検定の攻防
ついにやってきた検定日、これに受かるか受からないかで俺の運命が決まる。
教室に入るといつもと違う風が吹いていた、ガヤガヤと騒ついているものの、そこには一種の恐怖が含まれていた。それもそうだろう、皆んなも俺と同じでこの検定に命をかけているのだから。
受験票を見て自分の席を確認すると、ひとまず座り一息つく。
今回受ける検定は日商簿記二級、外部の人間も検定を受けにやって来ている。そのため周りには、私服に身を包んだ見慣れない人が多くいる。俺は彼らとは違いホームベースで受験できるわけだが、それでも見知らぬ歳上の存在に臆している自分がいる。
思わぬ伏兵だ、これでは本来の力が出せない。
「よう太郎、なにビビってんだよ」
後ろを振り返るとそこには我が級友、真也。自分でもホッとするのが分かった。
「ビビってなどいない、ただ空気に慣れないだけだ」
「そうだよな、今日は外部の人が来てるから新鮮だよな」
この状況下においてこれを新鮮と呼ぶあたり、俺と真也の受験に対する重みが違うと分かる。軽い方が普段の力を出しやすい、それを羨ましく思う。
俺はその差を埋めるために、最後まで知識を詰めるべく参考書を読むことにする。
「さーて、早速かき乱しますかね。太郎くんっ」
意味深な言葉、その後真也は教室に聞こえるか聞こえないかのギリギリの音量で話し出す。
それは検定を受けるにあたってあるまじき行為だった。
「なぁ、社債って日割り計算するって知ってたか?」
「っ⁉︎」
日割り計算だと?これは日数計算機能付き電卓の登場から消えたはずの計算法。
日数計算付きだと経過日数などの頭を悩ます計算が容易になるため、普通電卓との格差が生まれてしまうのだ、よってそれらを平等にする為に、日割り計算は日商簿記から姿を消したのだ。それが復活だと?どうゆうことだ。
戸惑う俺に彼が小さく耳打ちする。
「焦んな、嘘だから」
「…嘘…?」
「周りを見てみろ、皆んな戸惑ってやがる」
そう、これこそあるまじき行為。情報撹乱。
試験直前にありもしない情報を流し、受験者を恐怖のどん底に突き落とす卑劣極まりない行為だ。
だが検定においてこれは意味をなさない。
「一体何故そんな嘘をついたんだ?別に皆んなライバルというわけではない、検定とは己との戦いではないか」
これが大学受験なら情報撹乱は大きな効果を生み出す、何故なら周りは皆んなライバルだからだ。しかしこれは検定、合格点を越えれば誰でも合格できる。
俺は真也の意図が分からずにいた。だから聞いてみた、その理由を。
「そんなの単純単純、ただ面白いからだよ」
その不敵な笑みはまるで悪魔のようだった、そして思いだした。己の欲望の為に関係ない人を巻き込む悪魔、それがこの真也という男だと。
「日割り計算だけじゃつまんないな、もっと流してやろ」
暴徒真也の迷惑行為が始まった。
掻き乱された、もうこの教室は参考書をめくる音でいっぱいになっていた。
中でも酷かったのが勘定科目の撹乱。資産、負債、収益、費用の勘定を混乱させたり、更には科目を勝手に作って、さもありそうに話すのだ。これを聴いていた人は一様にパニックに陥った。
「ひひひ、焦ってる焦ってる」
満足気な真也を見ると無性に腹立たしくなる、だが怒るのは後だ。限られた時間内でどれだけ知識を詰められるかが重要な今、雑念は消して集中する。
俺はこの日の為に様々な勉強会に参加した、有名な専門学校が行う予想問題対策授業は勿論のこと、友人とも切磋琢磨した。先生が配布してくれた予想問題プリントは穴があくほどにやった。
落ちるわけにはいかないのだ。
「肩の力抜けよ、力みすぎると思わぬところで間違うぜ」
何を抜かすかこの悪魔が。
「真也、少しは勉強したらどうだ」
「なるようになるって」
「よくもヘラヘラとしていられるな、貴様は周りを敵に回したも同然の発言をしたのだぞ」
「怒るなって、覚えたこと忘れるぞ?」
くそっ、真也に心を掻き乱されている、これでは本来の力が出せない。
臆していた自分を救ってくれた人が、敵に回っているとは皮肉なものだ。だが忘れてはいけない、彼は決して俺を敵とは思っていないということを。だから俺が何を言ったところでダメージにはならない。しかし返ってそのおかげで、俺は彼への攻撃を止めることができた。
驚くべき集中力で勘定科目に目を通す、少なからず俺も真也の撹乱の影響を受けたのだ。
借方貸方を確認、試験直前の確認としてはこれを間違えないようにするのが一番の勉強だろう。
ガラガラガラ。
不意に開かれるドア、試験監督官が来たのだろう、そして予想通り年配の方が入ってきた。同時に予想外の事態に陥った。
「えーまだ時間はあるので勉強しても構いません、時間になったらお知らせします」
何事もないように教卓の椅子に腰掛ける監督官、だがこちらは必死だった。教室の全員が必死だった。
監督官の頭上には見事にずれたカツラが乗っていたのだ。
もう俺は正面を見る事ができない、ツボにはまり抜け出せないでいる。どんどん抜け落ちる情報、折角詰め込んだ内容が溢れていく。
最強の伏兵の登場により、教室内は静かな波乱が起きていた。もう誰も話すことはできない、指摘するなどもってのほか。だから逆に笑いが込み上げてくる、もしここで誰かが吹き出したら一瞬にして静寂が瓦解するようなシビアな状況だ。そして不安要素は後ろにいる。
何もしないでくれ、もう何もしないでくれ。
そう念じながら浅く呼吸を続け息を整える、笑いとは時間が経てば消えるもの、静寂の中で笑いを消し去る。
「時間です、これから日商簿記検定二級の試験を開始します。まずは問題用紙を配ります」
なんとか乗り切った、この短時間で笑いを消滅させることに成功、不安要素であった真也も何もしないでくれた。
あの間に勉強できなかったのは痛かったが、吹き出すよりはマシだといえよう。
配られる冊子、ついに始まるのだ。
俺は後ろに冊子を回す、その際に真也の顔が目に入った。
ニタァ。
不適を通り越して怖気すら感じる笑み、俺はこの笑みの理由を読み取ることができた。それは満足、あの監督官の登場でこいつは満足したのだ。あのカツラを見てこいつは…
「よーい、始め」
俺は再び笑いの渦に飲み込まれた。
皆んなは開始の合図で一斉に解き始めるも、俺だけは鼻息が荒くなり手が震えていた。
やってくれたな真也、貴様のせいで地獄に足を踏み入れてしまった。
完全なる油断、真也を甘く見過ぎていた。俺は再び笑いを消し去る為に息を整えなくてはならなくなった。その間にも皆んなは着々と問題を解いていく、カタカタとシャーペンが文字を書き進める音が俺を焦らせる。
そして幸いにもその焦りが俺を正気に戻してくれた、ようやく問題に手をつけられる。
これからが勝負だ。
日商簿記二級は大問1から大問5までを解く問題だ、これは範囲が広いことで有名で、毎回ランダムに出題される。その一つ大問1は仕訳問題と決まっているのだ。だが残念なことに仕訳問題は結構な難易度、最初に手をつけるとあまりの出来の悪さに絶望しかねない。よってこれは最後に回す。
ならば何を最初にやればいいのか、それは簡単な問題。つまり目をつけるべきは冊子の最後のページ、工業簿記の原価計算問題だ。
簿記にも種類があり、商業簿記と工業簿記の二つに分けられるのだ、中でも工業簿記は比較的簡単な作りとなっている。
ページを開くと狙い通り簡単な問題、大問4と大問5の二つが工業簿記なのでここは難なくこなせた。
残すは商業簿記の大問1大問2大問3。商業簿記は難しい、ただ受けただけではまともに点を取ることは不可能。だがその不可能を可能にする為に俺は準備してきた。
検定というものは必ず予想を立てることができる、今までの傾向を解析し出題されるであろう問題を導き出すのだ。
俺は予想問題を徹底的に叩き込んだ、ありとあらゆる同系統問題を解いた。更に、今回の検定は予想が立てやすかったようで、どんな勉強会に参加しても同じような問題ばかりが予想問題として出題されていた。
疑う余地はなかった、もはや俺に死角はない。
俺は意気揚々と大問3を見る、するとそこには予想問題通りの問題が—なかった。
「な…に…」
思わず声が漏れる、そこにあったのは予想から大きく外れた問題、手付かずの問題だ。
しばらく脳が停止した、俺は絶望の淵に立たされたのだ。予想問題しかやっていない為に恐怖しか感じない、問題に目を通すことですら勇気がいる。
俺は恐る恐る読み出す、読めば読むほど混乱した。計算問題は勿論のこと、知らない勘定科目まである。もはや大問3で点を取ることは不可能。
俺は大問2に目を通した、絶望した。ここも予想外の問題だったのだ。今回はこれが出ると豪語していた先生たちを恨む。
「30分経過しました」
監督官の声ももう聞こえない、俺は落胆で手が止まっていた。とりあえず大問1の仕訳問題に行くことにする、絶望覚悟だが行くしかあるまい。
最初のページを開き目を通す、訳がわからない。
絶望を通り越して笑いが込み上げてくる、こうなったらヤケだ。俺は直感で問題に当たることにする。
計算も一々電卓を見て打ち間違いがないかなんて確認しない、問題文を見てどんどん打ち込んで計算する。それがあっているか間違っているかは関係ない、ただ空白を埋めるのみ。
そして難関の仕訳問題もものの数分で終了、大問2と3も直感のままに解いた。
俺は驚異的な速さで全問を解き終わった、するとどうだろうこの開放感。まるで太陽の光が降り注ぐ草原に寝転がっているようだ。
もう考えるのはやめよう、それがいい。
自暴自棄になった俺は残り時間を監督官を見て過ごした。
(ははははははははははは)
心の中で笑った。
「時間です」
瞬間に教室が騒つく。その内容はどれも「予想問題外れた」だった。
皆んなもやはり山をかけていたようだ、それが仇となるとは何と無様なことか。
「回答用紙を後ろから前へ送ってください」
トントンと肩を叩かれ後ろを振り向く。
「どうだった?」
「最高の気分だ」
真也から回答用紙を受け取り前に送る、一瞬真也の回答を覗こうと思ったが止めた。
「これで試験を終わります」
各々が席を立ち自由な時間を過ごす、俺は早く帰ろうとしたが捕まった。
「今回は山が外れたな〜」
決してダメージのない男、やはり真也にとって日商簿記とはこの程度のものだったのだ。
俺は最後に嫌味を込めて言う。
「真也の出来はどうだ、試験前にあんなことをするぐらいなら出来たんだろうな」
「勿論できたぜ、いや〜勉強会行かなくてよかった、やっぱ独自にやった方がいいんだな」
「………」
「ちょ!太郎!叩くなって!」
俺の命をかけた検定は終わった、検定料5,100円の負けられない戦いは60点というイラつく点数で幕を閉じた。
ちなみに合格点は70点だ、何故あんな乱雑に解いたのに60点もとれたのか、ならばもっと丁寧に解いていたら合格点に達したのではないか、俺の後悔はイラつきとなった。
真也はというと。
「受かったぜー」
失せろ。
今回の反省点は予想問題に頼り過ぎたこと、真也と一緒だったこと、そして自暴自棄になったこと。こうなったのも全て自分の責任だ、次に検定を受ける時は範囲を広げて勉強し、常に冷静でいられるようにしよう。幸い真也と一緒に検定を受けることはない。
まずは家に帰って結果を報告することにしよう、果たして再び検定料を払ってくれるか。
「無理よ」
俺の検定は儚く散った。
この物語はフィクションです。