ルール
「どうだ、怖いだろ?」
一気に話して喉が渇いたのだろう。太一はすっかり汗をかいたコップを傾け、一息で飲み干す。
僕もぬるくなったジュースをひと口飲んで気持ちを落ち着かせてから、気になったことを聞いてみた。
「その『兄』は自分の身体を取り戻すことは出来たのか?」
「無理だったよ。入れ替わられたことが分かってから三日後、何とか気を持ち直した『兄』が以前住んでいた家に行くと、もう兄妹は引っ越した後だった。持ち家を離れることに妹は嫌がったかもしれないな。でも、危険なストーカーから身を守るためだとか何とか言って説得したんだろう。妹はもともと、『兄』に従順だったし、説得の必要もなかったかもしれないが」
「それでも……!」
「そうだな。いくら引っ越したって、人間が完全に行方をくらますなんてことはなかなか出来るもんじゃない。ただ、聞き込みは難しかった。元『アイツ』が、『自分たちはストーカーの被害に遭っている』と周囲にふれ回っていたからな。引越し先を聞いただけで、問答無用で警察に通報するオバサンもいたよ。それでもーーー」
それでも、『兄』は諦めなかった。なけなしの金もはたいて興信所に頼り、元『アイツ』をついに人けのない路地に追い詰めたんだ。
でも……「捕まえたぞ!」と、血走った目の『兄』にタッチされても、元『アイツ』はニヤニヤ笑うだけだったよ。そして言ったんだ。「君は、ルールを分かっていなかったのか」ってね。
「ルール?」
ああ、この鬼ごっこのルールさ。学校の七不思議である以上、入れ替われるのは学校の中でだけ、という条件があったんだ。つまり、街中でいくら相手を捕まえた気になっても、まったく意味がないというわけさ。放り出される前にタッチし返せば……と『兄』は後になって悔やんだが、元々それはルール違反だったんだ。
そして、もうひとつ。これは普通の鬼ごっこにも共通するものだと思うがーーー。
「直前にオニだった者を捕まえても、捕まえたことにはならないんだよ。そのタッチは無効なんだ」
考えてみれば、当たり前のルールだ。タッチされて新しくオニになった者の前にいるのは誰だ? 直前までオニだったヤツだ。しかし、そこでのタッチが有効だったらどうなる? オニと子が入れ替わり、子とオニが入れ替わり、また逆に。エキサイティングな鬼ごっこは退屈なタッチの応酬に変わっちまう。鬼ごっこを鬼ごっことして成立させるには、このルールは不可欠なんだよ。
オニだった者を、オニにすることはできない。一度オニになった人間は、永遠に元の身体に戻ることはできないのさ。
「そして、ルールに則った形で『アイツ』に捕まれば、お互いの存在が入れ替わる。捕まった奴が違う人間を捕まえれば、また存在が入れ替わる。そうやって『アイツ』という役割が、人から人へ押し付けられていくんだ」
興が乗ってきたのか、ニヤニヤ笑って太一は話し続ける。
「『アイツ』という最初のオニが、いつからいるのかは分からない。一体、どれだけの人間がこの鬼ごっこに参加させられてきたんだろうな。10人? 50人? 100人? 仮に100人としてみようか。オニになった経験のある奴が100人いるということは、相手をオニにした奴が100人いるということだ。つまり、他人の皮をかぶってのうのうと暮らしてる奴らがこの世界に100人いるってことさ」
太一は自嘲気味に笑う。
「お前の周りはどうだい? 急に言動や性格が変わったような人間に心当たりは? 昨日まで友だちだった奴の中身が、今日はまったくの別人かもしれないんだぜ。恐ろしいだろ? 恐ろしいよな」
報道番組で、よく人殺しの近所の人間にインタビューしてるだろ。決まって出て来るのが「あんなことするような人には思えませんでした」なんて答えさ。すれ違った人には必ず挨拶をするような礼儀正しく明るい人間が、ある日突然惨たらしいを起こす。その犯人はもしかしたら、オニに取って代わられていたんじゃないか? そんな風に俺は思っちまうんだよ。