<叶ってはいけない望み>
凄い風と雨だった。
店の中にいても突風の唸りが聞こえてくる。
この秋は台風の当たり年のようで、颯斗の学校も、もう三度も休校になっていた。
安全の為に休校になっているわけだから、本当なら家の中に閉じ籠っていなければいけないところだが、颯斗は当然、綾音と利音の元にいた。
「今回も日本縦断だよね。あと何回くらいこんなのが来るんだろ」
店の窓から外を眺めながら、綾音が眉をひそめる。休校で出された課題から顔を上げて颯斗も彼女と同じ方に目を向けると、何かが通りをすっ飛んで行くのが見えた。
「もう十月になるし、そろそろ終わりじゃない?」
利音はグラスを磨きながら、あまり気にした様子もない。
「荘一郎さんが行ってる所、だいじょうぶかなぁ。去年も結構雨の被害があったんだよね」
綾音の心配しているのは、そちらの方のようだ。無意識なのか、左手の指輪をいじっている。
「去年も一昨年も無事だったんだから、今年も大丈夫だって」
「でも、今年はちょっとひどくない? ニュースも、例年よりも雨量が多いって……洪水も……」
「そんなの、会社がちゃんと面倒見てくれるわよ」
「うん……」
頷きながらも、綾音は不安そうだ。
「日本に来てるなら、あっちの方はむしろ無事なんじゃないか?」
颯斗は何か彼女を安心させるようなことを言いたかったけれど、たいしたことは出てこない。
「そうだね」
綾音はニコッと笑って颯斗に頷きを返した。
その笑顔は、いつもとは違う。彼を安心させる為に作ったものだ。
颯斗は綾音を安心させたかったのに、逆に気遣われてしまう自分がもどかしい。
荘一郎が赴いている地域のことを、颯斗はネットで調べてみた。
ものすごく田舎――舗装された道路もほとんど無いような場所だけれど、治安はいいらしい。一ヶ月に一回送られてくる荘一郎の手紙からも、それは伝わってきた。とてものどかで、村の人達からはまるで家族のように受け入れられているとか。
反面、自然災害――水害は毎年少なくない被害を出している。
荘一郎がいるのは川が多い地域で、地元の人間が作る簡単な橋は、雨で増水する度に流されてしまうのだとか。彼の役割は頑丈な橋を作ること、そしてその作り方を教えること、だった。
水害に対処するのが目的なわけだから、必然的に、派遣されるのは水害が多い地域になる。
秋になってから、台風が発生する度に綾音はネットで逐一その動きを追っていた。日本を直撃するかでなく、荘一郎のいる東南アジアの方が無事かどうかを見る為に。
大丈夫だったと判って胸を撫で下ろしても、綾音の笑顔がすっきり晴れ渡ることはなかった。
利音は、「毎年この時期は仕方がないんだよ」と苦笑していたけれど、颯斗はもどかしくてならない。
(荘一郎なら、どんな心配も消してやれるんだろうな)
そもそも荘一郎自身が綾音の心配の種になっているわけだけれども、もしもこれと同じくらい綾音を心配させるような何かが起きたとしても、荘一郎ならあっという間に解消できてしまうのだろう。
荘一郎に、なりたいと思う。
いや、違う。
綾音の中の荘一郎を追い出して、自分がその場所に立ちたいのだ。
――そんなふうに考えてしまう自分が、颯斗は嫌だった。
「まあでもほら、もうじき定期便が届くでしょ?」
うつむきがちな妹の顔を上げさせようと、利音が明るい声で明るい知らせを思い出させる。
荘一郎の手紙が送られてくるのは、毎月十五日前後だ。
交通手段があまりしっかりしていないので、きっちり十五日、というわけにはいかないけれど。
「そう、だね」
そう言って笑った綾音に、颯斗はその手紙が早く届いて欲しいような、そうでないような、何だか自分でもはっきりしない気持ちになった。
「だけど、今どき手紙って――メールとか使えねぇの?」
「ネット使えないんだって。携帯も通じないし。少し奥の方に行くと、車も走ってないって」
「マジかよ」
呻いた颯斗に綾音が笑う。
「日本にいたら想像できないよね。でも、荘一郎さんは結構そういう生活が気に入ってるみたい。帰ってくると、しばらくあっちの話ばっかになるの。すっごく楽しそうなんだ」
こういうふうに荘一郎の事を話す時は、綾音の顔はパッと輝く。
「じゃあ、あっちにずっと居たいとか言い出したりしてね」
何故か意地の悪い気分になって、颯斗はついそんなことを言ってしまった。けれど綾音はケロリと言う。
「そしたら、わたしもついてくし」
「綾音が? ムリだろ」
「行けるよ。荘一郎さんがいるところなら、どこだってついていけるもの」
綾音は、普通な顔できっぱりとそう言い切った。
彼女の中では、常に荘一郎が一番なのだ。
前から判り切っていたことを、更に目の前に突き出されてしまった。
「ふぅん、あっそ。じゃ、もっと身体鍛えておいた方がいいんじゃないの? ちょっと重い箱とか持ち上げられないし、今の綾音じゃ、そんなところに行っても役立たずだよ」
尖った声で、そんな台詞が颯斗の口を突いて出る。
言ってしまってから、しまった、と思った。
けれど、一度出た言葉はもう戻らない。
綾音は、颯斗のキツイ言い方に目を丸くしている。と思ったら、破顔した。
「何笑ってんだよ」
「だって、颯斗くんが拗ねてるから」
「はあ?」
ムッとする颯斗に、綾音は手を伸ばしてクシャクシャと彼の髪を掻きまわす。それは、小さい子どもに対してするべき行為だった。中学生男児にすることじゃない。
身体を横に倒して颯斗が綾音の手から逃れると、彼女はニッと笑った。いつもよりも、いたずらっぽい顔で。
「颯斗くんが拗ねるとこなんて、初めて見たなぁ。なんか、いつも年齢よりも大人っぽいから。あ、今度の荘一郎さんの手紙の返事の時にこれも書こっと」
「俺は拗ねてなんかない」
「ふふふ」
颯斗がムキになって否定するほど、綾音はしたり顔になる。
「書くなよ、そんなこと」
「ええ? イイネタなのに」
「俺は絶対、拗ねてなんかない。綾音が非力なのはホントのことだろ」
「そうだね」
笑った綾音は完全に颯斗の言い分を耳から耳へと聞き流している。
綾音からの手紙で荘一郎が浮かべるだろうニヤニヤ笑いは、簡単に想像できた。
「変なこと書くなよな」
もう一度、悪足掻きのように念押しをする。
「どうしよっかなぁ」
きっと、普段あまり感情を露わにしない颯斗がこんなふうにムキになることが綾音を楽しませているのだ。
それが判っていても、いや、それが判るから、いっそうムキになってしまう。彼女がこんなふうに颯斗をからかうのは、彼を子ども扱いしているからだということがイヤというほど明らかになるからだ。
何だか、それを荘一郎に知らされるのも、クツジョクだった。
「いいから、絶対に書くなよ」
無駄だと思いながらも、もう一度念押しする。
彼がムッとしているのは確かだったけれど、同時に、ホッとしていた。
綾音はにこにこと笑っていて、颯斗は、久し振りに彼女がまともに笑うところを見たよな、などと思ったりして。
――結局、綾音はこのことを荘一郎への手紙には書かなかった。
いつもならどんなに遅くても二十日には届けられている彼からの手紙が、届かなかったからだ。
日に日に不安の色を濃くしていく綾音に、颯斗は何もできることはなかった。
荘一郎の両親からの連絡が入ったのは、それから更に五日後のこと。
彼が作業していたまさにその場所で河が氾濫し、現地の者の他、日本人も数名行方不明になっているのだ、と。
その数名の中に、荘一郎の名前もあるのだ、と。
連絡があったのは、夕方、利音も綾音も颯斗も、店にいた時だった。
閉店後に鳴り響いた電話を利音が取り、相手の言うことに幾度か頷いてから受話器を置き、しばらく彼女は何も言わなかった。青ざめた顔で、電話を見つめていた。
そして綾音と颯斗に向き直り、荘一郎の父から言われたことを、一言一句変えることなくそのまま、繰り返した。
それを耳にした瞬間、颯斗の脳裏によぎったのは、今まで時々頭の中をかすめていった囁きだ。
――荘一郎が帰ってこなければいいのに。
綾音が荘一郎を慕う度、そんな考えが颯斗の中でほんの一瞬だけ、疼いたのだ。
(本当に、そうなって欲しかったわけじゃない)
颯斗は自分自身に対して弁解した。
時々妬ましさは覚えたが、颯斗も、荘一郎のことは好きだったのだから。なんだかんだ言っても、荘一郎のことで幸せそうにしている綾音を見ていることが、颯斗にも温かな気持ちをもたらしてくれていたのだから。
ただ、チラリと湧いて、すぐに消えただけだった。
けれど、そんなふうに感じたことがあるということに、颯斗は後ろめたさを抱えた。
その漠然とした罪悪感のようなものに沈み込みそうになった彼を引き上げたのは、心を切り裂くような悲鳴だった。
綾音は、半狂乱になった。泣き叫んで、暴れて、今すぐに荘一郎を探しに行くと飛び出して行きそうになった。
毎日、毎日。
昼間は店を閉めて、利音が付きっきりで綾音を抑えた。学校が終われば、颯斗が交代して彼女を見張った。
一週間ほどそんな日が続き、やがて、綾音は打って変わって静かになった。今度は、無理やり食べさせ、眠らせるのが、颯斗と利音のしなければならないことになった。
涙を止められない綾音を見ているのも、苦しかった。
けれど、人形の様になってしまった彼女を見ているのも苦しかった。
行方不明になった者たちは、ある者は生存が確認され、ある者は死亡が確認された。一人、二人と明らかになっていく中に、なかなか荘一郎の名前は出てこなかった。
成果のないまま、ひと月が経ち、ふた月が経ち――三ヶ月目で、捜索は打ち切られた。
その三日後から、綾音は元通りになった。
何事もなかったかのように、笑い、喋り、動くようになった――その日を境に、荘一郎の名前が彼女の口から出ることは、無くなったけれど。