モノクローム・トーン
それは、ほんの一瞬。
たまたま訪れた全国高等学校美術展に飾られていた一枚の絵。百を超える絵が飾られている中で、それは一際輝いて見えた。ふらりと吸い寄せられるようにその絵の前に立った僕は、絵を食い入るように見つめた。
絵の下に小さく書かれた優秀の文字と、描いた生徒の名前。
「宮原智也......。西条高校一年......」
名前と絵を交互に見る。一枚の紙に描かれているのは海と夕日。絵としてはありきたりなその二つ。ただ、他と違うのはそれらが鉛筆だけで描かれているということ。細かな明暗、波の動き、そして太陽の輝き。色は無いのに、どの絵よりもリアルに見える。
ああ、綺麗だ。
中学三年生、青葉翔夜の進学先が決定した瞬間だった。
--四月。真新しい制服に身を包んだ僕は、数ある部活動勧誘をすり抜けて、真っ直ぐに美術室に向かう。
三階、東棟の奥。薄暗い廊下の先にある美術室と書かれたドアを開け、一瞬、光の眩しさに目を瞑る。
「あ?入部希望者か?わりぃけど、ここじゃなくてブースに......」
肩越しにこちらを向く先輩であろう男の人。その手には一枚の絵。完成したその白黒の絵を見て、僕は思わず叫んだ。
「宮原智也さんですか!?」
面倒くさげだったその表情が一変。驚いたというよりは、まるで不審者を見るかのような......。
「い、いや、別に怪しいものではないんです!去年の全国高等学校美術展で絵を見かけて、ファンになって、それで......!」
慌てて説明する僕に小さく肩を震わせた彼は今度は体ごとこちらを向いた。
「へぇ、面白い後輩だな。お前、美術部に入りたいの?」
僕はちょっと躊躇って、彼から視線を逸らす。
「えっと......その、ファンなんですけど、美術部に入りたいわけではなくてですね......」
中学は運動部だったし、と付け加えた僕に一瞬不意を付かれたように目を開いて、宮原先輩は噴き出した。
「まじかよ!ここまで来て、美術部の俺の前で入部希望じゃないって!ある意味すげぇな!」
心底面白そうに笑う彼に少しむっとして、僕は言い返す。
「なんですか!先輩のファンになってしまったから仕方ないじゃないですか!」
僕の言葉に一瞬動きを止めて、また面白そうに笑った。ますます笑われている意味が分からず、むっとするよりは首を傾げる。
それすら愉快だと思えるのか彼は目尻に溜まった涙を拭う。
「熱烈な告白をどーも」
彼のそんな言葉に顔が沸騰したかと思った。確かに、よくよく考えれば今どきないくらいの熱烈な告白だ。しかも相手は初対面の先輩。これでは引かれても仕方ない。
「で?どこが好きなの?」
「え?」
羞恥やら後悔やらで頭を悩ませていた僕は先輩の質問の意味が理解出来なかった。先輩は手に持っていた作品を机に置いて、改めて尋ねた。
「だから、俺の作品。どこが好きなんだよ。ファンなら好きなとこの一つや二つあるだろ」
どこが好きって、そりゃあ......。
「そりゃ、他の作品と比べてずば抜けて絵が生きてるとこですかね。初めて見た時は感動してそこから動けませんでしたよ!」
興奮気味に喋る。宮原先輩がまた小さく噴き出したが今度は気にならなかった。
「もともと絵を鑑賞するのが好きなんですけど、僕自身描く能力はからっきしで...。同年代でこんな絵を描ける人がいるなんて!って興奮して思わずここに入学してしまいました!」
そこまで言った時、それまで面白そうに僕の話を聞いていた宮原先輩先輩が突然大声を上げた。
「はぁ!?今なんて言った!?」
「え、絵を描く能力はからっきし?」
先輩がそんなに驚く意味がわからず、思い当たったフレーズを繰り返す。だが、先輩は「ちっげぇよ!」と叫び、「その後!」と僕に繰り返すように命令する。
「同年代でここまで、描ける人がいるなんて、感動して、ここに入学しました?」
若干違ったような気もするけど、先輩は頭をがしがしと乱暴に掻きむしった。
「聞き間違いじゃねぇのか......。お前バカ?なんで美術部でもないのに俺の絵を見ただけでここに入学するんだよ!」
心底呆れたように話しかけてくる先輩に、なんだか不思議な気持ちになった。
僕という他人を魅了した自分の絵の力が先輩は分からないらしい。それほど魅力的であったというだけなのに。
僕はなにかとてつもない使命感に駆られて先輩に近づき、近くの机を思いっきり叩いた。
「おわ!な、どうした」
「先輩、僕は先輩の絵が好きだからここに来ました」
同じことを繰り返すと、驚いてた先輩はまた呆れた視線を寄越す。
「だから、それがおかしいって......」
「先輩は分かってない!」
言いかけた先輩を遮って、声を張り上げる。呆然とこちらを見る先輩に今日一番の笑顔を見せる。
「先輩の絵は僕(他人)を魅了するほど素敵なんです。僕が教えてあげます」
僕の言葉に先輩はまた呆れたような、けど楽しそうに言った。
「そーかよ。勝手にしろ」
「そんな会話もしましたよね、先輩」
「ああ、今までに会ったことない人種だった」
「そんな珍獣みたいに言わないでください」
時が過ぎるのは早いもので、僕はもうすぐ二年になろうとしていた。隣で絵を描く先輩に話し掛ける。
「あ、先輩、僕この間の大会三回戦突破しました!」
「そりゃよかったな」
興味無さそうに返事をして描き続ける先輩に若干不貞腐れる。万年二回戦負けの僕の珍しい三回戦突破報告なのに。...ああ、そうだ。
「先輩、この間の大会、優秀賞でしたよね。おめでとうございます!」
満面の笑顔でそう言うと、先輩はくっと小さく笑った。
「自分の三回戦突破報告より嬉しそうだな。つーかまた調べたのか」
後半はどこか呆れたような彼にえへんと胸をはる。先輩が出したと聞けばすぐにその大会を確認している。ファンとしては当然だ。展示される場合はちゃんと見に行ってる。逃したことは今のところない。
「会場まで行かなくてもお前は部活前に俺のとこに毎日のように来てんだから絵だって見てるだろ?」
それは、まぁ、そうだ。けど最近は見る以外にも楽しみがあるのだ。
「最近は会場に出向いて、先輩の絵が褒められてるのを聞いて、心の中で自慢することを楽しんでます」
「なにやってんだ、お前」
軽くチョップをされて、頭を押さえる。
「こんなのが日常になってる自分に嫌気がさすわ」
ため息をついて再び絵を描き始める先輩に、窓の外を指差す。
「先輩、ほら、綺麗な夕焼けですよ。ため息なんて勿体ないです」
「ああ、そうだな」
ああ、まただ。視線を逸らした。
今日まで先輩と過ごして(というか若干付き纏って)気づいたことだ。彼は、多分。
「ねぇ、先輩。見えないんですか」
全く脈絡はなかった。けど先輩は何のことか分かった。分かって、しまった。
「いつからだ」
「気づいたのは最近ですよ」
先輩は口元だけ笑みを作ると、描いていた手を止めた。さっき逸らした視線を窓に戻して、小さく小さく、けどはっきりと口にした。
「夕焼けっていうのは、どんな色なんだ」
その一言に彼の様々な感情が込められているように感じた。僕は窓に近寄ってそれに触れる。
「さぁ。どうでしょうね」
僕の言葉にくつりと喉を鳴らして、「酷いな」
とこちらを見た。
「だって、先輩、知らないでしょう?」
先輩の時間が止まった。ああ、やっぱりか。
「......そこまで、気づいてたのか」
一層悲しそうな表情を浮かべる彼に僕は追い討ちをかけるように続けた。
「......先天性全盲色ですよね」
「......ああ。俺は色を知らない。見たことすら、ないんだ」
先天性全盲色。生まれつきどの色も識別できない病気。先輩は、色というものを知らないのだ。
「この学校じゃぁ一部の教師しか知らない、俺の秘密だ。まさか、お前に暴かれるとは思わなかったよ」
さすがストーカーなんて軽口を叩く彼の本当の心情はどうなっているんだろうか。
「色を塗れ。塗ればもっと良くなるぞ。......知らないやつらはいつもこう言ってきた。その言葉通りに一度だけ、塗ってみたことがあった。色の知識はあったからな。けど、やっぱだめだ。俺は基本を知らないから、人並みにも塗れなかった」
遠い日を思い出して、瞳に悲しみを浮かべてそっと自嘲気味に笑う。
「色を塗らずに優秀賞を取っても、周りは色を塗れと余計うるさくなった。塗れば最優秀間違いなしだと。お前だけだったよ、色を塗ってない俺の絵を好きだと言ってくれたのは」
あの日、どれだけ嬉しかったか、こいつは知らないだろうけど。価値観を思いきり引っくり返された瞬間だった。
俺の価値観は周りから聞かされる「色」というものが最上であること。決して手に入れることが出来ないそれを求められて、まるでこの絵に価値が無いと言われているようだった。
親は目のことを当然知っているから、すごい、とか、周りは気にしないでいい、と言ってくれたけどそれじゃあ駄目だった。それが心の支えになったのは事実だ。けど、俺が本当に求めていたのは、何も知らない他人からの言葉。
邪魔なもの抜きでこの絵を見て、認めてくれる人が欲しかった。
待って、待って、待って。ようやく現れた、どこかぶっ飛んだ後輩。純粋に俺の絵を見て喜ぶその姿に口元がにやけたのは一度や二度じゃない。ずっと、見ていたいと思った。
けど、知ってしまった。邪魔なものを自分で掴んでしまった。
「バカじゃないですか」
あまりに勝手な彼の言葉に僕は思わず反抗した。先輩が驚いた顔をしているが、知ったこっちゃない。僕は怒っているのだ。
「先輩、僕が入学式の日に言った言葉を覚えてますか」
そう、あの日、僕は言ったのだ。
「あなたの絵の魅力を教えてあげます、と言いました」
有言実行。毎日彼の元に通って魅力を伝えていたつもりだったけれど、本当に「つもり」だったらしい。ならば、最終手段だ。
「先輩、今週末空いてますか」
「お、おお」
「僕と出かけてほしいところがあります」
日曜日、僕は先輩を連れて見覚えのある建物に来ていた。
「おい、ここって......」
「高校美術展を行っている場所です」
「......考えが読めた。俺に周りの評価を聞かせる気だろ」
「まぁまぁ。いいから来てください」
明らかに嫌がる先輩を引っ張って僕達はホールに足を踏み入れる。
あまり多くはない人々が様々な高校生の絵を見ている。その中の一箇所、優秀作品展示と書かれた場所へ先輩を引っ張る。
「おい、いい加減にしろ......」
「静かに。迷惑ですよ」
しゃあしゃあと言う後輩に血管が浮き出た気がした。だが、尤もなのでこいつの気が収まるまで大人しくすることにした。
静かにすれば、嫌でも周りの評価が聞こえてくる。
「まぁ、これ、高校生が描いたの?将来有望ねぇ。でもどうして色を塗ってないのかしら」
「さぁ。塗れば良かったのにね」
ほら。聞きたくもない評価が聞こえる。そっと俯いて、聞こえないように耳を塞ごうとした。だが、あいつが俺の腕を掴む。
「聞いてください」
なんでだ。俺を傷つけたいのか。周りの本当の評価を知らしめたいのか。......それとも、お前ももう、俺の絵には価値が無いと言いたいのか。
じわ、と薄い膜が目を覆う。その時だった。
「何言ってるのよ。これは色が無いからなお素敵なのよ」
ばっと後ろを振り向くと、三十代ほどの女性が絵の魅力について熱弁していた
「おお、綺麗な絵だな。明暗もしっかりしてるし、何より動きがある。ここまで来たかいがあったなぁ」
斜め前では四十ほどの男性が絵を見て喜んでいた。
そっと耳をすませば絵に色が無いことを厭う人たちより、好む人たちが多いことに気がついた。
「ほら、みんなあなたの絵を認めてますよ」
隣で笑うこいつに小さく頷いて、持っていた帽子を目深に被る。
「......ありがとな」
小さな小さなお礼だったけど、後輩は笑って頷いた。
こんなに人が笑ってくれるなら、色がない世界も悪くない。
次の日、僕はとある物を持って先輩のもとに向かった。勢いよく美術室を開けると、振り向いた先輩が呆れたようにこちらを見た。
「またお前かよ......。つーか静かに開けろ」
「あ、すみません。それより、先輩見てください!昨日帰りに見つけて買っちゃったんですよ!じゃーん!モノクロメガネ!」
これを掛けると、世界がモノクロ、つまり先輩の描く世界を直に見られるのだ。
先輩は一瞬目を丸くすると、僕からメガネを奪うと、あろうことか、踏んだ。
「は、ええ!何するんですか!」
「悪い、金は払う」
「え、弁償とかじゃなくて?」
先輩は粉々になったモノクロメガネを拾うとゴミ箱に捨てながら言った。
「お前には、俺が見せてやるから。それで我慢しろ」
今度は僕が目を丸くする番だった。けれど、そう言った先輩がどこか清々しい表情で笑ってるからこちらも思わず笑ってしまった。
「はは!そりゃそんな玩具よりよっぽど素敵ですね」




