エルフが街にやってきた! 2
あたりまえの話だが、脳の構造というものは個体間でたいして差があるわけではない。
大きさや形などには若干の違いがあるが、基本構造は同じだ。
これは超能力者だろうが一般人だろうが変わらない。
ただ一般的に、脳の使い方は洋の東西で少し異なるとはいわれている。
右脳は感情や情動をつかさどり、左脳は理性や論理思考をつかさどる。西洋人は右脳と左脳の境界線がはっきりしており、東洋人は曖昧だという。
具体的にいうと、川のせせらぎや虫の声などに東洋人は風流を感じるが、西洋人にはそんなものは雑音だとしか思えないらしい。
まあ、このあたりも個体差があるだろう。
風流を愛する西洋人だっているし、完璧な幾何学模様の庭に美を見出す東洋人だっているものだ。
ただ、音に関してだけは慣れという要素も多分にあったりする。
暗闇を住処とする人は、そうでない人よりずっと聴覚が鋭いし、そうでなくとも、普段聞き慣れない音には敏感になる。
彼女が夜半に目を覚ましたのは、その聞き慣れない音が耳に滑り込んできたからだ。
「……?」
簡素なベッドの上。
身を起こす。
窓から入る月明かりに見事な金髪が照らし出された。
薄い肌がけがおち、透けるような白い肌と黒の下着が露わになる。
なかなかにセクシーな格好だが、色気のない木綿製なので、妖艶さもへったくれもなかった。
「……なんだ?」
寝癖のついた髪をぼりぼりと掻き回す。
いま、たしかに何か聞こえた。
畑を渡る風の音ではない。
もっと明確な、たとえば足音のような……。
「って、足音っ!?」
寝台から飛び降りる。
やっとまともに思考が回るようになってきた。
こんな夜更けに畑から聞こえる足音。
泥棒しかありえぬではないか!
手早く装備を身につけ、壁に立て掛けていた弓と矢筒を手に取る。
「この郷に泥棒をするものなどいない。であれば、よそ者か……」
呟き、そっと扉を開く。
炯々と輝く月明かり。
暗い部屋を矩形に切り取った。
がさがさ。
ごそごそ。
じゅるじゅる。
なんだか変な音も混じっているが、畑の中にはたしかに変な生物がいた。
手が二本に足が二本。
顔には目が二つに鼻が一つに口が一つ。
まるで怪物のようだ。
「いや、それむしろただの人間だし」
あさっての方向にむかって、ぼそっとツッコミをいれる。
黒髪の少年であった。
固有名詞を、高槻悠人という。
それはどうでもいいとして、じゅるじゅるという音は、この謎生物が涎をすする音である。
なにしろここには美味そうな野菜や果物があるのだ。
どれから食べてやろうか迷ってしまう。
ちなみに彼の腕の中には、すでに収穫された野菜が幾種類か抱かれている。
大切な恋人のように。
非常に嫌な表現だが、食べちゃいたいくらい愛している、ということである。
なにしろ実際に食べてしまうくらいだ。
「肉……肉はどこかになってないか……」
無茶なことを言う。
この先の未来、どれほどバイオテクノロジーが進歩したとしても、肉が植物から採取できるようになることはないだろう。
「野菜じゃパワーがでない……」
けっこう贅沢である。
「他人の畑を荒らしておいて。盗人たけだけしいとはこのことだな」
不機嫌きわまる声が背後から聞こえた。
少年の頬を冷たい汗が伝う。
「手をあげろ。野菜泥棒」
なんか、すごく怒ってるっぽい。
謝っても、たぶん許してくれないだろう。
脱兎のように走り出す。
「あ! こらまてっ!!」
すぐに女性が追走する。
「はぅぅぅ……」
しかし、十歩も走らないうちに、情けない声を出して少年がうずくまってしまった。
「おや?」
拍子抜けしたように、金髪の女性も立ち止まった。
「はらへったぁ……」
「ふむ。元気そうだな」
「これが元気に見えるのかよ……お腹がすいて死にかかってるんだよ……」
「しかし泥棒はできたようだな。渇しても盗泉の水を飲まずという境地には到達できなかったのか?」
弓の先で黒髪をつんつんとつつきながら苦笑を浮かべる。
古代中国の思想家で孔子という人が、旅をしていた。
途中、ものすごく喉が渇いていたが、たまたま見つけた泉が盗泉という名前だったので、盗むなんて名前のついた水を飲むのは身が穢れるとして飲まなかった。
という故事に由来する言葉である。
高潔であろうと志す者は名前にさえこだわるということだが、凡人からみるとちょっとわけがわからない。
名より実を取るべきなのではないか、と、普通は思うだろう。
「なにか食べさせて……」
高潔さとは無縁のポーズで地面に這いつくばっている少年が哀願していた。
夏。
この北の島ではもっと過ごしやすいシーズンである。
長い長い冬から解放された大地は、人間たちが知る限りの色彩の花々で地表を覆い、見上げる天蓋はどこまでも青。
日差しは強いが適度に乾燥し、肌を撫でるそよかぜも優しい。
吸い込む空気だって澄みきって格別だ。
駅に降り立った悠人が、うん、と伸びをする。
羽田から新千歳まで一時間ちょっとの空の旅。そして札幌から北見まで四時間半の汽車の旅。
窮屈な座席に押し込められていた若者としては、わりと当然の欲求だろう。
ついにきてしまった。
北の大地、北海道へ。
我慢できなかった。
あの日、エルフの実在をほのめかされて以来、会ってみたいという思いは夜ごとに強まり、ついに夏休みを利用して北海道へのひとり旅を敢行してしまう。
「自分の行動力に、我ながらびっくりだよね」
ひとりごちる。
旅費を稼ぐために一生懸命バイトしたし、親の説得も頑張った。
その情熱を勉強に傾ければ、試験のたびにひいひい言わなくても良いのに。
「バスは……まだかなり時間があるな……」
時刻表を確認し、視線をさまよわせると小洒落た喫茶店が目に入った。
時間をつぶすには良いかもしれない。
さして多くもない荷物を持って歩き出す。
窓からちらっと見えたウェイトレスが、じつはエルフだったりとかしないかな、とか思いながら。
「ふむ。その話と、私の畑を荒らすことと、どうにも結びつかないのだがな。少年よ」
もりもりとキャベツを丸かじりしている悠人を眺めながら、女性が不思議そうに首をかしげた。
畑に転がしておくのも可哀想だったので、エサを与えてやった。
冷たい水で洗ったキャベツとマヨネーズ。
非常にワイルドな夜食である。
「続きがあるですよ……」
ごっくんと呑み込み、ふたたび少年が話し始めた。
北見駅からバスに乗車し、悠人は留辺蘂に入った。
そして塩別温泉に一泊し、探索を開始する。
「開始したのか。他に情報は? 留辺蘂いがいの」
「なかったから当てずっぽうです」
「それはひどいな。よく迷わなかったものだ」
「迷いました……」
一口に留辺蘂といっても、その領域は広大だ。
なんの手がかりもないまま、悠人はイトムカ鉱山跡地へと向かった。イメージとして、エルフがいるのは山の中ではないか、と、漠然と考えたからである。
そして迷った。
当たり前の話だ。
素人がまったく事前準備をせずに山に分け入るなど、自殺行為いがいのなにものでもない。
一昼夜ほど、彼は山中をさまようこととなる。
ヒグマなどに遭遇しなかったのは、まさに幸運のたまものだろう。
精も根も尽き果て、もうダメかと思われたとき、目の前が開けた。
畑があったのだ。
天の恵みか、悪魔の誘いか。
などと悩む余裕などなかった。
夢遊病患者のように畑に踏み込み、気がつけば野菜を手に取っていた。
そしていざ食べようとしたとき、背後から鏃を向けられたというわけだ。
「なんともひどい話だな」
「すいません……。食べた野菜のお金は払います……」
「私がひどい話だと言ったのはそこではない」
「え?」
「まったく手がかりもなく、まったく正しい手段も知らずに、結界の中に入ってしまうとはな」
呆れたような、楽しむような声。
雲が切れ、月明かりが大地を照らす。
さらさらと音を立てるように流れる金色の髪。
「ようこそエルフの郷へ。招かざる旅人よ」
そして、頭の両側に生えた長い耳。
秀麗な顔に描かれる半月。
酸欠の金魚みたいに、悠人が口をぱくぱくさせていた。