仕事
踏み出した足に体重を掛けるとぎしぎしと頼りない音を立てるアパートの外階段を登っていると、下の階から女の怒鳴り声が上がった。宥めるように男が何事かを口にしているが、近所を気にしているのか声が小さくて聞き取れない。木造のアパートでは大抵の住人のことは筒抜けだ。女の怒鳴り声も男の小声もいつものことで、聞き慣れた声は冬晴れの澄んだ夜空に良く響いていた。
自宅の前に差し掛かると、水が流れる音と部屋の中の電気に照らされた人影が台所に揺れていた。外廊下に取り付けられた換気扇は既に止まっていたが、微かに漂うシチューの匂いが鼻をくすぐる。玄関には鍵が掛かっていなかった。そもそも掛けていても、手馴れた空き巣に狙われたら一発でお終いの、古い鍵だ。
「……」
玄関を開けようとドアを引くと、驚くほど軽かったため少しだけ後ろにのけ反る体勢になった。部屋の中から誠が扉を押し開けたからだった。
「おかえり、兄さん」
何が起こったか理解していない誠は、古ぼけたオレンジ色の明かりを背負い、よろけた俺の姿にきょとんとしながら部屋に迎え入れた。玄関の端にはいつもと変わらないくたびれた茶色いローファーがきちんと揃えられている。その隣に寄せるように、更にくたびれて擦り切れそうな黒い革靴を足で適当に揃えて脱ぐ。
「シチュー出来てるから、早く食べよう。俺、もう腹ペコだよ」
背中に掛けられた声に黙ったまま台所を振り向くと、グレーのスウェットのパンツに高校の制服であるシャツを腕まくりしただらしない格好でテキパキと台所をこなす姿に、外の寒さで硬くなった肩の力がスッと抜けていくのを感じた。凝り固まった肩甲骨の辺りに、ピリッとした痛みが一瞬走る。
血の繋がった弟である誠がここにいる、それだけが俺の生きている意味と言っても過言ではない。
ダイニングテーブルには既にサラダの盛られたボールが鎮座して、俺の帰りを確かに待ちわびていた。茶碗によそられた白米から湯気が上がっている。うちは昔からシチューのときも白米だった。
今朝出て行った時と変わらない部屋の風景に、ホッと息を吐く。自分の置かれている場所があまりにも流動的で殺伐とし過ぎているせいだろうか、それともいつこの平穏な生活が終わるのかという不安のせいか分からないが、部屋に戻ってくると毎晩のようにそれを感じて仕方がない。
「シチューこのくらいでいい?」
「ああ」
「おかわりしてね」
向かい合って食卓に向かう。大切な弟が笑って、側にいればもうそれ以上のものは俺にはなにもいらない。
「兄さん、今日は仕事大変だったの?」
「いや、別にいつもと変わらないが」
どうして、と語外に滲ませると、誠はなんかいつもより疲れてるっぽいから、と本当にそれ以上は何も気付いていない様子で笑った。こいつは昔から、変なところで勘が鋭い。
「ちょっと短期で大きなプロジェクトを任されることになっただけだ」
「ふうん。じゃあ帰ってくるの遅くなったりする?」
シチューの皿から視線だけ上げてそう尋ねられ、壁に掛けられた時計に思わず目をやる。針は午後九時過ぎを指していた。おおよそいつも通りの時間。
「いや、多分変わらないと思う。なにかある時は事前に連絡するから気にするな」
決行日はまだ決まっていない。けれどやる時はほんの数分だ。こういうことは長引けば長引くほど失敗の確立が上がると相場は決まっている。
「そっか。でも無理はしないでね。俺もバイトしてるんだし、来年も奨学金貰えそうだから」
「来年は大学受験もあるし、お前だって塾とか通いたいんじゃないのか」
都立高校に通いながら奨学金をもらう誠は、成績も優秀で運動もそつなくこなし、兄である俺の負担を考えてバイトまでしている。俺なんかには出来すぎた弟だ。
「大学なら、やっぱり俺行かなくてもいいかなって思ってるんだけど……」
俺の言葉に多少顔色を窺う様子を見せながら、誠はそう口にした。
最近の俺たちの専らの揉め事は、誠の大学進学についてだった。親のいない自分たちの生活が裕福でないことや、俺にばかり負担が掛かっていることを気に病んでいるらしいが、俺にしてみれば、俺がここに存在する理由が誠なのだからそんなことはどうでもいいのだ。俺の人生は誠が生まれてからこの方、全てが誠で回っている。
「とにかく大学くらい出ろ。今はそういう時代だろう」
「そうかもしれないけど、兄さんだって大学出てないけどちゃんとした仕事に就いてるじゃないか」
「俺のことはいいんだよ」
どこぞの企業の中間管理職。それが誠の知っている俺の肩書きだった。中卒前科持ちの人間がそう簡単にまともな道で生きていける訳がない。けれど誠は俺の吐いた嘘を全て本気で信じているようだった。
「兄さんはいつもそうだ」
俺の一方的な物言いに拗ねたような響きでそう漏らした誠はそれきり黙ってしまって、シチューの中で角を丸くしたジャガイモやにんじんを、口いっぱいに頬張るだけだった。年の離れた弟に必要以上に依存していることも、過保護になりすぎてしまっていることも、憎んでいる父親のような言葉を放ってしまっていることも分かっているのに、どうしたって感情的になりすぎてしまう。誠はいつだって俺を、冷静でいられなくさせる。
翌朝、いつもだったら誠の作った弁当の置いてあるはずのダイニングテーブルの上には、殴り書きのような文字で『今日は買って食べて』とメモが置いてあった。本格的にへそを曲げたらしい。
昔からあいつの話をきちんと聞いてやらないのは、俺の悪い癖だ。俺が守ってやれば全てがうまくいくなんてつまらない驕りがいつまでも頭をもたげている。誠はもうあの頃のように助けを求めることすら出来ない小さな子供ではないと頭では理解しているのに、咄嗟のことには上手く反応できやしない。
この仕事が終わったらきちんと話さなければ。軽い口喧嘩になると、いつも折れるのは誠の方だ。いつまでもこんなことではいけない。
桜木組のボンクラ息子をやる機会は、思いの外すぐにやって来た。お坊ちゃんにはお気に入りの女のいる店があり、そこに行くときには送り迎えをさせる部下だけを連れている。拳銃くらいは懐に入れているだろうが、酒に酔った人間を殺すのは至極簡単だ。しかも相手は大した死線を潜ったこともない箱入り。ひとつだけ問題があるとすれば、その店があるのが桜木組のシマだということだった。少しでもしくじればこっちの身が割れてしまうだろう。目撃された人間は全て始末しなければならない。関係ない女をやるのは趣味じゃない。
お前の好きなようにやると良い、好きな奴を連れて行けば良いとオヤジは薄らと笑って言ったが、好きなようにやらせる時点で俺が一人で行くことをあの人は知っている。自分以外の誰かはいつだって足手まといで、いつだって己の足枷になる。
「堂薗さん、着きましたよ」
運転手を頼んだ須藤は、桜木組のボンクラが入っていった店から二十メートル程離れた位置に車を停めた。機会には恵まれたが、今日は天気が良すぎる。冬の晴天は空が高く、悪事を隠すことを許さないかのように突き抜けている。
個人的な意見を言わせてもらえば、人を殺すのに一番適した天気は雨だ。それも嵐。全ての音と視界を奪い去るその中で、自分の息遣いに正直に動けば万事上手くいく。回数を重ねているうちにそう気付いた。
「車回して裏で待っててくれ、すぐに済ませる」
「最速記録でも狙ってるんですか」
人を殺すことをまるで用でも足して来るという言い方をしたからか、須藤はほんの少し口端を上げ、からかう様にそう言った。
馬鹿言え、と助手席から降りると、羽織ったコートの襟元から冷たい風が吹き込んだ。真昼間から働きもしないで女と酒に溺れている人間を殺すことに、そんなに時間を割いていられないだけだ。こっちはまだ、今日の分の集金の仕事が残っているのだから。
平日の昼間だというのに通りには人っ子一人いやしない。桜木組のオヤジが名ばかりになったというのは、確かに本当らしい。ボンクラ息子がでかい面をし始めてから、悪い噂ばかりが耳に入る。昔は活気があったであろうこの通りも、今ではすっかりシャッター街と化し、転がるのは浮浪者と空き缶ばかりだ。
店の入り口には、ボンクラの運転手である図体ばかりがでかいのろまそうな男が一人、煙草を吸っている。胸ポケットに右手を差し入れ、近付いていく。こちらに気付いた男は怪訝そうな表情を一瞬だけ見せると、すかさず自分も胸元に手を入れる。怯むことなく歩を進めながら右手をゆっくりと抜き出せば、一気に男の顔は面食らったように表情を崩した。
「すいません。火、貸してもらえますか」
愛煙しているセブンスターは、安っぽい味が自分にお似合いで気に入っている。
「あ、ああ」
男が胸元から手を抜き、そのままケツのポケットへと意識を向けた瞬間。そのでっぷりとした腹に銃口を押し当て、指先に重みを感じながらもあっさりと引き金を引いた。肉に吸い込まれるようにバシュッ、と弾が食い込む音が鈍く響き、男は何が起こったか理解する前に痛みを感じ取ったようだ。
膝から崩れ落ち、砂埃を傷口に擦りこむかのようにアスファルトの地面をのた打ち回る。汚い悲鳴が上がる前にもう一発、くの字に折れ曲がって露になったこめかみに銃弾を撃ち込む。悲鳴は銃声に掻き消された。冬の乾いた空気を震わせたその音が思っていたよりも大きく、反射的に舌打ちが漏れる。
絶命した大男を足で転がすのはあまりにも骨が折れそうだったので、仕方なくそのまま放置して店へと続く階段を足早に駆け下りる。店内がきちんと防音になっていれば良いが、恐らく地下のためその辺は期待できないだろう。今の銃声で中にいる人間はみな気付いたと考えた方が良い。
いつだって引き金を引くまでは冷静で綿密な計画を頭の中でシミュレーションするのに、結局予定通り進んだ試しはない。
自分が根っからの殺人狂だと気付いたのは、殺した人間が片手では足りなくなった頃だった。俺のそんな本性を、恐らくオヤジは最初から見抜いていたのだろう。そうでもなければ、少年院上がりの乳臭いガキを突然組に入れる訳がない。
狭く急な階段を駆け降りて行くと、何事かと様子を見に来たであろうマッチ棒に似たボーイが店内から顔を覗かせているとろこだった。止まることなくそのままボーイに突っ込んでいくように胸元に銃口を当てる。弾は薄っぺらい身体を貫通し、鉄製の柱に当たり、甲高い間抜けな音がした。呻きも上げずに崩れ落ちたボーイはしたたかに頭を床に打ちつけ、傷口から蛇口を捻ったようにとくとくと血を流す。口からわずかに泡を吹いていた。絨毯の上を歩くようにその身体を踏みつけ、歓迎するように開いたままになっている扉の奥へと進む。
いくつもの香水の匂いが混ざり合い、充満する店内の一番奥の個室に、標的はいた。
回転したシリンダーに装填されているのは残り二発。標的であるボンクラを一発で仕留めるとしても、奴の周りに女が三人。少なくても計四発は必要だ。
こちらに気付いた奴ら目掛けて、照準を絞らずに一度引き金を引く。運良く手前にいた女の二の腕に当たり、漸く状況を飲み込んだ他の女たちから耳障りな金切り声が上がる。随分と酒の回った顔をしていた標的は緩慢な動きでやっとジャケットの内ポケットに手を差し入れたが、遅すぎる。まるでつまらない映画をスローで見ているように退屈な様子だった。俺のネジを外してくれる気がしない。
もう一発を卓上に置かれたウイスキーの瓶へと放つと、とろりとした黄金色の液体が流れ出し、辺りに甘い匂いが充満した。その中から硝煙の匂いを器用に拾い、自分の脳を麻痺させる。あまりに現実から飛ぶことが出来ずに、ミスを犯しそうだった。神経が散らばっていて集中できない。
シリンダーに銃弾を装填し、震える手でこちらに拳銃を向けた標的の額へと銃口を擦り付ける。女たちは同じように端で震えている。
「つまらなすぎて、欠伸が出るな」
「だ、誰だ……どこの組のモンだ!」
威勢の良いのは口先だけだ。ハンマーを下げることさえ忘れている。ただし、救いを乞わなかったことは予想外だった。どんなにボンクラでも、あの桜木組のじいさんの息子って訳か。
「あの世で銃の使い方を勉強し直した方が良い。ここを下げなきゃ弾は出ないぞ」
ここ、と言いながらゆっくりと自分の銃のハンマーを下げる。ボンクラは額からダラダラと汗を伝わせながら、慌ててハンマーに親指を掛けようとする。しかし恐怖によって思い通りに指が動かないのだろう。親指の腹はハンマーを呆気なく滑るばかりで、鈍く輝きを放つ拳銃はその力を発揮することなく、カチャカチャと音を立てるばかりだった。
引き金は軽かった。短時間に引き金を引き続けると少しずつ感覚が麻痺してくる。標的の頭は首がもぎれるような勢いで一度後ろへ跳ね、すぐに反動で戻ってくる。黒い穴の開いたそこからは噴水のように血しぶきが上がり、俺の身体へと降りかかる。飛び散った脳みそや皮膚、毛髪がそこら中へと飛散する。卓上に出来ていた黄金色の水溜りにはくすんだ色の肉片がびちゃりと落ちた。
女たちは悲鳴を上げることも出来ずに恐怖に歯を鳴らしながら三人で身を寄せ合っていた。俺がそちらに一歩近付く度に恐怖は絶望に変わり、目は涙でキラキラと光っていた。
二の腕を打たれ痛みを抱えた女から順に殺してやった。痛みがなく確実な方法を取り、標的と同じように頭を打ち抜く。自分の身体や辺りは汚れるが、これが一番銃弾の使用量も少なく、確実に命を奪う方法だ。
最後の女のキラキラと光る目玉が飛び、ソファの背にぶつかって床に落ちた。神経の繋がったままのそれは微かに動いているように感じられ、しばらくの間目が離せない。今にそれがこちらをギョロ、と向くのではないか。
辺りは一気に静寂に包まれた。まるで自分の耳がバカになってしまったかのように物音ひとつ、外を通る車の音さえしない。
店の奥へと続く通路を通り、裏口へと向かう。入って来た入り口よりも更に狭い階段を登り、地上へと出る。
思わず眩しさに目を細め、すぐに冷たい風が顔を撫でる。拳銃を握ったままの右手が痛いくらい冷えていることに気付く。そこだけ風に撫でられても何も感じなかった。
すぐ側に止まっていた車の助手席の窓から中を覗くと、須藤が誰かと携帯で連絡を取っていた。俺の影が車内に落ちたことでこちらに気付いた須藤はあからさまに嫌そうな顔をして、内側から助手席のドアを開けると、ダッシュボードに入っていた大きなゴミ袋を渡してくる。そこへ脱いだコートを放り込み、更に受け取ったタオルで顔と手を拭く。風があるせいですでに血液は固まり始め、タオルで擦っても全てが綺麗には取れなかった。タオルもゴミ袋に放り、血を浴びた拳銃と袋を持って車へと乗り込む。
「どうしていつもそう汚して帰ってくるんですか」
いつも通りの須藤の小言を聞きながら、フロントガラス越しに高い空を見上げ、隠すようにゴミ袋を足元に押し込む。車内のデジタル時計は、この車を降りてから十二分しか進んでいなかった。




