悪人気取りと湖畔の王子
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↑同シリーズですが、こちらを読まなくても楽しめます。
私の名はロシェ・ワーズワース。マリスル王国のワーズワース公爵家の長女で、第一王子のレナト・マリスルの婚約者でもある。
……しかし、私はレナトと結婚する気はない。なぜなら、レナトには他に結ばれるべき相手がいるから。
どうしてそんなことが分かるのかって? それは私が実は転生者で、ここが前世でプレイしていた乙女ゲームの世界だから――まあ、このあたりは説明すると長くなるので省略しよう。
私のゲームでの本来の役柄は主人公のライバル令嬢。レナトは攻略対象の一人だ。
私は転生したことに気づいてすぐ、ある決意を固めた。
――私は悪役に徹して婚約を解消し、何としてでもレナトと本来のヒロインをくっつけなければ!
そして今日がその計画の本格始動の日――王立魔術学園の入学式だ。レナトは私の一つ上の2年生で既に入学しているが、主人公であるユフィ――ユフィ・ケイヴルの入学は来年。
すなわち、今年1年はユフィの入学前にレナトを始めとした周囲からの好感度をどれだけ下げておけるか。そこがポイントだ。
学園生活の勝手が分からないこともあって、まだ具体的な計画は練っていない。が、脳内ではいかにして悪評を広めるかの計画を24時間ずっと考えている。おかげで昨日は家の廊下で曲がり角に気づかずに壁に頭から衝突してたんこぶを作り、侍女のエレインからいつもの呆れ顔を向けられてしまった。
……まあいい。私の予想通りならおそらく、今日中にコンタクトを取ってくる相手がいるはずだ。私は上級貴族専用の場所であるサロンで彼女たちを待ち構えるだけでいい。それは――。
「ワーズワース嬢、お久しぶりにお目にかかります。ルナール侯爵家のフル―ティアと申します。お気軽にルティアとお呼びください」
「ごきげんよう、ワーズワース嬢。先日のパーティー以来ですわね。モンドリアン侯爵家のメイシーですわ」
「ワーズワース嬢、ご機嫌麗しゅう。マトラ侯爵家のヒルデガルドでございます。ヒルダとお呼びください」
――そう、取り巻き! 王子の婚約者の友人としておこぼれに与ろうとしてくる、公爵家の一つ下、侯爵級の家々の令嬢たちだ。
私は他人の顔と名前を覚えるのが苦手なので、ルティアもメイシーもヒルダも「えっと……会ったことがあるような、ないような……?」くらいの認識だったのだが、それは口に出さずに胸の内にしまっておく。
悪評を広めるために、取り巻きは重要な存在だ。いや、取り巻きこそが計画の鍵を握ると言ってもいいかもしれない。彼女たちはこの学園において、レナトをはじめとした王家の生徒、私のような公爵家のものに次いでNo.3の位置にいる。彼女たちは地位相応にプライドが高く、庶民の出の一般生徒や下級貴族の生徒たちを見下している。
何が言いたいかというと、彼女たちは嫌がらせが大好き(なはず)なのだ! そんな嫌がらせ女たちを取り巻きに据えていれば、当然私の評判はどんどん落ちていくことだろう。ここは愛想を振りまいて取り巻きをゲットだ!
「ごきげんよう、皆さま。私、同じ学び舎で皆さまとこれからの時間を過ごせますことがとても楽しみでしたの。とはいえまだ新入生で勝手が分かりませんから、いろいろと教えていただけると助かりますわ」
そう作り笑顔で告げると、3人は取り巻きとして認められたと感じたのだろうか、嬉しそうに少し距離を詰めて口々に私を褒めたてた。それからサロンの日替わりメニュー、上級貴族に与えられた特権、最近の学園内の恋の噂話などをぺちゃくちゃと喋り続ける。私が適当に相槌を打つだけで彼女たちはその度に喜んでくれる。ちょろい。
そんなこんなで会話が一息ついた頃、ルティアが窓の外で誰かを見つけたようで、「ご覧ください、ワーズワースさま」と声をかけてきた。
「あの生徒――サリエ・ガトーという名なのですが……」
「サリエさんというお名前なのね。あの方がどうかしたの?」
窓の外を歩いているのは、すらりと背が高く、足の長い、ショートの栗毛の綺麗な生徒だった。一瞬男子かとみまごうたが、その身体を包んでいるのは女子の制服だ。片手に持った本に目を落としながら歩いていて、何かにぶつかったりしないのだろうかと心配になる。
「最近、目に余る行動が多すぎますの! 下級貴族の出だというのに、身分をわきまえないことばかり!」
そう苛立ちをあらわにしたのはメイシーだった。見ると、ヒルダもうんうんとうなずいている。おっ、これはいい流れなんじゃないか?
「そうなんです。私たち上級貴族とすれ違うときに礼もしませんし……」
「この前、庶民の子に言いつけてお菓子を買わせに行ったときも、口をはさんできたんですよ?」
それから、それから――と、サリエへの不満をぶちまける3人だったが、私は内心その器の小ささにドン引きしていた。
(えっ……頭を下げられないだけでキレるの? 大丈夫? 無事に生きていける? 人生楽しい? それに、庶民の生徒をパシらせてるのか……。あっ、でも悪評を広めるにはこれくらいでちょうどいいのかな……)
外面はにこやかな顔を作り、うんうんと彼女たちの愚痴に相槌を打っていた私だったが、内心では疲れていた。
というか、悪評を適度に広めてくれるけど楽しく付き合える人間って、存在しないのでは……?
――入学して数日経ったある金曜の放課後。
私は学園を探検、もとい散策していた。
この学園は王立で貴族の子弟が通うだけあって、その広さは30分歩いても端から端までたどり着けないほどだ。ただし敷地の大部分を占めているのは豪奢な庭園、学生にはもったいない大きな寮、林――なぜこんなものが学園にあるのかはよく分からない――の3つで、校舎は中央に密集する形となっている。
いま私は、その林の小道を歩いている。人気はなく、小鳥がうたい、草木が風に揺れて葉が擦れる音だけが聞こえてくる、心地よい空間だ。お嬢様たちのくだらないお喋りを毎日聞かされている私にはちょうどいい保養だった。
と、小さな湖にさしかかったとき、道から外れた湖のほとりに腰かけている人影を見つけた。
なんとなく興味をそそられ、道を離れて近づいてみる。どうやら相手は本を読んでいるようだ。と、向こうが私に気づいたのだろう、顔をこちらに向けた。
――って、あの上級生たちが散々悪口を言っていた、サリエさんじゃん!
私は気まずさを覚えてなんとなく立ち止まってしまうが、サリエは立ち上がってこちらに近づいてきて、ついには私に話しかけてきた。
「こんにちは。見ない顔だけど、新入生の人かな?」
私はびっくりした。というのも彼女の笑顔がとても素敵だったから。屈託のない、とはサリエのためにあるのではないか、と思うほど爽やかな笑みだった。その立ち居振る舞いには余裕と確かな自信を漂わせていて、それも彼女を魅力的に見せるのだった。
私はおっかなびっくりしながら、とりあえず無難な答えを返す。
「あ、あー、そうなんです」
「そうなんだ。ここにはどうして? 人が来るなんて珍しいからさ」
「ちょっと散歩をしに……あっ」
サリエを直視できず宙にさまよっていた私の視線は、彼女の手元にふいに吸い寄せられた。
「その本、リルカの詩集ですよね? 私、リルカが好きなんです。サリエさんも?」
それを聞いた瞬間、サリエの顔がぱっと明るくなる。その表情は四つ葉のクローバーを見つけたときの5歳児のように無邪気で、私までなぜか嬉しくなってしまうような、そんな色を帯びていた。
「そうそう! ぼくもサリエが好きでね。……って、どうしてボクの名前を?」
「あ、あー! 上級生が、サリエさんのことを口にしていて……」
サリエはあたふたする私に対し、くすりと笑って言った。
「いいよ、隠さなくても。ぼくは悪い意味で有名だから」
「えーと、その、はい」
「きみの名前は?」
「ロシェ、と言います。ロシェ・ワーズワースです」
その名前を聞いたとき、サリエの顔が驚きに染まる。……しまった。この王国でも学園でも、「ワーズワース」の名はそれに付随した権力と一体となって語られることを失念していた。
私はもしかしたら急にサリエがかしこまって、よそよそしくなってしまうのではないか、と思った。事実これまでも、パーティーで仲良くお喋りしていた子が、名前を聞いた瞬間にかしこまった、あるいは媚びを売る態度になり、ひどく悲しくなった経験が何度もあったのだ。
――だが、私のその予想は外れた。
「ワーズワース公爵の一人娘じゃないか! へえ、そんな方にお目通り願えるとは、光栄だね」
サリエはいたずらっぽい笑みでそう言った。そこには私の家の名への畏怖も、権力へすり寄ろうとする姿勢も全くなく、サリエはサリエのままだった。
それから私たちはリルカの詩について一通り話したあと、話題は別の作家――シェラ、アディスといった古典派の詩人から、最近初の詩集を出した期待の新人まで――についてもたくさん話した。サリエの感性は鋭く、その解釈は豊かな情緒とユーモアたっぷりの表現によって紡がれ、私は彼女がますます好きになった。私は詩を読むと言っても転生後に教養として詰め込まれた中で初めて魅力を知った口であるし、表現力も拙いものだったけれど、サリエはじっくりと私の話を聞き、相槌を打ち、ときには聞き返してくれるおかげで、会話は非常に楽しいものだった。
会話がひと段落ついたところで、サリエが懐から懐中時計を取り出し、ところで、と言った。
「ぼくは用事があるから、もう行かなきゃ。今日は楽しかったよ、ロシェ」
「はい、私もです」
「じゃあ、また来週もここで会おうね」
「はい、また……って、えっ?」
と、いつの間にか約束を取り付けられて私は戸惑ってしまう。そんな私を見て、サリエは近寄ってきて――
――なんと、私の額に軽く口づけをした。
「えっ、……?…………!!?」
突然の出来事にまともに口をきけなくなる私に、サリエはあのチャーミングな笑みで、
「誓いのキス。来週も来てくれるように、ね」
と一方的に告げ、手をひらひらと振りながら去っていった。
私はといえば、突然キスされたことへの驚き、貴族の間ではキスってあいさつ代わりだったっけ? という思考、約束のキスというロマンチックなものを平然とやってのけるサリエへの呆然とした思いなどが頭を支配して、ぐるぐるとめぐり続けた。そしてその次にやってきたのはどうしようもないほどの恥ずかしさだった。
沸騰するほどの熱に頭が浮かされている私にも一つだけ分かることがあった。
――サリエは、女たらしだ……!
それから私は、週の大半はルティアなどの取り巻き(1年生にも取り巻きができた)と過ごして彼女たちの愚痴に相槌を打って過ごし、金曜になるとさりげなく姿を消し、あの湖畔でサリエとこっそり会っておしゃべりに興じる、という日々を過ごしていた。
金曜のサリエとの会話は周囲の令嬢たち――噂話、パーティー、そしてもっぱら男子たちについての話しかしない――とのやり取りに疲れを感じてしまう私にとっての、一種の清涼剤だった。サリエは詩以外でも、文学、絵画、劇といった芸術的な面での感性が豊かで、私もそうした物語が好きだったから、話していてとても楽しかった。といっても、サリエが語る種々の作品の大半を私は知らなかったから、ただ相槌を打つだけになってしまうことも多かったけれど。でも、サリエが勧めてくれる作品はその有名無名に関わらずとても面白いものばかりで、それらに触れるたびに私がそれまで知らなかった世界を、その作品たちは教え、私の世界を広げてくれるのだった。
その内に知ったのは、サリエはあまり人と関わりを持たない性質だということだった。あの林の中の湖のほとり以外でも、校舎の近くでときたますれ違うとき、彼女はいつも独りで、気難しそうな顔をしていた。どうして私に見せるあの笑顔を学園では見せないのか、と私がたずねると、彼女は気にする様子もなく、
「気が合う相手がいないんだ」
とだけ答えた。それから、
「ロシェは特別さ」
といたずらっぽい笑みで付け加えるものだから、私は照れて何も言えなくなってしまった。もう! もう!
――そのころ、サロンでは。
あのルティア、メイシー、ヒルダが紅茶をすすりながら、ロシェのいない場で変わらずぺちゃくちゃとおしゃべりに興じていた。
そこでルティアが思い出すのも嫌だといったふうに言う。
「にしてもあのガトー嬢! 本当にいまいましいと思いませんこと?」
「そうですわね。最近あまりにも行動が目に余りますし、一度痛い目を見たほうがいいのではありません?」
「あら、そういえば……」
と、そこでメイシーが思い出したように言う。
「聞きまして? 彼女、司書の方に特別扱いを受けて、高価な本を持ち出したとか……」
「高価な本?」
「ええ、なんでも有名な詩人が無名だったころの初版本で、世に出回った数が少なく、非常に貴重だとか。全く、司書にまで特別扱いを要求するなんて、本当にあつかましい方ね」
「……メイシー、ルティア、それ、使えるんじゃないかしら」
「えっ?」
「そんなに高価な本をもし台無しにするようなことがあったら、どうなると思います?」
「それは……!」
「まあ……! でも、彼女にはちょうど良さそうね」
メイシー、ルティアは、最後まで聞かずともヒルダの言っていることを察し、それからはひそひそ声で話を始めた。
「あ、そういえばなんだけどさ」
サリエが何気なく切り出した次の言葉に、私は耳を疑う。
「リルカの『誰がための祝い』の初版本が手に入ったんだよね」
「へえー……って、ええっ!? あの200冊しか刷られてない、幻の初版!? いいなあー、どうやって手に入れたの?」
「司書のレンカさんと仲良くなってね。あの人は本の蒐集が趣味でもあるんだけど、お願いしたら貸してくれたよ」
「そうだったのね……」
「うん、それで、ロシェに貸してあげようと思って」
「うん……うん? えっ!?」
そう言うとサリエは、バッグを漁って本を取り出そうとする。
「ちょ、ちょっと待って! 『誰がための祝い』の初版本って、オークションで300万グルドの値が付くって、それを借りるだなんて」
「ロシェは公爵令嬢だから、それくらいの本の扱いには慣れてると思ったんだけどな」
「確かに実家にはそれくらいの値段の本がいくつもあるけど……。いつまで経っても慣れないわね」
「大丈夫、大丈夫。価値を分かってるなら丁寧に扱うよね? はい」
「ええ……」
おそるおそるその古びた本を受け取ろうとした私だったが、サリエは私の手が本に触れる直前でひょいと頭の上にあげてしまう。
私は背伸びして手を伸ばすが、サリエは背が高いので届かない。懸命に手を伸ばす私を笑って見ている。
「ちょっと、サリエ! それじゃ取れないじゃない」
するとサリエはこんなことを言いだした。
「貸すのはいいんだけど、ひとつお願いがあってね。交換条件、かな?」
「こ、交換条件!?」
私は思わず自分の身をかき抱く。というのも、最初に出会ったときのキスも含め、これまでさんざん弄ばれてきたからだ。ああ、思い出すのも恥ずかしい出来事の数々……。今度はいったい何をされるのだろう。想像するだけで震えてしまう。
「ロシェはぼくのことを何だと思っているのさ」
「キス魔、女たらし、からかい屋……?」
「ひどいなあ。でも、女たらし以外は事実かもね」
くすくすと笑いながらサリエは続ける。
「ロシェの持ってる『誰がための祝い』を借りたいんだ」
「私の? 実家にあるから、エレイン――侍女に取りに行かせれば、明日には持ってこられるけど。どうして?」
「この本を改めて読みなおしたら、もう少し深く味わいたくなってね。でも、この初版本は取り扱いに気を遣ってしまって、それどころじゃないんだ。ぼくの実家は遠いから届けてもらうにも時間がかかるしね」
「そういうこと。なら、大丈夫よ」
「ありがとう、ロシェ。お礼にキスしてあげる」
「あーあーあー! それはいいから!」
本当に、サリエのキス魔ぶりには困ったものだ、と私は思った。
――四日後。
その日は前日の雨から打って変わって快晴だった。昼休みになり食堂へと歩いていく途中、中庭を横切るサリエが目に入る。相変わらず手に持った文庫本に目を落としながら歩いている。
声をかけようかとも思ったが、私とサリエは湖のほとり以外では他人を装うことにしている。これは私の希望ではなく、サリエがその方がいいといったからだ。彼女曰く、「面倒なことに巻き込まれたくない」と。
だから私は気にせず食堂へ向かおうとした――が、そこでふと立ち止まる。
(あれは……ルティアたち?)
ルティア、メイシー、ヒルダがサリエを呼び止めていた。少しして、四人は校舎や食堂とは反対の、林の方へ向かっていく。
私は気になって後を付けることにした。
林の中の人気のない場所へ来ると、真っ先に口を開いたのはサリエだった。
「どうしたんだい、フル―ティア嬢? それにメイシー嬢にヒルデガルド嬢も? どうやら楽しくおしゃべりというわけではないようだけど」
「その気取った口調をやめなさい。私たちは貴女より階級が上なのよ?」
「『学び舎においてはみな平等』……この学園の校是だろう?」
「あなたのそういうところ、嫌いだわ」
ヒルダが吐き捨てるように言う。
「一度だけ言うわ。金輪際、出しゃばりな真似をするのをやめなさい。身分をわきまえないあなたの振る舞いの数々は、生徒以前に淑女としてふさわしくないわ」
しかしサリエが意に介する様子はない。むしろ、不敵な笑みを浮かべている。
「『淑女としてふさわしくない』ねえ。親の地位にものを言わせて他人をこき使ったり、横柄な態度をとってる君たちがそれを言うとはね」
「あなた……!」
「要件はそれだけかな。ぼくは戻るよ」
「待ちなさい!」
メイシーがサリエの手首を掴む。彼女が本を持っている方の手を。
そしてサリエが抵抗することもままならないうちに、本は手を離れ、べしゃ、という音を立てて土の地面の小さな水たまりの中に落ちた。
サリエの顔がさっと青くなる。手を振り払い、地面に膝をついて本を拾い上げるが、それは無残にも水浸しの泥まみれになってしまっていた。
「なんてことを……」
「ふん、いい気味よ」
メイシーたちが高笑いする中、サリエは本についた泥を懸命に服でぬぐおうとし、それを見てさらに三人は笑った。
(見つけた!)
――いた。サリエと、あの3人だ。林の中に入られてから見失ってしまったが、ようやく見つけることができた。
と、安堵する暇は私にはなかった。そこには膝をつき、スカートを泥まみれにしながら上の服で本の泥を拭うサリエがいて、三人はそれを笑いながら見下ろしていたから。
悲嘆に暮れるサリエを見たとき、私はかっと頭に血が上り、駆けだしていた。
「あなたたち!」
「ロ、ロシェ様!? なぜ、ここに……」
ヒルダは動揺していたが、メイシーが私の前に立つ。彼女は落ち着き払い、笑みを浮かべて言う。
「どうしたんですの? 私たちは、最近サリエ様の行いがあんまりなものですから、注意してあげてらしたの。ロシェ様ならお分かりになりますよね?」
私は黙っていた。黙って、水を吸ってたわんでしまった本を手にうなだれるサリエを見つめていた。
ルティアがわざとらしい声で続ける。
「あらあら! その本、『誰がための祝い』じゃありませんの! そういえば、サリエ様は貴重な初版本を司書の肩からお借りしていたとか……。これは弁償しなければいけませんねえ」
本当だわ、あらまあ、とヒルダとメイシーも同調する。そこでサリエはようやくルティアたちの意図に気づいたのだろう、普段は優しい笑みが湛えられているその顔には、今や強い怒りの色が浮かんでいた。
「きみたちは……! そんなことのために……!」
「サリエ」
私は静かにサリエの名を呼ぶ。彼女はびくりと肩を震わせ、口をつぐんだ。
私は胸の内に突き上げてくる怒りを抑えながら、ゆっくりと告げる。
「この本が泥まみれになったのは、貴女たちのせいでしょう? メイシーさん、ルティアさん、ヒルダさん」
メイシーの顔がさっと青くなる。こちらはカマをかけただけだが、見られていたと思ったのだろう。と、そこでルティアとヒルダが口々に言う。
「ロシェ様! 本を濡らしたのは、そこにいるサリエ様が落としたからですわ!」
「そうです! メイシーさんはただ、手首を掴んだだけで……」
「黙りなさい!」
私が一喝すると、その二人もぴたりと黙り込んだ。
「この状況を見てわからない者がいると思って? 言い逃れはやめなさい」
そこで観念したのか、メイシーがこちらを睨んで言い返してくる。
「どちらにせよ、300万グルドの本を、彼女が借りている間に台無しにしたことには変わりありませんわ! もっとちゃんと保管しておけばよかったのよ!」
そうよ、そうよ、と残りの二人も同調する。私はただ、だまって彼女たちを見つめた。最初は威勢の良かった彼女たちも、次第に口数が減り、ついには黙り込んでしまう。
そこで私は静かに言い放った。
「それ、私のなの」
その言葉を聞いて、訳が分からないという表情を浮かべる三人。
「聞こえなかった? それは私の『誰がための祝い』なの。私がサリエさんにお貸ししたのよ。代わりにサリエさんから300万グルドの初版本を借りてね」
「そんな……!」
「嘘だと思うなら、最後のページを見てごらんなさい。『ワーズワース家 所蔵』と書いてあるはずよ。
その言葉でこれが冗談ではないと悟ったのだろう。三人が顔面蒼白になる。
「しかもその本、私が祖父から借りていたものなの」
「えっ……」
「この場合、私が『もっとちゃんと保管しておけばよかった』のかしら?」
「あの、ロシェ様、私たち、そんなつもりは……」
三人は頭を垂れながら、弁解の言葉を述べる。私はただ一言告げた。
「去りなさい」
「えっ?」
私ははっきりと、威厳と強さを込めて口にする。
「いますぐこの場から去りなさい! 貴女たちにできるのは、私の目の前から消えることだけよ!」
「ひっ!」
その言葉で三人は逃げるように校舎の方へ走っていく。
私は膝をついたままぽかんとしているサリエの方を見て、手を差し伸べた。
「サリエ、ほら。立って」
「でも、泥が……」
「いいから」
私は彼女の手を掴み、ぐいと引き寄せて立たせる。彼女は上の服もスカートも泥まみれだった。わたしはそれを手で取り除こうとする。
「やめて! いいから、ロシェ。それに、あの本はきみの祖父の形見だったのに……」
「あ。それ、嘘だから」
「え?」
呆気にとられるサリエに私はいつもの仕返しとばかりに言う。
「そもそも私の祖父は、二人とももう亡くなってたのだったわ。彼女たち、気づかなかったけどね」
サリエはしばらく呆然としていたが、それから、ふふ、あはは、と笑い出した。けれどその目からは涙が珠となって零れ落ちていて、私はハンカチを取り出してそれを拭った。
「それにしても、ひどい汚れよう。エレインに言って替えの服を用意してもらわないと……。もう昼休みが終わってしまうし」
「そんなこと! それより、ロシェが……」
「私が?」
「だって、彼女たちは有力貴族だろう? ぼくはいいけれど、きみは関係を悪化させたら……」
それは確かにそうだ。まずい、後先考えずに行動してしまった……。
――いや待てよ? これって……。
「私はいいの」
「なぜ? きっと色々なことに影響が及ぶだろう?」
不思議そうな顔でたずねるサリエに、私は胸を張って言う。
「なぜなら、『悪評を広める』のが私の目標だから!」
意味が分からずぽかんとしていたサリエ。けれど、
「何それ……。やっぱりロシェは、ちょっと変だよ」
と、次にはいつものあの屈託のない笑みを見せてくれた。
――けれど、そのとき私は気づいていなかったのだ。木の陰に一人の生徒が隠れていたことに――
――数日後。
私はエレインからの報告を聞いてわなわなと身体を震わせる。
「な……! そんな……!」
「お嬢様、これは当然の結果であるようにエレインは考えますが」
「そんなはずは……。なんで……なんで……!?」
いつものポーカーフェイスのエレインを横目に、私は思わず部屋の中で叫んでしまった。
「なんで『学園のプリンスを高慢ちきな侯爵令嬢たちの嫌がらせから守った』ことが学園中に知れ渡って、中流以下の階級の生徒たちからの人気が爆発的に上昇してるの!?」
「お嬢様……。もしかして本気でまた『ご自分の悪評を広める』ことに取り組んでおられたのですか?」
「エレイン!」
私はあきれ顔の侍女の首元を掴んでゆっさゆっさ振り回す。それを意にも介さず「何でしょうか」と続けるエレイン。
「どういうことなのか、説明しなさい!」
「はい。実は――」
――以前から、フル―ティア・ルナール、モンドリアン・メイシー、マトラ・ヒルデガルドの三人は、実家の家柄を盾にした横柄な態度で下級貴族や庶民の出の生徒たちから嫌われていた。逆に、彼女たちがその権力を振りかざすたびに割って入って注意したり、そうした身分の低いものたちの味方についてくれるサリエ・ガトーは、女子ながらもその背の高さと中性的かつ魅力的なルックスも相まって、中流以下の生徒たちからは絶大な支持を有していたのだ。
そして今回の事件の一部始終を目撃していた生徒が実はいたのだった。彼女はちょっと――ほんのちょっとだけ――事件を脚色して、ロシェがサリエを嫌がらせから救ったことを大げさに、周囲の友人たちに語った。その友人たちがまたほんの少し脚色して語り、それは噂話として瞬く間に生徒の間を流れ、ついには――
「お嬢様は身分で人を差別しない高潔な人格者で、かつ公爵家の娘としての威厳を併せ持ち、サリエ様の窮地を救った、と……」
「そんな……!」
「あ、あと300万グルドの本がお嬢様のものに替わっていたのも、悪だくみを見抜いたお嬢様の策となっています。事前に悪だくみを見抜き、ご自身の本を犠牲にしてうまく侯爵令嬢たちを出し抜いたと」
「な……! 本が入れ替わったのはただの偶然なのに……!」
わなわなと震えるロシェ。そんな彼女に、エレインがポーカーフェイスを崩さずに告げる。
「まあ、そこは私が脚色した部分なんですけどね」
「あなた、本当に私を主として敬ってる!?」
「あはは、まあいいじゃないか。上流階級の、それも特権を笠に着るような人たちからは評判が落ちたみたいだし。私たちの味方をしてくれないって」
「にしても、人気が上がりすぎなのよ! 今日だって、見知らぬ生徒から16回も『ロシェ様、お手に触れてもよろしいですか……?』って聞かれたのよ?」
「その度に手を握ってあげたの?」
「そうよ、そうしたら、感激してきゃあきゃあ言うんだもの。手を握っただけで……」
「……ふぅん」
「サリエ? あなた、どうしてちょっと不機嫌そうなのよ?」
「別に? 何もないけど?」
「そう? それならいいんだけど。そういえば、『ロシェ様はサリエ様と殿下、どっちを選ぶんですか?』っていうよく分からないことも何回か言われたわね……」
「あ、もしかしたらぼくがロシェにキスしてるところ、見られたのかもね」
サリエは何気なくそんなことを言う。
「えっ? それはまずいわよ! 私は殿下がいるのに……いや、うーん、いいのかも?」
「いいんだ!?」
サリエが私の言葉を聞いてびっくりする。私はあわてて付け加えた。
「あっ、不貞したいとか、そんな意味じゃないわ。ただ、殿下と私は政略上の婚約だし、本当に愛するお相手がいる……はず? だから」
「ふーん、なんだかよく分からないけど、やっぱりロシェはちょっと変だよ。殿下と婚約してるのに悪評を広めたい、なんて。今の言葉もそうだけど、婚約を破棄したいみたい」
「えっ!?」
「まあ、そんなことあるはずないよね」
そうしてくすりと笑うサリエ。そこでふと気づいたように言う。
「あ、ロシェの肩のところ、虫がいる」
「えっ!? どこ、どこ!? 取って! お願い、私虫はダメなの!」
「うん、取ってあげる」
そうしてサリエは私の顔の横に手を近づけ――
――虫を取るふりをして、そっと頬に口づけた。
「!?」
「あはは、油断したね」
「もう! サリエったら!」
――そのときサリエの頬がわずかに朱に染まっていたことに、ロシェが気づくことはなかった。
気に入ってもらえたら評価やブックマークをしていただけると、励みになります。
前書きにも載せましたが、同シリーズです↓
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