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叫び  作者: 池田
3/5

過去

 あの日、雨が降っていた。

 俺の手には前日に母親が研いでいた包丁が握られていて、すでに滴り落ちるほどに浴びた血で手がぬるぬると滑った。プラスチック製の包丁の柄に血液は染みこまず、熱を持った手のひらに滲む汗と混じって、乾く様子はなかった。

 日の光の届かない薄暗い奥の部屋は朝から降っていた雨で普段よりも更に暗さを増し、湿気に古い畳の井草が、腐った生ゴミのような匂いを醸していた。

 全身を血に染めた俺を目にした母親はその光景だけで全てを悟ったように身を翻して逃げ出し、一目散に玄関へと向かった。その後を弾む息に苦しさを覚えながら追う。か細い母親の腕を左手で捻り上げるように捕え、板張りの床に引き摺るように倒す。力の加減を知らない子供のように全身をばたつかせながら必死に逃げようと身体を捻り、唯一自由になったままの足で俺の顔や胸や腹を蹴飛ばしてくる。それでもとっくに体格差の逆転した俺に母親が敵うわけもなく、俺は迷いもなく包丁を腹に突き立てた。

 迷うことなどありはしなかった。あの時の光景を俺は音のない無声映画のように思い出すとき、同時にあの時の自分の感情の消失も思い出すからだった。

 母親も、その前に滅多刺しにして殺した父親にも、既にその時には憎しみさえも感じてはいなかった。ただ機械のように目の前の人間を殺すことだけが俺の目的になっていた。憎しみは台所から包丁を持ち出す前に爆発していた。

 腹に突き立て、醜い顔で悲鳴を上げながら、尚も逃げようと身体を捻って這うような体勢になった無防備な背中にもう一度刃を突き立てた。骨っぽく腹よりも抵抗が大きいことを手のひらに感じながら、全体重を乗せて刃を胸まで貫通させる勢いで食い込ませた。

 ひいひい、ひゅうひゅうと穴の開いたような呼吸音をさせながら、母親はそれでも指先で床板をがりがりと引っ掻いて逃げようとしていた。綺麗に整えられた爪が無残に剥がれていく。もう痛みを感じていないのか、それとも包丁で刺された痛みが大きすぎたのか、血が流れる指先に痛みを感じている様子はなかった。

 最期まで弱々しくも無様に抵抗を見せる身体を片手でひっくり返す。とどめをさす前に、引き抜いた包丁で顔を潰した。視界に入れないようにしながら何度も頬や目玉の辺りを細かく突く。母親は心臓を止める前にショック死していた。血溜まりになった顔は黒く塗り潰され、母親がどんな顔をしているかはそのとき以来思い出せない。

 冷静さを取り戻しながら、一発で心臓を貫いた。感触は呆気なく柔らかく、母親が良く揚げた唐揚げの鶏肉の柔らかさを思い出し、その瞬間、自分が酷く空腹だったことを思い出した。

 その数日後、様子を見に来た隣人に見つかるまで、俺と小学生だった誠は、父親と母親の死体の転がる家の中で二人で冷蔵庫の中を漁り、テレビゲームをして過ごしていた。雨の続く季節で死体の腐敗は進み、開いた腹から零れた腸や胃からは肉の腐る匂いが漂い、父親が恐怖に漏らした小便と糞の匂いが、家中に充満していた。



 事務所近くの銭湯に寄り、滞納されている集金に出た。酒屋のじいさんは相変わらず冷たい冬の風に頬を赤くし、ヨロヨロとビールケースを引き摺っている。見かねて手を貸せば、壊れた人形のように何度も礼と共に頭を下げられ、結局今日も滞納分の集金は一円も出来なかった。

 事務所に戻る途中の自販機で煙草を買うために財布を取り出した時に、諭吉を二枚だけセカンドバッグにぐしゃぐしゃに入れた。これで酒屋の今月分の滞納は無くなったが、結局すぐにまた来月の集金がやって来る。こんなことを続けていても、誰も救わないことは最初から分かっている。それでも止めることが出来ないのは俺の勝手なエゴで、じいさんはこの事実を知れば、もう止めてくれと静かに言うだけだろう。

 暫く顔を見ていなかったのでマリの店に寄って行こうかと考えたが、誠からのメールが届いたので止めることにした。

『プロジェクト今日で終わるんだよね? 今晩は唐揚げにしようと思うんだけど、早く帰って来られそう?』

 結局今回も有耶無耶なまま喧嘩はなかったことになり、誠には今日でプロジェクトが終わる予定だとだけ伝えていた。よりにもよって唐揚げか、とぼんやりと考えてから返信を打つ。

「あいつの唐揚げ美味いんだよなあ」

 今日は魚にして欲しいと送ってから、タイミングが悪いと溜息を吐いた。



 夜十一時頃から始まるニュースを何の気なしに点けて見ていると、既視感のある景色が映し出され、反射的にリモコンを握る手に力が入った。

「うわー、あの通りで事件?」

 丁度風呂から上がってきた誠がそのニュースを目にするや否やそう漏らしたので、思わず勢い良く振り返ると、案の定ばっちりと目が合った。

「兄さん? どうしたの?」

 人でも殺しそうな顔してるよ、と茶化すように言われ、自分が無意識に表情を強張らせていたことに気付く。

「お前、ここら辺良く通るのか?」

「良くって程ではないけど、たまに」

「なんで」

「え……この近くのスーパーの特売に行った帰りに、近道だから通るんだよ。あそこあんまり人通りがないっぽいけど、まさかこんな身近なところで射殺事件なんて怖いなあ」

「誠、お前もうあの通りは絶対に使うな」

「そうだね、こんなことがあった後じゃ怖いし、そもそもきっと暫くは通れないよなあ」

「……この通りだけじゃない。もうそのスーパーも使うな。この辺りに近付くんじゃない」

 見当違いの答えを返してくる誠の暢気さに痺れを切らし、自然と語気が強くなる。なぜそんな風に言うのか全く分からないという顔をした誠は一瞬戸惑ったように視線を泳がせたが、すぐにこちらを真っ直ぐに見ると負けじと強い言葉を投げかけてくる。

「なんで兄さんにそこまで制限されなきゃならないんだよ。別にこの通りは使わないって言ってるじゃん。兄さんは過保護過ぎるよ、俺はもう小さい子供じゃないんだよ? それなのにいつもいつも口を出してくるし、大学のことだってそうだろ。俺の話なんて全然聞かないで、いつも頭ごなしに……」

 堰を切ったように勢い良く飛び出した誠の言葉は、今までの不満をいっぺんにぶちまけていることがすぐに分かった。その様子に、途中でなにかを言うことは出来なかった。自分でも分かっていたことだというのに、本人の口からそれが言葉となって放たれると想像以上にきついものがある。

 俺はこんなにも愛する弟に我慢を強いていたのだということが、手に取るように分かった。

「あ……ごめん。俺、そんなつもりじゃなくて」

 俺の顔を見た誠は、ハッとしたように言葉を切った。首から提げたままのバスタオルの両端を握りながら、まるで親に叱られた子供のような顔をする。

「ご、ごめん。兄さん、怒らないでよ」

「怒ってない」

「ほんとに? 俺、兄さんの言った通りにするよ。もうスーパーには行くのは止すから」

『だから、俺を殺さないで』

 音にならない恐怖が、その対象である俺には真っ直ぐに伝わってきた。その様子に途方も無い虚無感を強く感じ、俺は今まで築いてきたものが全て崩れていこうとしていることに気付く。

 どうして今まで気付かなかったのか、不思議なくらいだ。俺が両親を殺した時、誠はまだ小学二年生だった。頼る者が俺しかいない状況で、逃げ出すはずも無い。

 俺が少年院から出たときは、中学生になったばかりだった。その間身を寄せていた母方の親戚は、誠を殺人犯の弟として忌み嫌い、そこに誠の居場所は無かった。そんな時に戻って来た俺と一緒に暮らすことを選ぶのは、至極当たり前のことだったはずなのに、今まで全く気付くことが出来なかった。

 俺は自分のことを、悪魔のような両親から愛する弟を救い出した英雄という、勝手に作り上げた身勝手な妄想の世界で生きていたのだから。

 けれど現実は違う。誠はいつだって俺の機嫌を伺い、怒らせることが無いように良い子を演じていた。誠は俺を愛していた訳ではない、俺という恐怖に組み敷かれて、じっと息を潜めていただけだ。俺は気付かないうちに、あんなにも憎悪した父親と同じことを誠にしていた。

「悪かった。本当に怒ってないから、そんなに怯えなくていい。だけどひとつだけお願いだ、あの辺りには絶対に近付かないでくれ」

「……分かった、もう近付かない」

「ありがとう。今日はもう俺は眠るよ」

 ニュースはすでに切り替わり、明日の天気を伝えていた。代わり映えのない晴天。冬の東京のいつもの天気だ。

「あ、兄さん」

 背中に小さく声が掛かる。それに振り返ってやる勇気が、もう俺にはなかった。

「おやすみ」

 振り返ることなくそれだけ返し、自室のドアを閉める。冬の空気に張り詰めた暗闇が、そこには広がっていた。



 俺はあまり出来の良い子供ではなかった。それでも両親は、初めての子供だった俺を大事に育ててくれた。

 俺が小学四年に上がる冬に、年の離れた弟が生まれた。誠は母親に似て子供の頃から目鼻立ちがはっきりとしていて、近所の人間たちのちょっとしたアイドルだった。両親は誠が生まれてからというもの、すっかりその魅力の虜だった。俺を愛した以上に誠を愛していた。

 最初こそ両親を取られたことに対する嫉妬心が頭をもたげたが、年の離れた弟は俺に良く懐いていて、ヨタヨタとした足取りで後ろを着いてくる姿に、見上げてくる黒目がちな丸い瞳に、そんな気持ちはいつの間にかどうでも良くなっていた。誠は俺さえも虜にしたのだ。

 両親の俺への興味が薄れていることは日増しに感じていたが、誠を中心とした家族はそれなりに上手く回っていた。

 それが崩れ始めたのは、誠が小学校へ上がる直前だった。母親突然、誠にきつく当たるようになったのだ。それと反比例するかのように、俺たちがいる前でも憚ることなく父親に媚を売るようになった。母親という人間しか知らなかった俺は、女に戻った目の前の人間が怖くて仕方なかった。訳が分からなかった。そのうちに父親も母親に浮かされるように雄の匂いを放ち始め、段々と両親は俺たち兄弟のことを忘れていったかのように見えた。

 母親は父親のためだけに家事をした。俺たちはそのおこぼれに預かって、惨めな思いを何度もさせられた。高校に進学していた俺は小さな弟のことばかりが気になり、入っていた野球部を二年の春に退部した。

 俺がこの家の崩壊の真実を知るのは、それからすぐのことだった。その日は朝から強い雨が降り続いていた。家の中はいつも以上に薄暗く、起きてこない両親に代わって誠に朝食を摂らせ、少しずつ身体に合ってきた大きなランドセルを背負った小さな手を引きながら、陰鬱な家を出た。

 その日は委員会があって帰りがいつもよりも遅くなると言った俺に、子供用の傘の下から、誠は途方に暮れたような瞳を向けた。小さな子供がするにはあまりにも不似合いなその表情に俺は一種の恐怖を感じながらも、なるべく早く帰るからな、とその手を強く握った。

 止まない雨の中、俺は予定よりも早く家に帰宅した。乱雑とした玄関にはバラバラに脱ぎ捨てられた父親のスニーカーと、端に丁寧に寄せられた誠の小さな靴があった。母親は買い物に行っているらしかった。

 この頃には父親は酒びたりになり、仕事にもまともに行かなくなっていた。母親は働いたことのない人間で、家は火の車状態になっていた。

 どこかの窓が開いているのかと疑いたくなるほど、外の雨音が家中に響いていた。いるはずの父親と誠の気配が見当たらなかった。何かに掻きたてられるように足を家の一番奥の部屋へと進めていく。靴下越しに感じる、板張りの床の冷たさを強く感じた。熱を持ったように足の裏が熱かった。

 微かに開いた襖から差し込む光が、その光景を映し出していた。締め切られた暗い部屋の中央で、

露出させられた誠の下半身を、みっともない犬のような息遣いを漏らす父親が嘗め回していた。誠はその様子には目もくれず、じっとカーテンの閉められた窓を眺めていた。

 咄嗟には反応出来なかった。目の前で起きている事象が現実のこととして捉えるにはあまりにも醜く、信じ難かった。

 しかしそれは一瞬で崩れ去る。なにかに引き寄せられるように、誠がこちらを向いたのだ。

 時が止まった。あんなにも煩く響いていた雨音は止んだ。誠の色の無い瞳がこちらを一直線に見つめ、俺は弾かれるように台所へと駆けていた。考える間もなく手が勝手に包丁を手にする。

 部屋に戻ると、漸く俺の存在に気付いた父親が、まるで醜い家畜のような目で許しを請うようにこちらを見上げていた。俺は誠の目の前で父親を惨殺し、その後買い物から戻って来た母親も同じように殺した。

 その一部始終を見ていた誠が、俺に殺される恐怖を感じない訳が無かった。それでも俺には自分を、愛する弟を守った英雄に仕立てることでしか、冷たい少年院での数年を過ごす術はなかった。


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