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凍える夜、優しい温もり  作者: トウリン


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26/33

<解け出した氷>

 五月一日。


 颯斗はやとの誕生日。


 彼にとって何の意味も持たなかったその日を特別なものに変えたのは、綾音あやねだ。

 綾音と出逢ってからは毎年、彼女と利音りねと、そして荘一郎そういちろうとで過ごしていた。

 荘一郎がいなくなってからは、三人で。

 今年はそれに、たかし木下きのした、そして新学期になってからまた登校するようになった、木下の友人の雨宮キラという少女が加わっている。


 いつもは店が終わった後に綾音と利音がちょっとしたお祝いをしてくれていたのだが、今回は三人、特に雨宮がいるのであまり遅い時間になるとまずいから、と、少し早く店を閉めた。

 綾音や利音と三人きりなら食事をしてプレゼントを渡されるくらいのものだが、木下が入るとなれば、そうはいかない。メインの食事が終わり、貸切状態の店内は今や彼女主導でゲーム大会の様相を呈しつつある。


「じゃあ、三番が五番をハグ! 誰ですかぁ? はい、挙手!」


 木下の号令で利音と雨宮が手を上げる。どうやら、三番が利音、五番が雨宮らしい。

 雨宮はためらいがちに、利音は晴れやかな笑顔と共に立ち上がる。チョイチョイと手招きする利音に雨宮はのこのこと近づいた。

 と、食虫植物さながらに利音が動き、ガバリと小柄な少女を抱き締め、叫ぶ。


「いやッ、小っちゃい! 可愛い!」

 ――ちょっと、ドン引きする。


「なあ、綾音……あれ、大丈夫なのか?」


 甲斐甲斐しく軽食や飲み物を運んだり食器を片づけたりしている綾音を捕まえ、颯斗は眉をひそめた。


「あ、えっと……お姉ちゃん、女の子が好きだから」

「好きって、――あれはやりすぎだろ」


 見れば、雨宮は圧死するんじゃなかろうかというほどに、利音の胸に頭を押し付けられている。


「あはは、雨宮さん、可愛いもんねぇ。お姉ちゃんの好きなタイプだよ」

 さらりとそう流して、綾音は笑いながら行ってしまった。


「いいのか、ホントに……」

 ぼやいた颯斗に、隣に座っていた隆が綾音の背中を見送りながら言う。


「綾音さん、変わったなぁ」

 しみじみと、という声に、颯斗は彼に目をやった。


「どんなふうに?」


 傍から見たら、そう違いはないはずだ。元々誰に対してもにこやかだし、明るく振る舞っている。

 違いがあるとしたらほんのわずかなもののはずで、隆がその微々たる違いに気付いたことが、何となく面白くないような気がする。


「なんていうか、前は、壁が在るのに無いようなふりしてた感じ? あの頃は気付かなかったけど、今と比べると、なんか違う」

「ふぅん」


 確かに隆の表現はぴったりで、相槌を打ちながら、颯斗は彼の観察眼の鋭さに感心する。綾音が置いていったポテトに手を伸ばす彼に、隆がのんびりした声で続けた。


「でさぁ、訊いていい?」

「何だ?」

「お前と綾音さんって、付き合ってんの?」


 不意を突いたその質問に、颯斗は飲み込みかけていたポテトを喉に詰まらせかけた。

 咳き込んだ彼の背中を、隆が叩いてくれる。


「大丈夫かよ」

「じゃ、ねぇ、よ」

 涙目で睨み付けると、隆は申し訳なさそうに笑った。

「ごめんごめん、綾音さんがあんな感じだったから、てっきり無事両想いになったのかと」

「告白はしたけど、答えはまだもらってない」

「そっかぁ……」


 隆は、それ以上突っ込んでこようとはしない。おかげで、その答えを今日もらえる予定なのだということを言わずに済んだ。


(本当に、今日、返事をくれるのかな)


 誕生日プレゼントに綾音の気持ちを教えて欲しいと言ったことを、彼女が忘れているとは思わない。あれきり彼への態度に何の変化もないけれど、綾音はそういうのをないがしろにする人ではないからだ。

 黙々とテーブルの上のものを平らげていく颯斗と隆のもとに、雨宮の手を引いた木下がやってきた。


「ねえ、そろそろ、キラの門限だから帰らないと」

「あれ、もうそんな時間か?」

「八時になってるよ」

「あ、ホントだ」

 木下に言われて腕時計を覗いた隆が立ち上がる。


「雨宮ンとこ、親が厳しいから遅れると大変なんだよ。オレらもう帰るわ」

「あ、有田君、今日はありがとね、楽しかったわ」

 その台詞の通り、木下は至極満足げだ。


「……お前は、有田の誕生日だってこと、すっかり忘れてただろ」

「失礼ね。ちゃんと最初に『誕生日おめでとう』って言ったじゃない。ねえ、キラ」

「あはは……」

 どちらかというと、雨宮も、木下に振り回されていた側だ。


「あ、ほら、隆! 遅れたらキラママに殺されちゃうよ!」

「はいはい。じゃあな、有田」

「ああ」

 店の出口に向かう彼らを、利音の声が追う。

「みんな気を付けて帰ってよ」

「はい」

 三つの声がきれいに揃う。


 慌ただしく去っていった三人を見送って、利音がクルリと颯斗と綾音に向き直った。


「じゃ、後片付けお願いね。若い子と同じペースでやると、年寄りは疲れるわ」

 そう言うなりさっさと奥に引っ込もうとする姉を、綾音が慌てて引き止める。


「え、でも、今日は颯斗君の誕生日でしょ? 片付け、わたしとお姉ちゃんでやるんじゃないの?」


 いつもは、そうしていた。毎年、この日ばかりはお客様気分で、綾音と利音が動くのを眺めているだけだったのだ。

 憤然とする綾音に、利音はにやりと笑う。


「やぁねぇ、颯斗は私がいない方がいいに決まってるでしょ」

「お姉ちゃん……」


 綾音は困ったような顔を赤くしているが、確かに利音の言うとおりだ。

 他に誰かがいてのんびりするのと、綾音と二人きりで働くのとでは、颯斗の中ではもちろん後者の方に軍配が上がる。


「いいよ、綾音。さっさとやろう」

「もう、颯斗君てば……お姉ちゃん甘やかすとキリがなくなるよ」

 そう言いながらも、彼女はもう動き始めている。


 普段同じようなことをやり慣れている二人が黙々と作業をこなしていると、結構あった洗い物などもどんどんなくなっていく。一時間もすれば綺麗に片付いた。

 最後の仕上げに颯斗がカウンターを布巾で拭いていると、コトンと目の前にカップが置かれた。中に入っているのは、ココアだ。もう五月だが、彼女はいつも温かいものを好む。湯気は見えなくとも、これも温かいのだろう。


「お疲れさま」


 綾音は自分の分も作っていて、それを両手で持ったままカウンターの椅子に腰かける。彼女は、一口ココアをすすって、ニコッと笑った。

 その笑顔につられるようにして、颯斗も彼女の隣に座る。


 しばらく、黙ってココアを飲んだ。

 隣に座る彼女はとても近くて、穏やかで。

 こういう時、颯斗は、もうこのままでもいいかもしれない、と思ってしまう。

 言葉ではっきり気持ちをもらえなくても、こうやって、すぐ傍に居させてもらえるのならば。


(言葉に、どれだけの意味があるっていうんだ?)


 そんなふうに思える。

 ――明日になれば、また、彼女の想いを考えてじたばたするのは、判りきっていることだけれども。


 颯斗がまだ『コドモ』だから、色々なことが振り子のように定まらないのだろうか。

 彼がもっと『オトナ』になれば、こうも右往左往しなくて済むようになるのだろうか。


 こっそりと、颯斗がため息をこぼした時だった。


「あの、ね、颯斗君」

 不意に聞こえた彼女の声に、颯斗はパッと背を伸ばす。


「何?」

 クルリと綾音に向き直ると、彼女はちょっと面食らったような顔で瞬きを何度かした。


「え、……っと」

 一瞬気まずそうに目を逸らし、そしてまた、しっかり颯斗の視線を捉える。


「あのね、誕生日プレゼント」

「……ああ……」


 颯斗は、息を詰めて続きを待った。

 綾音はカウンターに向き直り、両手に持ったカップをじっと見つめる。まるでそこに何か書き込まれているかのように。

 慎重に言葉を選んでいるような間を置いて、ゆっくりと彼女は話し始める。


「わたしね、ずっと、颯斗君のこと、弟みたいに思ってた」


 これは、予想通りの答え。

 それ以外に、何があるだろう。

 だが、今、彼女は『思ってた』と言ったのだ。思って『た』と。

 颯斗はジリジリしながら先を待つ。


「わたし、お姉ちゃんしかいなかったし、学校生活でもあんまり他の人と接してこなかったから、颯斗君のこと構うの、すごく好きだった。お姉さんぶって、世話焼いたり」

 綾音は、フフッと笑う。

「だけど、どんどん颯斗君は変わっていって……すごく、なんていうか、戸惑ったの。わたしは変われないのに颯斗君ばっかり変わっちゃって、追いつけなかった」

「――ごめん」

 つい謝ると、パッと彼女が振り返った。真剣な眼差しで、言う。


「なんで謝るの? それって、全然悪いことじゃないよ。わたしはどうしたらいいか判らなくなっちゃったけど、颯斗君が変わったことはすごく大事なことだもの」

 そして綾音はまた顔を戻して、少しうつむく。被さった髪で横顔が隠された。

「ホントはね、颯斗君の『気持ち』が変わってきてるなって、わたし、気付いていたんだと思うの。だけど、なんか、荘一郎そういちろうさんと違ってて……」


 綾音が言おうとしていることが、颯斗には良く解からない。


(要は、俺が綾音のことを『そういう意味で好きだ』ってことに気付いていたってことか? なんでそこに荘一郎が出てくるんだ?)


 颯斗が眉をひそめていると、その心の中の声が聞こえたかのように、綾音が首をかしげるようにして彼を見た。


「荘一郎さんといると、わたしはすごく落ち着けたの」

「え?」

「わたし……颯斗君といると、落ち着かない」


 それは、ショックだった。


「俺が子どもだからか? 頼りないから? なら、もっと変わる。年下なのは仕方ないけど、もっと――」

 せき込むように一気に言う颯斗を遮るように、綾音がかぶりを振る。

「違う、違うよ。颯斗君は颯斗君のままでいいの」

「だけど、さっき落ち着かないって言ったじゃないか」

「違うの。そうじゃないの、そうじゃなくて……」


 綾音はギュッと唇を噛んだ。


「荘一郎さんと一緒にいる時は、なんていうか、温かいお湯に浸かってるみたいだった。穏やかで、眠くなりそうに、心地良いの」

「じゃあ、俺は?」


 問いかけた颯斗に、綾音は胸元を両手で握り締めた。そして、言葉が続く。


「……胸が、苦しくなるの。ギュッて、心臓握り締められた感じになるの。でも、イヤじゃなんだよ? ――イヤじゃないのに、苦しくて、どうしていいか判らなくて、逃げ出したくなるの」


 颯斗も、同じだ。

 颯斗も、綾音といると胸が苦しくて時々どうしていいか判らなくなる――彼女から逃げ出したくなることは、絶対にないが。


「颯斗君といる時に感じる気持ちは、荘一郎さんといる時に感じる気持ちと違い過ぎて、それがどういうものなのか、ずっと、解からなかった」


 そう言って、綾音がスルリと椅子から降りる。

 そうして、真っ直ぐに、息をするのも忘れて彼女を見つめ続けている颯斗に向き直った。


「その二つは全然違うんだけど、一緒にいたいって思う強さは、同じなの。荘一郎さんと一緒にいたいと思っていたのと同じくらい強く、颯斗君とも一緒にいたいと思うの」


 軽いめまいのようなものを覚えて、颯斗は思わずギュッと目を閉じる。

 もしかしたら、これは夢なのじゃないかとも、思った。

 けれど再び目蓋を上げると、同じように綾音は立っていて。


「わたしはずっと荘一郎さんのことを男の人として好きなんだって思っていたの」

『思っていた』。


 また、過去形だ。

 颯斗の心臓が痛いほどに強く打つ。

 彼が何も言えずにただひたすら見つめる中で、綾音が息を吸って、そして吐いた。


「でも、たぶん違ってた。わたし……わたしが男の人として好きなのは、颯斗君だと思う」


 その言葉が耳に入ってきた瞬間、颯斗は、グッと息を呑みこむ。いつの間にか、彼も椅子から降りていた。

 綾音は、揺らぎのない眼差しで颯斗を見つめてくる。

 立ちすくんで動けない彼に、綾音はふわりと微笑んだ。


「わたし、颯斗君のことが好き。弟としてでも、拾って面倒見てる子でもなくて、男の人として、好きだよ」


 彼女の笑顔にも、その言葉にも、颯斗の胸が苦しくなった。

 どうすれば普通に息ができるのか、忘れてしまう。

 息をする代わりに細い肩に両手を置いて引き寄せても、何の抵抗もなかった。そして、そっと唇を重ねても。


 触れるだけから、もう少し、強く。

 重ねて、ほんの少し離れて、また、重ねて。

 何度繰り返しても、彼女は拒まなかった。


 想いが通じ合ったキスは、とても甘く、温かく、心地良い。


「嬉しい」

 そうとしか言いようがなくて、颯斗は綾音を全身で抱き締める。


「もう、他の誰もいなくていい。俺には綾音がいれば、それだけでいい」


 心の底から、そう思った。

 たとえ世界が滅びても、綾音さえ傍に居てくれれば幸せだ。


 ――彼女の耳元でそう言った時、ほんの一瞬腕の中の身体が強張ったような気がしたけれど、目の前の幸福に溺れた颯斗は、そんな些細な違和感には気付かなかったふりをした。


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