<姿なき強敵>
また、綾音の目が、見えないものを見ている眼差しになっている。
皿洗いの手を止めてふと目を上げた颯斗が見るともなしに綾音を見ると、コップとそれを磨く布を持ったまま、彼女はぼんやりとドアの方に目を向けていた。
カウベルが鳴った訳ではない。
店内に数人の客はいるけれど、彼らに呼ばれたわけでもない。
ピクリとも動いた気配のないドアを、彼女は見つめている。
まるで、そうしていれば誰かがそこから姿を現すと思っているかのように。
颯斗には、彼女が誰を待ちわびているのかがよくわかっている――わかってしまう颯斗の胸の中はジリジリと弱い炎で炙られるような感覚で舐められたけれど、その不快感を押し潰して、彼は軽い声音で綾音に呼びかけた。
「綾音」
一度では、振り向かない。
もう一度。
「綾音!」
ビクリと彼女の肩が跳ねる。
「なに?」
まだ少し焦点の定まらない綾音の視線が、颯斗に向けられた。
「そろそろ買い出しに行く時間じゃねぇの?」
時計を顎で示してそう言うと、彼女は今目が覚めたというように、ぱちりと瞬きをした。
今日は五日間の連休となったゴールデンウィークの二日目の日で、前日の客足を見て食材を買い足しに行く予定になっていたのだ。
「え? あ、ホントだ。ありがと、颯斗くん」
言いながら、綾音はバタバタとエプロンを外して財布を取るとドアに向かう。
「俺も行こうか?」
「だいじょうぶ。そんなに多くないから」
綾音の声はさっきまでのぼんやりした様子を感じさせない軽い口調だけれど、何となく目はまだボウッとしているような気がする。
買う品はだいたい颯斗も知っているから、持ちきれないだろうとか、その辺は心配していない。多少重いだろうが、綾音一人で持てないわけじゃない。
それよりも、道を渡ろうとして車にはねられたりしないだろうかとか、うっかり足を踏み外して階段から落ちたりしないだろうかとか、颯斗は、まるで小さな子どもの初めてのお遣いを見送る親のような心境になってしまう。
「だけど……」
「颯斗くんはお姉ちゃんを手伝ってて。この時間、一人じゃ大変だもん」
「……わかった」
要領のいい利音なら、店の中が満員でも平気な顔で客の相手をこなせるはずだ。
けれど、綾音の雰囲気が、言外に「独りにしてくれ」と訴えていて、颯斗はそれ以上強く押せなくなってしまう。
「じゃあ行ってきます」
「……気を付けて」
颯斗は心の底からの気持ちで、そう返した。渋い顔をしている彼にニコリと笑い、綾音は小さく手を振る。
綾音が出ていき、軽やかなカウベルの音が止んでも、颯斗は何となくドアから目を離せなかった。
出ていった綾音と入れ替わりで客のオーダーを取っていた利音が戻ってきて、彼の様子を目にするなり苦笑する。
「買い物くらい、大丈夫だって。置いてけぼりにされた犬じゃあるまいし、シャキッとしなさいよ」
「けど、綾音ここのところずっとおかしいだろ?」
「まあ、ね」
彼女の顔が、少し暗くなった。
綾音がこんなふうになったのは、この春からだ。正確に言えば、颯斗の高校の入学式の日から。
あの日様子がおかしかったから、颯斗はずっと彼女を注意深く見てきたのだ。
「なんか、あんまりよく眠れてないみたい。食事も少なくなってるし」
そう言って、利音が眉をひそめる。颯斗の脳裏には二年前の綾音の姿が浮かんだ。
荘一郎の捜索が打ち切られて、綾音はしばらくほとんど飲み食いしなくなった。まるで、消えてしまった彼を追いかけようとしているかのように、見た目も身にまとう空気も薄くなって。
それがある日突然、何事もなかったかのような態度を見せるようになって、それからだんだんと元に戻っていったのだ――外見上は。
あの時ほどではないけれど、やっぱり、最近の綾音は少し痩せた気がするし、さっきのようにボウッとしていることもチョクチョクあった。
過去に戻っていた颯斗を、利音のため息が引き戻す。
「大丈夫かって訊いたら、当然、大丈夫だって答えるし。あの子って、昔からああだわ」
「昔から?」
「何かあると、にこやかに殻に閉じこもるのよね。パッと見は愛想も良いんだけど、その実、全然、人を寄せ付けないのよ……私ですらね」
「だけど、二人は仲良いじゃんか?」
「まあ、ね。だけど、あの子が私に愚痴を言ったりすることはないわよ? 言ったっけ? あの子が十四、私が二十一の時に親が亡くなったんだけど、全然、私の手を煩わせることなかったのよ。笑顔で店の手伝いするし、普通に学校にも通って」
テーブル席の客から、また注文が入る。利音はニッコリ笑って返事をすると、コーヒーを淹れ始めた。そうしながら器用に肩をすくめる。
「あの状況にしては明るすぎて不自然だったんだけど、あの子、私を困らせたくなかったんでしょうね。いっつも大丈夫って、そればっかり」
そこで言葉を切ってカップにコーヒーを注いだ彼女は、トレイに載せて客のもとへと運んでいく。戻ってくると、二つのカップにコーヒーを注ぎ入れた。そのうち一つを、颯斗に差し出す。
「綾音はね、親が事故に遭ったって聞いた時も、医者からご臨終ですって言われた時も、葬式の時も、私の前では涙一つこぼさなかったわ。ずっと『普通』に暮らしてるように見えたけど、違ってた。友達と出かけることもなくなって――店の手伝いがあるでしょ、とか何とか言いながら、ね。……私はやきもきしたけど、何もできなかった」
利音は、ホッと小さく息をつく。
「荘一郎はやんわりと拒むあの子を無理やり引きずり回してね。両親が亡くなってからあの子が初めて声を上げて笑ったのは、あいつと一緒にいた時だったわ。何をしててだったかは、忘れたけど」
颯斗の脳裏に、いつか綾音自身から聞かされた話がよみがえる。
『世界を変える人』。
かけがえのないもの。
だが、彼女にとって、荘一郎は、世界を変えたどころじゃない――彼女をこの世界に生き返らせた存在なのだ。
彼は、実の姉ですらどうにもできなかったことを、成し遂げたのだ。
まさに『運命の相手』なのだろう。
(くそ)
そんな相手に、どう戦えばいいというのか。
「――その頃から、二人は付き合ってたのか?」
「まさか! 荘一郎は大学生で、綾音は十四、五歳、まだ中学生の時よ? 流石にちょっとそれはないわ。私が最初にあいつを綾音に会わせた時はまだ七歳だったし、ずっと妹扱いしてたしね。多分荘一郎は八割方保護者意識で動いてたんじゃないかな。アイツはああいう奴だったからスキンシップ過多だったけど、一緒にいて、男と女って感じは全然なかったわよ」
そう言って笑い飛ばした利音だったけれど、ふと真顔になる。
「どうかした?」
頭の中の何かを探り考え込んでいるような彼女に、颯斗は眉をひそめた。
「や、ちょっと……ううん、何でもないわ」
そう言って、何かを追いやるように、小さくかぶりを振った。そうして、颯斗をジッと見つめてくる。
「ねえ、颯斗」
やけに真面目な声だ。
「何?」
「あんた、綾音のことが好きなんでしょ?」
ずばりと的を突き刺した利音の言葉に颯斗は絶句する。そんな彼には構わず、彼女は続けた。今まで見せたことのないような、怖いほど真剣な眼差しで。
「だったら、綾音を奪ってよ」
「奪うって、誰から……?」
綾音を捉えている者は――荘一郎は、もう存在していないというのに。
「もちろん、荘一郎の『思い出』からよ」
利音が、呟いた。
『荘一郎』からではなく、『荘一郎の思い出』から。
颯斗はカウンターの上に置いた両手をグッと握り締めた。
(できるものなら――それが許されるのなら、そうしたいさ)
綾音と出逢った時、颯斗はまだ子どもだった。それから一緒に過ごすようになって、彼女のことをかけがえのないひとだと、誰よりも大事なひとだと思うようになったけれど、その気持ちがなんなのか、自分がどうしたいのか、よく解かっていなかった。
今の颯斗は、自分の中にあるもののことを、よく理解している。
自分が何を望んでいるのかも。
けれど。
(動けない)
荘一郎が存在していれば、戦える。
もしも二人が結婚してしまったとしても、綾音が好きだと主張して、俺を見てくれ、俺のことを考えてくれと彼女に言える。
でも、荘一郎は、いないのだ。
颯斗が何をしようとも、荘一郎は、もう手も足も出せないのだ。
(そんなの、卑怯だ)
と、まるで颯斗の心の中のその声が聞こえたかのように、利音が言う。
「荘一郎は、もう戻ってこないのよ。確かに、身体は見つかってないわ。でも、もう二年、二年なのよ? 生きてるなら、とっくの昔に帰ってきてるでしょ? このままじゃ、綾音は殻に閉じこもったままになってしまう。もう、誰もそこから引きずり出せなくなってしまう。何事もなく過ごしているように見えるけど、あんなの、ホンモノじゃない。このままじゃ、駄目……絶対、駄目なのよ」
シンクの縁を握り締め、利音が苦しげな声を吐き出す。
いつもチャキチャキとしていて、自信に溢れていて、たいていのことなら笑い飛ばす利音が、とてももろく見えた。
そんな彼女に、颯斗は、決壊した堤防を前になすすべもなく立ち竦んでいるような心持ちになる。
「そんなの、判ってる。だけど……」
彼女の呻きは、颯斗も日々感じていることだった。
このままではいけないことは、彼にだって判っている。
今綾音が浸っているのは、偽りの平穏に過ぎないのだということも。
ずっと、利音と同じ焦燥感を抱いていた。
(だけど、じゃあ、どうしたらいいんだ?)
胸の中で問いかけてみても、答えてくれる者は、いなかった。