りが遅くなるなどとは書かれていない。

俺がしばらく帰ってこないものだから、これ幸いと高校の友達と遊んでいるのかもしれない。もしくはバイトが伸びているのかもしれない。そう思い、ダイニングに掛けられたカレンダーに目をやる。誠はバイトのシフトが出ると、必ずここに予定を書いていた。しかし、案の定今日の日付の所にはバイトの文字はない。

それを確認した途端、悪い予感が確かな形をもって降りかかってきた。それに全身を包まれる前に、振り払うように部屋を飛び出す。

肺いっぱいに乾いた冷気が充ち、その冷たさに身体の中心から凍えてしまうような気がした。それに反して皮膚は焼ききれるように熱く、頭に血が上っている。探す当てもないが、そんなことよりもただ勝手に足が動いていた。一つも見落とすことのないように、瞬きを忘れて目を剥く。

狭く寂れた街の路地を、我を忘れて駆け巡った。もしかしたら何度も同じ所を通ったかもしれないが、良く覚えていない。覚えているのは頬を叩く風の冷たさと、凍えるような冷たさと蒸発してしまいそうな熱の同居した身体の感覚だけだった。

この時になってようやく、自分が誠のことを何も知らないことに気付いた。誠の行きそうな場所の心当たりも、仲の良い友人の名前一人さえ知らない。誠がどんなことに喜び、どんなことに涙を流すのか、そんなことのひとつも、俺は知らないのだった。

 俺が大切に守ろうとしていたのは、俺の中に勝手に作り上げた空想上の誠だったのかもしれない。

 どのくらい走り回っただろうか、脚の感覚が麻痺し、思わず膝にがっくりと両手をついたとき、携帯の着信が鳴った。藁にもすがる思いでディスプレイを確認するが、そこに表示されていたのは須藤の名前だった。

「須藤、悪いが今立て込んでるんだ。後に……」

「堂薗さん、オヤジが呼んでます。直接本部に来るようにと」

 こんな時になんの用だ、後で行くと言っておけ、と沸騰した頭で怒鳴ろうと口を開いた途端、須藤がワントーン下がった小声で告げた。

「桜木組から届け物が来ているそうです」

 その言葉に、限界点ギリギリだった熱は急激に温度を下げ、寒さのせいか、脚が震えた。



「どうだ、間違いねえか」

「……」

 返事をしない俺に、オヤジは小さな声でそうか、と納得したように頷いた。

 桜木組から届いたのは、たった一枚の写真だった。宛名は無く、封筒の裏に桜木組の紋が入っている。届けたのは組とは全く関係の無い、小金で雇われたホームレスの男だったという。

 写真に写っていたのは、血と泥に塗れた哀れな姿で横たわっている、誠だった。顔は殴られ、ナイフで切られたのか原形を殆ど留めておらず、すぐ側に人物を特定させるために放り出された携帯に付いていた鈴が無ければ、恐らく俺はこの現実を信じようとはしなかっただろう。以前、俺がたまたま携帯を使ったときにぶら下がっていた、同じものを覚えていたというオヤジの目敏さと記憶力に感服させられる。オヤジが覚えていた通り、俺の携帯にも同じものが付いている。誠が今年の秋に行った修学旅行の土産に買って来た物だった。

 制服はズタズタに切り裂かれ、さらに埃に塗れてところどころ擦り切れている。持っていたであろう鞄はその場にはもう無いようだった。

「殺されたあと、車で引き摺られたみてえだな」

「……」

「この様子じゃあ、死体はどこかに捨てられてるだろう。回収するのは無理だ」

「……」

 オヤジの言う通りだ。恐らく死体はもうこの手に戻って来ることはないだろう。

 誠が横たわっているのは、どこかの山中だろう。薄らと苔や雑草が写りこんでいる。土の色は濃い焦げ茶をしており、一年中日の当たらない場所だと分かる。

「これが届いてから、桜木組の方からは特に何も言ってきちゃいない」 

「……すみません。今は良く、考えることが……」

 情けないが本当にその言葉しか出なかった。

 死んだ。

 誠が――。

 その事実だけが巨大な黒い塊となって押し寄せる。理解はしている。だが理解以外についてくるものが俺の中に無い。それ以外は全てその現実の大きさに圧倒され、その場に立ち竦んだままだ。

 俺のそんな様子を見たオヤジは微かに目を伏せ、普段の豪快さからは想像も出来ないほど硬く、淡々とした声で言った。

「堂薗、今日はもう帰っていい。気持ちの整理がついたら、どうしたいか話しに来い。それまでにあちらさんから連絡があったら、お前さんにも連絡する」

「……はい」

「須藤。お前、家まで送ってやれ」

 オヤジは部屋の入り口付近で待機していた須藤にそう言うと、少しだけ間が合って、須藤の戸惑ったような返事が耳に届く。

「いえ。一人で帰れますから」

「そうか」

 そう言って、無言でテーブルの上に置かれていた写真を手に取る。真冬の海に投げ出されたように身体が冷たくなっていて、感覚を失った右手の指先が、何度かテーブルと写真の間を無様に引っ掻いた。それでも漸く手にすると、今度は力の加減が分からずに写真を握り潰してしまった。

 静寂を割るようなその音がやけに耳に残り、覚束ない足取りで本部を後にした。


 頭のてっぺんから爪先まで、小刻みな震えが止まらなかった。握り締めたまま蝋で固められたかのように動かすことの出来ない右手の感覚が、段々と無くなっていく。人が死んでいくときは、もしかしたらこういう感覚なのかもしれないと思った。徐々に身体の自由を奪われ、冷たくなっていく。自分の脳が冷たさを感じ取れなくなったとき、人は死ぬのかもしれない。

 どこをどう歩いたのか全く覚えていないが、日付を跨ぐ頃、漸くアパートへと辿り着いた。その頃には全身が鉛のように重たく、思考は停止していた。

 外階段を登る。奥へと進んで行き、半開きになったままの玄関ドアを開ける。部屋の中には漆黒の海が広がっていた。考えて見れば、この部屋に誠と二人で暮らすようになってから、誠がこの部屋で俺の帰りを待っていない日は殆ど無かった。

 勝手に身体が動き、部屋の電気を点ける。ぼう、とダイニングに明かりが灯ると、俺はコートも脱がずにコンロへと向かった。昨夜から置き去りにされたままのカレーの入った鍋を火にかける。炎は青とオレンジを不安定に行き来しながら、鍋の底を包む。程なくして、冷え切った鼻腔をカレーの匂いがくすぐりだした。耳を澄ますと、蓋をした鍋の中からぷつぷつと沸騰する音が聞こえ、何ヶ所か手当たり次第に開けて見つけたおたまで掻きまわす。

 鍋から湯気が立ち始め、火を止める。洗ってそのままにされていたカレー皿に山盛りに盛り、一人の食卓に着く。

 微妙な温度のカレーが口内に広がる。味はしない。温めが足りなかったのかと思ったが、皿からは大袈裟なほど湯気が上がっている。自分の感覚がおかしくなっていることにそこで漸く気付く。味も温度も感じ取れていない。まるで水に溶かした泥か何かを懸命に口に運んでいるような気分だ。

「ああ」

 意図せず、口から音が零れた。それは言葉というにはあまりにも心許無かった。

「うぅ」

 もう一度。それと同時に泥のカレーに水滴が落ちる。涙だった。

 身体が散り散りになりそうだ。分裂しようとする身体の部品を集める術はない。

 どうして守ってやれなかった。

 どうしてもっと早く家に帰って来なかった。

 どうしてメールの返事もしてやらなかった。

 どうして一緒にこの飯を食ってやらなかった。

 ――どうして、誠が死ななければならなかった。

 人の死は、死体を目の当たりにしてようやくそれを実感できることが多い。その身体の冷たさや、意志を失ったその身体の重たさを感じて初めて、実体を伴って漸く死はそこに現れる。そしてその死体をもってして、その死を悼んでやることが出来る。

 死体を処分するには、人の来ない山奥に捨てるのが一番だ。俺も何度もこの手でそうして来た。けれど漸く、大切な人間を同じ目に合わせられて初めて気付いた。あんな山奥の冷たく湿ったところで誰にも知られずに朽ちてゆくことの悲痛さを。

 誠の投げ出された冷たい手足を、山奥の虫や獣が貪っていく様子を思い描いた。どうして。

「ああ、まこと、まこと」

 思わずダイニングテーブルの上に投げ出していた写真を、引っ手繰るように手に取る。座っていた椅子が大きな音を立てて倒れた。こんなもの、と両手で握り締めたが、引き裂こうという気持ちを寸でのところで堪える。

 持て余した力でカレーが盛られたままの皿を振り上げる。力任せに壁に投げつけると、白い壁に破裂したような染みを作り、皿はいくつかの破片に割れた。そこら中に飛散した。

「ちくしょう、ちくしょうっ」

 拳が壊れるほどにテーブルを殴った。膝に力が入らず、崩れ、テーブルの端に縋るように指を掛けた。

 憎い、憎い、憎い、憎い、憎い。

 殺してやる、殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる。

 みんな殺してやる、微塵も残らないように粉々に切り裂いて、はらわたを引きずり出して、指を一本一本、爪を一枚一枚剥がしてやる。血の海に残るのは肉片だけにしてやる。


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