<融かさなければならない氷>
ゴールデンウィークが明けて、ほぼ一週間が経った。
利音と交わした綾音のことを案じる会話は、まだ颯斗の耳の底に残っている。
あれ以来、彼の中にはずっと小さな焦燥感のようなものがくすぶり続けていた。
毎日毎日、ホームルームまで椅子に座っていることが苦痛だった。帰りの挨拶が終われば、頭を上げると同時に教室から飛び出していくような状態だ。
学校が嫌いなわけではない。
隆たちと過ごす時間は楽しいと思うし、勉強だって『何かを得ている』という有意義さを実感できる。
けれど、教室で授業を受けていると、時折颯斗は、これでいいのだろうか、他に何かしなければいけないことがあるんじゃないだろうかという思いに駆られる。
時間を早送りすることはできないのだから今できることをするしかないのだろうが、学生――子どもである自分のことが、颯斗にはもどかしく感じられてならなかった。
(あと五年、早く生まれていたら)
そうしたら、どうなっていただろう。
あと五年早ければ、もしかしたら、綾音がつらかった時に傍にいたのが颯斗であったかもしれない。
綾音を支え、笑顔を取り戻させたのが自分であれば。
絶対に変えようのない現実を、颯斗は夢想する。
そうすれば、今頃綾音はこんなふうに苦しんではいなかっただろう。
綾音の傍に荘一郎がいたであろうことには変わりはなくても、彼女にとって荘一郎が唯一無二の存在ではなくなっていた筈だ。失って悲しみはすれ、絶望に沈むことはなかっただろう。
荘一郎ではなく自分が綾音の想う相手になりたかったのか。
それとも、彼女に大事な人を失う悲しみを味わわせたくなかったのか。
そのどちらの気持ちの方がより大きいのか、颯斗自身にも判らない。
ただ、とにかく、もっと早く綾音に逢えていればと、颯斗は思う。
(どうにもできないんだけどさ)
店の前まで来た彼は胸の中で呟き、埒もない考えを隅に追いやると、中に入る前に重いため息を吐き切った。
おまけに深呼吸を一つして、ノブに手をかける。
「ただいま」
颯斗は、店のドアを開けた彼に振り返った綾音を一目見るなり、眉をひそめた。
「おかえり、颯斗くん」
いつも通りにこやかにそう返してきた綾音の頬が、紅い。
店の中にはもう客はおらず、特に顔を火照らせるようなことをしていたとも思えない。
「綾音、大丈夫なのか?」
「え、何が?」
思わず訊いてしまった颯斗に、綾音はキョトンとした目を返してきた。その目も、潤んで少しぼんやりしているように見える。
彼女に歩み寄り、指先でそっと紅くなっている頬に触れてみた。
熱い。
「熱があるじゃないか」
「え?」
両手で綾音の頬から首の辺りを包み込むと、初夏の気温で温まっていた颯斗の手でも、かなりの熱が感じられた。逆に彼女の方は冷やされたのか、心地良さそうに目蓋を閉じている。
その無防備な様子に、颯斗の胸がザワザワする。
「利音、いないんだろう?」
むっつりとした声で颯斗が言うと、綾音は目を開けて少し眠そうに二、三度瞬きをした。
「え、あ、うん」
利音は新しいコーヒー豆の仕入れ先を開拓しようと、昨日から二泊三日で見本市に出かけていた。
(昨日別れた時は、普通そうだった)
「いつからなんだよ?」
尖った声で颯斗が訊くと、綾音はぼんやりと見返してくる。
「何が?」
「熱だよ。いつから調子悪かったんだ?」
「別に、悪くないよ?」
嘘をついているのかと目をすがめて見ても、颯斗を見上げてくる綾音の眼差しには困惑しか見えない。どうやら、本当に自分でも気づいていなかったらしい。
「とにかく、どうせあと一時間くらいで店じまいだろ? 少し早く閉めろよ」
「でも……」
「でももくそもない。いいから、綾音は座ってろ」
言うなり颯斗は綾音を押すようにして、近くのソファタイプの席に座らせた。強引な彼に反抗することなく座ったままでいる辺り、やっぱりどこかおかしいのだろう。
「先に部屋に連れてこうか?」
「ううん、いいよ」
「じゃあ、おとなしく待ってろよ」
そう言いおいて颯斗はカウンターの裏から閉店の札を取ってくると、さっさとドアにかけ、鍵も閉めてしまう。
そんな彼をトロンとした綾音の目が追いかけていたが、何も言わない。
三年もやっていれば片付けもすっかり手慣れたもので、颯斗は手早くテーブルを拭き、床にモップをかけ、シンクに残っていた洗い物を片付けた。
いつもよりは若干大雑把だが、まあ許される範囲だろう。
「ほら、もういいだろ……」
そう声をかけつつ綾音の方へと振り返った颯斗だったが、途中で口をつぐんだ。静かだと思っていたら、彼女はソファの背もたれに寄り掛かるようにして、目を閉じていた。
「綾音……?」
そっと声をかけても、目は開かない。呼吸が少し粗いのは、熱のせいか。
どうしたものか。
颯斗はピクリともしない綾音を見下ろし、思案する。
だが、それは一瞬のことだった。
利音と綾音の住まいは、この店の上の階になっている。あまりそちらに上がったことはないが、どこに何があるかくらいは知っていた。
颯斗は踵を返して滅多に足を踏み入れない姉妹の住居部分に向かう。
中に上がり、颯斗はいくつかのドアを開けていく。流石に綾音の部屋のドアのノブに手をかけた時には少しためらいを覚えたが、仕方がない。
それを大きく開け放ち、あまり中を見ないようにして真っ直ぐにベッドに向かう。とは言え、まだ充分に外が明るいので、いかにも『女の子らしい』室内が、否が応にも目に入ってしまった。甘い香りは、普段綾音から漂ってくるものと同じだ。
(くそ、ただの部屋だろ)
その香りを深く吸い込んでしまいそうになるのをこらえてベッドの上の毛布をめくってから、また綾音の元に戻った。
多分、五分ほどは経っていると思うが、彼女は全く動いた気配がない。
もう一度、声をかけてみる。
「綾音?」
返事はない。
ほとんど意識がないような彼女の身体に触れるのは、何だか悪いことをしているような気分になる。けれど、背に腹は代えられない。
颯斗は小さく息を吸い込み、止めた。
綾音の腕を片方取り、自分の肩に回させる。そのまま彼女の背中と膝裏に腕をまわして、抱き上げた。
(軽……)
もっと、重いかと思った。
重さのあまりではなく、軽さのあまり、颯斗はふら付いてしまう。思わず腕に力がこもって、綾音の身体を自分の胸元に押し付ける形になった。彼の体温よりもずいぶん熱いから、華奢な身体をいっそう強く感じてしまう。
と。
「そ……いち……」
耳元で聞こえた、途切れ途切れの呟き。
ついで、力無く垂れていた彼女の腕が持ち上がった。
ギュッと首にしがみ付いてくる、力。
首筋に、熱い吐息を感じる。
颯斗はきつく奥歯を噛み締めた。
(この方が運びやすいだろ?)
そう、ぐったりした身体を運ぶよりは、こうやってしがみ付いてくれた方が、やりやすい。
彼は束の間目を閉じて、自分自身にそう言い聞かせた。
体育の授業の一環で意識を失った人を運ぶ練習をしたことがある。あれと同じだ。
目を開けると、ほんの少し頭を下げれば触れ合うことができるところに、綾音の寝顔がある。
熱で色付いた頬と、うっすらと開いた唇。
唇は少しカサついていて、湿らせてやった方が良さそうだ。
(て、そこに触れるのか?)
「くそ、落ち着け」
少しその場で佇んで、大きく息をつく。
そうして、歩き出した。
彼女を壁にぶつけないように狭い階段を上るのは多少難儀したけれど、何とか上の階に着く。
綾音の部屋に辿り着くと、颯斗は細心の注意を払って彼女をベッドの上に下ろした。
そうして彼女から離れようとしたけれど、身体を起こそうとした颯斗の首に絡んだ腕は、まったく緩もうとしなかった。
ぐったりとしている綾音を起こすことはできなくて、颯斗は首の後ろに手をまわして何とか彼女の腕を解こうとする。けれど、彼がそうしようとすればするほど、綾音の力は強まった。
ほとんど頬が触れ合いそうなほどに、彼女に引き寄せられてしまう。
「綾音……」
困り果てて、つい彼女の名前が口からこぼれた。
それがきっかけだったのか、たまたまだったのかは、判らない。
けれど、颯斗が低く囁いた途端、閉じた綾音の目蓋の隙間から、ポロリと、雫が零れ落ちたのだ。
「ぃや……いか……ないで……」
ギュッと綾音の腕に力がこもった。
彼女の力なんて、たかが知れている。颯斗が腕を突っ張れば、充分に体勢を保てたはずだ。
けれど、彼女の涙の不意打ちに遭っていた彼はとっさにその力に抗うことができず、ベッドに――綾音の上に、突っ伏してしまう。
「ぉねがい……ひとりに、しないで……」
颯斗にしがみ付いて、彼の耳元で綾音が震える声で懇願する。
途方に暮れて、絶望に満ちた声で。
現実にこの場にいる相手ではなく、もうろうとした意識の中で逢っているであろう、相手に。
綾音が求めている者が自分でないことは、颯斗にもよく判っていた。
夢の中で、綾音は、荘一郎に――恋人に、抱き付いている。
けれど、不思議と彼の心の中は穏やかだった。
何故か、今の彼女から感じられるのは、幼い子どもが庇護者に必死にしがみつこうとしているような懸命さだったからかもしれない。
綾音を起こすか、もっと力を込めて振りほどこうとすれば、彼女から離れることはできる。
「お、ねが……」
二度目の囁きが決定打だった。
颯斗は小さく息をつき、綾音を少し奥にやってスペースを作ると、彼女の隣に滑り込んだ。毛布を引っ張ってできるだけ綾音を包んで、仰向けになった自分の上にのせるようにする。その上から彼女の身体に腕をまわした。
颯斗が抱き締めると、ほんの少し、綾音の腕から力が抜ける。
今の彼女からは、腕の力だけではなく、何か他のものも緩んでいるように感じられた。
もしかしたら、この熱で、綾音を包んでいる氷がほんの少し融けたのかもしれない。
あるいは、いつもは心の奥底に押し込めようとしたものが浮き上がってしまったのだ。
――熱が下がったら、また分厚い氷の壁ができてしまうのだろうか。
たとえそうだとしても。
(何年かかっても、絶対に融かしきってやる)
綾音は、独りで生きていける人間ではないのだ。
一緒に生きていく誰かが、必要な人間なのだ。
(俺が、その『誰か』になってやる)
「俺は、傍にいるから。綾音の傍に、ずっと」
彼のその囁きに、寝言なのか、「ホント?」と小さく呟く声が聞こえた。そして綾音の腕から完全に力が抜けて、代わりに颯斗の上にのっている身体の重みが増す。
颯斗は、彼女を抱き締めている腕に力を込めた。
多分綾音は、目が覚めた時にこのことを覚えてはいないだろう。
けれど、颯斗は約束する。
「本当だ。絶対、離れないから」
彼のその言葉は彼の声で綾音に沁み込んだのか、どうなのか。
それは判らないけれど、颯斗の目に入った彼女の口元は、微かな笑みを刻んでいた。