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凍える夜、優しい温もり  作者: トウリン


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30/33

<あなたの為に、できること>

 閉店後の店内。


 もちろん客の姿はとうになくて、残っているのは利音りね綾音あやね荘一郎そういちろう、そして颯斗はやとだけだ。


 いつもなら、颯斗はモップ片手にほかの連中のおしゃべりを聞くともなしに聞いている頃合いだったが、今日は、チョイチョイと手招きする荘一郎に手を止められた。

 改まってなんだろうと思いつつ、颯斗は肩にモップの柄を寄りかからせる。


 荘一郎はグルリと一同を見渡し、颯斗で視線を止めた。


 そうして。


「十月になったら向こうに戻るよ」


 前振りなくみんなの前で荘一郎がそう言ったとき、颯斗の中で沸き上がったものは驚きよりも安堵の方が大きかったということは、否定できない。

 チラリと女性二人に目を走らせると、事前に話を聞いていたのか、どちらも普通にしている。

 それはつまり、颯斗がいないときに三人でその話をしていたということで。

 その事実に気付いた彼は、面白くない気分になる。


「急だな。あと一ヶ月しかない」

 少しむっつりとした口調で颯斗がそう言うと、荘一郎は能天気に笑った。

「まあ、戻ること自体は帰ってくる前から決めてたんだけどな、リハビリがどのくらいかかるか判らなかったから、いつにするかは正式には決めてなかったんだ」


 死にそうな目に遭ったところに、よくもまた行く気になるものだと思いつつ、颯斗は訊く。


「また一年くらい?」

「いや、今度は結構長いんだ。取り敢えず二年だけど、もっと延ばす予定」

「二年――って……」


 荘一郎の答えに、思わず颯斗は綾音あやねに目を走らせた。

 そんなに長い間離れていても大丈夫なのかと思って。

 だが、彼女に落ち込んだ様子は全く見えなくて、颯斗と目が合うと、小さな笑みすら返してきた。


(平気、なのか?)


 綾音のその反応が意外で、颯斗は眉をひそめた。

 行かないで、としがみつくことはしないまでも、もう少し、イヤそうな顔を見せそうなものだが。

 そんな彼の違和感には気付いていない荘一郎は、軽い口調で続ける。


「前のは会社の仕事としてだったけどな、今度はNPOに加わってやってこようかと思って。あそこの人たちが僕を助けてくれたわけだからさ、ちょっと恩返しでも、とか」

「ふぅん……今度は気を付けろよ」

 気もそぞろにそう返した。


 ここのところぎこちなかった綾音との間の空気も、荘一郎がいなくなればまた元に戻るはずだ。

 姑息だと思いながらも、つい、そんなふうに考えてしまう。

 荘一郎がいなければ、きっといつかは綾音も自分だけを見てくれるようになる、と。

 荘一郎と綾音が笑い合っている場面を見て、胃が焼かれるような独占欲に苛まれずに済むようになる、と。

 そういう焦りや苛立ちをあらわにして自分の子どもさ加減を見せたくなかったし、そもそも、荘一郎が相手では別格過ぎて、嫉妬のしようもないのだ。

 結果、積もり積もったモヤモヤに、颯斗の胸の内は破裂せんばかりになっていたところだった。

 これで、醜態を晒す前に彼と綾音との間にあるものを元に戻すことができる。

 そんなふうに胸を撫で下ろしていた颯斗は、そっと傍に寄ってきていた綾音に、気付かなかった。


「颯斗君」

 後ろから声をかけられて、ハッと我に返る。

「綾音……あれ、二人は?」

 ついさっきまでいた利音と荘一郎の姿が、ない。


 カウベルが鳴っていないから、少なくとも帰ったわけではなさそうだ。


「二人とも、奥にいるよ。颯斗君とお話ししたいから、ちょっと席を外してってお願いしたの」


 ニコリと、笑顔。

 どこか様子をうかがうようなその表情は、綾音らしくない。


「……何?」

 何か嫌な予感を覚えつつ、短く促した。


 綾音は顔を伏せ、自分のつま先を見つめて黙っている。颯斗も唇をきつく結んで彼女の言葉を待った。

 普段は耳に入らない時計の秒針が進む音だけが、やけに大きく響いている。

 どれほど時間が経った頃だろうか。

 ぐい、と、綾音が顔を上げた。

 真っ直ぐに見上げてくる彼女のその視線の強さに、颯斗は思わず息を詰める。


「わたしも、荘一郎さんと一緒に行こうと思うの」


 彼女の声が耳から耳へと素通りした。

 いや、脳ミソが受け取りを拒否したのだ。

 何も反応を返さない颯斗に、もう少しゆっくりと、綾音が繰り返す。


「わたしも、荘一郎さんと一緒に、向こうに行こうと思うの」


 今度はその台詞がグルグルと頭の中にこだまする。


「なんでだよ!?」


 颯斗は思わず手にしていたモップを放り出し、ほとんど怒鳴るようにしてそう口に出していた。疑問の形だが、問いかけではない。


 非難だ。


 綾音は身体の前で両手を堅く握り合わせたけれど、怒りに駆られる颯斗に臆することなく、目を逸らさずに言う。


「このままじゃ、良くないから」


 静かな声が、二人しかいない空間に響いた。


「何だよ、それ?」

 颯斗は頭を掻きむしり、次いで両手を大きく振る。綾音は、ジッと彼を見つめるだけだ。


「何なんだよ、訳解かんねぇよ! 良くないのは荘一郎がいるからだろ!? あいつがいなくなったらまた元に戻る――」

「元に戻ったら、ダメなんだよ」


 悲しげな、綾音の声と眼差し。

 そんな顔をさせているのが自分なのだということは解かっているけれど、颯斗は自分を制することができない。


「俺は嫌だ。そんなの絶対嫌だ。綾音が傍にいないなら、生きていかれない」


 それは誇張や彼女の同情を引くための台詞ではない。きっと、事実だった。

 彼女がいなければ、颯斗は息の仕方も判らなくなってしまうだろう。

 真っ暗闇に放り込まれて、どうやって、どうして、生きていくのか、判らなくなってしまう。

 颯斗は奥歯が砕けそうなほどに顎に力を入れて、そんなバカげたことを言い出した綾音を睨み付けた。

 そうしないと綾音に掴みかかってしまいそうだから、彼は身体の両脇に真っ直ぐ腕をおろし、手のひらに爪が食い込むほどにきつく両手を握り締める。


 その硬い拳を、柔らかな綾音の手が包み込んだ。


「あのね、わたしも昔、そうだった。わたしには、荘一郎さんしかいなかったんだよ。荘一郎さんがわたしの世界の全てだった。だから、失ってしまったとき、わたしは壊れてしまったの」


 真剣な、彼女の眼差し。

 颯斗のことを案じている、眼差し。


(違う。俺は、綾音にそんな目で見られたくないんだ)


 奥歯が軋む音がする。それは綾音の耳に届いて、一層彼女は悲しげな微笑みを浮かべる。


「颯斗君には、そうなって欲しくないの。わたしだけが存在して、わたしだけの為の世界に、住んで欲しくない。……もしもわたしがいなくなっても、颯斗君の世界が壊れてしまうようなことには、なって欲しくない」


 綾音の言いたいことは、解かる――解かってしまう。彼女の中では、もう颯斗がどう足掻こうとも突き崩せないほどに全てが決まってしまっていることも。

 けれど、受け入れられない。

 だから、バカの一つ覚えのように同じ台詞を繰り返して。


「俺は、嫌だ」


 優しく彼の手を握っている彼女のそれを、振り払った。


「颯斗君!」


 呼び止める綾音の声に耳をふさいで、ドアに体当たりをするようにして外に飛び出す。カウベルが狂ったようにがなり立てる音が、駆け出した彼の背中を追いかけてきた。


 どこに行くか自分自身でも判らずに、走る。

 とにかく、綾音のバカげた――けれども恐ろしく真実をついている台詞から、逃げたかった。

 ただ、がむしゃらに走って。


 いつの間にか、足元の感触が変わる。

 煌々とした街灯の明るさから、満月が照らすほのかな明かりに変わる。


 それでも走って、走り続けて、ようやく立ち止まった時、颯斗は自分が公園の奥の高台に来ていたことを知った。

 月明かりのせいで夜空に星はほとんど見えないから、眼下に広がる夜景の方が、星空のようだ。

 水族館の帰りに初めて訪れてから、ここには何度も足を運んだ――綾音と一緒に。いつも彼女は、颯斗といて嬉しそうで楽しそうで幸せそうだった。


(綾音は、俺といたいんだと思っていたのに)


 不意に膝から力が抜けて、颯斗はその場にしゃがみ込む。立てた両膝を腕で抱え込んで、そこに顔をうずめた。


 目の奥が熱い。

 鼻の奥が痛くて、息が詰まる。


 ――本当は、もう何ヶ月も前から気付いていた


 綾音が、何かを言おうとしていることに。

 颯斗といる時、楽しげなのに、どこか不安げで。

 それは、荘一郎が姿を現す前から、もうすでに始まっていた。

 彼が綾音の傍に居るほどに、彼女の瞳の中の陰は増していった。

 それに気付いてしまうほど、彼は、綾音のことを良く知っているのだ。


 ずっと、彼女を見てきたのだから。

 ずっと、彼女を想ってきたのだから。

 変化に、気付かないわけがない――ただ、気付いていないふりをしていただけだ。


「……でも、俺は嫌だ――無理だ」


 綾音と、離れているなんて。

 ポタリと、足の間に滴が落ちる。ポタリ、ポタリと。

 より一層深く頭を抱えた颯斗の耳に、カサリ、と音が届く。

 ハッと顔を上げて振り返ると、月明かりの中にぼんやりと小柄な姿が浮かび上がっていた。

 颯斗は跳ねるように立ち上がる。


「綾音!」


 彼女はまだ肩で大きく息をしている。名を呼ばれても、すぐには言葉を返せないようだった。

 代わりに、ニコリと笑顔を見せる。

 その瞬間、ほんの束の間、颯斗の頭の中から直前まで溢れかえっていた苦悩が一掃された。


「お前、危ないだろ!? こんな時間に一人で公園なんか入るなよ!」


 綾音はきょとんと目を丸くして、大きく瞬きを一つする。

 そしてまた、笑った。愛おしげに。


「だいじょうぶ、だよ。今までにも、何度もこういう時間に、独りで来たこと、あるし」


 息を整えながら言う彼女は、けろりとしている。と、ふと眉をひそめて、颯斗に近づいてきた。

 すぐ目の前に立つと、右手を、そして左手を伸ばして、彼の頬に触れる。小さな親指が、そっと、そこに伝わるものをぬぐった。


「……ごめんね」

「なんで謝るんだよ」


 バカなことを言ったから、と言って欲しかった。あれは嘘だと、言って欲しかった。

 けれど、違う。


「颯斗君、泣かせちゃった」

「……泣いてない」

「そっか」

 そう言って、また綾音は微笑む。微笑みながら、また親指を動かした。


「出発はね、十月三日なの」

「……」


 聞きたくない。断じて、聞きたくなかった。できることなら、またこの場から逃げ出したかった。

 けれど、綾音が颯斗の頬を両手で包み込んでいるから、ほんの少しも動けない。彼女は彼の目をしっかりと見つめながら続ける。


「あのね、颯斗君の世界は、颯斗君のものなんだよ? ちゃんと、颯斗君自身の為に作っていかなくちゃ」

「俺は、綾音がいたらいいんだ。綾音がいないなら、何も意味がない。綾音しかいらない」


 まるで小さな子どものようだっただろう。それでも、颯斗はそう言うしかなかった。

 綾音は彼の頬から手を滑らせ、今度は両手を取る。

 力のないそれを持ち上げ、そっと柔らかな唇に寄せる。吐息が一瞬、指先をくすぐった。


「颯斗君のこの手はね、もっともっといろんなものを掴めるよ――わたしだけじゃなくて」


 綾音に触れられれば、それでいい。

 綾音に触れられないのなら、両手なんていらない。


 まるで、颯斗のその心の中の叫びが聴こえたかのように、彼女は小さくかぶりを振った。


「人はね、誰かと一緒に生きていくものだけど、誰かがいなくちゃ生きていけないっていうのは、不自然なんだよ」


 その不自然な世界を生きてきた彼女が、笑う。少し、暗く。


「わたしは荘一郎さんが手伝ってくれても、取り戻した小さな世界をそれ以上広げられなかった。人と触れ合うのが怖くて、狭い世界から出て行けなかった」


 ギュッと、颯斗の手を握る彼女の指先に力がこもる。


「でも、颯斗君は違うの。もっと、どんどん世界を広げていけるの。わたしは、そうして欲しいの」

 今度は、晴れやかな笑顔。

「颯斗君の前には、たくさんの道があるんだよ。ほんとうに、たくさんの道が。どれを選んでもいいの。でも、今は、わたしがそこに通せんぼしちゃってる」


 綾音の手が、また、颯斗の頬を包み込んだ。


「わたし、颯斗君が好き。大好き。すごく大事。ずっと、ずっと、一緒にいたいと思うよ。五年後も、十年後も、ずっと颯斗君の隣にいたい」

「なら――」

 行かなければいい。


 そう言おうとした颯斗に、綾音はきっぱりと首を振る。


「だから、今は行かなくちゃいけないんだと思うの。颯斗君にはこれからたくさんの人と出会って欲しい。それでも、わたしといることを選んで欲しいの」

「これから誰と会ったって、何があったって、何も変わらない。変えられない」

「うん。それなら、うれしいな」


 綾音は、月明かりの中だけでほころぶ花のように笑って。

 小さな手に力が入って、颯斗は彼女に引き寄せられる。

 つま先立ちで立った彼女の唇が、彼の唇のほんの少し下に触れた。

 それは、綾音からくれた、初めてのキスだった。

 唇から温もりが離れ、代わりに額が触れ合う。


「わたし、待ってるよ」

「離れていくのは綾音の方じゃないか」


 最後の足掻きで、そう言ってみる。

 その時彼は目を閉じていたけれど、綾音が小さく笑ったのが、判った。


「うん。だけど、待ってる」



   *



 別れの日はあっという間に訪れてしまった。

 本当に、あっという間に。


「綾音のこと、頼んだからな」


 空港で、綾音と利音が離れた隙に荘一郎を睨みつけながらそう言った颯斗に、彼はいつものようなからかう素振りは全く見せず、真剣な眼差しを返してきた。


「僕は――彼女のことを守ってやりたいと思ってたし……今もそう思ってるよ。彼女に笑っていてほしいんだ」

 荘一郎が颯斗を見つめる。

「たとえ、彼女が誰と一緒にいようとも、彼女が誰を選ぼうとも、関係ない。ただ、彼女が幸せであればいいんだ」

「……俺はそんなふうには思えない」


 唇を噛んだ颯斗に、荘一郎は小さく笑った。それは、微かに暗さを帯びていて。


「僕は、お前のように想ってみたいと思うよ」

「え?」

「いや……なんでもない。あの子を本当に守りたいと思うなら、少なくとも、対等にならないといけないよ。あの子がいなくてもちゃんと立てるようになっていなければならないんだ」

「なるよ」


 ムスッと答えた颯斗の頭を、荘一郎はいつものようにぐしゃぐしゃとかき回して。


「やめろよ!」

 いつものように、颯斗も彼の手を振り払う。


「こうするのも、きっとこれが最後になるんだろうなぁ」

 荘一郎がそう言って笑った時、綾音たちが帰ってくる。


「お姫様にはいいとこ見せないとな。頑張れよ」


 むせそうになるほど強かに颯斗の背中を叩いて、彼は綾音の方へと送り出す。


 ――飛び立つ機体を見送る颯斗の背中は、いつまでも疼きを残していた。


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