ザ・ワンルーム
よろしくお願いします。
「俺はここから絹ちゃんを送って行くけど、八田さんは方向違いになるから頼むよ」
勝利に言われ快く承諾した。ちなみに今朝は勝利が二人を迎えに行ったらしい。
お姫さまに別れを告げ八田さんのワンルームへ向かう。彼女は女優を目指すと宣言し、親と大ゲンカして独り暮らしをしているそうだ。
途中、「お茶でもしましょう」と八田さんが言うので喫茶店に入る。ブレンドコーヒーを片手に向かいの席から思い掛けない言葉を投げ掛けられた。
「宮川君、今日はあなたが居たから参加したのよ。私を助けてくれたこと覚えてない?」
全く意味不明だった。そもそも会話するのだって今日が初めてなのに。不思議そうな顔をすると彼女は小さく溜息をついてから続けた。
「中学の時、私に付きまとっていた男子を打球で撃退してくれたじゃない。どう?思い出せた?」
打球と聞かされて鈍い俺でもピンと来た。そりゃそうだ。あんなこと一度切りだったから。
俺が中二の時だった。野球部のバッティング練習中に放ったファウルボールが一塁側ベンチ近くに立っていた三年男子の後頭部を直撃し、脳震盪を起こさせてしまったのだ。幸い大事には至らなかったけど、後日母親と監督を伴ってぶつけた生徒の自宅へ謝りに行った黒歴史が有る。
何であんな場所にボーっと突っ立ってんだよ!とも思ったが、ケガをさせたことには変わりない。女子生徒を見ていたらしいけど、平謝りで何とか許してもらえたイヤな思い出だ。
「思い出しましたけど、何であのアクシデントが八田さんを助けたことになるんですか?俺、狙い打ちなんてしてませんよ。そんなテク無いもん」
「わかってるわ。でも、私はアクシデントを利用した。後日、彼にあなたと付き合ってるって告げたの。あれは偶然を装った必然だったってね。お陰でもう付きまとわれることは無くなったってわけ。勝手に感謝してるし、本当に付き合ってもいいとも思ったわよ。私、時々野球部の練習見てたから、あなたを知っていたもの」
スゲエ飛躍だ。何でそこまでイメージ出来るんだよ。まあ、過去の話だからいいけどさ。
「ねえ宮川君、その時のお礼と言っては何だけど、今日はウチで晩ご飯を食べて行かない?いつも独り切りで食べてるから味気なくってね。一緒に食べてくれると少しは寂しさも紛れると思うの。一方的で悪いんだけど、もう一度だけ私を助けて」
そりゃまあ、ご飯くらい一緒に食べてもいいけどさ。でも、彼女のワンルームで食べるのはマズイ!その話が絹ちゃんに伝わって由香利の耳に入ったらエライことになる。自己都合だけど、外食ならギリギリ許されると判断した。
「わかりました。いいですよ。でも、外食にしましょう。初めて話した日に部屋に上がり込むのも気が引けますからね」
八田さんが小さく舌打ちしたのが見えた。
「わかったわ。外食でいいわよ。あなたと一緒なら何処でもいいわ」
俺は市内の大きなレストハウスをセレクトした。和洋折衷で何でも揃っているから嗜好に気を遣う必要もない。
「じゃあ「ポピンピアリ」に行きましょう。今日のお礼に奢りますよ。と言っても、ありふれたメニューしかないでしょうけど」
八田さんがうなずいたので「ポピンピアリ」に行った。俺はこの店で気に入ってるハンバーグ定食にし、彼女はカルパッチョとチーズフォンデュをオーダーした。
「宮川君、あなたってロリコンじゃないでしょ?」
「全然違いますよ。変態扱いしないで下さい」
意外な質問をぶしつけに言われちょっとムッとした。中学の先輩だからって偉そうに言うなよ。
「じゃあ、私とも付き合えるね。あなたはダブルパートナーを持ち、私は女子高生と張り合うの。年上ったって一つ違うだけだもん。話も合って楽しくやれるわよ」
「ちょっと待って下さい。俺は由香利ちゃんと付き合ってるんですよ。一応彼女も好きと言ってくれてる相思相愛の関係なんですから」
八田さんは少し鼻で笑って俺を諭すように返した。
「あれで相思相愛って言えるの?今日だけを見てもあなたが一方的に彼女に尽くしてるだけで、とてもフィフティと言えないわ。そのうち歪が拡大し、消耗し切って潰れちゃうわよ」
悔しかったけど言い返せなかった。情けないな、俺って。頑なに信じていたものが八田さんの放つ言葉でほころび始める。戸惑いを把握したかのように、彼女は自信たっぷりに続けた。
「まあ、取りあえず始めましょうよ。判断はそれからでも遅くないでしょ?お互いのためにならなかったらオワればいいんだから。まだ若いんだもの。柔軟に対応すればいいのよ」
俺は返事をしなかったけど、ケイタイナンバーとメアドの交換は強引にさせられた。そのあと八田さんをワンルームの「フルハウス」に送って行った。
翌日、会社で上川先輩に捕まった。のろけ話なんて聞きたくないぞと思ったら、全然違うことを言われた。
「宮川、何考えてんだ?昨夜、八田さんと一緒にメシ喰ってただろ。お前がそういう奴だとは思わなかったぜ。由香利ちゃんがかわいそうだろ?高校生だからって彼女を舐めてるんじゃねえぞ!」
「えっ?いや、あれは違うんですよ。先輩、悪いけど相談に乗って下さい」
思わず上川先輩を頼ってしまった。と言うか、先輩しか相談出来る人がいない。勝利と絹ちゃんは由香利に近すぎるし、他の同僚なんてもっと有り得ない。CMの件など話せるはずがないからだ。
俺たちは終業後、会社近くの喫茶店で待ち合わせた。
「上川先輩、わざわざすみません。でも、見られたのが先輩で良かったです。今さら握られてる秘密が増えたって気になりませんから」
「お前なあ、俺は立派な仲間だろうが。宮川のためを思って指摘したんだぞ」
「わかってますよ。だからこうして相談をお願いしてるんです。実は……」
俺は昨夜の詳細を話し、先輩は頬杖をついて思案深げに宙に目をやる。この人には似合わないポーズだ。
「それってトラップじゃねえのか?絶対八田さんには思惑が有るはずだ。由香利ちゃんと付き合えてるのさえ奇跡的なお前が、何で年上の美女に交際せがまれるんだよ?ちょっと考えれば不自然極まりないってわかるじゃないか。イケメンの杉村でもあるまいし」
クッソー!勝じゃなくて悪かったな!マジでこの先輩は言葉を選ばない人だ。日頃の生意気な態度への意趣返しに違いない。でも、言ってることは間違ってないとも思う。先輩の理論を無視した凶人の感って悪い方にだけは当たるから。
「うーん、困ったなあ。先輩、俺はどうすればいいんでしょうか?」
「わからないなら付き合って確かめればいいじゃん。俺たちが知恵を絞ったって名案なんて浮かばないだろ?でも結果は必要なんだ。だったら答えは一つ。やるなら今しかねえってことだな」
また先輩は矛盾したことを平気で言う。真性のバカタレだ。お陰で俺の気持ちはすっかり不完全燃焼だった。待てよ。先輩の言うとおりこれがトラップだとすると、八田さんの目的は何だろう?それを理解出来れば対応の仕方もあるはずだ。考えよう。今はそうするしかない。
そこへ八田さんからのコールが鳴った。少しためらってからケイタイに出た。
「宮川君、こんばんは。今夜は空いてない?出来れば私のワンルームまで来て欲しいんだけど」
「いや、今は先輩とお茶してるんで行けないですよ」
素っ気なく返すとまたチッと舌打ちする音が聞こえた。きっとこれは彼女が無意識にやってしまうクセなんだろう。このクセに気付いたからには先輩のバ感ががぜん信憑性を帯びてくる。
奇しくもこれからの二週間は、由香利のテスト勉強のためデートはお預けが決定済みだ。高校生と付き合ってるんだから学業を優先させるのは当然のことである。直感だけど勝負処だと思った。
「じゃあ、明日の夜はどうなの?毎日拒否されたら、私泣いちゃうわよ」
泣いて済めばいいよ。そうは行かないんでしょ?引く気なんて無いくせに。拒否を続ければプライドの高い八田さんがもっと過激な手段を使って来ることなど明白だ。
「明日なら行けます。何か欲しい物でも有ったら言って下さい。買ってからお邪魔しますよ」
「欲しいものなんて一つしかないでしょ?わかり切ったことを言わせないでちょうだい」
続きは「それは、あ・な・た」だろ?俺が知りたいのは「あ・な・た」の裏側なんだよ!それをリアルに確かめようとするのはかなりハイリスクな戦略だ。俺だって退路を断って突進するほど能天気じゃない。午後9時になったらケイタイにロングコールするよう先輩に頼んでおいた。
上川先輩は手土産にトイレットペーパーを持って行けとアドバイスをくれた。俺は「はあ?」と首をかしげたが、ゴマフセカンドハウスで過ごすようになって、独り暮らしにおける生活必需品の大切さを思い知ったそうだ。
確かに寮ではほとんどの物が勝手に補充されて行くからなあ。しかし、セレクト自体は斬新だと思った。この常人離れした感覚がゴマフセレブを魅了する上川先輩の本領かも知れない。
翌日の終業後、俺は大型薬局で「お徳用トイレットペーパー18ロール入り」を二袋も買い込んで八田さんのワンルームに向かった。バカ先輩の指示に従う俺はとても健気な後輩だ。
二階建ての「フルハウス」に着いて207号室のドアチャイムを押した。もちろんネームプレートに記載は無い。直ぐにバタバタと足音が聞こえドアの覗き窓が暗くなった。
「どちらさまでしょうか?」
わかってて聞くなよ。覗き窓から確認したくせに。
「宮川です。お約束通りやって来ましたよ」
カチャンとドアを開けてくれたがチェーンロックは外してくれない。
「八田さん、遊んでるのなら帰りますよ。俺は明日も仕事なんですから」
不機嫌そうに言う俺を見て、やっとチェーンロックを外し中に入れてくれた。持参した大量のトイレットペーパーを見て八田さんの目が点になった。ほら見ろ!バカ先輩のアドバイスを実行した自分が恨めしくなった。
「ありがとう!宮川君ってすごくいいセンスしてる!ここまで私の暮らしをイメージしてくれてたなんて大感激だわ!」
ふむ、女というのは実にわからぬ生き物だ。まさかお徳用トイレットペーパーがここまで受けるとは。恐るべしだ!上川直也よ。
そうだ!次回の由香利とのデートでもプレゼントしてやろう!お姫さまが喜ぶなら安いものだ。もちろん差をつけて、キティちゃんの絵柄付き高級トイレットペーパーにするのは当然のことだ。でも、キティちゃんでお尻を拭くってありなの?
八田さんは狭いキッチンに立ってカレーを温めている。晩餐はカレーライスだ。充満した匂いで誰でもわかるよな。俺はリビングの丸テーブルの前に座ってテレビニュースを見ながら待った。
二十分ほどしたら八田さんが野菜サラダとチキンカレーライス、ガラスポットに入ったミネラルウォーターを運んで来た。配膳されるのを待ってお行儀よく正座した。カレーは真っ黒だった。具が入ってなくてルーだけにしか見えない。そこにチキン唐揚げが三個添えられただけの貧相な物だ。野菜サラダもキャベツの千切りとレタスにプチトマトの簡単な物だった。
キチンと手を合わせて「いただきます」と言ってからスプーンを運んだ。カレーを口に入れてからホンの五秒だ。ビックリした。何このカレー?すごく甘くて強烈に辛い!つまりこのカレールーは炒めた玉ねぎ、じゃがいも等諸々が完全に溶け込んでいるから何も入ってないようにしか見えなかったのだ。最初に野菜の甘さを感じ、直後にスパイシーな辛さが効いてくるスペシャルカレーである。これ、マジでお店に出せる逸品だぞォ!特上寿司ばかりがごちそうではないのだ。
「八田さん、このスペシャルカレー最高だよ。すごく不思議な味覚で、甘いのか辛いのかわかんないけどメチャおいしい!俺、お替りしてもいいかな?」
八田さんはニッコリ笑ってうなずいてくれた。もちろん俺もお世辞のつもりではない。表現する言葉が見つからないくらいのインパクトがこのカレールーには有った。
「もちろんいいわよ。昨夜作ったんだけど宮川君は来てくれなかったでしょ。でも、一日寝かせたらコクが増して結果的に良かったのかなあ?」
俺はカレーライスを二杯も頂いてしまった。オマケに辛さがあとから効いてくるので、ミネラルウォーターもグラスに三杯は飲んだだろう。そりゃ満腹になるさ。
テレビは見たことも無いドラマを流している。あらすじがわからないのでつまらない。八田さんが食後のロイヤルミルクティーを運んでくれた。俺のはティーカップセットだが彼女は自分用のマグカップを使っている。壁には何も飾ってない殺風景なリビングだ。
八田さんは劇団の練習や舞台の合間を縫ってコンビニでバイトしていると言った。それだけで食べて行けるのかと思ったら、お姉さんが親に内緒で毎月五万円を振り込んでくれてるそうだ。少ない給料なのに申し訳ないと彼女はうなだれた。ちょっと切なくなった。それでも女優になるという途方もない夢を追う姿勢に心打たれ、公演のチケットくらいは買わせてもらおうと思った。
不意に眠気に襲われた。疲れがドッと出たのかも知れない。昨日今日とお客さまのクレーム対応に追われ、稟議書も一生懸命作った。昼休みは上川先輩と話していたので超多忙だったのだ。
チープな掛け時計を見たらまだ8時半だった。もう三十分したら帰ろうと思ったが、テーブルに頭を突っ伏して寝落ちしてしまった。
目覚めたのは午前2時だった。リビングの灯りは小玉電球になっていて、壁際に置かれているシングルベッドの上だった。身に着けているのはトランクス一枚きりで胸の辺りに八田さんの頭が有った。
俺がビックリして飛び起きたので彼女を目覚めさせてしまった。八田さんもショーツ一枚だけを纏っている。「う…ん」と喘ぐような小声を発して抱き着いて来た。そのまま俺の頭を抱えるように口づけし耳元で囁く。
「透、良かったわ。愛してくれてありがとう」
ゲエッ!嘘でしょ!?そんなはずないじゃん。俺、マジでアッハンウッフンの記憶ないぞォ!パニクってる俺に構わず彼女は追い打ちを掛けて来る。
「やっぱり透は私を選んでくれたんだ。嬉しかったな。高校生に負けちゃうかもと思ってすごく不安だったの」
潤んだ瞳のまま八田さんはもう一度キスして来た。小振りな乳房を押し付けられ俺は完全にフリーズしてしまった。
どうしよう……。こんなこと勝に相談出来ないし、上川先輩にさえむずかしい。
「八田さん、俺、」
「ダメよ!亜矢子って呼んでね。私たちはもう他人じゃないんだから、裏切りは許さないわよ!」
裏切りって何だっけ?誰が誰を裏切るの?俺が由香利を裏切ったってわけだ。
最悪だァァ!俺が何よりも大切にして来た由香利への愛は、こんなにも簡単に消失してしまうのか。もっと早く由香利とシておくべきだった。そうすれば八田さんの付け入るスキなど無かったかも知れない。
勝のバカが悪いんだ!淫行の条例違反でパクられるなんて脅すもんだから、由香利が高校生のうちは自制しようと必死に欲望を封印して来たのに。木っ端微塵、全ての努力が水泡に帰すだよ。
俺、八田さんを好きになれるかなあ?いけない!亜矢子さんって呼ばないと怒られる。何なんだよ?この展開。でも、今は冷静に考えることなんて出来ない。頭ん中がシッチャカメッチャカのワケワカメになってるから。
俺はベッドを抜け出し丸テーブルの前に座った。
「透、寝ないの?朝まで起きてたら仕事中眠くなっちゃうよ」
しょうがないのでテーブルで突っ伏して眠った。朝起きたら通勤用のパンツとシャツにアイロンがかけてあった。
「ゴメンね。ここにズボンプレッサーなんて上等なものは無いから」
来客用の使い捨て歯ブラシを貰い洗顔を済ませた。亜矢子さんはお味噌汁と玉子焼き、小さなアジの開きの和定食を作ってくれた。俺がガツガツ頂いてる様子を微笑みながら見ているのがわかった。
やさしい人なんだよ。美人だしいい奥さまになれるね。誰の?俺の奥さまってか?
「昨日と同じシャツにネクタイだと勘ぐられちゃうかも知れないね」
この一言はデカかった。俺は会社に電話して病欠を申し出た。もちろん仮病だけど、こっちにも事情ってもんがあんだよォ!
ケイタイの履歴を見たら上川先輩から三回着信が有った。9時と10時と11時に。時間にだけは固いんだよなあ。そんな先輩に捕まったら絶対ゲロさせられる。あの人は自分のことには鈍いのに他人には鋭い嗅覚を持ってるからな。昨日と同じ格好なんて最悪だよ。いや、すでに諸々が最悪なんだけどね。
「今日は有給休暇にしたから何処かへ出掛けない?劇団かバイトあるの?」
「いいわ。バイトはお休みにする。せっかく透が誘ってくれてるのに無下に出来ないもの」
軽く受け止めてはいけない。月給制の自分と違ってその分収入が減るってことだもの。
「天気がいいから東山動物園でも行かない?俺、動物見るの好きなんだ」
「私は構わないわよ。じゃあ、お弁当を作るから二十分くらい待ってて」
しょうがないのでテレビを見て待つことにする。亜矢子さんはドリップ式のコーヒーを彼女専用のマグカップに入れて出してくれた。共有物ってことだ。お昼なんて外食でいいのにと思ったが、直ぐに打ち消した。節約志向の亜矢子さんに見習うべきこともある。とても大切なことだ。
出来上がったお弁当を持ってスカGで出掛けた。
「私、遊びに出掛けるのって久し振りよ。いつも生活に追われてて余裕なんて無かったの。時間もお金もね。透たちはいいなあ。安定した大企業だもの。智美さんのようなセレブではないけど、食べて行くことには心配しなくてもいいでしょ?」
「うーん、みんなが思ってるより薄給だけど、確かに食べて行くことは出来ると思ってる。でも、亜矢子さんにそう言われると切ないよね。俺、夢を追ってる人って惹かれるから」
「透、好きって言ってよ。心の支えにしたいの」
「うん、亜矢子さんを好きだよ。俺が年下だけど守ってあげたい気持ちになってる」
「ありがとう。透ってやさしいね。あなたに出会えて本当に良かった。早く一緒に暮らしたいな。結婚とまでは言わないけどね。いつもあなたに触れていたいだけなの」
そうか。出来れば同棲したいってイメージは持ってるんだ。俺はそれに応えるの?拒絶するの?あんなに惚れてる由香利への気持ちは捨てられるの?解決策なんて思い浮かばないよ。
東山動物園では腕を組んで歩いた。亜矢子さんの笑顔は可愛かった。笑うと左の頬にだけエクボが出来るんだよ。チャームポイントってやつだな。
このまま彼女と付き合えばいいじゃん。ご飯も作ってくれるし、一緒にスーパーなんかでお買い物するのもいいかも知れない。楽しい毎日になるぞォ!とイメージまでは作った。
「それってトラップじゃねえのか?」上川先輩、杞憂ですって。
でも、撮影スタジオでは由香利が亜矢子さんを睨んでたよな。怒った猫の目をして。いや、間違えてはいけない。あいつはベンガルトラだ。猫とは凶暴さが違うもの。本物がオリの中から「由香利はアイ・オブ・ザ・タイガー」と唸り声で思い違いを訂正してくれたお陰だ。
ベンチに座って二人でお弁当を食べた。お茶だけは俺がダッシュで買って来た。塩おにぎりと玉子焼き、ウインナーだけでも嬉しかった。急に決めたのに一生懸命作ってくれたお弁当は、金で買えない上等品だと思ってる。
「亜矢子さんの作る物が何でおいしいのかわかった。しっかり気持ちが込もってるんだよ」
「イヤだなあ。質素なお弁当に対する皮肉のつもり?それと「さん」はいらないの。私も透って呼びたいから」
「わかった。亜矢子、皮肉でもお世辞でもないよ。どうして大好きな彼女にわざわざ面倒しなくちゃいけないの?」
「バカ!真っ昼間からよくそんな照れくさいこと言えるわね」
「あっ、俺を見下したな。年下だと思って上から目線で見やがって」
俺はちょっとだけ拗ねて見せた。彼女は相変わらず機嫌が良い。
「透って頭いいんだよね。絹ちゃんが西徳出だって言ってたから。私はバカだから釣り合わないかも?」
「何言ってんだ。俺が決めたんだから関係無いんだよ」
亜矢子を引き寄せて口づけた。彼女は顔を赤くしてボカリと俺を殴った。全然痛くないけど。
「ホント透って人目を気にしないよね。羞恥心が欠落してるわ。因数分解は出来ても一般常識を知らないんだ」
「じゃあ、それを教えてよ。亜矢子に恥を掻かせない彼氏になって見せるからさ」
「アハハ、透って素直で健気だね。私なんかに教えられることなんて無いわよ。何の取り柄も無い人間だもの」
俺はカチンと来た。かなり本気で怒った。
「亜矢子、ふざけてんじゃねえぞ。「私なんか」って言い方二度とするな!頼むから俺の彼女だって自覚してくれよ。大切な人なんだって自信持っていいぞ」
亜矢子はかなりビックリしたみたいだ。謙遜して言ったつもりかも知れないけど、俺にだけは卑下して欲しくなかった。もっとありのままでぶつかって来ればいいのに。それでケンカになったって構わないと思う。俺は誰よりも彼女を認めてるんだから。
その日は本当に楽しかった。由香利とのドタバタデートと違って、少しだけ大人の落ち着きが有った。
帰り道、亜矢子は含み笑いを見せながら言った。
「こんなステキな一日って今まで無かったな。一緒に歩くだけでしあわせ感じるなんて噓みたい。あっという間に好きになり過ぎて怖いよォ」
「でも、美人の独り暮らしなんて誘惑多いでしょ?絹ちゃんさえいなかったら勝を選んでたくせに」
「うーん、そうかも。勝利君カッコイイもんね。二人とも大企業の同僚で共通の趣味も持ってるし、心底羨ましいな。言い寄って来るのはホストみたいなチャラ男か身体目的のゲスな奴ばかりよ。とても未来なんて感じさせてくれないわ」
「俺、アニメはわかんないよ。超有名なやつなら上っ面だけ知ってるけど、ディープな話には連いて行けない」
「そんなの構わないわよ。私にとってアニメは一つの教材ってだけだから。もちろん本気でクリエイティブな感覚を身に着けようとはしてるけどね。でも、あくまで目指すのは女優なの。もう直ぐ二十二才になっちゃうし、残された時間は少ないわ。小さな劇団でも脇役しかもらえないし、もちろんメディアに出たことも無い。頭も足りなくてコネも無い、潰しの利かないヒューマンダストになっちゃうな」
正直、俺はまた自虐的になってるなと思ったが、彼女が大粒の涙を零してるのには驚いた。
「ねえ、俺の着替え置かせてよ。近いうちに下着とかも買って持って行くからさ。亜矢子と一緒に暮らしても構わないよ。もう成人してるんだし、元々寮暮らしだったんで実家も居ないことに慣れてるから」
「ええっ?そんな性急に決めちゃっていいの?もちろん私は嬉しいけど、まだ話すようになって三日だよ」
「時間なんて関係無いね。好きになって一緒に暮らせるなら最高じゃない。そこがスタートラインで遠くてもゴールを目指すんだ」
同棲って結婚生活のデフォじゃないか。一応、親には報告しておくけどさ。一方的になっても気にしないよ。
「このワルガキがァ。それで私の根無し草生活も少しは安定すればありがたいけどね。もちろん好きな人と一緒に暮らせるのはしあわせなことだし」
「上手く利用すればいいじゃん。俺が本望なんだから気にしなくてもいいぞ。リッチには行かないけど、生活費は全て出すから目標に向かって進んでよ」
本望か……。人の心は変わって行くんだよ。リアルってやつにねじ伏せられてね。
途中、喫茶店に立ち寄りコーヒーだけ飲んで「フルハウス」へ戻った。俺は亜矢子だけ降ろしそのまま自宅へ帰ることにした。昨日から風呂にも入ってないし着替えもしていないのでサッパリしたかった。もちろんグッスリ眠りたい気も有った。今日サボったせいで仕事が溜まってるのは覚悟してるから、体調を整えねばならないのだ。
亜矢子は車を降りる時すごく寂しそうな顔で頬にキスしてくれる。
「じゃあ、また来てね。私に未来を見せてくれるのは透だけだから」
「ああ、明日は残業になるだろうから明後日の夜に来るよ」
俺は見送ってくれる彼女に軽く左手を上げスカGを発進させた。
翌日の昼休み、社員食堂で上川先輩に捕まった。
「宮川、何で電話に出ねえんだよ!オマケに昨日は休暇取ってやがるし。まあ、無事に済んだんならいいけどさ」
「先輩、ご心配お掛けしてすみませんでした。これからお茶しましょう。一応報告させてもらいます」
問い詰められるのなら自分から説明した方がマシだ。逃げ切れる相手じゃないんだから。
談話室の端っこのテーブルに座り、カップコーヒーを手に俺から話し始めた。周囲に気を遣って小声でしか話せないけど。
「先輩、俺、亜矢子さんと付き合い始めました。昨日は二人で動物園に行って来たんです。サボったのは内緒にして下さい。病欠で届け出ましたから」
上川先輩は全く驚いてくれなかった。
「やっぱりな。流されやすいお前らしいよ。西徳出だから何とかするかと思ってたけど、只のバカだったってわけだ。ガッカリさせやがって。由香利ちゃんがかわいそうじゃねえか!」
なじられるのは覚悟していた。でも、しょうがないんだよ。俺は亜矢子に未来を提示して目標に協力したいんだから。
「彼女は女優を目指してるんですけどまだ何処にも認められてなくて、生活状況がとても不安定なので一緒に暮らそうと思ってます」
俺の言葉で上川先輩がコーヒーを噴き出した。悪いのは俺なので洗面所からテーブルを拭く雑巾を持って戻った。
「宮川、思い付きでパトロン気取ってんじゃねえぞ!少しは自分を大切にしろ!」
「だってあの夜、亜矢子さんとシちゃったんですよ。彼女はすごく喜んでくれたし頼りにもしてくれるんです。男冥利だと思いませんか?」
「あれだけ警戒して行ったのに何でそうなっちゃうんだよ。アッサリ色気に落とされやがって。情けねえバカだな」
「色気になびいたんじゃなくて眠っちゃったんですよ。それで二人でベッドインってわけです。正直、記憶は飛んじゃってますけど、抱き合ってたのは事実ですから。こんなこと誰にも話したくないけど、先輩は特別ですからね」
「ふーん、何か整合性に欠けた話だよな。智美に相談してみるか」
「それは先輩の勝手ですけど、俺は自分の決定に従います。あと、トイレットペーパーはすごく喜んでくれました。センスいいって褒められましたよ。本当は先輩のアドバイスなのにね」
先輩は怪訝そうな眼差しで俺を見たけど気にしなかった。
その日は精力的に残業をこなし退社したのは午後10時だった。昨日の分はもちろん、明日やる仕事まで追い込みを掛けておいた。もちろん、明日の夜少しでも早く「フルハウス」へ向かうためだ。
何か買って行こうと思うのだが、亜矢子の欲しい物がわからない。トイレットぺーパーは暫く尽きそうもないし。先輩に聞いたら「特濃牛乳!」と言われた。何で?と思ったが前回も従ったのが功を奏したので今回もそうしよう。しかし、あの感覚だけはわからん。
翌日、残業の同僚を無視し定時で退社した。「フルハウス」へ向かう途中、コンビニで「特濃牛乳」の1リットルパックを買った。ホントにこんなもんで喜ぶのかよ?と改めて思った。
果たして亜矢子は……、コンビニ袋を覗いて喜んでくれたァ!先輩に弟子入りしようかと本気で思った。まあ、すでに舎弟のような身だけどさ。
その日は俺が買って来た「特濃牛乳」を使いクリームシチューでの晩餐だった。もちろんおいしかった。亜矢子は決まりごとのように食後のロイヤルミルクティーを運んでくれる。ささやかな至福の時間だ。早く一緒に暮らしたいと思えた。
「透、今夜も泊まってくれるの?またあなたに抱かれたいわ」
「亜矢子って夜になると大胆だね。マジコエエわ。でも、一緒に住むまでは泊まらないよ。実はここに泊まった翌日、家に帰ったらオフクロに言われちゃったんだ。「あんた、ちゃんと出勤してるんでしょうね?」って。外泊は平気なんだけど、ウイークデイだったから心配しちゃったみたいでさ。出来れば穏便に移り住みたいから、過剰な刺激は避けておきたいんだ」
「うん、わかったわ。ちょっと残念ではあるけど、同棲を真剣に考えてくれてるのが嬉しい。透って口先だけじゃなくリアルだもんね。さすが西徳出身者は違うな」
「西徳なんて関係ねえっての。亜矢子だから真剣に考えてるってことを理解しろ!」
「ハイハイ、年下の王子さまに従います。浮気したら許さないからね!」
「安心しろ。俺は勝と違ってモテない。亜矢子の方がよほど心配だよ」
「バカね……」
彼女は抱き着いて来て口づけた。
読んで下さりありがとうございます。